『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

第十章 棟上げ

一九七六年(昭四二)二月、イーヨーの最初の評論集がでた。
ひげのプーさんや古田足日が、そしてバビロンの首長である小宮山量平さんが、あれこれ頭をひねってくれた「プー横丁戦後論」である。
言葉をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……したせっかちな内容だが、イーヨーはその時、そういうじぶんをまともに眺め返す余裕がなかった。無数の精子が子宮に乱入するとも受け取れる赤坂三好の表紙絵を眺めて、それだけを繰り返し眺めて、じぶんの書きあげた本文をついに読み返さなかった。じぶんのいおうとしたこと、いいたいことがある。それは、まがりなりにもじぶんの中ではっきりしている。はっきりしているはずだと思い込んでいる。しかし、それを言葉にした場合、間違いなく「読み手」に伝わっていくのかどうか。言葉にしたことで、じぶんの考えの曖昧さや底の浅さが、ぶざまに露呈しているだけではないのか。イーヨーがひどく恐れたのは、それがハード・カバーのりっぱな本だけに、果してそれにふさわしい仕事をじぶんがやってのけたかどうか ……ということだった。
もちろん、イーヨーは、頭を抱え込んでばかりいたのではない。それまでに「プー横丁論」は何冊かでている。「論」とはいえ、「プー横丁のスケッチ」みたいなものもある。だれが何年何月にどんな家を建て、それが右に傾いていたか左に傾いていたかという「論」である。また「プー横丁人物往来」も悪くはない。しかし、プー横丁はモナコ公国ではない。それだけで独立している世界ではない。当然、プー横丁の向こうから吹きよせる風が、プー横丁の家々をがたぴしゆする場合もあるだろう。地震があれば、地続きの別の町とおなじように家が壊れたり傾いたりする。多くの「論」は、その「プー横丁の地質と背景」を軽視しているのではないか。たとえば、すぐ隣の町に出没している「忍者」や「怪獣」を、プー横丁と無関係の出来事に考えすぎているのではないか。イーヨーは、少なくともそれが「プー横丁の問題」であると考える。そのことを「プー横丁戦後論」で指摘したはずである。一冊のその本に存在理由があるとすれば、そうしたことに違いない。そう思ってイーヨーは、改めて赤坂三好の装幀を眺め返したのである。
「御新著『戦後児童文学論』をいただきました。御厚意を深謝いたします。がっしりしたいい本ですね。びっしり二段組、読むだけでも相当なエネルギーがいりそうですが、これだけ書いたあなたのエネルギーに先ず敬意を表します。
このあいだ椎名麟三にあいましたら、いきなり『児童文学じゃ食えんでしょう』と言われました。小沢正さんの奥さんが、椎名さんのお弟子さんなんだそうです。椎名さんはまた、『児童文学にも評論家なんていうのがいるんだなあ』なんて、如何にも驚いたような顔をして、『そうだ、ヘンな名前の女の人がいたぞ、そうそう、オツコチさんだ…』などとシャレていました。その売れない児童文学の評論を、これだけの情熱をもって書いている男がいるんですよ…と、椎名さんにこの一冊を突きだしてやりたいような気がしています。(以下略)」(一九六七年三月八日)

 今は亡き永井明の手紙である。
 『終わりのない道』「ボンボンものがたり』(共に理論社・一九六九)のこの作者について、その時イーヨーは何も知らなかった。同人誌『白い馬』に拠って、やはり新しいプー横丁を夢みている一人という程度の知識しかなかった。だからこそイーヨーは、じぶんの最初の「プー横丁論」を献呈したはずだった。
 永井明が、小児麻痺の後遺症のため、じぶん一人では自由に歩きまわれない作家であることを知ったのは、『終わりのない道』を読んだ結果だった。そこには重荷を背負って生きねばならぬ少年の、それをみつめる目が光っていた。その頃、小学生だったイーヨーの息子が本を読んだ感想を書き、それに親父であるイーヨーが添え書きをし……という形で、短い文通が始まった。それが間遠になって、いつか跡絶えたのは、イーヨーの息子が中学生となり「子どもの本」を離れるようになったからだろう。
 『ドン氏の行列』や『風ぐるま』を書いた太田博也に続く、しかし、それとは異質の作風の児童文学が、クリスチャンである永井明によって創りだされるはずだった。
 永井明は、一九七九年(昭五四)三月、突然死去した。沖縄講演旅行から帰宅直後のことだったという。だれかに負ぶさってでなければ外出のままならないこの作家について、雑誌『日本児童文学』(一九七九・七月号)に、久保喬が追悼文を書いただけというのは淋しかった。(同誌「永井明さんを思う」)
 そういえば、椎名麟三に「オツコチさん」などといわれたという乙骨淑子(おつこつよしこ)も今は亡い。
 イーヨーが永井明から右の手紙をもらったその年の秋、虎の門病院に入院している。癌である。病巣摘出手術のため乳房を切りとった乙骨淑子は、イーヨーが病院に顔をだすと、お茶の水の「レモン」で会った時のように、ヤアヤアヤアと笑って手をふった。
 「乙骨さんはね、これでも他人さまに見せたいようなりっぱな胸をしていたんだけどね、残念ながら一つなくなっちゃいました」
 すこしだけふざけた言い方をした。
 それが最初の入院で、それから再発までの何年かがあり、その向こうに、壮絶な最後の戦いが待ち構えていることを、その時、だれも想像しなかった。
 イーヨーは、すでに胃カメラを二回も呑んでいたから、病気というものは「そちら側」にではなく、「こちら側」にだけあるものだと思い込んでいた。それに、乙骨淑子の入院を突然の出来事としか思い込めなかったのは、その二ヶ月ばかり前、「山の上ホテル」の一室で話し合ったことがあったからだ。乙骨淑子は、プー横丁の現状について、プー横丁から遠くはなれて暮らしてきたイーヨーに、あれこれ気さくに話してくれた。子どもをマッサージに連れていったという山中恒があらわれて、
 「昼間から女性と部屋に閉じこもっているとは怪しいぞ」
 とひやかしたのも、たしかその時である。
 十七年経ってふりかえると、不連続に思えた出来事が一つのつながりを持ったものとして見えてくる。とりわけ終結した人生は、ありふれた日常を意味あるものに縫い合わせる。しかし、乙骨淑子のことを書くことがここの目的ではない。イーヨーの「プー横丁戦後論」について何人かの人が手紙をくれた。永井明はその一人だったということである。ほんとうは、イーヨーをもっともふるいたたせた、たとえば、吉田としや、吉田タキノの手紙を引くべきなのかもしれない。そうしたい思いがある。それを踏み止まらせるのは、たぶん、そういう私信の存在さえも忘れているだろう差出人の困惑を考えてのことである。少なくともイーヨーは、プー横丁のその作家たちの手紙によって、言葉を撒き散らすじぶんの行為がまったく無駄でなかったことを教えられたのである。
 それなら今、イーヨーはそうしているか。他人さまから送られてきた本に、きちんと読後感を書き送っているか。九九%、そうはしていないのである。あえて一%だけ差し引いたのは、ごく最近、未知の作家に対してめずらしく「ファン・レター」を送ったからである。『リクエストは星の話』(偕成社・一九八三)を書いた岡田淳である。もちろん「読書感想文」にもなっていない。「ぼくはあなたを知ってよかった」というようなミーハー的葉書である。ほんとうは、『ボクノコト、ワカッテホシイナ』(偕成社・一九八三)の滝口豊一にも、『家族』(理論社・一九八三)の吉田としにも書きたかったのに、そうはしなかった。灰色ろばは怠けものなのである。じぶんでそういうのだから間違いない。

 「四月三日、月曜(一九六七年にもどっている)。三カ月ぶりに酔っている。現在、夜の十時。『ホテル・大栄』六階612号室。地下の居酒屋コーナーでコップ酒二杯。ホテル中、ベトナム帰りの若いアメリカ兵がうろついている。座間基地から五日交代の休暇で都内に送り込まれ、ショート二万円で女を買うのだという。仲介業の暴力団が一万円をとる。それでも若いGIは束の間の『平和』に殺到する。居酒屋コーナーのママとウエイターの話である。
 疲れて目が凹んでいるのに眠れない。朝、どしゃ降りの雨の中、京都をでて昼すぎ東京着。今江祥智に電話、神保町の中華料理屋で会う。理論社にいき小宮山量平氏に会う。今江祥智、印税の一部として四万円渡してくれる」(イーヨーの日記より)

 イーヨーがその時、ホテルの一室にいたのは、ひげのプーさんが、東京で出版記念会をやろうといってきてくれたからである。電話か手紙でその話を聞いた時、イーヨーは正直いってひどく億劫だった。晴れがましさへの苦痛ということもある。プー横丁の住人とはほとんど交わることなくその日まで過ごしてきたということもある。それよりも、もっと気になったのは、再度レントゲンを撮らねばならぬじぶんの胃袋を考えたからだった。前年の大晦日(それはほんの三ヶ月ばかり前のことになるが)、歳末の買い物客でごったがえす錦通りで、イーヨーは激痛のあまりうずくまってしまったのであった。胃潰瘍とは胃袋だけが疼くとは限らないのである。背中にきりきりと痛みが走るのである。年明けに病院にいくと、明らかに潰瘍の再発であった。酒、煙草はだめ、せいぜいあたためたミルクを飲む程度にと申しわたされていた。壁土のような緑の薬に、精神安定剤と痛み止めの錠剤をもらい、そいつを三度呑み、食事といえば鶏のササミとホーレン草のバター炒め、それでも勤務先の学校に通っていた。唇のまわりから顎にかけて無数の吹出物が出没し、皮膚科の医者は尋常性毛瘡(カミソリカブレ)といい、内科の医者は胃腸障害といい、ほんとうはストレスの堆積からくる鬱屈した精神の信号なのに、イーヨーは、便秘に効く六神丸を呑む以外どうしようもなかった。
 出版記念会といえば、かならずや酒席になるだろう。注がれる酒は断りきれないだろう。酒好きであるならまだしも、酒嫌いのくせにまわりに調子を合わせて流し込んでしまう。そうしないと悪いと思う。座が白けるだろうと気をつかってしまう。どんな飲み方をしても酒は酒である。常日頃の自己規制が強ければ強いほど、ハチャメチャになる。じぶんのなかに悪魔の種子がちゃんと撒かれていることに気づく。イーヨーは一度、酔っぱらって意志のお地蔵さまを抱きあげようとしたことがある。そいつを、夜の高瀬川にドボンと捨てようとしたことがある。二十歳過ぎた頃の話である。お地蔵さまは何もいわなかった。どうしても台座から離れたくないと態度で示された。イーヨーが高校の教師になって二、三年目で、なぜか学校へ行くのがいやになり、一週間も夜の巷をうろついていた頃である。
 ところで、ひげのプーさんは、まだイーヨーのことをよく知らなかったから、出版記念会についてイーヨーがむにゃむにゃと煮えきらない返事をしたとき、「おかしな奴ちゃ」と思ったに違いない。それでも、せっかくの最初の本だから、やはり何もなしは淋しい……と判断してくれたのだろう。結局大パーティーではなく、ごく内輪のささやかな会を準備してくれた。イーヨーは、日どり・顔ぶれをすべて「おまかせ」にした。エレベーターにのりこむと、とたんにイーヨーも、そこにいた若い黒人兵もギョッとして……という「ホテル大栄」に部屋をとったのも、そのためである。

 「四月四日、火曜、ホテルから佐藤忠男氏に電話。<いらっしゃい>といわれたので、タクシーでいく。昼食をごちそうになり三時頃まで佐藤夫妻と話す。佐藤氏でかけるというので、タクシーに同乗、三一書房まで送ってもらう。雨、また降りだしている。編集の寺村嘉夫さんと近くの喫茶店にはいり、高校生新書の件、話を聞く。先日送っておいた『やぶにらみ人生論』OKとのこと。三一にもどった時 、佐野美津男より電話がはいる。明五日、夕方『ジロー』で会うことにする。五時、理論社。今江、大田美那子の両氏に連れられて出版記念会場へ。国電にのるが途中で変に息苦しくなり、冷汗が流れだす。中野で途中下車し、タクシーにしてもらう。何となくうすぐらい料理旅館の一室みたいなところ。古田足日、鳥越信、乙骨淑子、いぬいとみこ、筒井敬介、関英雄、横谷輝、神宮輝夫、香山美子、それに出版社関係三人。よく飲む。十二時まで飲む。さすがグロッキィ。』(日記より)

 それが何という店だったのか、まったく覚えていない。それどころか、その宴席で何を話したのか話さなかったのか、それも記憶に残っていない。ただ、筒井敬介が、ビールをもってイーヨーの前に坐り、「おれは、おまえさんにやっつけられるほうが気持ちがいい」といったことを覚えている。その言葉の前に、「何々するよりも」という比較対象の一言があったはずなのに、その時すでに、イーヨーの頭はアルコールでぼおっとしていて、その言葉を聞きのがしたように思うのだ。それにもかかわらず、筒井敬介のその一言は、イーヨーの胃袋を硬直させるに充分だった。
 イーヨーは、じぶんの本の最初の個所で、じつは、筒井敬介の作品を(コルプス先生シリーズを)「無国籍童話」などときめつけて、言葉どおり「やっつけていた」からだ。それだけではない。その場に出席している関英雄の短編も俎上に載せ、これが「プー横丁」の新しい風といえるかどうかと、これまた一方的に「やっつけて」いた。
 だれかにじぶんの作品を悪しざまにいわれて、腹の立たない人間はない。腹を立てないまでも、不快になったり憂鬱になるのは当り前である。イーヨーなら落ち込んでしまう。そんなことをいう奴と口なんかきくものか……と思うに違いない。それなのに筒井敬介にしても関英雄にしても、その悪しざまに書かれた本のために、その場に顔を見せていたのである。呼びかけ人が、ひげのプーさんであり、古田足日であるということもある。まずは呼びかけ人の顔を立てて出席してくれていたのかもしれない。そうではなく、イーヨーのほうは、悪しざまに書いたつもりでいたが、そんなもの、痛くも痒くもないというのが実情だったのかもしれない。いずれにしても、イーヨーのほうが緊張してしまって、筒井さんも関さんも、こいつ、プー横丁の新参者のくせに生意気な奴め……と思っているんじゃないのかなと、身を縮めていたのである。
 もう一つ、付け足していえば、その時たしか、香山美子にも胃袋を収縮するようなきびしい一言をいわれた。
 「あたしはね、『あり子の記』を認めないような批評は認めないんだからね」
 イーヨーは、あいまいにうなずいた。あいまいにうなずく以外、答える言葉を持たなかった。
 イーヨーは、「およしさん」こと香山美子の、その作品を悪しざまにいったのではなかった。そうではなく、「プー横丁戦後論」の中で、その作品にふれないことによって、結果として、一九五〇年代ひそかに感じていた「同志意識」を向こうに押しやってしまうことになったのだった。古田足日の狭い部屋に一夜の宿を求めた頃、香山美子だけではなく、同人誌に拠ってプー横丁変革の夢を見ているものはたくさんいた。その人びとは、時代がすこし変わって、イーヨーがくすんでいる間に、すでにプー横丁の住人になっているものもあった。イーヨーは、その人びとすべてを、最初のその本の中で評価し、位置づけすべきだったのか。もしそうした視点で「戦後論」を書いていたなら、「プー横丁戦後論」は違ったものになっただろう。おそらく、「プー横丁戦後論」は生まれなかったはずである。
 人が先か、作品が先か。人と作品が何の不自然さもなく一致しているのがいいに決まっている。しかし、事「ブンガク」などという空想労働は、かならずしもそうはならないのである。どうしようもない偏狭な奴が、あっと驚くような「ほら話」を書くかもしれないのだ。児童文学はそうじゃないという意見の持ち主もいるかもしれない。もしそういう人がいるなら、児童文学のその「ブンガク」に含まれている「毒」(毒薬といったほうがいいかもしれない)を、どう考えているのだろう。既成社会の既成的価値観に、常に「待ッタ」をかける役割を「空想労働者」は引き受けているのではないのか。そいつは、思想、信条に関わりなく、どこか「うさん臭い奴」であり「危険人物」に違いないのだ。にこにこしながら、のんびり暮らしている人間の胸の奥に注射針を刺し込もうとする。もちろん、「作家」と呼ばれるこの「空想労働者」は、じぶんの血と肉でもって「毒薬」を製造するため、常に生命の危険にさらされている。そういう仕事を選んだのだ。文句をいう筋合はない。その、「毒薬」が人をしびれさせなければ、そいつはほんとうの「空想仕事人」ではない。また、だれかをしびれさせないままに、先にじぶんが倒れても、こいつは自業自得とあきらめるしかない。ここのところがまったく「理解されていない」風潮がある。「毒薬」の「毒」を忘れて「薬」のほうしか見ない「童話作家志望」び「やさしいおかあさん」方がいる。「子どもを生み育てた」から「子ども」についてはよくわかっていると思い込みがちな人びとがいる。そういうものじゃないだろう。そういうものなら、プー横丁の空想労働者は、存在理由などなくなる。育児体験のある母親が、即「いい空想労働者」でないように、かならずしも「人」は「作品」にとってかわらないのである。
 そこのところを逆に受け止めると、「作家素描」(ゴシップ)が「空想労働史」にすりかわってしまう。ゴシップはそれ自体充分楽しい読物であるが、それはそのまま「空想労働産物品評」とはなりえない。
 そこのところだなと思う。イーヨーはせめて、香山美子にそういうことを話せばよかったのかもしれない。いや、それはよくないかな。
 イーヨーが、その夜の宴席のことをほとんど覚えていないのは、たぶん、会の間中、体をすくめていたからだろう。そういうじぶんを忘れようとして、がぶがぶビールを飲み続けたからだろう。覚えているのは、やっとお開きになって外へでた時のことだ。雨はあがって地面は光っていた。ひげのプーさんに誘われて、近くの小さな店にはいった。神宮輝夫が、分厚い英書を持っていた。それはアーサー・ランサムの作品で、彼は翻訳のため一度目を通しているのだと語った。そして、どうしたか。その向こうの記憶は消えている。

 「四月五日、水曜。ホテルより今江、古田に電話。会わずに夕方帰宅する由、告げる。タクシーで羽田空港へ。前年、神宮輝夫が口ききしてくれた学研の翻訳の下調べのため。ポール・ベルナの"Le Kangourou Volant"(1957)。これは、オルリー空港が物語の舞台になっている。羽田ではラチがあかず、エール・フランスの本社へ行くことにする。電話で学研の石井氏、神戸氏に連絡、空港で会い翻訳の打ち合わせ。神戸氏に有楽町までタクシーで送ってもらい、エール・フランスで「オルリー空港案内図」をもらう。神保町「ジロー」。時間がないので駅までの車の中で佐野美津男と話す。新幹線のプラットフォームで池上徳三、辻秀夫に会い、病院勤務の藤林嬢を紹介しておく」(日記より)

 イーヨーは三日間、きわめて精力的に人に会い続けた。昨日までのイーヨーでは考えられないことだった。胃潰瘍のほうは間違いなく現在進行形である。じぶんのものでありながら、じぶんのものではないように胃袋はその存在を主張し続けている。そいつが爆発しないように薬をあおる。コーヒーを飲めば緑の粉末を、酒を飲めばすかさずおなじそれを。規定は食後三回ということだが、そこまで待っておれない。深海や高山で酸素を求めるように断続的に胃薬を流し込む。麻薬中毒患者に似ていないでもない。鉄腕アトムがエネルギーを補充していると思えばどうだろう。馬鹿め!おまえのどこがアトムだ!愚かにも気弱い微笑を浮かべて、人から人へ泳ぎ続けて何の意味があるのか。そうしなければ、プー横丁では生きていけないのか。プー横丁の住民と認められないのか。そうではないだろう。そうするのは、イーヨー自身がひどく不安だからだろう。プー横丁はどうなっているのか。そいつがよくわからないのだろう。かつて、あれほど親しげに行動を共にしていた古田足日と佐野美津男が席を分っているのはなぜだ。イーヨーはそこのところがよく呑み込めない。空白の十年を埋めるために、人間海流を犬かきしていたのだといえる。

 「…ここでいささか回想的なことをいわせていただくと、いまの児童文学界で、実質的な役割をはたしているひとたちも、五、六年前までは、児童文学全体の変革を考えていて、わたしもその意味では仲間のひとりだった。ところが現在、かつてのなかまたちは、ほとんど世襲的に児童文学界の中心に位置しつつあります。情勢はかえって悪化しています」(佐野美津男『現代にとって児童文学とは何か』三一書房・一九五六、「あとがき」より)

 あの「栄光」に満ちた、そのくせ尻すぼまりに終った「児童文学実験集団」の結成以来、ほとんど会うことのなかった佐野美津男に、改めてイーヨーが会ったのは、「出版記念会」の前の年である。その頃、日記を中断していたイーヨーは、それを確かめようとして頭を抱えてしまった。東条会館の前で落ち合ったことだけは間違いない。すでに『浮浪児の栄光』(三一書房・一九六一)を出版していた佐野美津男は、イーヨーにとって、はるか先を歩いているプー横丁の居住者に見えた。佐々木守や近藤亮といっしょに「赤土鈴之助」の歌をうたっていた佐野美津男。「児童文学実験集団」の発会パーティーで、臆することなく自己主張していた颯爽としたその姿。イーヨーのなかにはその歌声と姿が消えずに残っていた。それがどうして、「かつてのなかまたち」と袂を分ち、対立者にまわったのか。それこそイーヨーのもっとも知りたいところであった。その時ではなくすっとあとで、古田足日にもおなじことを聞いたことがある。古田足日は、それがにがい思い出でもあるかのように顔をくもらせて呟いた。
 「人徳がないんだろうな、おれに。みんな、おれのまわりから去っていく……」
 佐野美津男はどういったか。そっくりその口調まで思いだすことはできないが、彼はかすれた声で、憤りをおさえるようにこういったことを覚えている。
 「やつらはぼくの糧道を絶ったのです。安保のあとです。除名するだけならまだしも、糧道まで絶とうとしたのだから許せない」
 「糧道を絶つ」とはどういうことなのだろう。言葉としてはわかり、それなりの想像も可能である。しかし、その言葉に含まれている思いの深さを、イーヨーは理解することができない。佐野美津男の言葉には、重ねてその内容を問い返すことを拒否する言外の厳しさがみなぎっていたからである。それよりもその時、イーヨーは、ふいに生なましく「政治」という名の風が、「かつてのなかまたち」の間を吹き抜けたことを感じたのである。
 「安保」は、いうまでもなく一九六〇年(昭三五)の「日米安全保障条約改定反対闘争」のことである。国会周辺のデモは、連日テレビでも映しだされた。イーヨーは、何もしなかった。プー横丁の住人たちもそれに参加し、全国各地で、シュプレヒコールと共にデモをする人びとが増えていった。イーヨーは、ようやく日本脳炎の後遺症から立ち直り、日常の勤めにもどったところだった。人びとが、時の首相を倒せと叫ぶ声を聞くとき、はげしい胸さわぎに襲われたが、イーヨーは町にでなかった。でる気にならなかった。時の首相は、デモの意味を過小評価するため、後楽園にはそれ以上の人間が野球見物につめかけているといったが、イーヨーもまた、「それ以上の無関心な人びと」の一人だったといえるだろう。「安保条約」は「自然承認」に持ち込まれ、その「戦い」に参加した人びとは、「敗北」を喫したと「総括」した。事はそれで終わらなかったのである。たとえば、斎藤一郎の『安保闘争史』(三一書房・一九六二)に詳述されているように、それは「反対運動」指導団体への批判と、「組織参加者」の分裂を生みだしたのである。「全学連」がクローズ・アップされ、やがて「前衛」を呼称するグループの急速な「先鋭化」も、そこに端を発していた。
 佐野美津男のいう「除名」とは、たぶん「安保反対運動」において、その所属する「パルタイ」」の指導に批判的立場をとったことからきているのではないか。イーヨーはその時まで、佐野美津男が特定の「パルタイ」に所属していることも、また佐野のいう「かつてのなかまたち」が「パルタイ人」であることも知らなかった。迂闊といえば迂闊だが、それを知ったところで、人間としての付き合いが変わったり、評価が変わるとは考えられなかった。それは、「パルタイ人」の友達を持ち、「パルタイ人」といっしょに「生活記録運動」をやったこともあるイーヨーが、それまで「パルタイ」とまったく無関係に過してきたことで、そうしたものの重みを一度も考えてみなかったことからきている。
 そういえばつい最近、研究室に雑誌を借りにきた山本明と話していた時、彼もまた「パルタイ」の除名者だったという話を聞き、目をしばたたいた覚えがある。そうした体験は、そうした体験を持たないものにとって、その心情の領域に触れる形ではなかなか理解できないものである。「安保」以前にも「パルタイ」の指導方針をめぐり、そこからはじきだされたものの苦悩を描いた小説があった。井上光晴の作品をそうしたものとして読んだ記憶がある。よくわかったつもりでいたが、ほんとうは「他人さまの家の苛酷な出来事」として、傷つかない距離から眺めていたのではないか。イーヨーのこの距離感覚は、「集団」や「組織」、「結社」や「共同体」というものへの、半ば生理的な拒否意識からきているように思う。戦争時代、「信念」や「連帯責任」や「挙国一致」という旗じるしで、あまりにも不快な歩みを強制されたからだろう。それとこれとは違う……と指摘する声もある。そうかもしれない。しかし、目指すものは違っていても、個人を超える何かが、個人の人生をどこかで部品化し、道具化する危険性は常に伏在する。人がなんらかの意味で帰属せざるをえない集団そのものが、異質の人間の集合体であることを忘れて、「多数決の論理」を楯にとり、「絶対善」として自転し始める危険性がある。集団に限らず、イーヨーは、「自己絶対視」の発想や、「信念の人」に、常に臆病である。臆病であり続ける。
 佐野美津男の内側に息づくものが、「パルタイ」への(あるいは「パルタイ人」への)怨念なのか批判なのか、そこのところはわからない。しかし、イーヨーはいずれにしても、彼もまた、プー横丁の住人なのだと考え続けてきた。それとおなじく、プー横丁は、「パルタイ人」と「反パルタイ人」の対立抗争の世界ではなく、「パルタイ人」もいるし、「非パルタイ人」もいる開かれた世界だと考えてきた。そもそも、プー横丁の居住をめぐって、そうした「帰属問題」が問題になること自体、よく呑み込めなかった。プー横丁が「花園」だなどとは思わないが、「修羅場」でもあるまい、と考えてしまう。しかし、この問題はひとまず横に置こう。
 じぶんの仕事が一冊の本になるということは、ひどく嬉しいことである。それがはじめての本ならなおさらである。バビロンの首長こと小宮山量平さんは、イーヨーの「プー横丁戦後論」がでた時、手紙をくれた。それには、「何冊本をつくっても、その新しい本が出来た夜は、枕もとにおいていっしょに眠る……」という本づくりの喜びが記してあった。イーヨーも一週間ばかりそうした。しかし、一冊の本をだすということは、喜びだけがやってくることではない。それは、イーヨーの予想もしなかったことだが、投石の「標的」になる場合もある。イーヨーの本はふらふらと舞いあがり、プー横丁の枯れ枝にからまったのである。
 時間をその年の終りまで「早送り」しておこう。

 『十二月三一日、土曜。大晦日である。夜十時。四条河原町、高島屋の前にいく。「不満の会」の柴谷正博がいて、ヤアということにない、一枚三十円のゼッケンをただでもらう。同行の辻秀夫と、それぞれマジックで書く。「ベトナムにおけら参りはないぞ!酒も飲めないのだぞ!」と書く。十人に満たない人数である。柴谷は商社マンだが、ほかの顔ぶれはまったくわからない。どこかの会社員に違いない。リーダーも何もなし、三三五五集って、ともかく「ベトナム戦争」に「NO!」の意志表示をしようという集りである。大晦日の人ごみの中をシュプレヒコールしながら、のろのろと八坂神社まで歩く。前後左右「おけら参り」の人また人だから、なかなか先に進まない。交通整理の警官が怒って「プラカードをおろせ」という。知らん顔をして歩いていたら腕をつかまれた。「あんた先生ですか。このデモの責任者ですか」「いいえ、違います」「プラカードをおろしなさい、プラカードを。これ無届でしょう」「さあ、ぼくにはわかりません」「やめなさい、そういうことを」プラカードをおろし、やっと祇園石段下までくる。そこで解散。八坂神社で火縄を買い、それに火をつけて、ぐるぐるまわしながら智恩院までくる。この火でかまどに火を移し、それで正月の雑煮を炊くわけだが、かまど使用の家などとっくになくなっている。十二時帰宅。寝つかれないままに、今年の私的十大ニュースを考える。一位、「プー横丁戦後論」のでたこと。二位、胃潰瘍再発。三位、一日六十本の煙草を二十本にへらしたこと……。』(四位以下略。日記より)

 付記 イーヨーの「戦後論」の原稿ができた時、ひげのプーさんは、その頃、国立にあったじぶんの家に招待してくれた。千江さんがいて幼い冬子ちゃんがいた。古田足日と山中恒がいっしょだった。イーヨーは、手づくりの鶏のカラアゲを食べた。山中恒は歯が疼いていて、あまり食わなかった。その時のことを「出版記念会」のあとに書くつもりだった。書けなかった。
テキストファイル化清水博