『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

第九章 忘郷詩片(センチメンタル・ジャーニー)

 「十一月三日、木曜、快晴。岡山。学長、学部長、学科主任、連れだっての出張父兄会(?)。十数人の保護者と面談。就職状況、成績、下宿生活に質問は集中、きわめて自信のない返答を繰り返す。「私学」だからここまでやらねばならぬということだろうが、それにしても……と行楽の人出をぼんやりと眺める。「筆は一本、足は二本ですからね」と、悟りきったように笑った樋口和彦さんの言葉を思いだす。夕方の新幹線で京都にもどり、「反省会」という予定らしいが、一人、岡山に残る」(一九八三年の日記より)
 岡山駅の西口に立つと、すぐ前に自動車道路が走っている。道路にそって、パチンコ店、煙草屋、中華飯店、洋品雑貨屋、相互銀行の建物などが軒を並べている。その前を右手にすこし歩くと北に抜ける通りがある。ネオンの消えたすすけたアーチが頭上にかかっている。昼間はひっそりと静まり返っているが、このあたりが、日暮れと共に息づく「飲み屋街」であることを告げている。
 はじめて、ここへきたのは、もう十年くらい前になるだろうか。地図を片手に目的の場所を探し当てようとしたものである。それから、ずっとこなくて、やっと一年前、このアーチの下を潜ったものだ。
 イーヨーは、金網で囲った簡易駐車場にそって歩く。駐車場とT字形に北へ抜ける細い道がある。その角から三軒目にイーヨーの目指している家はある。寿司屋だろうか鍋ものの店だろうか、表戸をおろした飲食店とスナックにはさまれてその店は建っている。「居酒屋・童謡亭 雪国」、かすれた文字で記してある。なぐり書きしたような筆の跡である。下手な字ではない。風雨で色あせた小さな店である。たくしあげられたのれん。ほこりっぽい感じの格子や扉。秋の陽ざしは、明るく通りを照らしているのに、その居酒屋の入口はひんやりとひさしの陰に沈んでいる。
 イーヨーは、見慣れた建物を見るように、何気ないふりをしてそのたたずまいに目をやる。じぶんの内側に、ゆらゆらと感慨の湧きあがるのを感じる。煙草をくわえて、そいつの収まるのを待つ。目を細める。陽の当たらない扉に、セロテープで紙切れが止めてある。
 ―四時までにくるつもりだが、さきにきたときは、なかにはいって待っていてくれ。
 署名も何もない。しかし、まぎれもなく、それはイーヨーにあてた走り書きである。よく知っていた特徴のある筆跡である。イーヨーは、その文字を見て、「その人」が健在であったことを緊張を解くかたちで感じる。扉をそっと押す。内側に吊るしてある鐘が、からからと鳴る。店内は真っ暗である。泥棒のように、しばらく息をこらす。それから、だれかに見られていることを恐れるように外の光のなかにもどる。時計を見る。四時にはまだ二十分ばかりある。
 ―所用で岡山にまいります。もし御都合よろしければ、お寄りしたいと思います。四時に店のほうまでいきます。都合悪ければ、別にかまいませんので……。
 イーヨーの歯切れの悪い葉書を「その人」は読んだはずである。だから、言葉が扉に止めてある。
 イーヨーは歩きだす。二筋向こうに「奉還町商店街」の大通りが見える。歳末大売り出しのように幟やデコレーションがゆれている。祝日というので家族連れや若ものたちでにぎわっている。ポップスがマイクからふりまかれる。イーヨーは、こことそこ、にぎわいと淋しさの間に立って、ふと、とりとめもないことを考える。
 なぜ、「その人」は店の名を「雪国」とつけたのだろう。「雪国」でなければいけなかったのだろう。「その人」の故郷は関東の茨城のはずである。茨城は、冬、一面の銀世界に変わるのだろうか。イーヨーは、未知の土地を想像してみようとする。茨城ははるかに遠く、イーヨーのなかに何の形も作りあげない。「その人」はそれとも、同名の小説を残した川端康成に深い親近感を抱いていたのだろうか。そうなのか。イーヨーは、「その人」の京都の家にはじめて訪ねていった時のことを考える。
 南禅寺近くの、すすけた白壁につる草がまとわりついていた小さな家。ごとごととゆれる市電がまだ走っていて、終点・天王町で降りると変に荒涼とした風景がひろがっていた道筋。それは現在のように整地もされず、住宅も建ち並ばず、あちこちに夏草が生い茂っていたせいかもしれない。敗戦の翌年、一九四六年(昭二一)の夏ではなかったか。米などほとんど配給されず、トウモロコシの粉で電気パンを焼きあげ、そいつを口に入れるだけで過ぎていった日々がある。常に空腹で、着るものも金もなく、イーヨーは、目ばかりきょろきょろさせていた。そんなある日、本屋の店頭で、ふと目についたうすっぺらな雑誌。それが『子ども・詩の国』(臼井書房発行)だった。すでにひそかに、ただやみくもに「童話」(と一人合点したもの)を書き始めていた十八歳のイーヨーは、表紙に大きく印刷された「編集・鴫原一穂」という文字を、天啓のように眺めたはずだ。この人に作品を送れば、あるいは……。天井板のないぼろ家の片隅で、イーヨーは一気に短篇童話を書きあげた。『水の底の宝』とタイトルをつけると、ためらわずに投函した。
 期待はしたが予期しなかった葉書が、「その人」からきたのはそれからすぐだった。
 「御手紙並に童話、正に拝見致しました。夢と現実とをたくみに交織したよい作品だと思いました。涙の目であたりが美しく見えるところは本当によいと思いました。しかしその美しい世界が涙のおちた拍子に消えたことを栗の魔法だということは、子供だましのように考えました。この点だけ浅いのではないかと思ったのです。小さいことだが、仙平、三太は、善太と三平のもじりのようで、おもしろくおもいませんでした。『詩の国』へは誌面がせまいので御約束出来ませんが、たくさん書いて下さい。なおお遊びにきて下さい。夜分でも。但し、四、五日前におしらせおき下さい。留守になるといけないから」(一九四六年十月九日付)

 その日から三十七年経っている。三十七年は一またぎできる時間ではない。そこには記憶の底に沈んでしまった無数の出来事や情念が堆積している。しかし、はっきりとわかることが一つある。一枚のその葉書が、イーヨーと「その人」を結びつけたということである。「結びつけた」という言葉が芸道上の「師弟関係」を連想させるとするなら、つぎのようにいいかえてもいい。それが、「その人」を「先生」と呼び、「先生」を思い定めることをイーヨーに選択させたということである。
 今、イーヨーは五十五歳。「先生」は七十五歳である。目のくらむようなこの年齢を、その時、一度でも考えてみたことがあるだろうか。人はその年齢を生きるまで、年齢そのものの重みを理解しえないものなのかもしれない。少なくともイーヨーは、一年先のことさえ想像しなかった。想像できる余裕はなかった。しかし、「先生」はどうだろう。どうだったろう。詩集『好日詩片』(臼井書房・一九四六)を上梓したばかりの「先生」は、イーヨーよりももっと切実に、「今を生きる」ことでいっぱいだったに違いない。

  ばらの花を描いた
  かわらぬ構図で何枚も何枚も
  これがわたしら五人を養うことも考えず
  これを誰が買ってかえるのかも考えず
  むさくるしい室(へや)が
  ばらの花で埋まってゆくたのしさを
  雪のふる晩にも こごえそうな指で追ってゆく
(前記詩集「内職」より)

 「わたしら五人」と記されているように、その頃、先生は、奥さんと二人の娘さんと、奥さんのおかあさんと、それにたしか一匹の猫といっしょに暮していた。先生は、きわめて口数が少なく、その上ひどく素朴な人柄で、いってみれば陽だまりの縁側にごろりと置かれた馬鈴薯のように、どこかあたたかな土の匂いがした。泥くさいというのではない。「粋(いき)」とか「戦後派(アプレ・ゲール)」といった概念から対極にいる先生だったが、浅黒い大づくりなその顔立ちは、当時まだ二枚目だった俳優のゲーリー・クーパーに似て、独特の風格があった。
 先生は詩人である前に無名の画家であり、それも独学によってその道を進み、身すぎ世すぎのためにどこかの学校で美術の教師をしているらしかった。理屈っぽいことはまったく口にせず、じぶんの興味をひいたものだけを「おもしろいな、あれは」と呟くように話すのだった。
 イーヨーがその頃、武田麟太郎や島木健作の小説を読んだのも、すこしあとで、嘉村礒多や牧野信一の小説を読みだしたのも、先生の「おもしろいな」という呟きがあったからである。先生に近づくためには、先生のおもしろがるものをまず納得したいという、まっとうでない動機からである。何もこれは、その時のイーヨーだけがそうしたということではないだろう。おおむね「十代の読書」というものには、畏敬する人物の、また友人仲間の読書内容や読書量に、じぶんを近づけようとする傾向がある。競い合い、背のびすることで、じぶんの存在価値を周囲に認めさせようとするためかもしれない。鼻もちならないこの衝動が、「じぶんとなる」ための通過儀礼の一つかもしれない。イーヨーはもちろん、そんなふうにその時、「じぶん」を眺め返す余裕も冷静さもなかった。何であれ、活字をかたっぱしから読むことが自己存在の顕示につながると錯覚していた。野間宏の『暗い絵』を読む。椎名麟三の『重き流れの中に』を読む。太宰治の『春の枯葉』『冬の花火』を読む。永井荷風の『問はずがたり』を読む。坂口安吾の『堕落論』を読む。織田作之助の『可能性の文学』を読む。スタンダールの『赤と黒』を読む。トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』を読む。そうすることで、食うものも着るものもないみすぼらしいじぶんを忘れようとし、そういうじぶんをそのままで、人びとが重んじることをひそかに待ち受けていた……といえそうである。
 先生は、言葉で自己主張をほとんどしない人だった。黙々と仕事を続け、そうすることがもっとも人間らしい在り方だと確信し、じぶんを語ることを恥じてさえいるかのようにみえた。あらゆる領域で声高に「民主主義」や「日本再建」が、また「近代的自我」や「主体性」が論じられている時、それに和することなく、ただ寡黙な仕事人であろうとする先生は、イーヨーがそれまでに知っていた大人たちとあまりにも違っていた。今風にいえば「おしん」のように、耐性そのものが魅力となっている人だった。

  はなしあわなくても
  はなしあうより
  よく通じ
  目をみただけでわかってしまう
  ひそひそとして
  つつましいくらしのながめを
  まちうらのひなたにねがう
(前記詩集「はなしあわなくても」より)

 先生のおくさんは、そのかわりといえば何だが、寡黙を美徳などとは考えない人だった。おしゃべりというのではない。妻であり母であることが女としてのすべてではない、そういう役割を分担しているとしても、一人の人間として常に可能性を追求すべきである、そうした思いを内側にたたえ、自己主張すべきは自己主張する「じぶん自身」といったものを手放さない人だった。イーヨーと先生が「沈黙ごっこ」をしている横へひょいときて、その気まずさを破るように明るい声で話しかけたりした。おくさんは若い頃、美人だったのだろうか……。
 こんなふうにいうと、先生もおくさんも年寄りくさく聞こえるが、これは十八歳のイーヨーの感じたままである。少年からようやく大人の世界に足を踏み入れようとする若ものにとって、大人の年齢や成熟度ほどわからないものはない。三十代の大人たちは、すでに完成した人間に見える。それ以上の年代は、老人のように思い込んでしまう。生活者としての尺度がなく、ただ肥大した観念の尺度だけがそなわっているからだろう。その時の先生もおくさんも三十代後半である。今のイーヨーなら「あまりにも若く」と考える年齢である。「異性の美しさ」を知るにはイーヨーは幼すぎたといえるのかもしれない。そういえば、酒も煙草ものまず、ダンスをする同年代の若ものを軽蔑し、ジャズに背を向けて、ひたすらフランス語の字引きをひいていたイーヨーが、そこにいる。宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を読み、その衝撃で「童話」を書き始めたイーヨーがいる。いや、それは「美しすぎる十八歳」である。そうではないだろう。もうすこし正確にいえば、崩壊寸前の八人家族の長男として、家庭を省みない父親と、おかげで焼酎に溺れこんだ母親のあいだにあって、妹や弟に手をさしのべず、ただ凄惨な日常の絆から「逃れでること」だけを思いつめたイーヨーがいる。
 イーヨーが先生の迷惑も省みず、しばしば先生宅へ「夜討ち」をかけた理由の一つに、そうした「逃亡の心理」があったはずである。イーヨーは多くを望まなかった。ごくふつうの、貧しいながらもそれなりに、心やすまる「家」が欲しかった。それを求めて、たぶんこの時期、うろうろと他人(ひと)さまの家に押しかけたに違いない。これはこの先生に限らず、イーヨーにとっての「もうひとりのわが師」岡本彦一先生にも当てはまる。ヘルマン・ヘッセに『青春彷徨』という作品があるが、その言葉の持つ甘美さを、その時のイーヨーがどれほどうらやましく思ったことか。イーヨーにおける彷徨は、野良犬のそれに等しかったのである。

  いつにもなくあかるい橙色の灯をとぼして
  わたしの帰りをまっていた妻

  いちにち 台所でたちまわり
  ようやくその疲れを新聞の世界になげたのであろう
  へやのそこここに大きなかげのかたまりがあり
  かげのひとつひとつでこおろぎがなく
  芯にこたえる閑けさよ

  わたしは妻の背後(うしろ)にまわり
  一枚の紙幣を降らす
  二枚降らす
  妻はどうしたのかと言いつつも
  両の掌(て)をひらきうけとめる
  三枚
  天の稀なる花びらのように四枚五枚―

  やがて天はからっぽになった
  妻のおどろきとよろこびを埋めて十枚
  こんなたわむれが細い胴体に湧いたのを
  妻よりも むしろ
  わたしはふしぎにおもう
  もう ふりやんだ天へ眼をあげる妻へ
  わたしは稀な笑いをこぼしてやった
(前記詩集「たわむれ」より)

 先生の「家庭」は、イーヨーの求めるもっとも望ましい「家庭」に見えた。人間のぬくもりがあって、はじける娘たちの笑いがあって、台所を守るしっかりものの妻がいて、外側から吹き込む風がどれほど冷たくても、ちょっとやそっとで壊れるはずのない強固な砦に見えた。人間に潜在する影の部分について、まったく無知であった若ものにとって、「家庭」を維持するために人間が払う努力や忍耐を、またそのために起こる内的葛藤を理解できるはずがなかった。先生も一個の人間であって、イーヨーとおなじく抑圧した部分、矛盾した衝動に駆られる脆い生きものであると知るためには、長い時間が必要だった。イーヨー自身の成熟が不可欠だった。
 青いイーヨーは、先生の賛辞が欲しくて「童話」を書き続けた。

 「元気にやっているか。やっと童話一ぺんを物した。『河童の旅』という。まだ筆を入れねばならんが、とにかく一つ出来た。仕事が出来そうだ。うんとやるつもり。二、三日すぎると『詩の国』も出るだろう。君の原稿料も掲載誌と一緒にお渡しする。(以下略)」(一九四七年八月十二日付葉書)
 先生の家を訪ねた日から、ほぼ一年経っている。イーヨーは十九歳。雑誌『子ども・詩の国』に掲載された作品は、たぶん『こうもり彗星』か『なめくじらの花』に違いない。宮沢賢治の『よだかの星』に感動して、その感動が、人間の何を表現したものかも考えずに、ただやみくもに「そうしたおもしろさ」を目指したイーヨーが、それをなぞったような作品である。もちろん、イーヨーには「なぞっている」という意識はない。「だれも書かなかったようなおもしろい話」をと考えている。しかし、読書によって人生を知ることはできるかもしれないが、読書によって人生を語ることはできないのである。表現内容と表現方法は、日常生活を生き続けることから生まれる。生活を軽視し、観念の肥大化を高次の人間の在り方と錯覚するような若ものからは生まれない。たとえ、どれほど独創性を目指しても、それは堆積した知識の反芻にすぎない。イーヨーは、そのことがよくわかっていない。わからないままに文字を書きつらねている。その時期に書かれた短篇は、消滅すべき当然の運命だったのである。

 「廿一日、日曜日午後一時より、和風書院で、こども文化研究会創作童話部のあつまりがあります。金子君が君も作品をもって来るようにといっている。俺も君に来てもらいたい。『なめくじ』の話でも何でもよい」(一九四七年九月十七日付)

 「冠省。小学三年生向きの童話、至急ほしい。かけないか。かけるなら作品を五日頃までにもって来てくれれば可。かけなければ他に頼む都合があるので、この葉書見次第すぐ来てくれ。但し三十一日夜は不在の予定。一日の午後、大丸の六階展覧会場におる。夜はだめ。一回二千字の三回つづき。よんでおもしろいこと。『詩の国』正月号へ『カッパ苔』のようなもの、考えておいてくれ。出来なければ、『カッパ苔』を予定する。十五枚位」(一九四七年十月三十日付)

 先生がはじめての葉書で「金子君」と書いているのは、金子欣哉さんのことである。ほんとうは、この人も先生と呼ぶべきなのかもしれない。イーヨーが、京都の東、吉田山々麓にある第二錦林尋常小学校の生徒であった時、そこに師範学校をでて新任の先生として着任した人だからである。金子さんは担任ではなかったので、イーヨーが中学に進むと、「お話」のおもしろい先生がいたな……程度の記憶とともに、何の関係もなく終るはずだった。しかし、そうはならなかった。イーヨーが中学四年の時、(それは太平洋戦争の末期だった。イーヨーは、舞鶴海軍工廠に動員学徒として送り込まれていたのだが)突然、出身小学校の「代用教員」として採用されることになった。当時は、男子教員が召集され、教員不足だったのだろう。中学生・女学生が、急場しのぎの臨時教員として小学校に配置されることが、あちこちであった。小学校は、いうまでもなく「国民学校」と改名されていた。上級学年は集団疎開し、学校には四年生以下しか残っていなかった。イーヨーは、いきなり小学校二年生の担任ということになった。空襲警報のサイレンが、くる日もくる日もひびき渡った。そのたびに防空ズキンをかぶり、子どもたちを大急ぎで集団下校させるのである。授業など、ろくすっぽできなかったし、もしできたとしても、イーヨーは途方に暮れただけだったろう。軍事教練に明け暮れた学校から、そのまま海軍工廠のガス溶接工となった十七歳の一中学生に、教える技術はおろか、教えるべきことなどあるはずがなかった。イーヨーは、オルガンでメロディーだけを繰り返し、子どもたちに「もしもし杉の子おきなさい」とうたわせることで時間を埋めた。イーヨーがそんなでたらめな先生になって、一カ月もすると八月十五日がきた。吉田山の向こうから、グラマン戦闘機が数機、朝の太陽に翼を輝かせながら姿をあらわした。むし暑い一日が始まろうとしていた。見あげるイーヨーの頭上で、アメリカの艦載機はふいに空中に白い花を撒き散らした。ひらひらと四方に散るそれは、白いビラだった。日本はポツダム宣言を受け入れて、無条件降伏したことが印刷されていた。正午、天皇の放送があった。イーヨーは、あまりのあっけなさに敗戦が信じられなかった。空腹と無気力のうちに夏の日は続いていった。秋がきて、やがて集団疎開の生徒たちがもどってきた。そこに、付き添い教師としての金子欣哉さんがいた。
 イーヨーが「小学校の先生」であったのは半年だった。わずか六カ月という言い方もできるのかもしれない。しかし、この六カ月は、イーヨーにとって「子ども」から「大人」へ急速に押しあげられた凝縮した時間だった。本土決戦、撃ちてし止まむ……から、ふいに訪れた敗戦。昨日にうってかわり「人民による、人民のための、人民の政府」という新聞・ラジオの論調。そうした「国体」の急激な変化だけを指すのではない。学校菜園のカボチャ泥棒を見張るため宿直室に寝泊りしていると、いきなり酔っぱらったアメリカ兵が踏み込んできた。それとおなじように、イーヨーの内面に、それまで知らなかった(考えもしなかった)「大人の世界」が急激に流れ込んできた。ギュスターヴ・フローベルは、それを「感情教育」と呼んでいる。しかし、その時のイーヨーは、まだフローベルと出会っていない。だから、じぶんの内面の情念の混乱が何であるかわからない。それに何一つ手をほどこす術を持っていない。
 「若さ」というものはそういうものかもしれない。統御できないまでも、情念を客観視するには長い年月が必要である。こんなふうに書けば、イーヨーがその時、激しい衝撃にさらされたように聞こえるが、そうではない。少なくとも、現在のイーヨーは、そこにいるイーヨーに微苦笑を送っている。ライナー・マリア・リルケは『若き詩人への手紙』のなかで、「まず生きなさい、生き続ければ、あなたの悩みは、いつか、その解答を得ているだろう」といったことを記している。ただ長く生き続けていない故に「とまどい」のなかにいたイーヨー。ただそれだけのことだったのだろう。
 イーヨーは敗戦の翌春、学校を辞めた。イーヨーのおやじさまが、知人と計り合って、学校のすぐ近くに小さな店をだしたからである。味噌、干物、梅干し、雑貨、それに闇で仕入れたよもぎ餅などを店頭にひろげた。イーヨーは、否応なしに店番を命じられた。受持ちの子どもたちは三年生になっていた。学校の行き帰り、店の前を通るのである。
 「先生が闇屋したはる!」
 「闇はいかんいうのに、闇屋や!」
 食糧の飽満な(?)現在の子どもには、この時の子どもたちのとがった眼がわからないだろう。それは批難であるとともに羨望、渇仰であるとともに絶望の色をみなぎらせていたのである。その時の子どもたちは、とっくに父親や母親になっている。じぶんたちが、「先生の店」の禁制食品を穴のあくほどみつめたことを、もう覚えていないだろう。しかし、イーヨーは、その時の痛みと狼狽と羞恥を忘れることができない。鋭い言葉の矢は、まともに十八歳の胸をえぐったのである。イーヨーは、じぶんがいかに飢えているかを説明すべきだったのか。店頭の食いものを、子どもたちとおなじように溜息とともに眺めるしかなかったことを、話すべきだったのか。店にはオーナーの一人であるおやじさまの知人がいた。その家族がいた。みんな、息をつめてイーヨーの反応を見ていた。その前で、共同経営のその店の、ただの使用人にすぎないことを、イーヨーはどうして説明できたろう。真っ赤になったイーヨーは、レジスターのかげで、じぶんの鼓動を聞いているしかなかった。
 イーヨーが一篇の「童話」を書きあげたのは、それから間もなくである。そののち三流新聞に転落した地方紙に、意を決してそいつを投稿した。別に読者の作品を募集していたわけではない。掲載されるあてなど、まったくなかった。気まぐれか他の理由でか、それは活字となった。『先生』と題されたその一篇が、イーヨーの子どもたちへのひそかな弁明だった。プラトンの『ソクラテスの弁明』のように明晰なものではない。ソクラテスからはるかに遠く、感傷的でさえある。当り前である。しかし、子どもの「ために」書くというその時の行為が、子どもに「説教」をたれることでもなく、子どもの喜びに迎合することでもなく、大人から子どもへの真剣なメッセージであるという点で、それはそののちのイーヨーの「児童文学」に、爪の先ほどの関わりを持っていたように思う。
 イーヨーはそのあと、何篇かの「童話」を投稿した。それらはすべて、新聞の片隅に載った。金子欣哉さんがイーヨーの前にあらわれたのはその頃である。欣哉さんは、イーヨーとおなじく学校を辞めていた。妻子を抱えた三十代のおっさんであるのに、京都大学に入学していた。イーヨーが投稿している新聞に、欣哉さんも「童話」を書き、それはイーヨーの作品と比べものにならないほどうまかった。当り前の話である。じぶんの手足で生活を築いていない十八歳の少年は、中途半端なのである。それにもかかわらず、欣哉さんは、じぶんたちのグループに参加するようにイーヨーを誘ってくれた。それが、先生の葉書にある「子ども文化研究会」だった。

 「今日は学校が休みでのんびりした。九時ごろ予定した外出をしようとするとき、ポストマンが君のはがきを届けていった。それをもってあの道を天王町へ歩いた。君のことばをききながら―。人間味豊かなたよりなんてそれは無理だが、橋のランカンの上にはがきをおいてでも、すぐかきたい気持になった。しかし、そうはせずにしまった。そして今夜八時三十五分、これをかきだした。この時刻はラジオから出てくるバイオリン・ソロを、もし君がきいているとすれば思い出さそう為なのだ。頭の上でバイオリン・ソロがなる。わるくはないな。しかし、私はこれをかくことに一心だ。こんなとき音楽はやっぱり伴奏だね。私の行動に対する偶然なる伴奏でしかない。君は病気か。いかんね。私はなぜ人が病気になるのか不思議だ。私をもりたててくれようとする若い人が、みなおなじような病気をするのが、かなしくなるよ。病気は克服すべきものなのだ。『生長の家』でも『自らの魂』でもないが、自力で、信念で克服できると信じる。現代医学を否定はしない。昔、エントツ男は肺病だった。彼は反対療法で克服したという。それが正しいかどうか、ともかくそこには自信がなければならぬ。いつか大文学者になるための体力について語ったね。体力が第一だ。自重あれ。」(一九四九年三月十二日付)

 先生の先の葉書から二年経っている。イーヨーは肺を病んでいる。ようやく二十歳。両肺浸潤と診断され、西日のさす狭い部屋でうつうつと過している。「私をもりたててくれようとする若い人が、みなおなじような病気をするのが、かなしくなる」と先生は書いているが、それは、岩本敏男のことに違いない。岩本敏男と出会ったのは、先生の家である。その頃、もう出会っていただろうか。それとも、もうすこしあとの話だろうか。金子欣哉さんの主宰するガリ版雑誌『木馬』。それからイーヨーも同人に加えてもらった先生や欣哉さんのやる活版雑誌『童話と劇』。それらに作品を書いた時間が、そこにある。肺結核の特効薬といわれるストレプトマイシンもパスもない時代である。診断を下した医者は、「うまいものを食べて、じっと寝ているしかない」とのたまわった。うまいもの? どこにそんなものがあっただろう。米の配給は相変わらずなく、芋が主食ではなかったか。「じっと寝ている」どころか、隣組に男手がないため、魚屋の大八車を引いて、イーヨーが十数軒分のさつま芋を受け取りにいかねばならなかったのを、その医者は想像したことがあるだろうか。

  裏からはいろうとおもえば 裏から
  作道からはいろうとおもえば 作道から
  表からはいろうとしても肩がこらず
  おいと呼べば
  なかからも応とこたえて
  のっこりでてって 応対する
  そんな家を 野原のまん中へたてようとおもう
  ずっと さきのはなしだが
(前記詩集「裏からはいろうとおもえば」より)

 イーヨーの「先生」である「その人」は、その頃、そういう「家」を夢見ていたのである。「あたたかい家庭」を夢見続けていたイーヨーが、「その人」の夢に、じぶんのそれを重ねたことはいうまでもない。それだけではなく、京都の南禅寺近くの「その人」の家こそ、じぶんの「夢の家」と思い込んでいたきらいがある。その「家」が雲散霧消してしまった。いや、壊れてしまった。「その人」が家を飛びだして、おくさんとは別の女の人といっしょに暮すようになったのである。「その人」はいつ京都を捨てたのだろう。「その人」の姿が京都から見えなくなって、やがて岡山から舞い込んだのが、つぎの葉書だった。

 「酒めずるひとの居酒屋 雪国。右の場所で居酒屋をはじめました。ずぶの素人の夢の居酒屋です。夢のと申しましたのは、ここをベースキャンプとして、何かをそだて、何かをつくり上げてゆきたいという夢をもっているからなのです。ごく粗末なありふれた店ですが、生活を語り、未来を語り、芸術を語り合う場になればと念じます。何もありませんが酒だけは銘酒をそろえました。鴫原一穂」

 イーヨーが、その挨拶状をもらってから、もう十年になる。三十七年前の夏の日から、この一枚の葉書まで、二十余年にわたって「その人」との関わりが続いた。それは一口では語れないほどのことだな……とイーヨーは考える。それらのことについて、「望郷詩片、PART・U」を書かねばならないな。
 イーヨーは、「奉還町商店街」をゆっくりと抜ける。もう一度、人通りのない「雪国」の前に立つ。時計を見る。四時をすこしまわっている。秋の陽ざしは冷たい空をまだ青く染めている。イーヨーは煙草をくわえる。「その人」が交通事故に遭って入院したという二カ月ばかり前の、印刷物の隅の走り書きを反芻する。
 「その人」は、松葉杖をついてあらわれるのだろうか。それとも、むかしのまま、ゆったりと煙草をくわえてあらわれるのだろうか。

  神様 私はどうしてこうも仕合せなのでしょうか
  天へつつぬけに滅法大きな声でどなりたい
  毎日こんな雪降りでも
  つめたい比叡おろしでも
  おれは故里の日向へかえっているようだ
  妻も泪ぐんで忘れますまいねという
  おれは返事をしない
(前記詩集「友情への感謝」より)

 そう書いた「その人」。「その人」は今もこの詩のように、天に向けて大声をあげる思いを秘めているのだろうか。
 風が走り抜ける。イーヨーはもう一度、扉に止められた走り書きを読む。もうすぐ、「その人」は姿をあらわすはずだ。イーヨーは、十一月の空に目を細める。

注 「先生」の詩は、すべて旧仮名づかいで記されている。それを当世風に改めたのはイーヨーの独断である。ほんとうは「その人」などいわず、「先生」に統一すべきだったのかもしれない。あえてそうしなかったのも、イーヨーの一人合点による。この章は一種の「感傷旅行」である。当然、続篇がなければならぬ。しかし、それは、次回に続くとは限らない。
テキストファイル化岡田 和子