『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

第一章  一九五八年

 爪を噛む癖があった。親指から始めて小指まで、丹念に噛んでいくのである。ぎざぎざになった指先を、時どきためすようにみつめる。爪切りで切ったとおなじように整えようとする。それがいつ頃から始まって、いつ頃やまったのか、思い出せない。それどころか、そんな癖があったことさえ、イーヨーは長いあいだ忘れていた。
 間違いなくじぶんがしていたことなのに、まるでじぶんがしたことなどなかったように、生きている。じぶんのした行為が、すべて現在のじぶんのなかに、手をのばせばとどくという形で、あるということはない。通り過ぎてきた道筋には、そうした欠落したものが無数に埋没している。
 日本のプー横丁のことを書こうとして、そのプー横丁のはずれに、掘立小屋を建てて住み始めたことを書こうとして、イーヨーが最初に考えたことは、その記憶と呼ぶものの、欠落の仕方と都合の良いうすれ方である。アルバムの最初の頁に貼ってある、死んだおふくろの娘時代の写真のように、過去の風景は褪色している。
 それを、それでもいいから、言葉に起きかえろといったのは、今江祥智である。今江祥智は、プー横丁の三丁先に住んでいる。イーヨーの数少ない友人の一人である。会えば、雨あられと言葉の弾丸を発射する。赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』に登場するあのおまわりさんに似ていないでもない。「二丁拳銃のプーさん」などという人もあるが、イーヨーは「早射ちのトラー」ではないかと考えている。
 そもそも、そのトラーさんにはじめて会ったのは、一九六六年(昭四一)の秋の午後のことなのだが、その話にはいる前に、すこしだけ書いておくことがある。まだプー横丁にトラーさんが家を構えていなかった頃の話である。プー横丁に家は建ち並んでいるのに、どうしてか、どの家も陽当たりが悪かった。

 一通の印刷物がイーヨーの手もとに届いたのは、一九五八年(昭三三)の七月のはじめである。今、変色した封筒の裏を返してみると、差出人は、「東京都板橋区仲町四四番地、児童文学実験集団」となっている。宛名書きの筆跡は、まぎれもなく古田足日のそれだから、このいかめしい会の事務局(?)は、古田足日のその頃の家だったのかもしれない。
もしそうだとすると、どっちの家だったのだろうと、イーヨーは考える。イーヨーは、二度、吉田足日の家に泊っている。一度は、その頃の日本児童文学書協会の総会のあとであり、いま一度は、この実験集団の発足パーティのあとだと覚えている。路地裏のような、家と家との隙間の奥にある狭い一間のねぐら。それよりは、やや広い二階にあった一間のねぐら。その二つが浮かんでくる。吉田足日が、プー横丁に家を建て始めるのが一九五九
年(昭三四)の秋のことだから、(彼の最初の評論集『現代児童文学論』くろしお出版発行が同年九月七日だから)その頃の吉田は、完全失業中か、名目だけの保険外交員か、それとも「児文協」の事務局員かで、とにかく、イーヨー以上に窮迫していたことは間違いない。それなのに彼は、イーヨーに食事を供し、寝場所を与え、あまつさえ「プー横丁の現状と改革計画」を熱心に語ってくれたのである。たぶん、一宿一飯の世話を受け、わらじをぬいでいるのは、イーヨーだけではあるまい。朝、目をさますと、足の踏み場もない狭い部屋に、四人か五人の大人が雑魚寝をしていた記憶がある。二人は、同家のあるじである古田足日と文恵さんである。1人はイーヨーである。残る一人ないし二人は、その頃「金の星社」に勤めていた近藤亮のような気がするし、そしてそこに、当時「岩波書店」で働いていた鳥越信もいたように思う。それとつながるのか別の時のことなのかはっきりしないけれど、古田足日と文恵さんと鳥越信とイーヨーの四人が、新宿にでて、『原子怪獣あらわる』という映画を見た風景が残っている。泥塊状の奇妙な生物が、人間をつぎつぎ呑み込み、最後はウエストミンスター寺院の鉄柵にからみつき、高圧電流で退治される
筋書である。二階のやや広い部屋の記憶には、佐野美津男と佐々木守と近藤亮の三人が登場する。古田のその家にいくため、深夜の町を自動車が走っている。それが総会の帰りなのだろうか、別の時なのだろうか、そこのところは不連続である。みんな、したたか酒を飲んでいる。古田のその家に着くなり、嘔吐を始めたのは佐野美津男である。文恵さんが金盥を抱えてきて、佐野の背中をさすり続けている。吐瀉物のなかにかすかに血が混じっているため、みんなすこしだけ眉をくもらせている。泊まるようにすすめる文恵さんの言葉を前に、佐野は首を横にふる。結婚したばかりの奥さんが心配するからと立ちあがる。佐々木守と近藤亮が送っていこうとして立ちあがる。そこで溶暗となる。これは、一枚の風景である。古田足日の家という時、自然に浮かびあがってくる風景画の一つである。当時のプー横丁に飽きたらなく思っていたイーヨーの世代の、プー横丁にじぶんたちの家を建てようと、それぞれが設計図を引いていた時代の断片的風景である。イーヨーはそれから十数年あとに、古田足日の『ぼくらは機関車太陽号』(新日本出版社・一九七二)を批判する。(すばる書房・一九七四『ネバーランドの発想』収載「肩がわりの発想」)それは、古田足日の眉をしかめさせたのかもしれない。あるいは、もっと別の思いを、彼のな
かに生みださせたのかもしれない。イーヨーはそう思っている。そのことだけではなく、別の出来事がその前にはさまっている。しかし、イーヨーはきわめて演歌的心情の持ち主だから、あれやこれやの出来事のむこうに何枚かの風景画のあることを忘れることができない。その絵は、いってみれば、「プー横丁変革」のエネルギーだけが充溢し、それをどのような形で具体化すればいいか、それぞれが手探りしていた若ものの姿が描かれている。長い道筋には、何度か曲り角がある。イーヨーにとって、その時期、古田足日を知ったことは、プー横丁との関わり方について一つの曲り角を作っている。ずっとあとになって、プー横丁での家の建て方や、家についての考え方が違うからといって、意見を異にすることがあったとしても、雑魚寝をした風景までも消し去ることはできない。プー横丁をめぐる意見はいろいろある。しかし、今はまだ、一九五八年である。その時、イーヨーが手にした一通の印刷物にもどる必要がある。

「盛夏の候となりましたが、ご健勝のことと存じます。

 さて、児童文学の不振・停滞がさけばれてから、すでに数年になろうとしています。その原因については、さまざまなことがいわれていますが、何よりも児童文学の創造と研究にたずさわる専門児童文学者の責任がもっとも重要であることはいうまでもありません。
 私たちは、今までそれぞれの児童文学同人誌・サークルなどによりながら、勉強と運動をつみかさねるなかで、この不振と停滞からの脱出路をひたすら求め、専門児童文学者に対するきびしい批判をつづけてきました。しかしながら、私たちが専門家ともつかず非専門家ともつかぬあいまいな立場にしか立っていなかったことから、私たちの意図もまた充分に生かされなかったうらみがあります。
 今、私たちは児童文学の専門家としてのはっきりした自覚の上に立ち、私たちの仕事を広く社会的におしだすとともに、児童文学の不振・停滞の責任を自分たちの問題として受けとめ、克服してゆく決心を固めました。私たちの会名を児童文学実験集団としたのも、その積極的な意思のあらわれにほかなりません。
 私たちは、創作・評論・翻訳・文学教育・編集の各分野で、意欲的な仕事を積極的になしとげたいと考えています。また、従来かえりみられなかった社会・文明への批評を児童文学者の立場からおこないたいとも考えています。前途のけわしさは想像にかたくありませんが、私たちの自負のみのる日を確信しています。
 各ジャーナリズム関係の方がた、児童文学者の方がたには、今までもずいぶんお世話になってまいりましたが、新しい飛躍を求めてこの会の発足しました今日、従来にましての、ご指導とご協力をお願い申しあげます。」
 もう一枚ある。

「別紙にご挨拶申しあげましたように、私たち児童文学実験集団の発足を記念しまして、左記により茶菓パーティを催したいと存じます。ご多用中とは存じますが、私たちの前途のためにご来会いただければ幸いに存じます。心ばかりのパーティで、何のおもてなしも出来ませんが、児童文学の当面する問題など、ご懇談願えればうれしく思いますので、皆様のご出席をお願いいたします。」

 発足記念パーティの日時は、七月一九日(土)午後三時。場所は出版クラブである。
 実験集団のメンバーとして、つぎの十五名の名前が印刷されている。
 石井美子。いぬい・とみこ。岩本敏男。上野瞭。江部みつる。遠藤豊吉。大石真。片山悠。上笙一郎。佐野美津男。神宮輝夫。鈴木喜代春。鳥越信。古田足日。山中恒。

 電話だったか手紙だったか忘れたが、イーヨーは、この印刷物到着の前後に、古田足日から、ぜひ出席するようにいわれている。その頃、イーヨーの家にも(といっても、かみさんの両親の家に二階住いしていたのだから、家などといえたものではないが)、たぶん古田のところにも電話はなかったはずなので、手紙によるやりとりだったように思う。
 どこで、いつ、どんなふうに計画が練られたのか知らないけれど、古田が説明してくれたところによると、これは、プー横丁変革の行動の第一歩だったということになる。
 ほんとうはここで、その頃の日本のプー横丁が、どんなふうにさびれていたかということを記しておく必要があるのだろう。しかし、それを語るとなると、空襲の焼跡に建ったバラックの説明からしなければならないように思えてくる。その頃、著名なプー横丁の住人が、カバンにいっぱい原稿をつめこんで、出版社を順繰りにまわったという話が残っている。一つの原稿を見せて、編集者の方が首をかしげると、それではこっちはいかがでしょうかと、別の原稿を差しだしたというのだ。カメノコタワシかゴムひもを扱う行商人のように、プー横丁の住人の多くは、出版社をかけめぐったというのだ。本当か嘘か、イーヨーは確かめたことがない。しかし、そんな話がまことしやかに語られるほど、プー横丁の生活は窮迫していたのである。別の言い方をすれば、児童文学実験集団などいういかめしい会が結成され、そしてそれが、一種のプー横丁へのなぐりこみの形をとらねばならぬほど、プー横丁は沈滞していたのである。
 それが所期の目的を果たしたかどうか、ということは別問題である。
 この実験集団は、ほぼ一年たらずのうちに雲散霧消するのだが、話はまだそこまで進まない。

 国電飯田橋で、イーヨーは古田足日と落ち合ったような気がする。それとも、すでに前の晩に古田の家に泊って、そこからいっしょに出版クラブまでいったのだろうか。このあたりの記憶は、まったくうすれている。とにかく新幹線の開通していない時代だから、京都から東京にでるには、東海道線で八時間ばかりゆられなければならなかった。たぶんそれは、一九五六年(昭三一)の暮れのことと思うが、やはり日本児童文学者協会の総会に出席するため、鴫原一穂さんとイーヨーはこの夜行列車にのっている。満員で、一晩中眠ることもならず、東京駅に着くなり小さな旅館を探し、二人で総会までの時間を仮眠した記憶がある。「花のお江戸」にいくには、ひどく体力の要る時代だった。そして、体力をつけるには、あまりにもふところの淋しい時代だった。
 寝不足と疲れの上に、イーヨーは、古田の送ってくれた実験集団の意図を良く理解できないでいた。そのメンバーは「挨拶状」にも記されているとおり、「プー横丁に新しい風を」とか、「古いプー横丁よ、さようなら」とか、ともかく「プー横丁変革」を夢みる小集団・小グループに所属する若ものだった。イーヨーはすでに、そのほとんどのものを、会うか同人誌の交換によって名前だけでも知っていた。岩本敏男と片山悠は、この発足パーティには出席しなかったが、イーヨーとおなじ、「馬車の会」のメンバーだった。まったく知らないといえば、上笙一郎がそうである。イーヨーは古田と顔を合わした時、はじめて知ったその名前の人物について質問した。

―おれもよく知らないが、おれたちのように同人誌やサークルに関わりなく、一人でプー横丁に興味を持ってきたやつだよ。おれたちの知らないところで、一人でプー横丁に家を建て始めていたやつがいるなんて、驚きだな。

 古田足日はぼそぼそと低い声で喋る。熱がはいると、それがもっと早口になる。その時、古田の語ったことは、言葉はそのとおりではないとしても、「プー横丁変革志向派」とはまったく違った人物にめぐり合った、驚きと深い関心に満ちていた。
 当の上笙一郎とは、出版クラブへ向かう神楽坂のあの坂道の途中でいっしょになった。(あるいは、国電の駅で、古田が待ち合わせるようにしていたのかもしれないが、イーヨーには、三人して坂道を登っていく風景しか見えない)初対面の挨拶のあと、出版クラブに着くまで、おもに上笙一郎が、どういう仕事を今手がけているか、そうしたことを話してくれたように思う。
 上笙一郎は、紳士然としていた。少なくとも、それまでイーヨーの知り合った、古田足日やその仲間と違っていた。話し方において、その声のひびき具合において、服装の整い方において、文字どおりカッコ付きの「社会人」を見るような思いがした。イーヨーはすでに、言葉づらの上からいえば、高校に勤める教師であり、結婚して、子どもも一人もうけたばかりの「社会人」であった。それなのに、上笙一郎と話していると、じぶんがまだ学生のような気がしたからふしぎだ。それは、志を果たせぬままに、鬱屈した用心棒ぐらしをしている平手造酒にも似た古田足日を、唯一の「同世代人」として見てきたイーヨーの、閉鎖性と偏見から生まれた感想だったのかもしれない。
 だれとだれが、どれほどの人びとが、この発会パーティに集まっていたのか、どうしても思いだすことができない。参加者の視線が集まるその正面に、集団面接を受けるように横一列に坐った実験集団のメンバーがいる。順番に、自己紹介をかねて挨拶とプー横丁に関する考えのほどを述べるのだという。メンバーのだれかが司会をしていたようにも思うのだが、イーヨーはもうこちこちになっている。だれが司会をしていたのかも覚えていない。何を喋ったのか、喋るつもりでいたのか、それもまったく欠落している。颯爽として、それこそ小気味よい挨拶をしたのは、佐野美津男である。出席したメンバーの多くが、もたもたとプー横丁論を自己紹介の真ん中にはさみこんでいる時、佐野は、今風にいう「タテマエ」にはまったく触れず、じぶんはこれから書いて書いて書きまくる、だからどんな仕事でもいい、どんどんくださいといったのである。みんな、その直截な発言に大声をあげて笑ったが、考えてみれば児童文学実験集団の旗揚げの目的は、佐野美津男のその言葉に要約されていたのかもしれない。イーヨーも笑ったが、それはどこかで顔のひきつる笑いだった。佐野のようにいいたい気持が奥深くにありながら、それを口にすることを強くためらう二十代の体裁屋がそこにいた。
 今なら、そういえるだろうか、とイーヨーは考える。やはり、いえないだろう。その時「ホンネ」を口にできなかったものが、年をとったからといって、ごく自然に「ホンネ」をはけるようになるはずがない。イーヨーは、未だにあのうじうじした体裁屋を卒業していない。卒業できないでいる。それは、情なくもあり腹立たしくもある。しかし、それがイーヨーなのである。だから、イーヨーなのである。
 挨拶のあと、何人かずつに分かれて参会者と懇談をすることになった。イーヨーは開会と同時に、とっくに混乱していた。懇談どころではない、古田足日の横について、だれかが何かを質問することを、首をすくめて聞いていただけである。

 ―あなたはしかし、プー横丁をどうだとかこうだとかいってるけど、あなた自身の仕事をしなければ何もならないわけでしょ。あなたは仕事をしているの。仕事はあるの。この会は要するに、ぼくたち出版社に仕事をくれということじゃないの。あなたたちは、プー横丁のだれか
れのことを、仕事を欲しがって出版社まわりをしているといって批判しているけど、それとこれとはすこしも違っていないじゃないの。要するに、ぼくたちを呼んで、こんな会をやるなんてことは、個人と集団の違いはあっても、仕事をまわしてくれということでおなじじゃないの。その点、どうなの。そこのところが聞きたいな。

 古田が何と答えたか覚えていない。イーヨーはもう、恥しさと定見のなさで、ただひたすら会の果てることを願っていた記憶がある。古田足日は、イーヨーに向けられた質問も引きとってくれ、必死になって防戦してくれた。ほかのテーブルは知らない。こうした質問を予測さえしなかったイーヨーは、この集団の発足が、単に「プー横丁変革派」の気勢を示すためだけのものではなく、もっと「現実的な」何かであることを、京都にもどる汽車のなかでしみじみ噛みしめた。
 しかし、まだ汽車は動いていない。
 集団のメンバーにとっては懇談の果てに、イーヨーにとっては混乱の果てに、そのばらばらな単位のまま、またどこかの飲み屋に流れ込んでいる。この二次会でイーヨーはすぐ目の前に坐った男からいわれる。

 ―二十才をすぎた若いものが、童話を書くなんて、どういうことなんだろうね。童話が悪けりゃ児童文学でもいいよ。そんなものはすぐ言い直しますよ。だけどね、きみ、そういうことに打ち込むというのは、どういうところから生まれるの。何かこう、もっとましな仕事があるんじゃないの。童話だなんて、やくざな仕事だよ。そう思わないかね。ほんとうだぜ。

 イーヨーは、酒を飲んでからんでくれた、いや、からむふりをして「ホンネ」を吐いてくれたこの人の名刺を持っている。今はどこかにほうりこんでしまったが、捨てていないはずである。その頃も、そして現在も、児童書をだしている大手出版社の某氏である。その頃は一編集者だったかもしれないが、そのあと役付きのえらい編集者になったことを雑誌の奥付で知ったことがある。たぶん、イーヨーは、学生時代に片山愁の全面援助で出版した『童話集・蟻』(私家版・土山文隆堂・一九五一)のことを話したのであろう。
 それは「やくざな仕事」だったか。
 プー横丁に家を建てようと考えることは、「もっとましな仕事」にくらべてやくざなことだったか。
 イーヨーは、その時の言葉を長いあいだ忘れずにいたはずなのに、今その時の気持を思いだそうとしてもそっくり思いだすことができない。怒りや恥しさや戸惑いや驚きも、風化するのである。
 この遠い風景をここで眺め返しているのは、ほかでもない。その頃、プー横丁が、それと関係のある出版人にさえばかにされていたということである。プー横丁と関わりのある出版社のなかにさえ、そういう考え方の人がいたということである。それから二十余年の歳月が経っている。今はどうだろう。プー横丁はやはり「やくざな」横丁に見えるだろうか。プー横丁の住人と付き合う編集者や出版社のなかで、そういう言葉を口にする人はいないだろう。それは、プー横丁に、快適な家や、ほかの大通りとおなじ家が建ち並び始めたから、そういう考え方がなくなったともいえる。また、プー横丁が商売として成り立つところまで大きくなったから、そうはいえないぞと考え始めたところからきているともいえる。しかし、イーヨーが知っているほんのわずかな編集者は、じつはみんなプー横丁が好きなのである。そこに建つでこぼこの家やがたがたの家や、三角や四角の家を楽しんでいる。それはなかには、やはりプー横丁よりサンセット大通りやベーカー街のほうが好きだという人もある。しかし、だからといって、この横丁をやくざな町とはいわないだろう。
 偏見や誤解や冷笑は、過去の風景のなかで凍結してしまったのだろうか。

 ここに『書斎のポ・ト・フ』(潮出版社)という鼎談集がある。開高健と谷沢永一と向井敏の三人が、捕物帳から、テレビ番組、『三国志演義』から「ファーブル昆虫記」や殿山泰司まで論じまくった一冊である。
 イーヨーがこの本を買ったのは、プー横丁のことを論じた一章があったからである。「末はオセロかイヤゴーか・児童文学序説」というそのくだりを読んで、「ブルータス、おまえもか」という言葉を思い浮かべてしまった。「やくざな仕事」といったあの編集者の目が、ここでもみご
とに光っていることを感じたからである。イーヨーの友人と知人が俎上に載せられている。たとえば、灰谷健次郎の『兎の眼』と『太陽の子』がみそくそにこきおろされている。これは「子どもをダシにしたただのアジプロ小説だよ」と向井敏は言い切る。そう言い切ることで、この人は、ここにあるフィクションとしてのおもしろさをまったく無視してしまうのである。イーヨーはそのあたりでいいかげんうんざりして、こういう「きめつけ」でしか物語を読めない大人はやりきれないなと思うのだが、さらに追い討ちをかける形で「週間文春」の匿名書評などを谷沢永一が持ちだす。それからこういう。
 
―それともうひとつ、子どもの目で大人の社会を批判するといっても、坪田穣治なんかの場合は、大人一般が悪いんじゃなく、大人のなかのごく一部の、はなはだよろしくないタイプを上手に対照的に出してくるわけでしょ。それを大人一般、社会一般に置きかえてるということが、この手の児童文学に多いんじゃないの。

谷沢永一は、『牙ある蟻』(冬樹社・一九七八)の著者である。イーヨーはそれを読んでいる。鶴見俊輔が、『文章心得帖』(潮出版社・一九八〇)のなかで、「けなすときにはこの人には力がある、用意があると感じました」と語っているとおり、『牙ある蟻』には、その用意のほどと力がみなぎっている。それならば、灰谷健次郎を論じる時、どうしてそこまでやらないのだろうか。坪田穣治のどの作品を指して『兎の眼』の前に置いているのかわからないけれど、イーヨーは、これをまったく見当はずれの対比だと思っている。ほんとうに、谷沢永一は『兎の眼』を読んだのだろうか。読んで、いっていることだろうか。もしそうだとしたら、かつて坪田穣治が描いた子ども像・大人像と、『兎の眼』で描かれたそれらとが、明らかに異質の発想から生まれたものであり、そこに、戦前と現代との大きな時間の流れがあることを改めて感じるはずである。もしそうではなく、昨日読んだ一冊の本をてこや定規に、今日の未読の本を推測で否定しているというのなら、それは恐怖以外の何ものでもない。向井敏は、谷沢の先の発言を受けて、灰谷健次郎は「特殊を一般に、個を全体にすりかえる」ものだというが、この鼎談にあふれているものこそ、プー横丁の一軒の家をはすに見て、横丁全体の姿にすりかえる発想なのである。
 イーヨーは『書斎のポ・ト・フ』に反論を加えるためにこれを書いているのではない。反論を加えようにも加えようのないくらい、この鼎談者たちは、ほとんど読まずに放言しているのである。プー横丁についての一人よがりな先入観を作りあげている。そうした発想は、二十数年前、イーヨーが耳にした「やくざな仕事」とおなじことだなと思う。そうした言葉は使われていないが、そこにある無意識の差別感は、氷のように冷たい。イーヨーは身ぶるいしてしまう。
 ここで、一九五八年の夜行列車にもどらなければならないのだが、もうすこしだけ脱線してみよう。
 イーヨーは今年(一九八一)の秋のはじめ、NHKの一人のディレクターから電話をもらった。「お母さんの勉強室」というテレビ番組ですが、ぜひ御出演いただきたいのです、という。だめです。テレビはあきません。イーヨーは受話器をにぎって首をふった。「お母さんの勉強室」という番組には、それまで二度でたことがある。どちらの場合も、イーヨーは、じぶんの声がじぶんのものでないような恥しい思いをした。それに、イーヨーでなくっても、もっと落着いて話のできる、テーマに最適の人がいくらでもいる、そういう気持を、録画中ずっと感じていた。その記憶がはっきり残っているから、もうこりごりだという気持があった。
 児童文学の名作を語るといった番組なのですがと、ディレクター氏。ははあ、『ピノッキオ』とか『ハイジ』とか『人魚姫』のような古典をとりあげるのだな。イーヨーは、「名作」という言葉を聞くと、反射的に、版権・著作権・翻訳権のなくなった、あらゆる出版社がセットで売りだす非現代の児童文学作品を連想する。ところが、ディレクター氏のつぎにいった言葉は、イーヨーを一瞬ぎょっとさせた。

 ―あのう、御存知かどうか知りませんが、山中恒さんの『ぼくがぼくであること』を話していただきたいのですが。失礼ですが、この作品、御存知でしょうか。

 イーヨーは複雑な気持になった。御存知も何もない。イーヨーはほぼ十年前に、『現代の児童文学』(中公新書・一九七二)のなかでその作品に触れた。それは、軽く触れる程度ではなくて、力を入れて触れた作品だった。ディレクター氏は何を手がかりにしてイーヨーに声をかけたのだろう。
 『ぼくがぼくであること』が、プー横丁の代表的な作品として選ばれたことに異論はなかった。異論がないというより、そうした現代的作品を「名作」とするその発想に、イーヨーは感動した。NHKもやるではないか。イーヨーの態度は急変し、録画どりの日取りまで手帳に書き込んだ。その前に、ディレクター氏が担当アナウンサー氏と共に打ち合わせにくるという。これも了解した。
 数日経って、ディレクター氏とアナウンサー氏はイーヨーのところにあらわれた。どのように三十分を進めるかということである。電話での話のなかで、一人で三十分話してもらっていいということだったので、イーヨーは、山中恒の『ボクラ小国民』(全五巻・辺境社・一九七四〜一九八〇)から『おれがあいつであいつがおれで』(旺文社・一九八〇)まで触れるつもりでいた。しかし、どのようにしますかと、イーヨーが一応相手方の意向を聞いているうちに、だんだん不快な気持になってきた。もっぱらアナウンサー氏が喋ったわけだが、そのなかにコチンとくる一言があった。

―『ぼくがぼくであること』といっても、ほとんどのお母さんが読んでいませんし、筋書の紹介も要りますね。しかし、筋書を話して、それにコメントをつけて、はい、そこまでといったきれいなまとめ方をしても仕方ないんですね。神沢利子さんとか、いぬいとみこさんの作品なら、わたしだって読んでいますが、この作品は、取りあげると決めてきたのでこっちも読んだくらいです。だから、そこは、この作品にこだわらずに、もっと自由にいいたいことを喋ってもらったほうがいいと思いますね。

 意気込んでいたイーヨーは、このあたりで「もうおりよう」と思いだした。失礼ではないか。山中の作品に本気で取り組む気がないのか。イーヨーの喋りたいことを自由に話せということは、イーヨーにとっては楽な話かもしれない。しかし、そういう番組じゃないのでしょと白けてしまった。それだったら、どなたか別の出演者のほうがいいですねと、イーヨーはいった。
 もう一度ディレクター氏から電話のあった時、イーヨーは「おります」といった。
 番組で取りあげる作品も人も、そのために出演交渉する相手も、まったく知らないで話を進めようとしているのである。プー横丁のことなど知らないのが当然という顔をしているのである。プー横丁について触れるなら、プー横丁の住人たちについて多少は勉強しておくというのが礼儀であろう。イーヨーは、礼儀など口にできるような人間ではないが、なぜかその時、その言葉がぴったりのような気がした。
 ディレクター氏とアナウンサー氏は、それぞれイーヨーの本を抱えて帰ったのだが、たぶん今頃は、それを枕に昼寝をしているのであろう。

テキストファイル化 柴田雅荏