わたしの鉄道唱歌=文体論

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    
【1】
 中山千夏の歌に『とまらない汽車』というのがある。
 「何かのまちがいだと思うのだけれども、汽車はもうとまらない、とまらない、とまらないウォーウォー」という歌だ。
 今、「現代児童文学における文体について」などいう主題を前にしていると、ふと、この一説が浮びあがってくるのは、現代児童文学が、どこか、「とまらない汽車」に見えるからだろうか。それとも実際に、「とまらない汽車」が日本各地で暴走し人間を殺傷しているからだろうか。
 中山千夏の歌によれば、「とまらない汽車よ」「まちがいでもいいさ」「とまるなよ、この娘が好きだ」ということであって、かなり「命預けます」的姿勢である。そういえば、NHKの『ステージ一○一』のオリジナル・ソング『脱線列車にとびのって』も、コミックにこの姿勢を受けついでいて、いったんとびのったなら、この汽車とまりません……という発想法だったように思う。
 しかし、日本の児童文学が、「とまらない汽車」であるとするならば、「この娘が好きだ」という場合の「この娘」はどうなるのだろう。「何かのまちがいだと思うのだけれども」「まちがいだっていいんだよ」「ウォーウォー」というふうに、手ばなしで、「とまらない汽車」を賛嘆していてもいいものか、どうか。
 暴走する列車には、自動制御装置をつければいいが、「とまらない」この「汽車」には何をつければいいのか。
 「文体論」というものが、何らかの意味を持つとすれば、このあたりに登場を予定されるのだろう。つまり、創作であれ、評論であれ、没個性的多産現象の自動制御装置……いや、「手動式」制御装置としての役割を果たすことになるのだろう。この機能性を忘れての「文体論」など、テレビのコマーシャルじゃないが、クリープのないコーヒーでしかない。
 もちろん、ぼくは、『とまらない汽車』や『脱線列車』の歌を、そのまま、児童文学の特定現象にスライドさせるつもりはない。そうした含みも否定するつもりはないが、「とまらない汽車」という場合、ここでは、「命預けます」的姿勢とは違ったアプローチの仕方を考えているのだ。「この娘が好きだ」と、アバタもエクボ式の児童賛歌を口ずさむこともいい。しかし、この児童賛歌によって、「とまらない汽車」の暴走をくいとめられるのか。問題は、新鉄道唱歌を歌うことよりも、「とまらない汽車」にのせられた乗客の坐り具合を描くことではないのか。子どもたちは、今、ぼくらともども、どこへ運ばれようとしているのか。
 中山千夏の歌にしても、NHKの今月の歌にしても、汽車はオプティミズムの線路の上を疾走していく。「まちがいだっていいんだよ」と汽笛を鳴らす。しかし、そうだろうか。乗客はすべて、声を揃えて歌っているだろうか。「とまらない汽車」の乗客の一人であるぼくが、今さら窓から体を乗りだすのはほかでもない。岩本敏男の『夜の汽車』が、ほぼ十余年の線路を走り続けて、今やっと、現代児童文学の世界に滑りこんできたからである。超特急だけを列車だと考えている発想法にとって、この『夜の汽車』は、目に、はいらないものかもしれない。中央本線の、最新の流線型列車だけを「文学」と錯覚している駅長や運転手にとっては、ローカル線は、乗客のかわりに、豚や野菜を運んでいるように見えるのだろう。たぶんに、そうした発想法の基底には、児童文学とは「真昼の列車」だという固定観念があるのだろう。始発駅が終着駅であり、終着駅が始発駅である環状線の発想法……。汽車は、とまらないはずである。
 これは、「文体論」に関係ある問題なのか……。
 もちろん、関係のある事柄なのだ。
 なぜなら、少なくとも『夜の汽車』には、手動式制御装置がついていて、みごとに作動しているからである。


  (ぼくは、岩本敏男の作品集『赤い風船』の話をしているのだ。これを記している現在、この本はまだ出ていない。しかし、この雑誌が出まわるころには、町の本棚に並んでいることだろう。理論社から発行されるこの作品集は、作者の手によって加筆補稿されたとはいえ、すべて、一九五八年前後に書かれたものであることを知ってほしい。『童話の葬式』と銘うって、児童文学誌『馬車』に掲載されたものである。ぼくは、このことを、『戦後児童文学論』の「まえがき」で記しておいた。それから四年たった。四年は、人によって短いものかもしれない。『赤い風船』が空にあがり、『夜の汽車』が出発してから十年以上の時間が流れている。これもまた、人にとっては短いものかもしれない。しかし、ぼくらにとってのこの一日一日は、決して短いものではない。時間を一行のコトバで跳びこせる人は、幸せでもある。たぶん、その人は、J・G・バラードの『溺れた巨人』や『うつろいの時』を読んでも、何の感動も抱かないことだろう。「文学」は、質よりも量……ということになるのかもしれない。さて、短い……といえば、この原稿のことだが、はじめ、3月九日に電話を受けて、3月十五日までに送るようにいわれた。なんとせっかちな話だろう。「文体論」は、右から左へ、電話一本で製造できると考えているのか。もし、『夜の汽車』のことがなければ……、そして、二十日まで締切りがのびないならば、ぼくは断っただろう。このことは「文体論」と、直接に関係はないかもしれない。しかし、全く無関係ではないだろう。ここで、雑誌『日本児童文学』の編集委員会の体質を論じることは筋違いだ。改めて、ぼくは、このことに触れたい。今は、カッコをはずして、「文体論」にもどろう……)


【2】
 『夜の汽車』は、つぎのようなコトバではじまる。疾走してくるのだ。

  あたたかい冬であった。夜の汽車が走っていた。それは、くわしくいうと紀元――今年の二月のことであった。

 ぼくは今、初稿にあたるガリ版刷り雑誌を見ている。これが、加筆補稿の過程で、完全にこわされたかどうか、それは知らない。しかし、このようにして出発進行した『夜の汽車』は、十余年たった今も、あざやかな表現にみちている。

  車内の乗客たちは、熱すぎるスチームにすっかりふやけて、ふきげんそうに座席によりかかっていた。そして、彼らはもう立ちあがることさえできなくなっていた。体中の汗がクツの底にすこしずつたまって、丸太のようにむくんだ足がなにも感じなくなっているのだ。いまにクツのぬい目がメリメリさけて、なまぬるい汗がどっと流れ出して、彼らは自分たちの汗にどっぷりつかって、やがておぼれ死んでしまうようなことになるかもしれないのだ。
  しかし、彼らはこの危険な足とクツをどうすることもできなかった。ただ、のぼせ上がった目をたよりなさそうにさまよわして、いよいよとなったらアミダナにしがみつくよりしかたがないと考えた。そして、ラクダのようにおとなしく、クツの底にたまっていく汗の音に耳をかたむけていた。汗の音は、〈チョボン……チョボン〉とさびしくきこえた。それが彼らの心をなぐさめた。

 これは、冒頭のほんの一節だ。しかし、靴の底に、汗がたまっていく音が聞こえる。汗は、果して靴底にたまるものか。一見「科学的」とも思えるそんな疑問は横に置こう。疑似合理主義は、ミダス王の手にすぎない。触れるものをすべて、「教訓」や「社会科副読本」に変えてしまう。「文学」に無縁である。ついに「表現」の本質には触れ得ないだろう。岩本敏男は、汗の音を描くことによって、「とまらない汽車」のやり切れなさを、まず、ぼくらの前に提示した。「とまらない汽車」の……というより、「とまらない汽車」が闇の時代を疾走しているということ、いや、その「夜の汽車」に否応なしにつめ込まれているぼくたち乗客のやり切れなさを提示した。
 乗客は、若い歯ブラシのセールスマン。十三種類もの自殺の方法を実験した背の高い女。家出少年。大人に犯されかけた少女。わずか四人の乗客が描かれている。この四人の乗客を描くことによって、岩本敏男は、ぼくらと、ぼくらの時代の子どもを、明確に照射した。これは、四人の乗客を、比較的に、現代状況を表現する身がわり人形に仕立てた……ということではない。現代の状況に関する一定の固定観念があって、それを伝達するために登場人物を操作する……。そんな作品もあるだろう。しかし『夜の汽車』の傑出している点は、まさにそれとは逆に、既定の観念を始発駅とすることなく、個々の人間の独自性を伝達しようとしたことにある。それがひるがえって、否応なしに、ぼくらとぼくらの時代の子どもを表現している……という点にある。観念を伝えることはやさしいが、人間を描くことは難しい。
 岩本敏男が、じぶんの作品に『童話の葬式』と名づけた時、登場するものが、ネギボウズであれ、少年少女であれ、「人間もどき」であることとの訣別を宣言したのである。「人間もどき」によって童話の世界が浸蝕されていることに対峙しようとしたのである。これは、説明的世界からの訣別でもある。使い古されたコトバで、着想のおもしろさを定着する……。そのことへの不信表明でもある。

  サボテンの林の奥に寝そべって、ライオンはうとうとしていた。彼はいつもの習慣どおり、えものが彼の胃袋の中で完全に消化するまで眠るのだ。彼はしきりに胃液を分泌した。胃袋の中では、若い歯ぶらしのセールスマンが、クツをぬいでズボンのすそをまくりあげていた。――社長に食われるより、おれはライオンに食われたほうが仕合わせだったのかもしれない。彼のはだしの足を胃液がぬらした。

 『夜の汽車』の乗客の一人、若い歯ブラシのセールスマンは、ライオンの胃袋の中でいろいろ考える。これはたしかに夢である。しかし、この場合、夢は現実と隔離している絵空事だろうか。不条理で非連続な夢が、現実の主人公の不安な心情の反映として、しばしば作品に挿入される。このセールスマンの場合も、もちろん、例外ではない。例外ではないが、同時に、この夢は、現実の人間の在り方を、きわめて象徴的に提示する。不安な心情表現の枠を越えて、コミックに人間存在のその姿を浮ぼりにする。ライオンは、まさに、夢物語のそれではなく、ジャングルに寝そべり、人間を消化しようとする実体を持つし、その胃袋の中のセールスマンも、ぼくら同様、呼吸し、歩きまわる。
 単なる着想のおもしろさではない。着想のおもしろさは、筋書のおもしろさをつくりだせても、人間のあの呼吸と肌ざわりはつくり得ないのだ。
 『夜の汽車』は、ポーランド映画(だったと思う)『夜行列車』のパロディであるとしても、そのおもしろさは抜群である。『赤い風船』が、叙情的なフランス映画『赤い風船』を、完全なナンセンス・テールにつくりかえたように、『夜の汽車』は、『夜行列車』を、シリアスな日本のドラマにつくりかえる。パロディを、「なぞらえごと」程度に理解するものは、岩本敏男の作品によって扉を開かれるだろう。かれは、じぶんのコトバを持ち、じぶんのコトバでしか語るまいとする。
 文体とは、いうまでもなく、このじぶんのコトバによる、じぶん自身の思考の軌跡である。既成の観念、既成の価値観に、既成のコトバで身をすり寄せるものではない。この自明の理を知りながら、どれほど多くの作品が、既成服をまとって歩きまわってきたことか……。常に、錦の御旗のように、「子ども忘れ」を批難のコトバにし、そのコトバのかげで、どれほど、じぶんのコトバを失ってきたことか……。
 「やさしく、わかりやすく」というコトバ観は、児童文学にとって、時には落とし穴でもある。じぶんの掘った穴に、足を取られて、「肉声による発想」を忘れてしまう危険がある。批評もまた例外ではなく、解説屋に転落する危険がある。いったん、じぶんのコトバを放棄すれば、あとは「とまらない汽車」となる。「まちがいだっていいんだよ」「ウォーウォー」と疾走する。いや、暴走だってやりかねないのだ。



【3】
 ぼくは、中山千夏の歌にこだわりすぎているのかもしれない。おなじ歌の話をするなら、『いちご白書』や『ソルジャー・ブルー』のバフィ・セント・マリーについて語るべきなのかもしれない。これらの歌もまた、「状況」という名の「とまらない汽車」に対して、フィーリングにみちた手動式制御装置の役目を果していたからである。乗客をして、「とまらない汽車」の、「命預けます」式な乗車態度を拒否するように呼びかけていたからである。
 しかし、世の中には、歌といえばミソもクソもいっしょにして、すべて「引かれものの小唄」にしか思わない手合いもいる。「文体論」といえば、定義、例文、証明、結論と、整理学的文章のみを思い描くソフィストもいる。なぜ、歌が、「文体論」の領域に侵入するのか、たぶん首をかしげる人もある。その人は、舟崎克彦・靖子の『トンカチと花将軍』(福音館)を、どんなふうに評価するのだろうか。「遊び」を知らない「遊び」の研究者など、「文体」を持たない「文体論者」とおなじではないのか。
 ぼくは、ここまで書いて考える。森の石松のセリフじゃないが、「文体論」などを特集する企画発案者よ。その前に、もっとたいせつな何かをお忘れじゃござんせんかね……と。じれったさにいらいらして、ぼくは今、三度目の胃潰瘍で通院しているのだ。

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