仮空のインタビュー

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    

 ‥‥どうしてそんなに書きしぶっているんです。あなたは話下手だし、書く方がまだましなんでしょ。それだって、ほめる人は皆無ですがね。どちらかといえば、ずいぶん悪口は聞くなあ。ひとりよがりだとか、拝外思想なんてのもある。まあ、外側からの声を気にしないふりをするのは自由だけれど、「児童文学は子どもをどう描いたか」というこれ、書かないとまずいのじゃないかな。最近、古田足日さんが、『ぼくらは機関車太陽号』(新日本出版社)という長篇をだしたでしょう。あの中に歩き遠足を、じぶんたちの力で実行にうつす子どもがでてくる。『宿題ひきうけ株式会社』(理論社 )から、『海賊島探検株式会社』(毎日新聞社)とつながって、古田足日は、一貫した子ども像を描いている。あの「話しあい」と「連帯志向型」の子ども像のこと、書くべきじゃないのかな。それなのにあなたは、アーサー・ヘイリーの『自動車』なんて小説、読んでるんだから・・・。要するに、それ、道具にふりまわされる人間の話でしょ。いつも自動車の悪口ばかりいってるくせに、どうしてそんな本読むのかな。
 ‥‥あのね、道具にふりまわされる人間、というけどね。きみは道具を、すこし手軽に考えすぎるのやないかな。まるで芝居の小道具みたいにいうけどね、道具は今や、人間に対立するもんやないのか。便利な手段や、なんて思てたら大違いや。映画『ポセイドン・アドベンチャー』がそうやったが、あれ、豪華客船という道具と人間の葛藤や。むかしの海洋映画やったら、嵐と人間が戦こうたわけやが、今は、自然対人間ちごうて、道具対人間ということになる。それにやね、自動車の悪口いうもんこそ、その相手をよお知っとく必要があるのやないか。
 ‥‥どうかな。どうも、そういうきめつけ方にひっかかるんですけどね。まあこういうことはいえるでしょう。映画の話がでたからいいますけどね、最近の『ゲッタウェイ』、それに『フレンチ・コネクション』、その前の『ブリット』、みんな自動車が 重要な役割を果していますね。この一連の映画から、自動車をはずしたなら、完全に迫力が失われる。シャーロック・ホームズの時代に後退する。その意味からいえば、今日の人間のドラマは、道具抜きにしては考えられませんね。ただね、『ポセイドン・アドベンチャー』にもどしていえば、やはり、あれは、人間と人間の葛藤、あるいは、人間の自分との葛藤ということになるのじゃないかな。 たとえばですよ、ジーン・ハックマン扮する牧師と、アーネスト・ボーグナイン扮する刑事が対立するでしょう。あの葛藤を抜いてしまうと、あれだけのおもしろさはでないのじゃないかな。もちろん、道具の状況化ということは認めますよ。むかしの極限状況といえば食物のない無人島や、出口のわからない洞穴だった。そうでなければ、軍隊の内務班のような、人間のつくりあげる極限状況だった。つまり、自然や人為のものであった。それが、『ポセイドン・アドベンチャー』のように、人間のつくりあげた道具が状況になってくること、それはわかりますけれどね。
 ‥‥自動車のことにもどすとやね、こんなことばがあるんや。長いけど、ちょっと読んでみるわ。
「足で歩く連中を大切にしなければならん。この連中が、人類の大部分をしめている。しかも、そのもっとも優秀な部分をしめている。この連中が世界をつくったのだ。市街をつくったのも、高層建築をたてたのも、運河をひらいたのも、水道をひいたのも、街路を舗装したのも、町に電燈つけたのも、この連中だ。世界じゅうに文化をひろめたのも、印刷術を発明したのも、火薬を発明したのも、川に橋をかけたのも、エジプトの象形文字を判読したのも、安全かみそりを使うようにしたのも、奴隷の売買をなくしたのも、ひといろの豆から百十四種ものおいしいご馳走をこしらえることができるようにしたのも、みんな、この、足で歩く連中だ。」
 ‥‥それ、『自動車』の中のことばですか。
 ‥‥いや、ちがうんや。もうちょっと読むさかい、ま、それから、いいたいことは、いうてくれ。
「こうしてすべてがととのい、地球がやや整頓を見せてきたときになって、こんどは自動車を乗りまわす連中があらわれてきた。ここで特に注意しておかなければならないことは、その自動車なるものが、やはりまた、足で歩く連中によって発明されたものであるということだ。ところが、自動車を乗りまわす連中は、そんなことをてんから忘れてしまっている。そして、その足で歩く、おとなしいかしこい連中は、圧迫を受けはじめる。その連中の手で作られた街路は、自動車を乗りまわす連中の支配下にうつってしまった。車道は二倍も三倍もひろくなり、人道はせいぜい、たばこの箱ぐらいの幅にせばめられてしまった。そして足で歩く連中は、いつもびくびくして、家の壁ぎわにへばりついていなければならなくなった。」
 ‥‥今のぼくらの状況を、ぴったりいいあらわしているな。交通事故対策委員会のアピールか何かですか。
 ‥‥いや、四十年前に書かれたことばや。イリヤ・イリフとエヴゲニイ・ペトロの共作、『黄金の仔牛』の冒頭や。このソビエト文学、もうちょっと読んでみると、こう書いてある。
「大都会では、この連中はまるで殉職者のような生活を送っている。かれらのためには、一定の交通区域がさだめられた。かれらはもう十字路でしか街路をよこぎることが許されないのである。しかもこの交差点というのは、人の動きがもっともはげしいところであり、めいめいの人の生命が、まさに累卵のあやうきにおかれている場所なのだ。」(注/上田進訳による)
 まだまだおもしろいこと書いてあるんやけど、四十年前でこれや。今、この自動車はどう描かれているか。そんな興味からアーサー・ヘイリー読みだしたんやけど、こらまた楽天的な男のことばが、おしまいにある。いろんな人間がでてきて結構おもろい話なんやけど、アダムという新車企画部長の考えで、しめくくりとなる。どんなんかというと、まあ、そんないやな顔せんと聞けよ。
「アダムの考えでは、自動車産業は多くのあやまちを犯したが、それより圧倒的に多く正しいこともしてきた。現代の自動車の奇蹟は、それが時として期待を裏切ったことではなく、ほとんどの場合期待を裏切らなかったことであり、高価なことではなく、そのすばらしいデザインや技術の割にはむしろ安価なことであり、ハイウェイを混雑させ大気を汚したことではなく、人類の歴史を通じて自由な男女が希求してきたもの――すなわち、人的な機動力を彼らに与えたことであった。」(注/永井淳訳)
 ‥‥そのアメリカ的オプティミズムはわかりましたよ。だから、『自動車』の話は横に置きませんか。イリフとペトロフの『黄金の仔牛』の方ですが、「足で歩く連中を大切に」といってるんでしょう。だったら、はじめにいった古田さんの「歩き遠足」の問題とどこかでつながるんじゃないかな。あの物語はね、いろいろいいたいこともあると思いますが、現代日本児童文学の一つのシンボルといえるんじゃありませんか。あなたのように、人のほめるものは、決してほめないというへそまがりは別として、ごくふつうの健全な読者は、高く評価していますよ。いいですか。あの作品に登場する少年少女は、どんな正しいことでも、じぶんが納得するまで、「うん」といわないんだ。そら、チョコレート校長だったか、一方的に、歩き遠足の実施を伝えるでしょう。担任の野上先生が実際には伝えるわけだけれど、子どもたちは反対するでしょう。校長のところへいって、反対理由を堂々とのべる。その結果、校長の考えが正しいか、じぶんたちの意見が正しいか、自転車で歩き遠足のコースを調査にいく。子どもたちは、じぶんで調べてみて、いろいろ発見する。それだけじゃない。歩き遠足を楽しくする方法も考えだす。この子ども像は、今日の教育が、その基本的目標としている自主的人間のあり方を、よく伝えているんじゃないか。そう思うんですね。いいかえると、児童文学はどんな子どもを描いたかという場合、こんな子どもを描いたといって指標にできるのじゃないか。ま、もうすこし、しゃべらせてください。子どもは、じぶんで考える、いや、じぶんで考える子どもが大切だ・・・ということは、戦後ずっと児童文学の世界でもいわれてきた。また、そうした子ども像の創造を目ざしてきた。その志向性というか、創造の努力というか、一つの流れがあった。その中で、書き手の願いというか、考え方というか、そうした観念としてあるものが、ストレートにでる場合もあった。つまり、頭の中で考えた子ども、一種の人形といってもいいな、その人形に、書き手が、じぶんの考えを押しつけて、いろいろ操る場合もあった。そうした失敗や試行錯誤の中で、すこしずつ現実の子どもにコンタクトして、じぶんの観念性を切りくずす試みが繰りかえされてきた。古田さんの場合、『ぬすまれた町』(理論社)で、その観念との格闘がある。それが、『宿題ひきうけ株式会社』で、理念の消化過程があり、すこしずつ、現実の子どもをその作品の中に躍動させる方向に発展し、たとえば、今度の『ぼくらは機関車太陽号』のように生き生きした子どもの表現となっているのではないか。実際に生活している子どもは、あの作品を読んで、ああ、ぼくらのやりたいことだなあと思うだろうし、また、多少ともモデルとなった子どもは、ああ、これはおれのことだなあと胸をはずませるでしょう。古田さんの児童文学が、こういう現実の子どもの生活に、あなたのいい方をまねしていうならば、一つのドラマとしての形を与えたこと、そして、成功したことは、大いに評価すべきことじゃないのかなあ。
 ‥‥あのね、話の腰折って悪いのやけどね、ずっと前に、シドニー・ポワティエの主演した映画があったやろ。テレビで見たんやけど、『野のユリ』ちゅう映画や。自動車にのった黒人が、偶然、尼さんに行き会い、その尼さんのために教会を建てる物語や。歌あり、笑いあり、涙ありという、まあ、胸にぐっとくる物語や。ごっつ感動したという人もいる。確かに見ててじいんとくるのやな。シドニー・ポワティエが、ものすごええ人間を演じてみせるんや。それはそれで黒人の一つの描き方やといえる。黒人にとっては、鼻もちならない「アンクル・トム」やろうけれど、だからというて、善意の黒人を描いてはいかんちゅうことにはならへんやろ。しかしや、このドラマがいかに感動的であっても、これが黒人の描き方や、とはきめつけられへん。おなじシドニー・ポワティエの映画でも、『夜の大捜査線』なんかうんとちがう。もちろん、この映画も、見方によっては白人と黒人の融和政策やといえんでもない。話とんで悪いけど、NHKで放映している『セサミストリート』、あれでもこちんとくる時があるくらいやからな。はじめに、アーサー・ヘイリーの『自動車』のこというたけど、あの中にも黒人が描かれている。自動車工場の中で、白人が何の気なしに「ボーイ」と呼んでしまうんやな。このことばが、黒人蔑視の呼び方やと、みんな知ってる。そこで組合が介入するエピソードや。これは、白人の副工場長が、うまいこと丸めこんでしまうのやが、この小説には、もう二人大きい比重を持った黒人がでてくる。いわゆる会社側の重役で、思慮深い黒人と、最後に、マフィアに消されるロリー・ナイトという黒人や。前科があって、白人の警官にマークされているこの黒人の場合、シドニー・ポワティエみたいな善玉になりようがないのや。貧困や無知から、ずるずる犯罪組織に引きずりこまれていって、それで殺される。これも、一つの黒人の描き方や。つまり、黒人の生き方を追求する場合でも、いろいろあるわけやろ。
 ‥‥ということは、子どもを描く場合でも、いろいろあるといいたいんでしょう。あなたの考えていることは、わかりますよ。つまり、こうなんだな。いや、待ってください。ぼくがいってみよう。あなたは、「歩き遠足」に取り組む子どもたちが、みんな「いい子」すぎる、そう思っているんでしょう。横に首ふってもわかりますよ。あなたの考えはこうだ。あれじゃ、社会教育の生きた実例を示しているのもおなじだ。教育の側からは歓迎されるだろうが、あれをもって児童文学とはいえない。そういいたいんでしょう。
 ‥‥せっかちやな、きみは。どうして人の頭の中まで、そんなにうまいこと整理できるねん。まったく、ありがためいわくやで。そうでのうても、「芸術至上主義」やとか、勝手にきめつけるやつもいるのに、ますますややこしなるやないか。ぼくのいいたいのはやね、「あれをもって・・・」やなくて、「あれだけを・・・」ということやで。
 ‥‥おなじことだな。
 ‥‥いや、ちゃうねえ。そら、ちがうで。カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』やないけど、児童文学をすぱっとタテ割りにして、こっちはちがう、こっちだけやと、そんなこと、よおいわんわ。ぼくは、あんなまじめな、ほんまに「ええ子」を現代の到達点とするなら、そうでない子どもはどうなるのんや。みんな、話しあいで自主的に何でもやれる子どもになるまで、遅れた子ども像になるのかいな。きみの意見、聞いて、そう考えてるのやで。それからや、も一ついうと、あれはあれでええ、児童文学の一つのあり方や。そやけど、ああいう子どもを描かへん児童文学も、同時に考えなあかんやろというてんのや。
 ‥‥そんなの日本の常識ですよ。何も『ぼくらは機関車太陽号』を絶対視していませんよ。古田さんの児童文学が、社会性に目ざめていく子どもを描いているとすれば、たとえば、山中恒さんのように、人間の個としての目ざめを描く場合もある。そのどちらも、無視していませんよ。それにね、つけ加えていえば、社会と個なんて分けたいい方してますけどね、個としてのじぶんを確かめていくことは、社会の確認にむすびついているのだし、逆に、社会的な問題、これは個人をこえた公的な問題といってもいいんですが、そうした多くの人間におっかぶさる問題を、話しあったり考えたりすることも、個としてのじぶんの目ざめにつながっているんだ。そうした相互の連関性も、無視していないことを付け足しときますよ。まず、これだけいっておいて、あなたの話にもどしますとね、「歩き遠足」を自主的にやる子どもが、「いい子」で、そうでない子どもは、「遅れている」と、いつ、いいました。そんなこと、いってないでしょう。ああいう自主的な子どもの描かれたことは、評価すべきだ、といっただけですよ。あなたは勝手に「いい子」と、「わるい子」に分けているんだ。それじゃ聞きますがね、ああいう子どもではない、どういう子どものことを考えているんですか。
 ‥‥たとえばやで、武内孝夫の『わんぱくたいふう』みたいな子ども、あれはどうなんやね。
 ‥‥つまらん。よお、そんな作品、持ちだせますね。ああいう作品こそ、子どもにこびるだけで、それこそ有害無益ですよ。第一ね、あの中に、じぶんの子どもを水死させた母親がでてくるでしょう。それを、あの中のチビッコどもは、平気で傷つけているんだ。あなたは、現代っ子にこびて、大人をやっつけさえしたら、それで現代の児童文学だと考えているんでしょう。まるで興味本位なんだな。にやにや笑っていずに、すこしまじめに考えてみたらどうなんです。
 ‥‥困ったなあ。笑うのは、ふまじめかいな。ぼくはね、戦争中の子どもやし、それ、よおいわれたんや。
「こら。白い歯だすな!笑うな!」てね。あのころは、ぎゅうっと奥歯かんで、口しめて、目ばっかりいからしていたもんや。笑うやつはふまじめ。まじめは、こわい顔、そう相場がきまっていたで。戦後教育を受けたきみから、それ聞くとは思わなんだなあ。
 ‥‥それは問題のすり替えですよ。
 ‥‥そうかなあ。ま、ええわ。笑わんようにしてしゃべろ。ええか、きみ。きみの今の発言やけどね。にべもなく、よお、「つまらん」と一言でいえるね。聞いてると、なんや、どきどきしてくるわ。一言ではねつける・・・そういう絶対的な信念が、ぼくにはないんやな。それから、二つめやけどね、「有’害’無’益’」ちゅうのが、よおわからんのや。翻訳したら、「役に立たん」あるいは、「ためにならん」いうことになるのとちがうか。もし、そやったら、こら、こわいで。子どもの成長に「役に立つ」もの、子どもの「ためになる」ものいうたら、うんと教育的な考え方に接近するのとちがうか。もちろん、こういうたかて、ぼくは教育を否定しているのとはちがうで。教育はそれ独自の果たすべき役割があるやろ。とりわけ、子どもが、生きていく上で、「ためになる」ことや「役に立つ」ことを、いっぱい教えるやろな。それと文学がいっしょのもんやったらおかしいで。きみのきめつけ方、聞いてたら『有’益’無’害’』の作品だけが児童文学に聞こえてくる。それから三つめや。チビッコいうのは気にくわんな。一種のそれ、バカにしたいい方や。もちろん、愛称や、いう人もあるのは知ってる。それでもな、おもろないね。さて、『わんぱくたいふう』のことやけど、あれ、子どもにこびてるかな。母親を傷つけているやろか。ぼくは反対に、子どもが必死になって、じぶんの無実証明しようという気持を感じるのや。いや、もちろん、それだけやないよ。タマ公という子どもなんか、生き生きしてるのとちがうやろか。そらね、確かに、きみのいう社会性はないやろ。おだやかな話しあいの精神も、他人との連帯意識もないかもわからん。そやけどね、母親のない三人の子どもが、子どもなりに、肩張って生きてる姿、よお描いたあるのとちがうかな。きみは、こびる、いうたな。はじめの、女の先生を犬でびっくりさすとこも、その一つの例かもしれん。そのほか、自動車の上でとびはねるとこやとか、スカートめくりとか、まあ、いっぱいあるわな。みんな、あれ、子どもの考えつきそうなことやないか。実行するかせんかは別として、子どもの考えつきそうなこと、やりかねんことばっかりや。それを、おもしろう書いたら、これ、「こびる」ちゅうことになるのやろうか。「こびる」いうたらね、もっといやらしい態度やぞ。心ではそう思うてへんのに、子どもはいいもんや、そういうポーズを示すことや。あの作者には、それはないで。もっとさわやかや。それからね、キクオくんの母親やったかいな、わが子を失った母親の気持ち痛いほどでてるな。あの中の三人は子どもやから、その苦しみに気がつかへん。その子どもの非情性も、よお描いたると思うんや。あれがね、べたべたと、同情的に描かれていたら嘘になるね。ええ子はこうやという教訓性はでるかもしれんが、生きた子どもから離れてしまう。つまり、ドライなタッチで、子どもの側から見た大人を描いてるのや。
 ‥‥よくしゃべりますね。人が聞いたら、話下手というのは嘘やないかと思うだろうな。ただ、何というかな、あなたの話し方は、感性的なんだな。悪くいえば、非論理的というべきかな。部分をもって全体を語る傾向がある。現に、『わんぱくたいふう』など、一種の風俗小説といえるんだな。それを、さもすぐれた作品のように肩入れするんだから、変くつか、児童文学の無理解かだ。子どものいたずらぶりが、マンガ的に誇張されているだけじゃありませんか。
 ‥‥しかしやね、あれ、笑えるで。つい噴きだしてしまうとこ、あるんや。四つになるタマ公が、パパに頼まれて、近所のタバコ屋へいくとこあるやろ。
「な、なんだよォ。ドン、ドングピースくれといーってるんだぞ!おーい、で、でてこい。こ、こんニャロメ!」
 この、「ド、ドーングピース」とどなるところ、けっさくやな。
 ‥‥マンガですよ。そんなのは・・・。あなたは、マンガの見すぎですよ。舌足らずな幼児語に、目を細めているにすぎないんだ。そんなおもしろさをいうのならね、とっくに、筒井敬介さんの『べえくん』にありますよ。
「ドッキングじゃないよ。ドッチング。つまり、しょうとつごっこ。」というところ。あの作品の方が、幼児の世界を描いていて、うんとおもしろいですよ。
 ‥‥幼児語のこと、いうてるんやないで。先生も、親も、感心するような、そんなええ子だけでは現代の子ども像とはいえへんのやないか。たとえば、こういう『わんぱくたいふう』みたいな子どもの描かれることを、もっと、おんなじように評価せんといかんのやないか、そういうてるのやで。前から何べんも、きみにいうてるやろ。マーク・トゥエィンの『トム・ソーヤー』のことや。あの少年は今のことばでいうたら、ごっついワルや。タバコは吸うし、勉強はせえへんし、女の子のことばかり気にしとおる。それをやなあ、子どもの文化遺産の方に持ちこんできたいうのは、別に「非行のすすめ」とはちがうやろ。児童文学いうもんは、子どもを一定の枠組みの中で考えることではのうて、子どもの中にある可能性に形を与えるものやろ。可能性いうたら、いっぱいある。これこれだとなかなか限定できひんはずや。つまりや、「歩き遠足」をめぐって、じぶんの生き方を確めていく子どもも、一つの可能性の形象化やとしたら、反対に、とことん乱暴な、はみだしっ子も、形を与えるに価する可能性を持っているんとちがうか。それにやで、今、割方大ざっぱな分け方して、「ええ子」「わるい子」みたいな話してるけど、こうした子どものイメージをふくらまして、それにあざやかな形をことばで与えていくのとは別に、大人が、この現実を超えるような、それこそすぱっと日常性を断ち切って、別の世界を示すというような、そんなイメージの展開も、児童文学にはあるやろ。それをやな、あまりにも一面だけ評価するのは、どうも気になるねん。
 ‥‥あなたは、そういえば、児童文学史の構想とか、児童文学史の書き替えとかいうことを、どこかに書いていましたね。なんだったかな。そうそう、「献身の系譜」と「楽しさの系譜」だったかな。日本の児童文学史は、「献身」と「反献身」というシリアスな流れを跡づける方に力点がかかりすぎて、児童文学における「楽しさ」の追求や跡づけを、つい軽視してきた・・・。確かそういう主旨の論でしょう。あれは、どうなりました?
 ‥‥どうもこうも、ないよ。だすのかださへんのか、なんや頼りない話やで。何人かが書いて一つにまとまるらしいな。はよせい、はよせい、いわれて、頭にきて書いたんやが、ほかのやつ、まだらしいから、そのままなんとちがうか。児童文学にも真打ちがあるのか、前座だけでは本にならんらしいで。ま、ぼくの随筆の話は横に置こ。最近でた、この文庫の「解説」読んだか?
 ‥‥角川文庫ですか?今江祥智さんの『山のむこうは青い海だった』ですか。それで?
 ‥‥それで、いうことないやろ。えらい水臭いいい方やな。この鶴見俊輔さんの解説、なかなかええね。こうなんやな。
「この小説が書かれてから十年以上もたってから、真鍋博や永六輔が、こどものひとり旅をおおいにすすめて、それがジャーナリズムの話題になったことがある。『山のむこうは青い海だった』にはこういう現代の教育論のテーマを先どりしたところがある。今読みかえすと、現代にマッチしているというだけではなく、この小説の舞台となっている時代は、テレビもなく、少年週刊誌もなく、交通地獄もなく、それらよりもっと重大なことに、こどものころからの試験地獄もなくて、中学校一年生くらいの少年少女がのびのびと自分の創意をこらして道端で遊ぶことのできた時代である。この小説に書いてあるようなことは、今日はできない。よほどの決心をしないと、この小説の主人公のような経験を現代の日本でもつことはむずかしい。この本にかきたてられた想像力が、ここにさえ書いてないような新しい冒険を構想するいとぐちを、今日の読者にあたえるようであってほしい。」
 これは、解説の一部やけど、どうや。この作品、1960年の安保のあとにでたのやが、それほど評価されへなんだ。あの時代、挫折ちゅうことばがはやっていた。危機感と失望感のむすびついた時点や。児童文学も、ぐうっと、社会問題にくっついていった。その中で、この作品の持っている明るさちゅうか、楽しさちゅうか、どうもはじきだされていたように思うんやけどな。つまりや、ぼくが「楽しさの系譜」の跡づけや価値の追求せんとあかんいうのは、これとも関係あるんやで。児童文学の一つの方向だけが強く評価される場合、それこそ、別の面、もう一つの方向の可能性が無視されかねへんのや。
 ‥‥あなたが、今江祥智の肩をもつのはどうだろう。だいたい、あなたは、インインメツメツ型の考えをするでしょう。ミルンの『クマのプーさん』に例を取れば、あなたはイーヨーだ。今江さんは、プーか子ブタでしょう。対照的な人間が、「楽しさの系譜」なんて口走るのはどうかな。
 ‥‥あのな、そういうのが、ごちゃごちゃ寄ってるのが、「プー横丁」なんやで。それがええのやないか。それをやで、おなじ考え方の人間ばかり集めて横丁つくろというのは、それこそアパルトヘイトやないか。だいたいね、あれはこういうやつやとか、ああいうやつやとか、腑分けが多すぎるのとちがうか。腑分けやったら、医学の発展にプラスしたかもしれんが、今の時代は、「選別」や。これはアウスシュビッツの発想やで。あれはガス部屋行き、これは強制労働と、人間を人間が、勝手によりわけてスタンプ押しよる。あほらしなるわ。口ではええこというやつが、この「よりわけ」をはじめたら、気つけんといかん。気がつかんうちに、その人間の中にヒトラーおじさんが手ふっとるのやで。ま、きみも、人間のつながりにレッテルはらんようにしてくれよ。児童文学の世界は、『ゴッド・ファーザー』やないんやからね。
 ‥‥『ゴッド・ファーザー』といえば、マーロン・ブランドはよかったですね。あの映画、予想以上におもしろかった。今の「よりわけ」の話じゃないが、ぼくらのまわりには、奇妙な運命共同体ばかりあるわけでしょう。そこへ、あのマフィアの物語は、裏がえしにした形で、誓約共同体のよさというものを、見せたわけでしょう。だから、じぶんの所属集団や、その帰属の仕方に疑いや不安を感じている現代人は、それに、ぐっと魅せられた。一種の、失われしものへの感動といえるんじゃないかな。
 ‥‥それに、日本のヤクザは、いつでも一匹狼の形で描かれるもんな。ファミリーちゅうもんは、その一人のヒーローのための道具になっている。それだけやない。いきなり話とばして悪いけど、日本の組織いうもんは、案外、天下の御意見番的古さを含んでいるのとちがうやろか。つまりや、まだ、大久保彦左衛門がうろうろしているチョンマゲ型ファミリーやないのやろか。
 ‥‥チョンマゲといえば、あなたは最近、何か書いたそうですね。七百枚とか聞いたけれど、ほんとうですか。PR時代だから、最後に一言いいませんか。
 ‥‥あのね、きみと話していたのは、児童文学に描かれた子どものことやで。それも、きみが、書かんとまずいのやないかと、尻叩きにきたのやろ。それがや、いつのまにか、けったいなインタビューになってしもた。これは完全な脱線やで。『自動車』の話がまずかったのかな。センターラインこえて、別のハイウェイ走ってるみたいやないか。
 ‥‥そんなこというのなら消えますけどね、こういうこと、別に目新しいもんじゃありませんよ。そら、アンドレ・ジッドにあったでしょう。「架空のインタビュー」というの。あれですよ。
 ‥‥何もそこまでいわんでもええがな。聞かへなんだら、ちょっとくらい、おもしろいなあと思ったかもしれへんのに。まあええわ。そんなら、ぼつぼつ、きみは靴はいてくれ・・・。(テキストファイル化渡辺みどり)