砂、あるいはタウンゼンドの風景

『アーノルドのはげしい夏』をめぐって

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 海、砂、岩、空……。そんなふうに物語がはじまる。すると、茫洋とした風景が浮かんでくるからふしぎだ。いろいろな事件があって、また、海、砂、岩、空……で終る。
 『アーノルドのはげしい夏』(神宮輝夫訳/岩波書店/1969)は、ちょっとした映画的発想だなと思うのだが、これは映画的手法ということとは別である。人間のドラマがある。それを改めて俯瞰しようとしているといえばよいか、物語のおしまいで、カメラがぐっと後退していくのである。いうまでもなく、この場合、カメラというのは、ジョン・ロウ・タウンゼンドの目である。タウンゼンドは、人間のドラマをもう一度、自然の中に置き直しているということである。これは、『ぼくらのジャングル街』(1961)や、『北風の町の娘』(1963)では見られなかったことである。だから、タウンゼンドは変わりつつあるのかと思う。なぜ、人間のドラマが、海や砂によって包みこまれねばならないのか……と、ふと考えこんでしまう。
 包みこむ……といったが、これはきわめて微妙な問題である。ことばどおり取れば、海や砂によって示される「自然」は、人間を包みこむもの、つまり、包括者ということになる。人間は長い間、自然をそういうふうに見てきた。森や洞窟や、荒野や山河を、おそれとおののきを抱いて眺めつづけてきた。妖精が、また、魔法使いが、棲息する場所と考えてきた。ふしぎな物語の多くは、自然の中に何かを期待していた。プラスにせよ、マイナスにせよ、人間の営みに関わるものを、自然の中に求めようとしてきた。タウンゼンドもまた、人間の葛藤をいやすものとして、この作品でそうした自然を導入したのだろうか……。
 『アーノルドのはげしい夏』を読み終った時、浮かんできた作品が二つある。イーディス・ネスビットの『砂の妖精』(1902)とウィリアム・メインの『砂』(1964)がそれである。『アーノルドのはげしい夏』が、砂に侵蝕される古びた港の物語だったからだろう。この砂州は、いったい人間に何を約束したのか、と考えてしまったのだ。ネスビットの『砂の妖精』によれば、砂の中には、まだ「ふしぎさ」が隠されていた。子どもたちは、サミアドという奇妙な妖精を掘りだした。サミアドは、そのふしぎな力で、子どもたちの願望に一つ一つ形を与えていった。ネスビットは、そういう物語を書くことによって、砂(自然)そのものを、人間の期待すべき何か、として示したことになる。しかし、ウィリアム・メインの場合はどうだろう。『砂の妖精』同様、夢中になって砂を掘りかえす少年はでてくる。ワニの化石を掘りだそうとする、しかし、苦心のすえに、少年たちの掘りだしたものは、マッコウクジラの骨だった……という話になっている。少年の期待した「おどろき」は、ついに砂の中から見つからなかったということである。砂は、奇蹟や魔法を約束するかわりに、刻々、町を侵蝕するにすぎない。砂は、もはや、わたしたちに何の約束もしていない……。
 もちろん、『アーノルドのはげしい夏』にも、砂を掘りかえす少年が登場する。ピーターである。ピーターは、砂山をつくり、砂の中に水路をつくる。しかし、砂の中から何も掘りだそうとはしない。サミアドはいうにおよばず、マッコウクジラの骨さえも、砂の中にはない。それどころか、この砂の上で、一人の男が命を落としさえする。砂は、包括者ではなく、人間の営みを埋めつくす侵入者なのか。タウンゼンドは、この物語を、つぎのようなことばでしめくくっている。

 スカールストンはほろびかけている。それはまちがいない。アーノルドは、おそらく最後の砂州案内人、最後の提督だろう。アーノルドは、そういう見とおしを考えることもない。彼の仕事は、彼が生きている間は、つづいてくれるだろう。それで十分なのだ。時間の尺度は、人間と物ではちがっている。人間のための尺度ではかれば、生きている今が、永遠ともいえる。だが、べつの尺度を用いれば、百年、千年は無に等しい。村、発電所、高速道路は、またたく間につくられて、くずれ去る。物の尺度ではかるとき、永続するのは自然のみである。

 自然が包括者ではなく、侵入者だということは、これでわかる。しかし、なぜ、こうした「自然」で、タウンゼンドは、人間のドラマをはさみこむのだろう。茫洋とした風景……ということばを使った。茫洋とした風景の前に、人間のすべての営みはむなしいということだろうか。「スカールストンはほろびかけている」そんな村である。そんな村に、アーノルド・ヘイスウェイト(16歳)はしがみついている。そこから、旅立とうともしない。タウンゼンドは、なぜ、そんな人生を描くのか。物語は、こんなふうだ……。

     *

 ある夏の夕方、一人の男が、アーノルドの前にあらわれる。この男は、コブチェスター市からやってきた実業家である。じぶんではそう名のっている。古い漁村スカールストンを、一大観光地に変えようというのである。それは一笑にふしてもいい。アーノルドにがまんできないことは、その男が、じぶんこそアーノルド・ヘイスウェイトだと名のることである。アーノルドの家に泊りこみ、まるで、じぶんの家のように振舞うことである。アーノルドの育ての親、アーネスト老人は、この男を信用する。アーノルドは、徐々に、じぶんの場所を失っていく。さまざまな抵抗にもかかわらず、腕力でも頭の回転でも、アーノルドは、この男に劣ることを知らされる。一度、ピーターが、この男の身元を調べようとして尾行するが、失敗する。アーノルドは、家を出ようとする。そんなある日、大洪水になる。たまたま、アーノルドを追いかけていたその男は、砂州の上で水に巻きこまれ、命を落とす。警察が男の身分証明書を調べると、まぎれもなく、アーノルド・ヘイスウェイトと記されている……。

     *

 この物語には、アーノルドを揺り動かすものとして、三つの事柄が布石されている。一つは、右のふいの侵入者であり、あとの二つは、アーノルドの出生の秘密と、ジェインという娘である。物語の終った時、男は死んでいる。娘は村を去っていく。出生の秘密も、ほぼ明らかになっている。こうした出来事は、ふつう、人間を変えるものだと思う。変えるものとして描かれる場合が多い。しかし、アーノルドは変わらない。変わらない若者として描かれる。この場合、変わらない……とは、アーノルドの内面世界の問題ではない。
 はげしい葛藤のあと、人間は、おなじ考えを持つものかどうか、これはわからない。多くのドラマは、一つの事件が終った時、主人公の内面の変化を伝える。しかし、タウンゼンドは、アーノルドの胸の内側をのぞきこむかわりに、アーノルドの暮らしぶりを描くだけである。アーノルドは、ふたたび、スカールストンの親しい住民の一人として、おだやかに生活したと告げる。この古い因習の村を、見直すこともない。因習の世界に、じぶんの安息の場所を見いだすだけである。どうして、この若者を、タウンゼンドは、さっそうと旅立たせないのだろう。古い因習の世界におしとどめるのだろう。そうした世界にしがみつくことは、それほど意味のあることなのか……。『アーノルドのはげしい夏』には、そう問い直させるものがある。
 冒険への旅立ち。このことばには、確かに胸をときめかせるものがある。この世界以外なら、いずこなりとも……と、シャルル・ボードレールはその詩集に書きつけた。この詩句は、大人、子どもを問わず、わたしたちの胸に息づいている。マーク・トゥエインをはじめ、多くの文学者が、この願望に形を与えてきた。子どもの文学もまた例外ではない。ルイス・キャロルの「ウサギの穴」の発見は、たとえば、今日のアラン・ガーナーの物語にまでつづいている。タウンゼンドが、この物語の系譜を知らないわけではなかろう。“Written for Children”(1965)の中で、それらに敬意を払っているからだ。しかし、タウンゼンドは、じぶんから、新しい「ウサギの穴」を掘ろうとはしない。いつか、ふしぎの国への通路を掘りはじめるのかもしれない。そうだとしても、『アーノルドのはげしい夏』までの作品は、すべて「こちら側」(現実世界)の物語である。これはどういうことだろう。確かに、アリスのとびこむ「ウサギ穴」は、すべての子どもによろこばれるだろう。しかし「ウサギ穴」を必要とするすべての子どもが、アリス・リデルではない……ということなのか。
 タウンゼンドは、今日のアリス・リデルではなく、なりたくても、アリス・リデルになりえない現代の子どもを見つめている。そのことは、『ぼくらのジャングル街』から『北風の町の娘』を見ればわかるだろう。

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 ケビンとサンドラは、両親をなくして、ウォルターおじさんの家に引き取られている。ウォルターおじさんも、おかみさんをなくして、二人の子どもを抱えている。ハロルドとジーンだ。ウォルターおじさんは、ドリスという女を家に引っぱりこんでいる。しかし、ドリスも、ウォルターおじさんも、まったく子どもの世話を焼かない。のんだくれて、子どもの面倒は、みな12才のサンドラに押しつけている。
 『ぼくらのジャングル街』は、このどうしようもないウォルターおじさんが、ドリスといっしょに蒸発をするところからはじまる。置き去りにされたケビンたちは、友人ディックの助けをかりて、ガンブル原っぱの、運河ぞいにある倉庫のニ階に寝起きするようになる。(このガンブルズ・ヤードの廃屋は、『アーノルドのはげしい夏』にも使われる。あの実業家を自称する男が、ひそかな隠れ家に使っていたのも、ここである。タウンゼンドの内部に、これは、一つの心象風景のように定着しているのかもしれない。)この倉庫に、ひそかに運びこまれる荷物。この荷物をきっかけにして事件が起る。脱獄囚と、子どもたちが正面からぶつかることになる。危機一髪。大乱闘は、物語にまかせるとして、この事件のあと、ケビンやサンドラが、すこしも幸せになっていないことだけは、付け足しておく必要がある。

 「ええ、きみは、これから、どうしていくつもりですか?」(と、これは、子どもたちに力をかす牧師補トニーの質問)「まえとおんなじことを、やっていくわ。」サンドラは、あっさりいった。「わたしたちに、ほかになにができて?わたしたち、きっと、たのしく暮らせてよ。」
 これが結末である。サンドラのいうように、楽しく暮らせたかどうかは、この物語の続篇である『さよならジャングル街』(1965)を見ればいい。

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 環境整理計画でケビンたちは郊外へ引っ越しする。『ぼくらのジャングル街』から二年経っている。しかし、ウォルターのだらしなさは相変わらずおなじである。もっと悪いことは、教会の屋根の鉛をはがして、前科者になっていることだ。のんだくれはすこしもなおっていないし、仕事さえクビになる。サンドラが、母親がわりに子どもの面倒をみるのもおなじだし、全員いつも空腹であるのもおなじである。そうした状況の中で、ウォルターが放火する。ウィドウソン家具店の倉庫を焼くのである。ウォルターは有罪となり、子どもたちはまた取り残される。まったくどうしようもない生活が、そこにはある。
 もちろん、この続篇には、ケビンの心を揺り動かすものとして、愛情問題がでてくる。ウィドウソン家具店の娘アンに対する思慕の有様が語られる。しかし、この愛は育つことがない。人間の愛そのものもまた、それ自体には何の力もないのだと、ケビンは知る。お互いの立場や、貧富の格差が、その愛さえもさまたげる。

 アンは、まえのときとおなじように、ぼくの家族たちに興味を持っていた。そして、ぼくが転校し、ハロルドが来週コブチェスター・カレッジの入試をうけることになったときいて、よろこんでくれた。けれど、ぼくはアンとふたりきりでいるのが、思っていたよりたのしくなかった。アンにいやけがさしたのではない。ぼくの家族はアンにとっては大海のなかの小島のようなものであり、ちがう世界をおもしろがってのぞかれている感じで、ゆううつだった。
 
 ケビンたちの暮らしで、わずかに変わったことといえば、ハロルドが、成績優秀で特別奨学生となることだろう。まともな教育を受けられなかった近所の人たちは、みな、じぶんの誇りのようにしてハロルドを送りだす。この栄光のために、ケビン自身は進学をあきらめ、レナード青果店の配達係となるのだ。放火犯人のおじさんを持ち、アンに傷つけられたケビンは、黙々と自転車を押すしかない。どこにも旅立ちの希望はないし、旅立ちの胸のときめきもない。ウィドウソン広場十七番地が、変わることのないケビンの世界だろう。その中から、ケビン一人とび立つことはないだろう。

 ぼくは、ときどき、サンドラのとあいだに、いうにいわれぬきずながあると感じていた。ぼくらきょうだいは、いつでもたがいにかばいあって、やりぬいてきたのだった。妹が歩道に出てくると、ぼくは自転車を走らせながら、そばにならんだ。サンドラは、あいかわらずのサンドラだった。りはつそうな、きりっとした顔つきで、くせのない金髪で、やせっぽちで、しゃっちょこばった姿勢をしていた。妹はきれいに見えはじめているのだろうか。とぼくは考えた。たぶん、そうじゃないだろう。きれいじゃない。でも、ぼくは、かわらぬ妹がすきだったし、ディックだってそうなんだ。

 今、生きているその世界にしか、じぶんの人生はないという発想。それが、どんなにやりきれなくても、そこにいて生き甲斐をつくりださねば、生きているとはいえないということ。これは、ウォルターやドリスに対比して、ケビンやサンドラによく生かされている。そして、この考え方は、『北風の町の娘』にも引きつがれている。

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 ハラスエージ。人びとは、これをもじって「地獄のきざはし」(ヘルス・エッジ)と呼んでいる。そんな谷間の底の町が、『北風の町の娘』の舞台である。南のおだやかな町から引っ越してきたリルは、この町になじめない。醜くて、不潔で、つむじまがりの、料簡の狭い人間が、うようよしていると感じる。たまたま、広大な公有地を、ウィゼンス家が私有地にしていることに関心を持ち、リルは、そのいきさつを調べはじめる。これがきっかけで、いとこのノーマンと無鉄砲な冒険にのりだし、リルはやがて、この町を、じぶんの町だと感じるようになる。
 シリア・ウィゼンスという美貌の富豪がでてくる。この娘は、家訓にしばられて、じぶんの愛さえ枯らしてしまう。ハラスエージははじめ、それほども、人間らしさを侵蝕する町として描かれるのである。

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 タウンゼンドは、ガンブル原っぱから、このハラスエージやスカールストン村まで、繰りかえし、「うんざりするような状況」を描いている。状況を描く……というより、そうした世界に生きねばならぬ人間を描いているのだ。ケビンやサンドラは旅立たない。リル・テリーも、「地獄のきざはし」から脱出しない。どうして、アーノルド・ヘイスウェイト一人が、じぶんの世界を見すてることができるのだろうか。
 このことは、タウンゼンドが、目くるめくような冒険世界への旅立ちを否定している、というのではない。アーノルドに、古いスカールストンとの訣別を決意させることはできるだろう。それはそれで、一つの物語となるだろう。しかし、アーノルドが旅立つことによって、スカールストンは崩壊するかどうか……。これは、ケビンやリルが、旅立つことによって、ジャングル街のみじめさが、また、ハラスエージの重苦しさが、消滅するかどうかという問題とおなじである。どんな村も、どんな町も、いつか、変わってしまうかもしれない。また、砂の侵蝕を受けて亡びてしまうかもしれない。それは、いつか……ということであって、今の話ではない。亡び去るその日まで、スカールストンは存在する。変革されるその時まで、それは因習の世界である。
 かりにアーノルドが旅立てたとしよう。アーノルドにかわって、子どもは生まれ、そこに育っていくのだ。だれかが、そこで生きつづける。たとえ、その生活が、どれほど愚かしいものであるにせよ、人間の営みはつづく。それを、文明の名において、進歩の概念によって、批判することはやさしい。愚かしいと規定することもやさしい。しかし、古い因習の中で、愚かしく(思える)人生を送るものも、また、人間ではないのか。批判者や概念規定者とおなじ、ただ一回の生を生きつづけるものではないのか。そこにも、差し替えのきかない人間がいる。一回限りの人生がある。その人生を見すてて、さっそうたる冒険への旅立ちのみをどうして評価することができよう。冒険も価値ある人生なら、因習の中にあがくものも、また価値ある人生に違いない。
 アーノルドは旅立たなかった。スカールストンが砂に埋まるように、スカールストンに埋まった。これもまた、一つの語るに価する人間の姿なのだ……。
 もちろん、タウンゼンドは、そうは記していない。そうは記さないとしても、たとえば、牧師補トニーの口をかりて、つぎのように語っている。

 じゅうぶんでもない家庭でも、ないよりはずっとましなんだよ。

 タウンゼンドは変わりつつあるのか……といった。海や砂ではじまり、おなじく、海や砂で終わるところで、ふと考えこむ……といった。これは、『ぼくらのジャングル街』から『北風の町の娘』にかけて、人間のドラマだけが語られていたからである。風景は、人間のドラマと切り離して眺められることはなかった。ガンブル原っぱも、谷間の町も、すべてそこに登場する人間の目を通して眺められた。しかし、『アーノルドのはげしい夏』で、スカールストンの風景を俯瞰しているのは、タウンゼンド自身だ。タウンゼンドが、この物語において、人間のドラマを語ったことはまちがいない。その人生をいつくしんだことも確かである。砂(自然)は、やがて人間の苦悩さえも侵蝕するだろう。しかし、その日まで、人はそこに生きつづける……と。
 その目に映る海や砂は何だろう。包括者への憧れでもなく、救済への願望でもない。とすれば、それは、悲しみのシンボルではないのか。繰りかえされる人間の葛藤。つぎつぎと生まれるだろうアリス・リデルではない子ども。そうした人間をいつくしみ、そうした人間の側に立っても、どうしようもないほどつづく別のケビンやアーノルドの暮らし。タウンゼンドは、人間讃歌の物語が、そうした人間の苦悩を消滅させることなく、海や砂の中に消え去る悲しみを眺めているのではなかろうか。茫洋たる風景。それはかならずしも美しいものとは限らないのだ……。(テキストファイル化塩野裕子)