「マアおばさん」も「ネコ」もすき

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 稲垣昌子の『マアおばさんはネコがすき』(理論社)を読むと、どうしてこんなにうれしくなってしまうのだろう。マアおばさんほどではないとしても、わたしもまた、猫好きの端くれであるためだろうか。この物語には確かに、いわゆる愛猫家の関心を引きつけるさまざまな猫の話が出てくる。
 布団はいうにおよばず、漱石全集にオシッコをひっかけるボス猫のシロ。そのシロに追いまわされる臆病猫のシマキチ。あるいは、シマキチにお産の手伝いを頼むメス猫のテル。題名の示すとおり、ここには、マアおばさんをめぐる猫たちの話が、つぎつぎと繰りだされる仕掛けになっている。猫好きは、それだけでうれしくなる。わたしもまた、一匹のハゲ猫の同居人として、いわゆる「隣の猫」に抱く関心を、この物語の中に見いだしている、といえないでもない。しかし、『マアおばさんはネコが好き』は、はたして世の猫好きの関心にだけこたえる作品なのだろうか。わたしは、猫好きが、猫の話を聞いてうれしがる以上に、ここで、人間の、人間についての話を聞いてうれしがっているような気がするのだ。
 たとえば、リリーという親猫の子どもたちを、マアおばさんが、誤って五十キロのお尻で圧死させる個所がある。この物語を読んだものなら、かならず、おもしろいといって引きあいにだすところである。リリーはもどってきて、じぶんの子どもの数の不足に不審の念を抱く。マアおばさんを疑わしげな目つきで眺める。その時、マアおばさんは。身も世もあらぬ思いにかられる。

  ほんとに、もしつぐなえるものなら、のろわしい自分のおしりを、十ぺんでも、リリーにかみつかせてやりたいと思ったのでした。

 わたしは、この本を五回は読んでいるだろう。そのたびに、このマアおばさんの述懐にきて噴きだしている。しかし、この笑いは、マアおばさんの失敗ぶりや、尻圧による「即死一、重傷後死亡一、軽傷一」という「いいまわし」からきているのではない。圧殺された猫から見れば、笑うに笑えない出来事を、人間は笑えるということ。そういう人間の身勝手さに気づいているマアおばさんが、悲しげにじぶんのお尻を提供しようというその発想に笑っているのだ。親猫リリーが、マアおばさんのお尻に噛みつけば、漫画になるだろう。漫画なら、リリーが、マアおばさんの上にのって、何とか圧死させようと跳びはねるだろう。マアおばさんは、猫が、そんな行為にでないことを知っている。たぶん、リリーが噛みついたなら、十ぺんはおろか、一ぺんで悲鳴をあげ、マアおばさんは、手で払い落とすだろう。さあ、どうぞ……と、お尻を向けても、猫は噛みつかないことをマアおばさんは知っている。それでいて、 お尻の提供を考えるマアおばさん。そう考えずにはいられない人間の悲しさ。そうした人間の矛盾を含んだ在り方を、ほんとうは笑っているのだ。これは「ずるさ」ということではない。反対に、人間の「誠実さ」と考えるものに向けられる笑いだ。マアおばさんの、人間としてのやり切れなさを笑うということは、じつはこれは、読者であるわたしが、わたし自身の姿を見て笑っていることでもある。たぶん、わたしも、誤って同居人のハゲ猫を踏みつぶしたなら、マアおばさんとおなじように胸を痛めるだろう。しかし、カマボコの板にハゲ猫の戒名を記し、日ならずして別の猫にまたマルボシを提供しつづけるだろう。このことは、人間の「忘れやすさ」をいいたいのではない。そうした身勝手さこそ、人間の不完全性のあかしでもあり、その存在がいかに絶対的なものから遠いか、わかりきったことをなぞっているだけである。
 マアおばさんは、終始一貫、ボス猫シロとの対決を目ざす。そのために、貸本屋から『佐賀の夜桜・鍋島の猫騒動』まで借りてくる。じぶんをお姫さまに見立て、だんなの「先生」を、怪猫に立ちむかう忠義な家来に想定したりする。やがて訪れる対決の瞬間。マアおばさんは、菜っ切り包丁をかまえ、マナ板を楯にしてボス猫にむかう。このあたりもなかなかの場面である。マアおばさんが、百年目に親の仇とめぐりあったような、そんな迫力がある。やっとの思いで穴に追いつめたボス猫を、マナ板で、ぱったん、ぱったん、ぶったたくところなどは、またまた噴きだしてしまう。このおかしさは、大の大人が、一匹の猫にかけたその情熱のせいである。もちろん、ここのところを、たかが猫一匹、といういい方もできる。あるいは、猫嫌いの人間にとっては、ばかばかしい努力に見えるかもしれない。しかし、このマアおばさんの姿こそ、猫好き・猫嫌いという種別をこえて、人間的な、あまりにも人間的な生きざまをよく伝えているのではなかろうか。
 人間は、滑稽とも見えるものに情熱を傾けるものでなのである。現に、猫嫌いの連中が、一匹の飼猫を駆逐するために、どれほどの熱意を示しているか。わたしの同居人ハゲ猫の親友に、トラというオス猫がいた。この猫を追放するため、わたしの家の裏手の町内では、臨時町会を開き、延々数時間にわたって猫害を唱き、ついに飼主に自動車でトラをすてにいかせた。以後、裏通りでは猫の存在は許されない。わがハゲ猫は、今、孤独である。
 三輪秀彦の『猫との共存』にはつぎのようなことばが記してある。

  野良犬や野良猫が自由に歩きまわれる環境は、ある意味では、理想的な人間環境である。

 野生(自然)をひそめる存在を駆逐することは、人間の世界から、自然を追放することにつながる……という指摘である。
 それにしても、なぜ、猫なのか、という声は消えそうにもない。情熱を傾けるなら、なぜ、公害問題や物価高にむかわないのか、という意見もありそうに思える。しかし、マアおばさんが、猫とかかわることは、それほど無駄な情熱の放出だろうか。『マアおばさんはネコがすき』をよく読んでみるといい。わたしたちがこの物語に感動するのは、そこで『命』そのものをいつくしむ人間にであうからなのである。猫は、まさしく生命そのものである。人間との間に利害関係を持つものではない。利害関係をこえて、そこに猫がいる。その猫をいつくしむことによって、マアおばさんは、ひたすら命そのものの重さや悲しさを、わたしたちに伝えているのである。人間はそのため、どれほど一喜一憂するものか。どれほど、おろかなことを繰りかえすものか。わたしたちは、シマキチやボス猫の中に、人間のかかわらねばならぬ生命を見ているわけである。個別の有限の命を見ているわけである。このプリミティブな人間と命のかかわりが、読者の感動を呼ぶ。たまたまこの物語では猫であったが、おなじ稲垣昌子の『ローズとマリーの子どもたち』を読めば、そこにはアヒルが、人の命の何であるかを伝えるものとして歩きまわっている。
 マアおばさんの生きざまを見て、これからも噴きだす時があるだろう。しかし、このおかしさの中には、繰りかえすようだが、わたしたち自身のおろかさ、そして、悲しさが常に含まれているわけである。およそ、笑いとは、猫を見下すことからは生まれないだろう。たぶん、マアおばさんのように、猫と命がけでかかわることから生まれるものだろう。そういえば、わたしが、笑いにみちた作品を書けないのは、どうやら同居人を、ハゲ猫などと呼んで、いささか見下しているせいかもしれない。(テキストファイル化與口奈津江)