こどもの本・恋の辻占

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 毎年ぼくは、女子大の学生に向かって、おなじことをいっている。
「きみたちにもし、好きな男性があらわれたなら、この本をプレゼントするんや。その相手がこの本を見て、何の反応も示さんかったら、そらあかんと思うことや。縁がないのやとあきらめることや。つまりや、この本のわからん男性は、無神経で鈍感なんやから、いっしょになってもうまいこといかへんぞ。」
 
 まるで、テレビ番組『ただ今、恋愛中』の占いコーナー、田中佐和さんの御託宣のように聞こえるかもしれない。聞こえる・・・どころか、じぶんでもそう思うのである。「当るも八卦、当らぬも八卦」というが、ぼくの場合は、適中率はゼロに等しい。統計をとるまでもなく、自分でそう確信しているのだから、他人の恋愛関係をとやかくいうことは、まったく無責任な話である。それにもかかわらず、これで数年、おなじ「おどし」をかけているのだから、「何たる教師だ」といわれそうである。

 しかし、非難・批判は甘受するとして、その一冊の絵本を手にとると、ぼくは、ついそういってしまいたくなるのだ。一冊の絵本とは、いうまでもなく、レオ・レオニの『あおくんときいろちゃん』("Little blue and Little yellow”Leo Lionni 1959)である。(書名は至光社版・藤田圭雄訳に従う)比較的有名な(・・・なんて言い方は、どうも適切な表現ではないのだが)この絵本について、すでに解説・紹介の類はたくさん書かれている。

 指先でちぎったような青と黄色の色紙。その小さな「まる」が、青くんと黄色ちゃんである。真っ白な画面に置かれたそれは、そこに置かれた瞬間から、まるで命あるもののように息づく。それほど、あざやかな印象を与える。物語は、青くんと黄色ちゃんの家族紹介、学校生活や放課後の遊びを、たくみに色紙を使用して表現することからはじまる。ある日、ママが(といっても、青い色紙のやや大きめの「まる」にすぎないのだが)、青くんに留守番を頼んで買物にでかける。青くんは、その役目を放棄して黄色ちゃんを探しにいく。黄色ちゃんの家はだれもいない。青くんは、あっちこっち探しまわる。この黄色ちゃん探しの場面で、まっ白だった画面が、ふいにまっ黒になったり、まっ赤になるところはすばらしい。不安と焦りの気持が、みごとに生かされている。角っこを曲がって、やっと黄色ちゃんを見つけた場面で、ふたたび画面はまっ白にもどる。青くんの不安も焦りもいっぺんに解消する有様が、その白さでぼくらに伝えられる。二人は出会いのうれしさのあまり、しっかりと抱きあう。
(といっても、もちろん、この場合も、青と黄の色が重ねられるだけだ。しかし、青と黄色の色重ねはグリーンに変化する)グリーンの小さな「まる」になった二人は、公園で遊んだり、山に登ったりする。やがて、すっかり遊び疲れたグリーンの二人は、家にもどっていく。しかし、青くんの家でも、黄色ちゃんの家でも、グリーンの子どもなどうちの子じゃないという。家から閉めだされたグリーンの「まる」は、悲しさのあまり泣きだしてしまう。グリーンからこぼれ落ちる涙は、青と黄色の小さい切片となり、白い画面の下の方にひろがる。すっかり青と黄色になってしまった二人は、もとどおりの色で家にもどる。青くんの両親は、よろこびをおさえきれず、青くんのつぎに黄色ちゃんを抱いてしまう。その時、色重ねになり、グリーンに変わってしまうことに気づく。青くんの両親は、さっきのグリーンが何であったかに気づく。黄色ちゃんの両親に、そのことを報告にいく。青くんと黄色ちゃんの両親も抱きあう。いうまでもなく、両親の抱きあった部分もグリーンに変化する。一方、青くんと黄色ちゃんは、夕食まで、オレンジや茶や赤くんたちと遊びました・・・・・というところで終りになる。

 たとえ、右のように、色紙の使い方や色重ねのおもしろさを語っても、この本の楽しさは伝わらないだろう。いわんや、筋書の紹介にいたってはナンセンスだといわれそうである。それほどまでに、この一冊は、簡潔に「見る」ことだけを強調する。ここには、一度見たら、けっして、忘れられない世界がある。たぶん、ぼくがこれをもって、「恋占い」のバロメーターにするのは、ここに(こうしたいい方が許されるなら)「愛」の原型が示されているからだろう。

 青と黄色がグリーンになること。これは色重ねの当然の結果だといってしまえばそれまでである。色とはそんなものよ・・・と、たかをくくることもできる。しかし、そうした色彩学的な受けとめ方からは、レオニのこの世界は理解できないのではないか。たかが色紙の小さな「まる」にすぎないものが、一転して子どもをあらわし、さらに拡大して、ぼくら人間の男女の姿に見えるとき、はじめてぼくらは、この世界を理解したことになるような気がする。愛しあっているのなら、じぶんと相手は、別のもう一人(いや、重なりあった一組の人間)になるという発想。ぼくは、この点を、これが「愛」なんだな・・・と受けとめられるかどうか、そのことによって、その人間が鈍感かそうでないかを判断してみては・・・といっているのである。ぼくが、「占いコーナー」のようなまねをして、この本をプレゼントしてみては・・・というのは、そのためである。

 もちろん、これは子どもの絵本である。じつに卓抜な子どもの世界の表現である。しかし、子どもの絵本が、そのままスライドして、ぼくら大人の絵本としても通用するところに、この「色」の世界のひろがりと深さがある。作者が意図するにせよしないにせよ、そうしたものとして、(つまり、きわめてプリミティブな形で表現された人間関係として)ぼくらが受け入れられるということに、ぼくは、すぐれた子どもの本の一つの例を見るということだ。

 今江祥智が、この絵本をさして、「色の道、教えます・・・という絵本やな」と冗談をいったことがあるが、この「色」に引かれて楽しんでいる限り、ぼくなども「色気違い」ということになるのかもしれない。

 ところで、「愛」にしろ「色」にしろ、とにかく目に見えない人間の情念を、レオニのように形にしたものがある一方、目に見えないものをそのまま伝達していく物語が、子どもの本の世界にはいくつかある。その中でも、「これわかる?どうだろう・・・」と思わずにやにやしてしまう本に、ミナリック(文)とセンダク(絵)の『だいじなとどけもの』がある。(A kiss for little bear,1968.松岡享子訳/福音館による)

 子熊が、おもしろいお化けの絵を描く。とてもうまく描けたと思うので、おばあさん熊にプレゼントしようと思う。その運び屋に選ばれたのが鶏で、しかたなくおばあさん熊のところへ絵をとどけにいく。おばあさん熊はすっかりよろこんで、子熊くんへ感謝のキスをとどけてほしいと鶏に頼む。鶏は、おばあさん熊のキスを受けとって子熊のいるところまでもどろうとする。途中、友だちに出あった鶏は、すこしおしゃべりをしていきたくなる。そこで、その場にいた蛙にキスをする。それを子熊にとどけろというのである。蛙は池まできて一泳ぎしたくなり、そこにいた猫にキスをする。それを子熊にとどけろというわけである。猫は途中でスカンクに出あい、スカンクにキスをして子熊への言付けを頼む。ところが、スカンクは、途中で可愛い女の子のスカンクに出あい、その子にキスをしてしまう。すると、その子もおかえしのキスをする。そうして、ふたりは、何度もキスのやりとりをする。そこへ、はじめの鶏があらわれる。そのキスは、おばあさん熊から子熊くんへのキスのはずだ、いったい、今、どっちがそのキスを持っているんだと、鶏は憤然とする。キスをスカンクから取りもどした鶏は、やっと子熊のところへとどける。子熊は、それじゃ、ぼくもおばあさんにキスのおかえしをしようという。しかし、鶏は、途中でこんからかるからだめ、といって断わる。この絵物語の最後は、スカンクの結婚式である。子熊が、花嫁のスカンクにキスをしている絵で終る。

 この物語の楽しさは、キスという本来持ち運びのできない人間の行為を(あるいは、愛情表現を)、まるでケーキか人形のように、つぎつぎ受け渡ししていく点にある。蛙や猫の、キスされる瞬間の、きわめてめいわくそうな、そして、がまんならないほどくすぐったそうな表現は抜群である。ぼくらはそこで笑い、スカンクのところにきて思わず噴きだしてしまう。スカンクの男の子とスカンクの女の子が、おたがいキスをしあうのは、愛情の私的表現である。そのキスは、いずれも、相方のスカンクの行為であり、スカンクの「もの」(?)なのだ。それなのに、それを、おばあさん熊からあずかったキスとして、スカンクたちが、まるでボールのようにやりとりしていく描き方。また、そう思いこんでいるスカンクや鶏たち、そこが愉快である。本来、キスなどというものは、おばあさん熊が鶏にした瞬間、そこで消滅する一回性の行為なのに、目に見えるもののように持ち運ばれていく発想には、拍手したくなる。これも一種の「愛」の物語だなといえないことはない。

 『あおくんときいろちゃん』といい、この『だいじなとどけもの』といい、子どもの楽しむ本が、そのまま大人の含めて人間の楽しむ本になっている点が、じつにさわやかである。こうした本があるあいだは、どうやら、ぼくは繰りかえし「占いコーナー」の真似をつづけることになりそうである。(テキストファイル化小澤直子)