『子ども族探検』(第三文明社 1973)

政治とは何か

 ホー・チ・ミンが死んだ。ホー・チ・ミンといえば,わたしたちはすぐに,子どもにかこまれてにこやかに笑っている姿を思いうかべることができる。ホーおじさんはたしかに子どもたちのあいだにも人気があったようだ。
 子どもに好かれるということが,その人間の"正しさ"を証明するなどという愚かな常識にくみするつもりは毛頭ないけれど,政治とまったく離れたところで子どもたちが生きているわけではないから,政治にたずさわる人間を,子どもたちが"好いているという状態"は決して悪いことではない。
 しかし,ベトナムの子どもたちが,ホーおじさんを好いていたということは,ただ単に,子どもをめぐる政治がうまくいっていたという状態があったからではないようである。もっと子どもたちにピッタリとした部分での,政治への信頼があったからだ。
 いうまでもなく,子どもにとって最も身近な政治とは〈教育〉であるだろう。教育というものがこの世の中に存在しているかぎり子どもと政治とは切っても切れない関係を持っているのだ。ベトナムでは,教育が政治そのものであるという認識が,子どもたちのあいだにまで深くいきわたりそれゆえに政治が信頼されると同時に,教育もまた信頼するに足るものと考えられる。
 教育が政治そのものであるということ,そして,政治が悪ければ教育もまた悪いという関係,つまり教育と政治の有機的な関連を,それこそ身をもって具体的に示していたのが,ホー・チ・ミンだった。
 ホー・チ・ミンは若いころ,学校の教師をやった。その後,船乗りとなり,さらに革命家へと転身したわけだが,この経験から考えても,ホーおじさんの子どもへの接しかたのなかに,若き日の教師時代の体験が生かされていたであろうことは,たやすく想像される。
「ホーおじさんは,センセイだった」
「ボクたちの国の指導者は,もと学校の教師だった」
 子どもたちの,ホーおじさんを見る目,すなわち敬意のまなざしは,教育そのものに対する信頼を意味していると思うのだ。
 黒板を背に,教壇に立つ教師――もしかすると,この人が,あすの,国の指導者かもしれない。ホーおじさんの例からいっても,そうなりうる可能性はあるわけだ。だとしたら,子どもたちは冷静に,しかも熱心に,この教師についての観察をしておく必要がある。このセンセイのいうことは,あすの共同体の指導者にふさわしいものであるかどうか……。ここで教師がにわかに真剣なものになるだろうことは,だれにも予測できるはずだ。
 もしも,すべての教師の前途が,せいぜい管理職か指導主事どまりなどという政治機構では,子どもたちは自分らのセンセイを信頼したり,敬意をはらったりする気にはなれないであろう。子どもたちは知っちゃっているのだ。
「センセイなんて,サラリーマンとしても,それほど上等じゃないんだ」ということを。
 もちろん,学校のセンセイが一国の指導者になるなどというのは,その国の前近代性をものがたることであるだろう。人びとの仕事=職業が分化されていくことを,ふつうには近代化という。だから,政治家になる人間が,途中で学校のセンセイなどをやるヒマがないのが,近代化の進んだ国の現状である。
 しかし,センセイから政治家への道をとざしたからといって教育と政治が無関係だなどということはありえない。あくまでも教育は政治そのものなのだ。
 ところが,日本にはホーおじさんはいないので,センセイはセンセイの殻にとじこもりたがるし,政治家は政治家で,政治のことはオレたちにまかせろと高姿勢に出る。しかし,教育されている側=児童・生徒・学生は教育とはつまり政治だということを意識する・しないにかかわらず知っちゃっているわけだ。そこで高まる不満。
 子どもひとりひとりが,あすへの可能性をひめた存在として,教師の前にいる。四十人のクラスのなかから,政治家も出れば,芸術家も出る。サラリーマンも出れば,犯罪者も出る。とにかく,可能性を持った人間としてセンセイと向きあう。それなのに,センセイのほうが,センセイを続ける以外になんの可能性もないとしたらどうか。いやいや,現状がそうなのだ。
 おそらく,若き日のホー・チ・ミン先生(そのころは本名を使っていただろうが)が子どもたちに向かって,自分が学校教師で終わる存在でないことを明言したにちがいない。そして子どもたちもまた,それを納得し,だからこそ,いま,このセンセイから教えをうけることの貴重さを意識したのだろう。 
 ホー・チ・ミンの死が,ベトナムにおける教育の死を意味しないとよいのだが……・

 「ベトナムの子どもを救え」というような政治運動が,繰りかえしおこなわれている。主として      
 日本共産党系の児童文学者や童画家たちが音頭をとっているようだ。しかし,これらの運
 動がいかにインチキであるかということは,「子どもを」という表現をみれば直ちにわかってしま
 う。戦争とはすなわち政治のひとつのかたちなのだから,そのなかから,あえて「子どもを」とい
 ういいかたをするのは,そういう運動をする側のいやらしい感傷主義でしかない。戦争は,お
 とな・子どもを区別したりはしない。なのに,ことさらに「子どもを」という運動のカラクリを,それ
 こそ子どものためにも知るべきだと思う。子どもを感傷主義の素材にしてはならないのだ。



飢えについての感想

 ビアフラの悲劇がにわかにクローズアップされてきた。ナイジェリア連邦軍の武力の前にビアフラの独立運動が"終結"させられてしまい,かねてから予想されていた大量虐殺がおこなわれようとしているとか,おこなわれつつあるということだ。なぜ,ビアフラの人たちが虐殺の危険までおかしながらも独立の旗をかかげようとしたのか,その内情についてわたしは多くを知っていない。
 だからビアフラとナイジェリアの関係について,ここで,とやかくということは避けるが,このところずっと,新聞・週刊誌などにでているビアフラの飢えた子どもたちの写真に接しながらの感想については,とうていだまっていることができない。つね日ごろ,子どもに関してとやかくのことをいい,それをメシのたねにさえしている人間が,あのような子どもの姿をみせられて,だまっているのは異常である。
 戦後のニッポンでも,ああいう子どもはずいぶんいた。われわれ自身も飢えに泣いたものさ。しかしいまのニッポンじゃ飢えに泣いている子どもなんかどこにもいない。ニッポンはそれだけ高度成長をとげたのだ。それからみると,ビアフラなんて,ひどい後進国なんだねえ――などという感想をつぶやくおとなも多い。こういう気持がさらに高ぶれば,かわいそうなビアフラの子どもを救えなどという運動になるわけだろうが,はたしてそれが,ほんとうに子どもを救うことになるのかどうか,わたしには見当もつかない。政治というフクザツカイキなからくりしだいでは,かえって逆に,ビアフラの子どもの飢えをはげしくすることにもなりかねない。このへんはもうすこし慎重にやったほうがよさそうだ。
 それじゃ,あれはほったらかしておけばいいのかという反論の声がわたし自身の内部からさえ聞こえてくる。たしかにそうだ。なんとかしたいという気持をおさえることがむずかしい。もっともすなおな感情としてはできることなら,でかいニギリメシでもたくさんつくってかけつけてやりたいとさえ思うのだ。けれど,それはできない。
 しかたなく,わたしは周囲の子どもたちのことを考える。その現在の生きざまについての考察を試みるわけだ。たしかに,ニッポンの子どもたちは,そのほとんどが飢えてはいない。おそらく,これからも,子どもたちは"飢える"という肉体的体験もなしに,おとなへの道をすすんでいくことだろう。
 内外の情勢から判断して,わたしはこの七〇年代の前半に朝鮮で戦争がおこり,その戦争は七〇年代後半までつづき,日本軍隊も直接参加するだろうと思っている。そのような状況のなかでも,子どもは飢えるということはないだろう。
 だから,こんどの戦争を,飢えへの恐怖,欠乏への反感という次元だけで反対するとしたら,ひどい手おくれになってしまう。
「戦争になったら,たべるものがなくなってしまうのよ」というかたちで,子どもに反戦の思想をおしえようとしていては,もうそれは古いのだ。おなじように,
「戦争になったら,ビアフラの子どものようになってしまう」というのも,こんどの戦争にあたっては正しくない。それらは,
「いまはだれも飢えていない。だからニッポンは平和なよい国なのだ」という政治屋どものコトバとはほとんど表裏だ。
 現にアメリカは飢えることもなく,戦争をしているじゃないか。
 飢えのためにやせほそり,ミイラさながらのビアフラの子どもたちの写真をまえにして,わたしたちはかえって逆に,わたしたち自身にせまりつつある戦争への危機をあらためて確認する必要がある。 
 戦争にもいろいろなかたちがあって,飢えずにたたかう戦争もあるのだ。そして,そういう戦争こそが,真に悪質だといえるのである。
 小学校五年の佐野斗美クンに父親はたずねた。
「おい,おまえ,一九八〇年になったらいくつになるんだ」
「はたちだよ」
 父親はぞっとする。七〇年代の後半となればムスコは完全に徴兵される年齢にたってしまうのだ。ベトナム戦争とくらべてみても,こんどの戦争が,すぐさま片づくとは思えない。ひとたび戦争となれば短くても四年や五年はつづく。そのあいだにおびただしい数の人間が,それも多くの若ものが死んでいく。
 せめて"飢え"というような肉体的体験でもあれば,戦争への反感・嫌悪・恐怖そして憎しみが芽生えやすいのだが,こんどの戦争でそれは期待できそうもない。
 だとしたら,もっと精神的なないにか,いうなれば精神的な飢えをこそ,子どもたちにわからせてやらなければいけないのだ。やや想像力をはたらかせてこそ,ビアフラの悲劇は多くのことをわれわれにおしえてくれる。



なんで笛を吹くの?

 四年二組の音楽の時間。予定では,タテ笛の練習をするはずであった。ところが,四十二人のうち十五人が,タテ笛を持ってこなかったため,授業がすすめられなくなった。
「いくら夏休みがおわったばかりとはいえ,十五人もが忘れるとは何ごとか」というので,音楽のセンセイ,子どもたちを叱りつけた。これはまァ,当然のことだ。
 ところが,十五人のなかのひとり,ヒロちゃんが,先生に質問をぶつけた。
「センセイ,なんで笛なんか吹かなきゃいけないの?」という素朴な疑問である。
 センセイは,一応,形どおりに,音楽は人間のこころをやわらげる,笛ぐらい吹けなきゃこころやさしい人間になれない――てなことを説明したわけだが,ヒロちゃんはナットクしない。
「おれ笛なんか吹けなくてもいいよ。笛を吹けなくてもリッパな人間はいるだろう」といってあとへひかない。
 こうなると,センセイはもう答えられない。ただひたすらにヒロちゃんという子を,いやなガキだと印象してしまうことになる。そしてこの話は,四年二組担任の先生の耳にも達した。このセンセイは,当節の教師たちのなかでは,バツグンといってもよいほど,"教育"を幅広い立場で考えている人であるから,ヒロちゃんを責めたりはしなかった。むしろ学級PTAに集まった母親たちに向かって,
「ヒロちゃんの質問は,いまの学校教育全体にたいする,するどい問いかけといってもよいのではないかと思う」とまでいったのである。
 ヒロちゃんは,それほど成績のよい子どもではない。しかしクラスメートのだれもが,「やればできるにちがいない」と思っている子なのだ。そしてそのヒロちゃんが,やる気になれない原因が,音楽のセンセイとのやりとりを聞いているうちになんとなくわかってきたといえるだろう。
 ヒロちゃんは現実主義者だ。だから,オレが生きていく上で実際に役に立つことを教えてほしい。それならば,オレだって熱心に勉強するよと主張しているわけだ。笛が吹ければこころが豊かになるなんていう余裕主義はヒロちゃんの好むところではない。
 もちろん,わたしは,ヒロちゃんの"現実主義"に全面的な賛意を表明したいとは思わない。しかし,「なぜ,それをやるのか」と子どもに問われて,「カクカク,しかじかだからである」と明確に答えられないような教育のありかたには,疑問を持つ。笛を吹けばこころが豊かになるという答えかたのなかにあるのは,音楽家特有の奇妙な優越感である。そして,それ以上でもそれ以下でもない。 
 もしもわたしが「文学をやる人間はこころが豊かである」なんてことを主張したとしたらどうだろう。世間のもの笑いになるだけだ。「それじゃ,文学をやらない人間は,こころ貧しいのか」と反問されてしまう。ところが,学校教育のなかでは,それが通用する。このあたりに学校教育の奇妙な権威主義が存在するわけだ。
 もうすこし,視野をひろげて考えるならば,ヒロちゃんの問いかけは,決してヒロちゃんひとりの問いかけではないということがわかってくる。
 現在,多くの大学で,高校で,ヒンパツしている"闘争"の根底にあるのは,ヒロちゃんの問いかけと同じ質のものなのだ。「われわれが受けている教育とは何か。なぜ,われわれは,このような教育をされなければならないのか」と,多くの学生・生徒・児童が,学校に向かって問いかけているのである。しかし,学校はそれにハッキリとは答えず,機動隊を使って弾圧する。 
 たとえば,東大闘争の発火点となった医学部でも,たくさんのヒロちゃんがセンセイに向かって,問いかけたわけだろう。「なんで医局員制度なんてものが必要なの?」と。
 だが,医局員制度なんてものは,教授の権威を保つためにあるもので,医学そのもののためにあるものではないから,ヒロちゃんたちをナットクさせるような回答ができない。問題はこじれる。当然の結果として,闘争は激化する。まだまだ,東大闘争は終わっていない。
 おそらく,PTAの母親たちの多くは,ヒロちゃんの質問とゲバルト学生たちとの同質性には気づかなかったにちがいない。そしてこれからも,多くの"親"がそれに気づかず,子どもの行動をソクバクすることになるだろう。親たちは,あいもかわらず,学校すなわちオオカミのやることにまちがいはないと思いこんでいるのだ。
 けれど,ヒロちゃんはオオカミの権威なんか認めないのである。自分の役に立つことを教わりたいのである。そしてやる気になりたいのである。ヒロちゃんは,やる気になれば,できる子どもなのだから……。



ないないづくしじゃわからない

 練馬区立S小学校のKセンセイは,ある日,思いたってひとつの実験をやってみた。
 まず,廊下を走った。何人もの子どもが歩いているときに,だ。すると,はたして,何人かの子どもが,センセイにいうのだった。
「センセイ,廊下を走っちゃいけないんですよ」
 Kセンセイは子どもたちに問いかけた。
「なんでだい。なんで,廊下を走っちゃいけないんだ」
 しばし,子どもたちはコトバを失う。ようやくのことに,子どもたちはいう。
「……そんなこといったって,廊下を走ってはいけないって,きまってるんだもん」てなことをボソボソ。
「だからさ,その,廊下を走ってはいけないっていう"理由"をきいているんだよ」
 もう,子どもたちは完全に答えられない。
「キミたち,理由もわからないことを,どうして守っているんだい。そんなの,おかしいじゃないか」
「そんなこといったって,きまっているものは仕方がない」と,子どもたちはもうリクツにならないことをつぶやくばかりだ。同じことを繰りかえすばかりだ。
 Kセンセイ,こんどは,〈週番〉の子どもがいる階段を,一段おきに駆けのぼった。すぐに〈週番〉がいう。
「Kセンセイ,階段を一段おきに走ってのぼっちゃいけません」
「なんでだい。なんで,階段を一段おきに橋ってのぼっちゃいけないのさ」
「そういうことに,きまっているんです」
「だれが,なんで,そういうことをきめたんだい」
 またまた,子どもは返事につまる。答えられない。決まっているんだから仕方がないんだとつぶやくばかり……。
 Kセンセイはこの実験の成果を学級PTAで,母親たちに報告する。
「このように,子どもたちはすでにきめられていることだからというだけで,その"いけない"という理由もわからずに,考えてみようともせずに,それを守ろうとしている。親や教師は,何かというと,子どもたちに向かって,考える人間になれという。そういいながら,いっぽうで,ヤレ,あれがいけない,これがいけないという禁止令を連発している。これは問題ではないでしょうか」
 つまり,ないないづくしの"現実"のなかで,子どもたちは,考える力を喪失しているとKセンセイはいうのである。
 しかし,母親たちのほとんどは,あの暗い戦中に子ども時代を過ごした人間だから,子どもたちがセンセイに向かってそういう注意のコトバを投げかけるだけでも,かなりステキなことのように思えてしまうのだ。ためにKセンセイの"実験"の成果をそれほど高く評価できない人が多かったらしい。
 学校におけるかずかずの禁止令,いわば"ないないづくし"は,まぎれもなく〈法律〉だ。
 けれど,ほとんどの子どもはなぜ,そこに,〈法〉があるのかについて,疑ってみようともしない。子どもたちが,〈法〉に関しての思考力を喪失したまま育っていくとき,パックリと口をあけて待ちかまえているものは何か。Kセンセイは,その,パックリと口をあけて待ちかまえているものを恐れたのだ。それにやすやすと呑みこまれてしまう人間のふがいなさを思ったとき,いま,なんらかの警告を発するべきだと考えたのである。〈法〉をまえにして,いや,その法の適用をまともにくらうべき存在=人民であるにもかかわらず,その〈法〉の精神について,何も考えようとしない人間ほど,為政者にとって都合のよいものはない。そういうかたちの不感症をこそ,政治屋サンは期待しているものなのだ。
 もちろん,すべての禁止令がケシカラヌといっているわけではない。Kセンセイとて,同じことだろう。問題は,その禁止令の理由,つまり必然性というやつだ。
たとえば,
「とびだすな,車は急にとまれない」なんていう交通安全のための標語があるけれど,こういう"禁止令"はゼッタイに必要である。その理由を説明してやっても理解できない幼児には,
「とにかく,とびだしちゃいけないの」という強い態度でもかまわない。
 しかし,学級内にある多くの禁止令が,すべて,子どもにとって合理的かつ必然的だとは思われない。しかも,それが,理由の説明もないまま,それについて考えるということもさせないまま"施行"されているところに,かなり大きな問題がある。
 たまたま,Kセンセイ,そのことに思い当たり,実験をやった。これは貴重だ。ホントは,子どもたち自身がそれをやれば,もっと立派なのだ。
「ないないづくしじゃわからない」と口ぐちに叫びながら,子どもたちは,自分たちの学校を調べなおすべきだ。それを禁止する権利はだけにもないはず。



少年よ大志を抱け

 明治十年四月十六日,クラークは札幌を出発した。南方の函館まで騎馬で行く彼を,生徒も職員も騎馬で札幌の南六里の島松まで見送り,そこで別れの昼食を共にした。クラークは一人一人に握手して訣別し,最後に皆にむかって「ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年等よ,大望を持て)」と言った。クラークは馬に乗って坂を登り,疎林の間の道を曲って,見えなくなった。彼の存在は八ヶ月に過ぎなかったが,その人間的印象は極めて強く,札幌農学校の校風はクラークの性格と彼の残したキリスト教の信条によって形成された――これは伊藤整著『日本文壇史』の一説だ。 
 いまどき,ボーイズ・ビー・アンビシャスなんてことをいいだすのは,どうも時代錯誤もはなはだしいかもしれない。しかし,あえてこんなコトバを持ちだしたのにはそれなりの理由があるのだ。
 つい先日のNHKテレビである。それはスポーツにからめてアメリカ黒人について取材していた。そのなかに,ニューヨークのハーレム(黒人街)で男の子たちにインタビューする部分があったのだ。
「キミたち,将来,何になりたいか」
 黒人の子どもたちは口ぐちに答える。
「野球選手」「フットボールの選手」「バスケットの選手」
「それはなぜか」
 答えはすべて,カネと名誉がえられるからというように画一化されていた。
 戦後の一時期,日本の男の子たちのあいだからもプロ野球の選手になりたいという"希望"が多くだされた。もちろん,いまでもプロ野球選手志望の子どもはすくなくない。しかもそれ以上に多いのが,サラリーマンになりたいという子どもなのである。(女の子は主婦)
 片やプロスポーツマン志望。そして海を渡ったこちらではサラリーマン志望。はたしてどちらが大望かと考えてしまうわけだ。
 黒人街の子どもたちが,プロスポーツマンを自分たちの理想像と考えるのは,それ以外の方法では貧困と差別(これは不離一体のものだが)から抜けだすのが困難だということを知ってしまっているからである。つまり,黒人の子どもたちの希望は"現実からの脱出"につながっている。これに対して日本の子どものサラリーマン志望は,現実への"適応"以外ではない。
 脱出と適応,これを文字づらだけで眺めると,いかにも正反対の事柄のように思えるが,両者には奇妙な一致点が発見されるのだ。それは,両者とも,身近の小さな現実に眼をうばわれて,より大きな現実を見ていないということだ。
 たしかに黒人たちの生活は苦しい。かれらは貧民街から抜けだす近道はプロスポーツマンになるかジャズメンになるかの二つだ。けれどジャズは麻薬につながっている。となると,プロスポースマンになることは,一ばん,いいやりかたかもしれない,しかし,だ。それに成功する者はごく一部のラッキー・ボーイでしかない。しかもそうした黒人は,二度と黒人街にもどらず,白人の社会に融和してしまう。黒人全体の解放とはまるで無縁の存在になってしまうのだ。
 黒人に対する差別がうんぬんされるたびに,白人たちは,ごくひとにぎりの"黒い白人"を指していう。こんな幸福な黒人だっているではないか。差別などしていないではないか――と。
 融和を拒否するプロスポーツマンは,カシアス・クレイのように放逐される。これが,黒人の子どもを取りまく大きな現実。これを見ないままで,野球選手になりたい,フットボール選手になりたいは,はなはだしく小さい希望というべきだろう。したがって,一見脱出願望と思えるものも,コンポン的には現実適応にしかすぎないわけだ。
 日本の子どものサラリーマン志望も,個々の子どもの"現実"をあたってみると,それなりの脱出願望になっている場合が多い。オヤジが中小企業につとめる貧しいサラリーマンであるとしたら,その子のサラリーマン願望は,大企業のそれをめざしているなどという程度にである。しかし,こんな"小志"は,七〇年代の日本資本主義の発展計画というような大きな現実のまえでは,まったくはかないものとなる。
 日本資本主義がアジアへの帝国主義的な進出をはたせば,日本国内の企業はほとんど国家独占的なかたち(八幡製鉄と富士製鉄が合併したように)なってしまう。そしたら,サラリーマンはおしなべて大企業の一員ということになるだろう。そして,いざ,戦争となったらやはりサラリーマンそのままの兵隊となって戦場におもむくのだ。大きな現実にベタベタと適応してサラリーマンを志望するかぎり,それを拒否する理由はない。黒人の子がプロスポーツマンになることは同時に,アメリカ軍隊の一員になる義務をおわされたことを意味している。それを拒否したカシアス・クレイはプロスポーツから追放された。これと,日本のサラリーマンとどう違うというのか。クラーク先生,答えなさい。



子どものためのまんが論

 まんがブームというコトバがあった。しかし,いま,ことさらにブームといういいかたはしないけれど,まんがの人気は衰えてはいない。まんが家――まんが業界のほうからいうなら,好況はもう恒久的なことになったように思える。いい調子だ。
 いまはもう,子どもがまんがを見ていても,眼を吊りあげて叱るような親はいなくなった。学校教師もまんがという名の通俗文化にたいして,ひどく寛容だ。まんがはまったく許されるものとなった。まんがは一人前の市民となった。そして,わたしにいわせればダラクしやがった。
 まんがのダラクぶりはテレビで人気者になった漫才師や落語家なんかのダラクぶりによく似ている。一昔前までの芸人で,人生訓的なことや社会批評的なことを発言するヤツはいなかった。芸人はそうしたことをすべきでないというタテマエをキチンと守っていたものだ。
 それがこのごろは,やたらにインテリぶる漫才師や落語家までが出てきた。この複雑な世の中についてトヤカクのことをいいたがる。そして全部,見当ハズレ,的ハズレ,せいぜいが自民党や民社党のチョウチン持ちになる程度。それでいて芸はすこしも巧くならない。
 芸能人と同じようにまんがもダラクした。かつて,まんがというものは,庶民的な感覚によって,高級・良識ぶったもののなかにあるくだらなさをするどく撃った。子どもまんがでいうなら,けっしてイイ子=優等生が輝ける主人公になることはなかった。まんがの世界でのびのびと活躍する子どもは,いわゆる悪童=劣等生にきまっていたのだ。
 それがいまはどうか。「巨人の星」の星飛馬を見よ。あの優等生ぶりを見よ。「巨人の星」は根性論を売りものにした軍国主義的なものだから許せないといっているのは日本共産党のスターリン主義者どもだが,これはお笑いだ。あの人生敗残者の星一徹がテメエの夢を息子に託すあたりの"思想"は,民青という名の優等生どもをいとおしがる有様そっくりといえるからだ。
 問題は,根性論なんかではない。まんが家やまんが原作者たちが,自分の無教養,無思想,無定見を忘れ,しかも,まんがという文化は"通俗"であることにおいて意味があることをも忘れているブザマさが問題なのだ。
 子どもはもちろん,まんがの通俗性を意識しながらまんがを見ているわけではない。えてして子どもは現実主義者だ。まんがのなかからでさえ,テメエの生きる道を探しだしてしまう。まんがからさえ,自分の周囲をたしかめる"眼"をつかみとってしまう。
 だから,子どもたちはいう。「星一徹はいい父親だ。ボクにもああいう父親がいればいいな」
 バカなことをいうな。星一徹は人生の敗残者じゃないか。生活無能力者じゃないか。そんなやつが,いくら"人生"を説き,"根性"を強調したとしても,現実的には,なんの有効性もありはしない。ところが子どもたちは,そのダメな父親のダメな意見をさえ,カッコイイものとして受けとめてしまう。なぜか。
 それはすでに,まんがという"文化"そのものが市民権を得てしまっているために,あの星一徹でさえ,ひとりの市民として見えてしまう。自分たちの父親と同質の存在として見えてしまうのだ。ここから,カラクリが生まれてくる。作者たちも気づかないインチキ性が派生してくる。昔のまんがには,こんなことはなかった。
 昔とまではいわなくてもいい。「おそ松くん」あたりでもいいから思いだしてほしい。おそ松くんたちの父親は,これまた人生の敗残者,とまではいかないが,とにかく,成功者ではなかった。それが証拠にかれはテンテンと職をかえ,いずれも見事に失敗する。そのダメな父親のいうことなど,おそ松くんたちはゼッタイにきかない。そういう親を否定することによって,おそ松くんたちはたくましく生きようとしていたのである。
「おそ松くん」の作者赤塚不二夫には,すぐれた庶民感覚があった。通俗性もあった。それゆえに「おそ松くん」は,世の教育ママたちの攻撃をうけ,すくなくともマユをひそめさせたのではないか。しかし,この「おそ松くん」もテレビ化されることによってダラクしてしまった。テレビはまんがをダメにした元凶である。もうひとつの例をあげよう。
「サインはV」というテレビドラマがある。原作はまんがだ。これの第一回を見て,子どもたちは首をひねった。
「おかしいな,あの子のうち,もっとビンボウなはずだったのに……」
 岡田可愛ふんする主人公と,三宅邦子の母親の家庭のことをいっているのだ。つまり,テレビ化されると,主人公一家の生活水準までが市民的にアップされる。そして,これがまんがに影響する。庶民が市民になる。これはダラク!まんがを子どもたち自身の手にとりもどしてやりたい。



すこし昔のジョー

「あしたのジョー」(高森朝雄原案,ちばてつや画『少年マガジン』連載)というまんががあって,相当な人気である。わたし自身も愛読している。まんがだから愛視というのかな。同じ雑誌の「巨人の星」はクズまんがだと思うが,「あしたのジョー」はたしかなものだ。原作者は同じ(高森朝雄も梶原一騎も同一人物)でも,まんが家が違うとこうも差ができてくるものか。
 佐野斗美クンは矢吹丈をひとつの理想像としてひどく愛しちゃっている。プロボクシングに対しては,それほどの関心はなかったのだが,矢吹丈がつぎつぎに"敵"を倒していくカッコよさにひかれて,
「いちどボクシングを観に行きたい」といいだすようになった。そしてさらに,
「ぼくがこのまま大きくなると,バンタム級になれるだろうか」などという。
「ううん。おまえなら,きっとウエルターぐらいになると思うぜ」と父親がいったら,すこしがっかりした顔つきになった。そしてつぶやく。
「ウエルターか。それじゃ力石と同じだ。減量に苦労しちゃうなあ」
 佐野斗美クンとしては,やはり矢吹丈でいきたいのである。そこで父親が追いうちをかける。
「おとうさんなんか,バンタム級だったぜ」
「ほんと。おとうさん,バンタムだったの」
「ああ。それに,おとうさんは少年院にもはいったし」
「へえ,それじゃ,矢吹丈と同じじゃないか。案外カッコよかったんだね」
 案外とは失礼な,とはいわずに父親はここで考えたのだ。
 ボクシングをやることがカッコよく,少年院へはいったことがなおさらカッコよく思えるとは,いったいどういうことなのか。
「少年ケニア」で有名になった山川惣治が,まだ無名に近かったころの作品(絵物語)に「ノックアウトQ」というのがある。この主人公は町工場で働く少年だが栄光をめざしてボクシングに精をだす。しかしボクシング界の暗黒面にまきこまれてイヤ気がさし,ついには労働者としての自覚に目ざめてリングを去るという物語なのだ。戦後児童文化(財)としての数少ない傑作だと思う。この作品に流れている熱情や生活感覚は「あしたのジョー」に酷似している。しかし,山川惣治は「少年ケニア」でしか有名になれなかった。つまり,「ノックアウトQ」はやすぎたのだ。同じように,佐野斗美クンの父親もはやすぎた。
 かつてプロボクシングは,学生でない少年がやることの出来る唯一のスポーツであった。いまでもボクシングはハングリー(飢え)スポーツだなどといわれているが,それを,いまの人たちは"減量"のゆえだとしか考えない。しかしすこし昔のころまでは,飢えた人間とは貧乏人のことであった。その貧乏人のガキが,なんとか自分の腕力で栄光をつかみとろうとしてやるものだからこそ,プロボクシングはハングリー・スポーツだったのだ。
 そして,自分の腕力に自身を持つ"場所"として少年院などがあった。もちろん,飢えからの脱出のために悪事(といえるかどうか)をはたらき少年院へおくられるわけだが,そこでケンカなどして勝てば,
「おまえなら,ボクシングでものになるぜ」というような声がかかり,当人もその気になる。つまりスポーツが生活の手段として考えられるようになる。だがそれゆえにすこし昔のジョーたちは,あまりカッコよくはなかったのだ。なんといっても生活というやつは,みみっちいものだから……。
 矢吹丈も生活は楽ではないらしい。しかしその"生活"の部分を子どもたちは見落としていく。自分にピンとひびかないからだ。そのために,どうしても"精神"や"根性"に関心が向きやすい。「巨人の星」はもっぱらそれだ。
 だがしかし「あしたのジョー」の作者たちは,いまの子どもが見落とすかもしれない部分の"生活"をけっして欠落させない。おとなとしていささかも妥協しない。これはりっぱなことだ。
 父親はここで決意をあらたにする。かつておれも少年院へぶちこまれた。ボクシングをやった。だけどそれらは,すこしもカッコよいことではなかった。なんともみじめな生活史の一部分なのだ。それらのことを子に伝えるとき,カッコをつけてはいけない。すこし昔のジョーは,みじめで,ショボクレてて,うすらみっともなかったのだといおうではないか。 
 昨夜,佐野斗美クンは,マクラをブローブがわりに父親と一戦をまじえた。父親の左ジャブ一発で斗美クンはダウンした。父親は妥協してくれない。矢吹丈が得意とするカウンターなんてものは,たやすく打てるものではないことがよくわかった。
 それでも矢吹丈への関心は深まるばかりだ。どうしてジョーはあんなに強いのか。根性や精神力だけではなさそうだ。もっとほかに何かがある。あるはずだ……。
 まんがの「あしたのジョー」の人気の高まりとは正反対に,実際のプロボクシングの人気は下落するいっぽうである。これはプロボク関係者の"飢え"に対する考え方の貧しさが原因だと思う。資本主義が高度に成長した世の中における"飢え"は,そうとうに精神的であるはずだが,プロボク関係者にはその"精神的"というやつがわかっていない。その点をすばやくワカッているのが子どもと若もので,だから「あしたのジョー」は現代の英雄なのだ。
 つまりプロボクシング関係者といわゆる教育関係者はウリフタツほどに似通っているのである。



 "力石"が死んだ……死と人生をめぐって

 子ども向け週刊誌『少年マガジン』連載の劇画「あしたのジョー」についてはすでに触れた。ところがこんど,ジョーの好敵手だった力石がソーレツな死をとげたことをめぐってガゼン話題がふっとうした。個性ゆたかな宿敵・力石は読者に忘れがたい印象をのこし,その死がひどくいたまれたのである。
「力石が死んだ!」という声は日本中いたるところできかれた。もちろん,学校でも数日はその話題でもちきりだったという。
 と,まァ,これだけを書いておわればカネももらわずに出版社の宣伝マンになったようなもので,まことにバカバカしい。やはり,ここでは,力石の死をめぐる現象に関してなんらかの考察をこころみる必要があるわけだ。
 まず第一に,なぜ,力石の〈死〉にたいして子どもたちが激しくこころをうごかされたのかを考えたい。
 昔は,だれもが死というものを見ることができたが,近代社会では死を見る機会がすくなくなり,そのために人びとは他人の人生にたいして敬意をはらわなくなった――という指摘をしたのは故ワルター・ベンヤミンだ。この他人の人生に敬意をはらわないということ,つまり他者にたいして無関心であるところから,近ごろ流行の断絶なんてことも生まれてくるわけだろう。
 都会の片隅のアパートの一室で人が死に,それが何日も発見されず,死体はすでに白骨化していたなどという事件もまた,死,つまり他人の人生にたいする無関心のあらわれなのだ。このような風潮=近代に,するどい批判をあびせかけたのが,ちばてつやの劇画「あしたのジョー」であり,なかんずく,宿敵・力石の死をめぐるドラマであった。
 共通の問題をはらんでいるので書いておくが,二十五年前の夏,広島・長崎に投下されたゲンバクの被害をつぶさに記録した映画がようやく公開された(昭和四十六年三月十八日夜,TBSテレビ)。これはさきごろアメリカから返還されたフィルムの一部分なのだが,文部省は意識的に,被害のおそろしさを伝えている個所をカットして公開を許した。
 ところがこのたび加害者のアメリカ人(コロンビア大学)が編集したら,さきに日本の文部省がカットした部分を主とした短編映画ができあがったのである。これなども,死という現象をひたかくすことが人類の進歩のように思いこんでいる悪しき近代主義者のなせるわざへの挑戦ということになるだろう。
 ということになると,「あしたのジョー」において,好漢・力石をあえて死なした作者の意識は,自らの加害者ぶりを自らが告発することをためらわず,核兵器否定のための映画をつくったコロンビア大学の人たちの意識と共通したものであって,それらは文部省役人の石アタマや,それにゴマをすりつづける広島大学の教授連中とはまるで異質の,まことに人間的なものだといわなきゃならない。
「あしたのジョー」のような劇画があるということ,そしてその劇画を熱心に読む子どもたちが数多く存在するということにおいて,当節,すこしは希望ももてようというものじゃないか。たかが劇画のなかの一人物の死をめぐるアレコレに,屁理屈をつける必要なしなどといってはいけない。子どもは現実に,たかが劇画にすらおびただしい影響をうけながら育っていくのだ。さらにいうなら六〇年後半にもりあがった学園闘争そして反戦闘争のキッカケをつくったのは,羽田弁天橋における山崎クンの死であった。10・8ショックとさえいわれた,あの〈死〉がなかったら日大闘争も東大闘争もありえなかったと断言してもいい。〈死〉が見えたとき,大学生も高校生も大きなショックをうけ,行動へと踏み切った。もちろん,山崎クンの死と力石を同一線上で論じることはできない。
 けれど,政治がひたすらにおしかくそうとしている〈死〉というものが,たとえ劇画にしろ見えたとき,子どもはひどい衝撃をうけたのだ。この事実,この可能性をわたしたちは確認しておく必要がある。
 交通戦争,公害,危険な食品,そしてだんだんちかづいている戦争,これらによってもたらされる死を,政治はインペイしようとする。交通事故で死ぬ。すると政治はマスコミをつうじていうんだ。自己は不注意から起きる――と。かくて,その〈死〉はさげすまれてしまう。その人の一生に敬意をはらうものはいなくなる。ここでもういちど,ワルター・ベンヤミンのことば。
「死につつあるもっともみじめな犯罪人でさえもが彼のまわりの生者にたいして権威をもっているはずだ。その権威を失墜させてしまった近代にこそ問題がある」
 少年院がえりのプロボクサー力石の死。劇画のなかの一人物の死をめぐってさえ,子どもたちは,まことに人間的な反応をしめしている。この可能性を殺すな。

テキスト化小澤すみえ