『子ども族探検』(第三文明社 1973)

U子どもたちは考えている

〈考えている〉ということだけで、意味があるわけではない。
〈考えている〉という場合には、その内容が問題なのだ。人間として、子どもとして、何を考えているか、である。
老後を考えている子どもに意味はない。ありきたりのおとなになることを考えている子どもにも、意味はない。親や教師にとりいることを考えている子どもにも意味はない。
子どもが、考えていなければならないのは、いま、この時点で、人間であるため、子どもであるためには、いかにすべきか、なのだ。
もっとも意味があるのは、人間として、子どもとして生きるために、すなわち行動するために考えることだろう。
子どもは、あしたのおとなであるから、人間として価値があるわけでは絶対にない。子どもは、いま、この瞬間に、子どもであることにおいて価値がある。
子どもとして行動するために、〈考えている〉のだ、この子どもたち。


体験がこどものなかにとどまるとき

小学五年生の佐藤斗美クンは、ある朝、実に恥ずかしいおもいをしてしまった。斗美クンは新聞のスポーツ欄をのぞきこんでいた。
斗美クンは子どもながらもアンチ・ジャイアンツの熱心なプロ野球ファンだ。阪神タイガースの新人田淵が大のヒイキで、自分のユニホームの背番号も22番だ。
さて、その田淵の昨夜の活躍やいかんと新聞をひらいたのだが、ざんねん、昨夜は関西地方も雨で試合は流れたのだ。田淵の活躍ぶりを伝える記事が見当たらないため斗美クンはサッカー関係の記事なんか読むことになった。恥はここで生じた。斗美クンはかたわらの父親に何気なくたずねたのだ。
「ねえ、ハチマンって、サッカー強いの」
「えッ、ハチマンだと」
一瞬、なんのことやらわからず、父親はききかえした。このとき、すばやく兄のコトバをききつけた妹のあゆみサンが大きな声でいった。
「やァねえ、おにいちゃん、それはハチマンじゃなくて八幡よ。八幡製鉄のことじゃない」ときたもんで、斗美クンは耳のつけねまで真っ赤になってしまった。
「なんでえ、八幡なら、おれだって知ってらい」
ところが、このあとが大変である。あゆみサンは、八幡と富士の両製鉄が合併すると世界第二位の製鉄会社になるのだが、その合併が独占禁止法にふれるというのでマッタがかかっている--などという知識をものがたって、ますます兄を赤面させたのだ。
「おまえ、どうしてそんなこと知っているんだ」と斗美クンはヤケクソ気味な声で叫び、さらに父に向かって、
「おとうさんは、オレのいないときに、あゆみに話をしてやったのか」とからんだ。
「ちがう。この話をしてくれたのはセンセイだもん」
と、あゆみサンはいった。
「あたしたちのセンセイは専門が社会科だから、いろいろなことを話してくれるんだよ」
「チクショウ、オレたちのほうは駄目だ。あいつは算数ばっかり熱心でどうすることもできねえな」
問題は教師のヨシ・アシを論じるところにあるわけではない。時の話題を子どもたちに話す教師をわたしはそれなりに評価したいと思うが、それをしないから悪い教師だというわけにはいかない。そうしたことよりも、わたしは右の"朝のひととき"のやりとりを通じて、子どものなかに、体験が記憶としてとどまる"とき"のことをかんがえたのだ。明確にいうなら、そのことを改めて考えさせられたということになる。
現代社会には、さまざまな"情報"がさまざまな形態で流れ、うずまいている。テレビをはじめとするマスコミの発達もいちじるしい。子どもとて、例外ではなく、実におびただしい情報に接する機会に恵まれているのだ。したがって、現代の子どもは、昔の子どもにくらべて、まぎれもなく物知りだといえる。いや、物知りであるべきなのだ。ところが、実状はかならずしもそうなってはいない。あまりにもおびただしい情報の流れのなかで、アップアップしているともいえよう。
あまりにも多い情報のなかから何を自分のなかにとどめていくべきか、その選択に迷っているのが現代のおとなにも子どもにも共通する問題なのだ。
"朝のひととき"に戻っていうならば、おそらくは、斗美クンもまた、八幡と富士の合併については、どかかで、何かによって、いわばニュース的には伝えられたことがあったにちがいない。しかし、伝えられただけでは、記憶されない情報として伝えられたことが記憶されるためには、体験が加わってこなければならないのだ。
「センセイが話してくれた」というあゆみサンの場合は、明らかに体験が加わったからこそ、あゆみサンはよほどのことがないかぎり、八幡と富士の合併をめぐるニュースを忘れることはないだろう。
体験は記憶されるが、情報のままでは流れていくのみだ。もっとも、記憶されればこそ、それを"体験"とよべるのだが・・・・・。
墨田区立外手小学校の横倉釉子センセイの報告によると、六年生の子どものなかにも、ベトナム戦争の交戦国を知らない者がいるという。情報としてなら、ベトコン(正しくは南ベトナム民族解放戦線)対アメリカおよび南ベトナム政府軍(実際には他にも参加国はあるのだが)の戦いであることを知らぬはずはない。ところがそれが記憶されていない場合がある。
「家族で親と話し合う機会のない子は、ごく常識的なことさえ知らなかったりするのです。こんなことテレビでしょっちゅうやっているのにと思うようなことも・・・・・」という横倉センセイの意見は、体験の重要さを説いているように思えて仕方がない。朝のひとときもまた体験のチャンスである。
 親は子どもを前にして、できるかぎりおしゃべりであるべきだ。そして、親のおしゃべりは、バラバラのもりだくさんでなしに、系統的あったほうがいい。子どもは親からの情報がマスコミ的であれとは期待していないと思う。子どもが入手した情報を体験的に深めるためのキッカケとなるようなおしゃべりを、親たる者はコロコロすべきなのに、このごろの親はすこぶるマスコミ的にバラバラと語りすぎるようだ。そして自ら、親としての価値を低めている。そういう気がしてならない。
テキスト化青木禎子