『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

   2 絵本の大人ばなれ       ――わたしの絵本づくりA

 『トリゴラス』(長谷川集平作)は私の大好きな絵本の一つである。
 この絵本は、一九七八年八月に、文研出版の〈みるみる絵本シリーズ〉の一冊として刊行された。私が職業編集者としててがけた絵本は二〇冊をこえるが、これは『ろくべえ、まってろよ』(灰谷健次郎+長新太)『からからからが……』(高田桂子+木曽秀夫)『キャベツくん』(長新太)『そこがちょっとちがうんだ』(今江祥智+杉浦範茂)『星まつりのふしぎなふえ』(川村たかし+石倉欣二)などとともに、忘れがたい絵本の一つである。
 『トリゴラス』は、私に、絵本の表現方法の無限の可能性を示してくれたが、同時にこの絵本ほど私に、子どもの本の世界が抱えこんでいる諸矛盾を考えさせるきっかけを与えてくれたものはないともいえる。
 それは、具体的には、この絵本が難産(あやうく出版を見送られるところ)だったことと、出版されてからも大人と子ども(読者)の意見がくいちがったことと関連がある。単刀直入にいえば、私は、この絵本に対する〈大人たち〉の対応ぶりに苦しめられたのである。
 『トリゴラス』は、安アパートに一家四人で住む少年が、重苦しい現実を一足とびにのりこえようとするあまり、夜空を滑空する怪獣トリゴラスを呼んでしまい、町を破壊し、秘かに想いを寄せるかおるちゃんを連れ去られるというプロット設定である。
 この絵本のシナリオは、紙切れに走り書きされた短かいものである。その文字の部分は次のようである。

 @ とぼけんといてか、おとうちゃん。/ぼくは ほんまのことが ききたい。
 A そらで びゅわん びゅわん ゆう、あの音のことや。/あれは かいじゅうにちがいない。そうやろ、おとうちゃん。
 B かいじゅうが びゅわん びゅわんと とびよるのやろ。/まちにむかって とびよるのやろ。ちがうか、おとうちゃん。
 C なまえは トリゴラス、そうや、鳥のかいじゅうなんやで。/そうにきまってる。トリゴラスや。トリゴラスは おっきいで。
 D おとうちゃん、こっからが かんじんなんやで。/本なんかよまんと、きいといてえな。
 E トリゴラスのひみつへいきはねえ、/トリゴラ・ガス。
 F ごっつい 強いんや。/そんで、めちゃくちゃするねん。
 G もう、めちゃくちゃや。まち、ぐちゃぐちゃや。/もう、わやくちゃなんや。
 H おっ、とうとうみつけたで。/かおるちゃんのマンションや。
 I (文字なし)
 J そんで、トリゴラスは「よっしゃ、これでええ」ゆうねん。/そんでなあ、おとうちゃん、もう まちに ようはないねん。
 K そやけど、おとうちゃん。トリゴラスは おとこやろか。おんなかなあ。/かおるちゃんは おんなやけどな。
 L あほか、おまえは。あの音は ただの風の音じゃ。/そんな しょうもないこと ごちゃごちゃゆわんと、はよねえ! (この場面だけおとうちゃんのことば。文字の色が今までのピンクから、ここだけ青に変わる)
 M かおるちゃん……。

 絵本に限らず、一冊の本を編集して出版するとき、私の勤めていた社では、発行日の約二か月前に編集担当者が、その本のねらい(読ませたいところ)を責任をもって文章化し、営業や広報に回すことになっていた。
 この絵本は、発行が大幅に遅れ、私が「新刊案内」にねらいを書きこんでからも、さらに半年ほど遅れてしまった。

 《読ませたいところ》これは小さな少年が少女に想いをはせる《愛》をうたった絵本です。子ども・大人にかかわらず誰でも何かに対するはげしい身を焼かれるような感情を味わうときがあります。大人はそういう気持ちを酒やギャンブルや強い理性でまぎらわすことができますが、少年の情熱は沈めるすべをもたないだけに、いっそう狂おしいものでしょう。そういう正直な感情を、かいじゅうトリゴラスに托して、緊張感のある新鮮な筋立てにしたものです。かいじゅうというのは子どもにとっていつの時代にも普遍的な価値をもっています。つまり、それは力の象徴であり、何ものにも束縛されない自由で偉大なものです。かいじゅうトリゴラスが町をこわし、敵をひとひねりするとき、子どもたちは自分の身におきかえて大きな声援を送ります。
 本書は、そういった子どもたちの想いや願いをたくみにお話にしています。ですからトリゴラスの一見めちゃくちゃにみえる行動は、実は少年をとりまく不自由な世界への挑戦、そして少年の中の少女に対するはげしい想いの心象風景にほかならないのです。少年の想いが力強く大きなトリゴラスになって、いかりをぶっつけ、少年をしばる社会との闘い、ついに少女をみつけるとき、子ども読者たちは深い充足感に酔いしれるでしょう。この絵本の絵は、空の色に変化をもたせたり、構図と絵の枠組みを現実からファンタジーへと巧みに使い分けたり、アパートから大都会へとズームアップしていったり、少年とかいじゅうを異なる場面で視覚的に巧みにだぶらせたり、子どもたちの大好きな怪獣映画の名場面をとり入れたりして、おもしろさを倍加しています。

 『トリゴラス』が出版されたのは、昭和五三年の八月であった。この絵本が、一時出版スケジュールからはずされたのには理由があったと思われる。しかし、編集担当者であった私は、今にいたるまでついに納得できるような理由を聞き出すことはできなかった。
 それは、私の方に絵本に対する気負いがありすぎたためかもしれない。昭和四〇年代後半から五〇年前半にかけての絵本ブームの渦中で、新しい実験を試みたいという、当時の編集者に一般に共通した意気込みに燃えていたためだが、同時にそれは絵本に対する私の未熟さであったかもしれない。
 しかし、結果的には、もんもんとした日々を過したのち、表紙(表と裏)をやりかえることで上層部のOKが出された。怪獣映画のポスターもどきに町を破壊しているトリゴラスのアップの雄姿のかわりに、少年の住んでいるアパートらしき風景を実際に探し出して、魚眼レンズで写真にとり、第一案の表紙をポスターとして空地のくいにぶらさげるという苦心の代案であった。つまり、雰囲気によって上品さを出そうとしたものであった。
 長谷川氏の意図は、現実から非現実への移行をスムーズにし、かつ、少年の内面の風景として、二つの世界が同時に内在することを暗示させるものとしての効果にあったかもしれない。
 しかしながら、その効果は、見開きいっぱいにとった「扉」の手法で既に使われていると思われる。表紙としても、全体の流れとしても、第一案の方がはるかによかったと私は思った。
 一体なにがいけないのか? いくつかの推測はできても、このあたりについて明快な対応はなかった。『トリゴラス』が市場に出回り、読者や購買者からの様々な反応を見聞きしているうちに、上層部の胸のうちにあるものがようやく形をなして理解できたような気がした。
 けれども、そう思えば思うほど、何故そのときに胸をはってストレートに答えてくれなかったのかと考えたりしたが、現代のように価値観が多様化した時代では、大人も子どもも自身を失っているからかもしれないと深く考えないことにした。
 『トリゴラス』に対する反応はいろいろあった。書評に載ったり、識者の自薦リスト年間ベスト3に幾人もの人が取り上げたり、作家の今江祥智氏が評論の対象として扱ってくれたりした。(注1)
 売れゆきの方も、地味ながら少しずつ版を重ね、昭和五九年現在第四刷二、三〇〇〇部になっている。絵本としては、平均点以上の売れゆきである。
 それはそれとして、『トリゴラス』に対して、はっきりと不快感や戸惑いを表わす人たちもいた。
 次にあげるのは、ある小学校で行なった『トリゴラス』の読書調査の一部である。(注2)この調査は、実施者の湯浅氏が、絵本に対して質の高い見識をもち、独断や主張を一切廃し、一冊の絵本を通して子どもたちと大人たちに接しているがために、成功した貴重な資料である。この調査のテーマは、「絵本の“子どもばなれ”とよく言われているが、本当にそうなら、その原因はどこにあるのだろう。子どもの問題なのか、大人の問題なのか、考えてみたい」ということである。

 〈子どもの反応〉
 2年生=読みきかせをした後、全員おもしろかった。4年生=ほとんどの子がおもしろい、もっと読んで。6年生=全員、おもしろかった。
 どんな所がおもしろかったか=作者は思った通りの自然な言葉で書いている。/風の音をかいじゅうやろと言うところ。/トリゴラスは男の子の想像したもんや/絵はみんな好き/お父さんは、かいじゅうなんてばからしいと思ってるんや、/この男の子はかおるちゃんを好きなんや。
 思ったこと=男の子は空想力があるのに、父親は現実的で夢がない。子どもの話も聞けへん。/大人は皆、子どもの夢をこわすんや、/トリゴラスはさびしいんや。だから、かおるちゃんをさらったんや、/かおるちゃんは、男の子に口をきいてくれない関係。/男の子はトリゴラスに感動している。強いから。

 これは、調査のごく一部を抜粋したものである。しかし、子どもたちは、トリゴラスという「かいじゅう」の意味を的確にいいあてているし、4年や6年になると、少年の空想したトリゴラスが何故町を破壊し、かおるちゃんをさらっていくのかまで、きちんと読みとっている。
 それに対して、大人たちの反応は、次のようである。

 暗い絵本、破壊的で夢がない。絵がきらい。つながりが分らない。(二〇代女)
 一般には受け入れられない世界。正常な人間の中の異常性を強調している。ドギツさ、目新しさだけをねらっている。(三〇代男)
 好きな女の子をさらう心理はよく分る。性のめばえ、児童文学に夢をもっていると、不愉快さしか残さない絵本だ。子どもに与えても意味がないと思う。(四〇代男)
 この本はマンガといっしょで一過性のものでしかない。感動があって、大人にも子どもにも心に残るものがないので、値うちは認められない。(三〇代男)

 こういった否定的な感想に対して、

 テーマ=ほんとうのことが知りたい――大人はこの言葉にギクリとする。@性に関すること、人間の成長過程で通る未知なるものへの不安は、人間についての永遠のテーマであり、普遍性をもつ。A大人社会に対すること。個人ではとうてい立ち向かっていけない巨大なものへの不安。少し前に流行ったフォークの持つ、手を結べば何かできると言うような明るい未来への展望を失ってしまった今。この意味で、この絵本の世界はまさに、現代なのかもしれない。 (三〇代女)

 といった、テーマへの深い切り込みもあった。
 湯浅氏は、この調査のしめくくりとして次のように結んでいる。

 自分の成長時代を過去に持つ大人が、現在成長している子どもを規制してしまうという、永遠につづくボール送りゲームの過程にあって、無意味に子どもに迎合することはないが、我々大人は、二十一世紀にはほとんどが死にたえるという事実を謙虚に受けとめて、自分達の持つ価値基準のみをよしとする考えをもう一度考え直す必要はないだろうか。
 そうすれば、この絵本もただうす気味わるい、不健康ときめつけてどこかへ捨ててしまうこともない。

 この調査に目を通して気付くことは、絵本に対する子どもと大人の対応の仕方のちがいである。子どもは、その絵本が自分にとっておもしろいかどうかという観点で接し、大人は、どちらかといえば、その絵本を子どもに与えてよいかどうかという観点に立っている。
 子どもたちは、小学二年から六年まで、ほとんどのものが『トリゴラス』をおもしろいといっている。しかし、どこにおもしろさを感じているかが問題である。子どもにとっては、かいじゅうが出てくるだけで、またかいじゅうが暴れるだけでおもしろいと思う傾向がある。
 子どもたちの感想を聞いていると、それが単に部分的なものや表面的なものだけでないのが分る。つまり、かいじゅうは少年の心の中の現実に深く関わっていることを的確に受けとっているのである。
 心の中の現実とは、性(異性)に対する不安と、大人社会への焦燥と反抗である。そういったテーマを、二年生は二年生なりに「『はよねえ』とお父さんに言われた時『起きてもええやん』と思うし、『大人も起きてるやん』と思ったことあるよ」と述べている。
 四年生は「『しょうもないこと言わんと勉強せい』と言われたら、自殺したくなる」「父と母の二人に怒られたら、家出したくなる」と述べている。六年生は、前述したとおり、現実的で保守的な大人が、子どもの想像する夢をぶちこわすことを述べている。
 こうして見ていくと、子ども読者は、『トリゴラス』の世界を十分に理解していることが分る。つまり、この絵本は子どもたちの視点で描かれたものであり、大人に近づく子どもが一度ならず味わう不安と恐れの現実を土台にしているものであるということ。そしてそれ故に重たく息苦しいものではあるが、自分たちの状況を正確につかんでいるということ。つまり、子どもたちの味方であるということ。
 現実は、確かに一足とびには変わらないけれど、人間の心をよぎる願望というものは、ときには思いもしない想像力を生み出すものであるということ、トリゴラスは少年の願望が呼んだものであり、とても孤独で傷ついてさえいるようである。しかし、トリゴラスはやるだけのことはやらねばならない。また、やるだけのことをやりとげる強い力をもっているのである。
 絵本がもっているこういったテーマを子どもたちは正確に読みとっている。それは、もちろんくり返すようだが、この絵本が、大人に近づきつつある「少年」の視点に立って世界を眺めているからである。
 それに反して、大人たちは、まず絵本というものはこうあらねばならないという固定観念をベースにしている。それは、今の大人たちが子どもだったころ与えられた絵本と関連があるだろうし、その与え方と深くかかわっているかもしれない。同時に、大人が子どもに対してもつ普遍的な願望もあるかもしれない。
 このあたりのことを、湯浅氏は、「大人は子どもにいい絵本を与えたいという願いをもっている。いい絵本とは、大人の考えで、教育的配慮がしてあり、未来につながる子どもには展望のある、生きていく力となるような作品である」と指摘している。
 以上のことをベースにして、『トリゴラス』をみていくとき、まず大人たちは絵としての表現方法におどろかされる。「絵本は絵だけで勝負してほしい」「絵がきらい」「マンガといっしょ」という感想がそれを裏付けている。
 次に、主人公の少年が、「とぼけんといてか、おとうちゃん、ぼくはほんまのことがききたい」と、大人に対して鋭い目つきで迫るという、このテーマそのものにおどろかされる。「大人の困るような絵本はようない」「一般には受け入れられない世界」「こんな本を子どもに与えたら、こんな世界(猟奇性、退廃性)を教師が認めたことになる」「作者は健康的でない」「この病的な世界は一〇〇人中一、二人にはわかるかもしれない」という感想となって現れている。
 しかし、冷静になって考えてみると、絵本や子どもの本の読者は主として「子ども」であるということ、また子どもと大人というものは重なり合う部分も多いが、まったく相矛盾し、対立すべき部分の方がもっと多いことに気付くのではなかろうか。
 そして、子どもというのは、何事に対しても、ストレートにおもしろさを追求する人種であるということ。大人のように「自己」をはなれて、別の次元(教育や奉仕)のものを付け加えることはしないことが、分るのではなかろうか。
 また、子どもが感じるおもしろさというものは、娯楽的なものから、頭の遊び的なもの、そして、自分の現実と深く関わるもの、生きることに示唆を与えてくれるもの……と多様である。
 しかし、いずれにしろ、絵本なら絵本としての、小説なら小説としての表現方法がたくみに発揮されているものを好むのはいうまでもないだろう。
 『トリゴラス』について、子どもたちは、表面的なうすっぺらい読み方ではなく、また絵の部分的な鑑賞ではなく、絵本ドラマの表現を全体のものとして受けとっているのが分ると思う。だからこそ、苦しさや不安やさびしさといったものをさけずに受け入れることにより、成長していくという人生の真理の一つを消化していくのではなかろうか。
 『あおくんときいろちゃん』や『フレデリック』で子どもに圧倒的な人気をもつ絵本作家レオ=レオニは、多少の皮肉をこめて次のようにいっている。「私が成功したことの主な理由は、私の作品が大人に好まれているということにあるのではないでしょうか」(一九三六年ミラノから『子どもの館』一九七六年六月号、福音館)
 しかし、ここでレオニがいう大人たちは、絵本に大人の願いをもつような大人たちではない。子ども時代を忘れずにいて、大人になる道筋の一つ一つで、自分にとって何が真実であり、何が大切かを覚えている大人たちである。
 このような大人たちは、絵本をまず自分が楽しむものとして受け入れるはずである。(つまり、子ども読者と同じ読み方である。)
 自分というのは、このような大人たちの中に在る「内なる子ども」といってもいいかもしれない。「内なる子ども」の目で世界を眺めていくとき、新鮮な驚きと喜びが大人たちをさらなる《成熟》へと導くのである。驚きと喜びは絵本の中にもある。だから、すばらしい絵本に会ったとき、このような大人たちはその絵本の味方になって多くの子どもたちに手わたす努力をするのである。
 アメリカの絵本作家センダックの「かいじゅうたちのいるところ」が出版されたのは、一九六三年であるが、この絵本ほど大人たちの間でさまざまな論争を呼んだものも珍らしいといえる。
 この絵本にもかいじゅうが出てくる。一ぴきどころか何びきも出てくる。
 物語は、いたずらをしたマックスが夕食ぬきで部屋にとじこめられる。母親に腹を立てたマックスが、荒々しい気持ちになっていると、部屋がしだいに森に変わる。マックスが森にわけ入っていくと、海がおしよせ、一そうのボートがまっている。ボートにのって旅をつづけて、マックスはかいじゅうたちのいる島へ到着する。
 かいじゅうたちは恐ろしいうなり声をあげてせまってくるが、マックスはひとにらみでおとなしくさせてしまう。その島でかいじゅうたちの王になり、遊び回るが、やがてつかれて、かいじゅうたちに別れをつげて帰途につく、家につくと、夕ごはんがおかれていて、「まだほかほかとあたたかかった」――というところで終わっている。
 この絵本の論争については、「論争を呼んだ勝利」(『センダックの世界』セルマ・G・レインズ、渡辺茂男訳、岩波書店)に詳しくレポートされている。

 マックスが、母親にむかって心底から腹を立て、夢のファンタジーへ逃避する。そこには、多分子どもたちをこわがらせるかいぶつたちがいる。多くの両親や教育者や図書館員たちが混乱させられ、何人かの自称童心の保護者たちが疑問を出しはじめた。この絵本は、幼い子どもたちをおどろかさないだろうか、マックスの行いが、幼い聞き手、見手たちに、マックスと張り合う気持を起させないだろうか、かいぶつたちが、子どもたちにこわい夢を見させたり、あるいは、そのほかの側面で心理的に害をあたえないだろうか。

 レポートは、具体的な発言を次々と報告している。しかし、大人たちの中にも肯定的な見方をしている者もいた。ニューヨークの児童精神分析医は、

 『かいじゅうたちのいるところ』は、子どもにとって一つの普遍的経験――ほかの人間をたべたいという願い、ほかの人間をたべる、あるいは、自分がたべられる、という恐れ――を映しだし、開放し、克服することを教える。もし、この本をこわがるという子どもたちがいるとすれば、その子たちが幼すぎるか、あるいは、弱すぎる(例えば、病気あるいは情緒障害)という理由からである。

と、述べた。
 こういった大人たちの様々な反応をよそに、この絵本は前例のない〈成功〉を示した。オランダ語、日本語、ウエールズ語をふくめ十三か国語に翻訳され、ハードカバー版で七〇万部、ペーパーバック版で一八〇万部売れている。(一九七四年現在、前出『センダックの世界』による)つまり、大人たちがすすめたのではないが、子どもたち(子どもたちが好む本を読みたがる大人たちもふくめて)が好んで読みつづけたのである。
 この絵本の編集者であったアーシュラ・ノードストロムは次のように述べている。

 わたしたちが論争の相手としなければならないのは、いつでもおとなたちです。――
一〇歳以下の子どもたちはほとんど、真に創造的な作者の最高の作品には、創造的に反応します。けれどもおとなたちは、創造的な絵本に対する反応を、自分たちおとなの経験を通じてのみだしすぎます。

 また、センダック自身は、この絵本に与えられたコールデコット賞の受賞スピーチで次のように述べている。

 わたしたちは、たしかに、子どもたちが情緒的に受け入れることのできない、そして心配を高めるような、苦痛にみちた新しい経験から、彼らを守ってやろうとねがいます。そして、ある程度、そのような経験を幼すぎるときにしなくてすむようにしてやることはできます。わかりきったことです。けれども同じようにわかりきったことで、あまりにもよく見すごされることは、子どもたちは、ごく幼いときから、自分を苦しめる感情と馴れ親しんで生きているということ、恐れや心配は、彼らの日常生活に本来ある要素だということ、そして、いつでも彼らなりに、できるかぎりフラストレーションに耐えている、という事実です。そして、子どもたちは、ファンタジーを通じてカタルシスを達成します。かいぶつを手なずけるために、子どもたちがもっている最高の手段です。
 子どもというものについて、避けてとおることのできないこの事実に、わたしはかかわっているのです――子どもたちのどうしようもない傷つきやすさ、そして、かいぶつたちの王さまになろうとする彼らの闘い――それが、わたしの仕事に真実と情熱をあたえるのです。

 長谷川集平の『トリゴラス』は『かいじゅうたちのいるところ』と同じくらいすぐれているかどうかは分らない。
 まさに、「トリゴラス調査」の湯浅氏の指摘のごとく「この絵本も時代という時間の中で洗われても、生き残れるかどうか、それは今後の課題となるのではないだろうか」に同感である。しかし、少なくともセンダックのいう「子どもというものについて避けてとおることのできない事実」について、作者が真向から取り組んだものであることは事実である。
 絵本を評価したり、子どもに与える立場にいる大人は、絵や文章に対する感性(センス)はもちろんのこと、こういった子どもの内面世界を子どもの気持ちになって眺めわたす必要があるのではなかろうか。
 絵本の“子どもばなれ”ということばを、たびたび耳にするが、よくよく洞察してみると、それは絵本に願いを託したがる大人たちがそう思いこんでいる場合が意外に多いようである。ほとんどの場合、真の意味での子どもばなれはむしろ、子どもの願望とは無縁のところで行なわれる、絵本の“大人ばなれ”に起因しているといってもよいぐらいである。つまり、出版企業が絵本の大人ばなれを極端に警戒するあまり、真の読者(子ども)からはなれていくという不幸な状況に落ち入るのである。
 絵本は、子どもが読者であること、そして広い意味でも狭い意味でもモラルや価値観や教育(大人の願い)とはなんら関係のないことを私たちはキモに命じて理解すべきである。

注1 「トリゴラス讃」『プー横丁だより』青土社、「トリゴラス」『U&I』3号、児童文学通信。
注2 トリゴラス調査、大阪市立弁天小学校、湯浅美弥子、一九七九年。
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