『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

9 文明と自然

ときどき私は、そうやって新しいスカートをはき、くつをはいて、ロンツーといっしょに崖にそって歩きました。ときどき花輪をつくって、髪につけることもありました。(中略)
 私は、ロンツーにも花輪をつくって、首にかけてやりました。でもロンツーは花輪がきらいでした。私はいつもロンツーといっしょに、崖にそって、海を見ながら歩きました。その年の春も、白人の船は帰ってきませんでした。それでも私は、しあわせでした。あたりには花の香リがみち、鳥はいたるところで、歌をうたっていました。

 これは、スコット・オデル(文豪スコットの曽孫)という人が事実をもとにして書いた『青いイルカの島』の一節である。ロンツーというのは少女と共に暮らした犬であり、十八年後に無人島で彼女を見つけたニデバー船長という人は、「少女は岬の上にある粗末な小屋に犬一匹といっしょに住んでいて、鵜の羽で作ったスカートをはいていた」と証言している。
 さて、ありえないかもしれないが、もし私たちが天変地異か世界戦争にでもあって奇蹟的に助かったとしたらどうだろう。それも天涯孤独、生存者はおのれのみの一人ぽっちである。だがどれだけ人間に本能的な部分が残されていようが、文明の恩恵にどっぷりつかり切っている現代人にとっては、何を食い、何を着、どこで寝るかという基本的な生命力、いや生存力など皆無ではなかろうか。
 自然はもともと慈悲深くて、生命をうみだし、動植物を育て、衣食住いずれもの役に立つように配慮されているのだろうが、(逆にいえばもともと人間は自然的生物であるはずだが)アスファルトやコンクリートでかためられ、栓をひねれば水やガスが出、スイッチをおすと灯りがつくという生活環境しかしらない非生産的な文明人にとって、自給自足して生存する可能性とはいかなるものか興味はつきない。
 そういう極限状態になったら、私ほど無力無気力な人間はないと思うが、それはそれとして、どういうわけか私は《文明ぎらい》である。これはあくまで生き方としてではなく嗜好的にという意味である。(山や海に憧れながら、週に一度の休みに寝転がってテレビの画面で自然と再会するような状況では、文明ぎらいなんて聞いてあきれる!)小学校まで山村という辺境の地に百姓する大人たちにまじって暮らしてきたせいか、自然のにおいを敏感に感じるタチにちがいない。
 自然の恐ろしいほどの《美しさ》というものは、風景としてのセンチメンタリズムでは決してない。あるとしたら、それは人間が暮らしていくという『生産する摂理』に乗っとたなじみである。つまり、草花が陽光や雨や時にはしめりやかげを好むように、私たちのからだも緑っぽいオゾンや香りたかい大地のぬくもりを好むようにできているのである。自然の力は魔法の力である。土を割って、生命を育て、花を咲かせ、黄金色の実をつけさせる。野をかける獣がより強いものに殺され、食われても、草木が枯れて散っても、やがてみんな土にかえり、めぐりののちに生命をうみだす沃土と変わる。自然の法則とは不思議なものである。
 だがこれは、人間が自然から無意識に受ける畏敬の念である。私は最近読んだ二冊の本『青いイルカの島』『極限の民族』によって、生きていく喜びというのは、本当は自然下の中にいる人間同志が、生産的生活の共同体として無意識にふれあう心の中にあることを教えられた。人間というものは、自然になじむようにできてはいるが、自然から人間存在のすべての喜びを享受することは不可能だ。愛というものは、生存をはるかに越えたものであり、肉欲的な面を含めての種属の仲間どうしとのひきあいにある。自然の映像風景(イマージュ)に美を感じるのは、むしろ文明人的なセンチメンタルな見方ではなかろうか―。
 『青いイルカの島』のカラーナは、部落をあげて新天地に移りすむとき、北米大陸西岸のはるか太平洋上に浮かぶ小さな島、サンニコラス島にとり残された。まだ十二歳の少女だった。史実として記録に残っているのは、ガラサット部落からインディアンたちを運んだ船の船長ハバードの記(少女が海にとびこんだ、一八三五年)と、十八年後にその少女をみつけたニデバー船長の記録(そまつな小屋に犬一匹と住み、鵜の羽でつくったスカートをはいていた、一八五三年)というごく簡単な記録であるが、作者S・オデルは、カラーナの六つになる小さな弟を登場させ、どさくさにまぎれて残された弟を救いに、いったん乗船させられた船の上から海にとびこむ設定にしている。だが、その弟はすぐに野犬の群れに食い殺され、それから十八年間のカラーナの孤独な暮らしを克明に浮かび上らせようとしている。
 無人島での暮らしという点では、はるかにスケールの大きな『ロビンソン=クルーソー』があるという者もいるだろう。それに、この少女の場合、自分たちが住んでいた島への取り残しということで、条件的有利さが物語の緊張感をうすめるという者もいるかもしれない。が、この本についていえば、いかに暮らしつづけていったかというドキュメンタリーな問題以上に、生きることとは何なのかという古くて新しい命題に一つのアプローチを提出していることが、やはり感動的であった。
 草の実や根をあつめ、貝類を割って干し、アワビのからで作った釣針で魚をつり、ゾウアザラシのキバで作ったモリで大ダコと格闘してしとめ、海藻でそまつなカゴをあみ、石ナイフと火で木をたおし小屋を作り、草をあんでふさぎ、クジラの骨を運んで丈夫なサクを立て、獣たちから身を守り、アザラシの強い筋で衣服をぬう……といった暮らしの実際にかなり興味をそそられるし、いっときも不変でない海の色、潮のながれ、波の音にも胸おどらされるが、やはりこの本は女性を主人公とした意図が人間の暮らしの実際を越えたところにあることを暗示されているように思える。
 野犬の群れのリーダーとして唯一の人間であるカラーナを待ち伏せし、追いつめ、殺そうとする大きなからだの黄色い目の犬を、弟のかたきとして、同時に生きのびる手段として、手づくりの矢と槍でついに仕止めるが、なぜかとどめをさす気になれず、家につれて帰り、手当てをしてやる。そして、ロンツー(キツネの目)という名前をつけてやリ、やがて犬の方も愛情(なじみ)を示し、二人でどこにでも出かけるようになった。ロンツーだけでなく、小鳥を育て、タイナーとルーライと名付けていっしょに歌をうたい、傷ついたアザラシを助け、モン・ナ・二ー(大きな目をした坊や)と名付け海にもどしてやる。
 これらの行動は孤独さゆえの飢えという風にもとれるが、動物たちと接するときのカラーナのはねて踊るような生き生きした胸の高なりをみていると、自然の中での動物たちのふれあい―つまり、自然対人間の単一のタテの図式でない、生なるもの同志の讃歌のような深みの喜びを感じずにはいられない。これが文明人がもつ動物愛護と根本的に異るのは、互いに自力で生きていく基盤をもっていることであろう。
 もし万一カラーナが生まれつき一人で暮らさねばならないとしたら、(かつて家族関係やら友人関係がなかったとしたら)こういう触れあいを求めたかどうかは疑問かもしれないが、そうだとしても私には触れあう楽しさを求めていくように努力すると思える。
 この本の感動は、狩猟生活をしながらも、鵜の羽を集めてスカートを作るところにあるのではなかろうか。たった一度、村人たちを犯したアリュート人の船がラッコを取りにくることがあったが、もう誰も島へカラーナを迎えにこないと分っていても、彼女はおめかしして、ロンツー(犬)をお供に岬の日だまりの中を歩くのが大好きだった。キュウリ魚という小さな魚の干したのをランプ代わりに燃やして、毎夜アザラシの強い筋を糸にしてアワビのからで作った針でぬうのだ。これは生活必需品では決してない。暮らしていくのに是非ともいるものでもない。いわば女性にとってのおしゃれの楽しみなのだ。

「ねえ、ロンツー。もし、おまえが、おすでなければ、これと同じようにきれいなのを、ひとつ、作ってあげるのにね。」

 そういって、明るい陽光の中で友に語りかける少女の気持ちは、女としての生命のぬくもりを感じさせる。もちろん、かつて村人たちと暮らしていたときの、男と女のあやしい習慣がそうさせたといえるかもしれない。その通りなのだろう。だが、目の前にパートナー(人間)など望むことが不可能なのは分りすぎるほど分っていて、なおそうしたくてしかたがない気持ちというものは一体何なのだろう。十八年間の一人っ切りの生活を通して、私たち読者が受けるものは、暮らしの苦しさよりも、自然の中にある彼女の強さと美しさであり、いや存在することを楽しんでいる彼女の様子そのものである。
 不思議なことかもしれないが、彼女は一人でいながら、実は常に人間のパートナー、なかまと共にいたということがいえるのではなかろうか。人間の生きていく意味というものが、自然の中で《生存する》ことでは決してなく、自らの中に喜びを得ることであリ、その喜びとは人間である限り人間に対して抱く思慕の念に裏付けされているということを、この本はさりげなく言っているように思えてならない。

朝日新聞編集委員、本田勝一のルポ『極限の民族』は文句なくおもしろかった。ここにも「文明とは何か?」という問題があった。

 この記録の第一の特色は、著者がまず文明国人としての眼鏡をとり、誤解されがちな狩猟民族の生活と心をあリのままにあらせようとした姿勢の謙虚さにある。著者は、文明国人の善悪の規準、倫理観、価値観を彼らに適用することを自らに禁じ、彼らとともに生活し、彼らの生活自体に彼らの秩序を語らせようとつとめている。排泄物や動物の残骸の異臭がたちこめる雪洞式テントに住み、男たちとソリに乗って狩猟に出かけ、いっしょににカリブーの生肉をかじり、腸を吸い、セイウチの生の脂肪を噛みながら、あえて記録者としての小ざかしさを捨て、ひたすら事実への密着をはかったところに、この本の深い感動がまず約束されたといえるだろう。

(竹西寛子「記録と小説」『極限の民族』解説1)

 著者は、カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧民という現代先進文明からもっとも遠いとされている三つの民族の中に入りこみ、共に生活した記録を通して、文明への痛烈で適正な叫び返しを送っている。文明人が思いこんでいる優しさとか情愛とか合理性とか美徳とかいうものが、どんなに身勝手で安っぽいものかを自然の中で暮らしている狩猟民挨の酷しさと優しさの中から浮き彫りにしていて興味深い。こんなふうに図式的に書くと様々な誤解を生みそうだが、この本のことは別の機会に触れてみることにして、ひとまず筆をおきたい。

※『青いイルカの島』S・オデル、藤原英司訳、理論社。 『極限の民族』本多勝一、朝日新聞社。
テキストファイル化小田美也子