『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

7 「小人」のその後…

 書き手にとって時の移ろいというものはどういう変化をもたらすものだろうか。ここ二、三年個人全集ばやりだが、書き手が一つのテーマを追いつづけていても、激しい時代の渦にもまれているうちに、その手法なり切り方は自ずと変わってくるものだろう。十年、二十年、五十年と経つうちに、あるいは文学観自体が大きく変わる書き手がいるかもしれない。それほどでなくても、作品傾向や特色は微妙な変化を遂げるものにちがいない。
 例えば今江祥智氏の場合一九七三年の『ぼんぼん』が一つの転機となっているだろうし、松谷みよ子氏の場合一九七四年の『モモちゃんとアカネちゃん』、寺村輝夫氏の場合一九七八年の『アフリカのシュバイツアー』かもしれない。
 だがこういった作品の変遷といったものは、子ども読者にとっては意味のないものである。彼らにとっては本を手にしているときに、それが面白いかどうかだけが問題である。こう考えてみると、毎年のように新しい読み手の目に晒される児童文学作品というものは、存外にきびしいものである。子どもは大人のようにその作品が書かれた時代背景を考慮に入れる目は持ち合わせていない。そして大人以上に時代の変化をもろに受ける存在である。だからこそ、児童文学作品というものは普遍的であると同時に同時代的(現代的)でなければならないのではなかろうか―。
 こんなことを長々と書いたのは、最近ノートンと佐藤さとるという『小人シリーズ』で著名な作家が、それぞれ長い時のへだたりを越えて続編を発表したからである。
 ノートンが小人シリーズの第一作『床下の小人たち』を書いたのは一九五二年のことである。以後『野に出た小人たち』(一九五五)『川を下る小人たち』(一九五九)『空をとぶ小人たち』(一九六一)と書きつづけ、いったん完結したかに思われていた。しかし、その後二十一年の長い年月が経過したのち続編第五部の『小人たちの新しい家』(一九八二)を書き上げ、昨年末岩波書店より邦訳された。第一作から数えて実に三十一年の長きにわたっている。
 一九五二年というのは、世界大戦という試練をくぐリ、科学文明にかげりを感じはじめたころである。こういう状況をふまえているからこそ『小人シリーズ』が小人の受難を通して人間の悲劇を描いているといわれるゆえんであろう。
 小人一家は、人間に頼って借り暮らしをしていたが、発見され(一部)、追われ、逃げ(二部)、様々な苦難(三部)ののちに捕えられ、見世物にされようとする(四部)。第四部では、明るい展望は示されないながら、ともかく気球にのって脱出し、新しい住み家をみつける決意をするところで幕を閉じている。
 新作にはピーグリーンという足の不自由な一人暮らしの青年が登場するが、野育ちのスピラーと好対照をなすこの若人は新しいタイプの生き方を提示しているといえる。物語の中では「人間(インゲン)」は「文明」の象徴として位置づけられているが、ピーグリーンは文明にドップリつかりながら文明批判をして自らを慰めている大人や、文明に背を向けるもの、文明に夢を託すものとは違って、文明を不信しながら文明を利用して主体的な「生」を営むものとして描出されている。ここらあたりに、八十に手が届く年齢になってなお筆を取らねばならなかったノートンの動機があるのではなかろうか。
 さて、佐藤さとるの場合はどうだろう。『だれも知らない小さな国』が出版されたのは一九五九年であり、新鮮な発想とリアリスティックな表現があいまって本格的なファンタジーとして高く評価された。この作品は同年に発表されたいぬいとみこの『木かげの家の小人たち』と並び、現代日本の児童文学の出発点を飾る作品として位置づけられているが、その魅力は今日なお損われていない。
 当初佐藤は、続編の構想をもっていなかったが、「ひきずられるように」(注1)第二部『豆つぶほどの小さないぬ』(一九六二)第三部『星からおちた小さな人』(一九六九)第四部『ふしぎな目をした男の子』(一九七一)と書きつづけてきた。そして昨年秋久方ぶりに第五部『小さな国のつづきの話』を上梓した。第一部から数えると実に足かけ二十五年が経過している。
 ノートンの場合は、現実と密接に関わりながら絶えず追いつづけてきたテーマの中で、さりげなくではあるが新しい価値の提示を自らに課した結果と思えるが、佐藤の場合はどうであろうか。第一部は鮮やかな手法で現実を写し取ったが、第二部以降はテーマの切り方に質的な変化が見られるようである。佐藤は新作の「あとがき」で児童文学の読者のサイクルという興味深い問題に触れている。

 「わたしは児童文学の読者のサイクル、ということをよく考える。少年少女時代に、ある作品と出会った一読者が、やがて人の親となり、自分の子どもに同じ作品をえらぶことができるようになるまでが一サイクルで、およそ四半世紀、二十五年ぐらいはかかるにちがいない、というものだ。

 佐藤は、新作第五部について一サイクルのめぐリに合わせての締めくくりとして位置づけているようである。ともあれ、めまぐるしく変動していく戦後日本の状況の中にあって、小人たちは現実とどう関わりあってきたのだろうか。細谷建治氏の〈再会のレトリック〉(注2)、樫原修氏の〈現実の似せ絵〉(注3)、宮川健郎氏の〈状況に通じる回路の不在〉(注4)といった指摘は、「これからあらためて新しいサイクルに立ち向かう」(注5)佐藤の小人シリーズが、今まで以上に面白くて心に残る作品になるための不可欠な検討事項の一つになると思われる。しかし、同時にそれ以上に大切なのは、小人たちが現実と無縁であればあるほど、その神秘な美しさ、存在の愛苦しさを自由にふくらませられる、という読者の≪ミニチュアリズム≫をどう受けとめていくかという問題ではなかろうか。
 「メアリー・ポピンズ」シリーズで著名なトラヴァースも、新作『さくら通りのメアリー・ポピンズ』を発表した。(注6)第一部から数えると実に半世紀に近い年月が流れている。ノートンは七九歳、トラヴァースは七六歳、ちなみに「グリーン・ノウ」シリーズのボストンが第六部『グリーン・ノウの石』を書いたのが八四歳、「ミス・ビアンカ」シリーズのシャープが『勇者バーナード』を書いたのが七一歳……と数えてみると、イギリスという国は、特に女性にとって年とともに感性が研ぎすまされてくる国柄かと思えるほどである。

注1、5 佐藤さとる、「あとがき」『小さな国のつづきの話』講談社。
注2 「コロポックル小国盛衰記―その1・前史」『日本児童文学』一九七八・三。細谷は「かぺの中」と『だれも知らない小さな国』との酷似性を指摘し、「この《何かをふいに思い出して、それに執着しつづけて、再会するという心のパターン》は、佐藤さとるの場合、作品形成上の、一番根っこのところのモチーフになっている」と説く。
注3 「子供たちの時間」『国文学解釈と鑑賞』至文堂一九八三・十一。樫原は「小人たちの実在が無条件の前提となり、その小人たちの営む世界が描かれた時、(略)現実の似せ絵にまで矮小化してしまう」と説く。
注4 「日本児童文学のきのうときょう―『楽園』とその喪失」『日本児童文学』一九八四・二。宮川は「〈楽園〉をうしなっていくのが戦後日本の状況だったとすれば、〈楽園〉を温存する『コロボックル物語』は、状況に通じる回路をもちあわせないことになる。状況からとざされた〈楽園〉、それは、むしろ〈牢獄〉と呼ばれるのがふさわしい」と説く。
注6 荒このみ訳、篠崎書林、一九八三・十二。
テキストファイル化小田美也子