『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

6. 非行の書、人間の書

 児童文学が曲がり角にきているとか、混迷の中で道を失っているとか、メッキの繁栄だとかいわれて久しい。思えば十年前(昭和49年)の石油ショックによる諸コストの急激なアップで市場が大打撃を受けたとき、児童書業界も例外ではなかった。しかし、コストダウン、定価アップ、販路の見直しなどでどうにか乗りこえ、80年代を迎えたころから徐々に足場をかためているようである。ここ数年三千点近い(出版科学研究所調べ)新刊点数を生産していることや、相変わらずの課題図書熱(82年「さとこの日記」売上40万突破)やこの市場に進出する企業の絶えないことを考えると、メッキであれ、非メッキであれ、素直にこの繁栄(?!)を喜んでいいのかもしれない。
 曲り角という点では、70年代の後半ごろからそれを裏付ける大きな特徴が確かにあった。不況が残したものは、編集者に徹底したプロ意識を植えつけることであった。つまり商品価値というものを見極め、それを具体化するプロセスと方法の確立であった。過渡期には原稿依頼が中堅作家に以上に集中したり、大型作家の全集という形で現われたと思えるが、80年代後半を迎えて、結構新人の作品も出てくるようになった。商品価値さえあれば、巧みに売りさばく道を作れることが分かったからであろう。
 児童書における商品価値とは何なのか、という問題は児童書市場に固有の経済方程式から解き明かし、考察しなければならないが、少なくともここ数年の状況をみると、非常に危険な賭けをしているようである。
 主として、小学中級以上に現われている、子どもをとりまく状況をストレートにとりこんだ作品の量産とも思える現実である。子どもの非行、暴力、セックス、心身の病い、両親の不和、離婚、死別、アル中などによる暴力― といった苛酷な現実を土俵にしている作品の多いことである。
 かつて神宮輝夫は「1960年代の中頃から、イギリスをはじめ、あちこちの国々で、児童文学に登場する子どもの姿が変わってきた」(「児童文学の中の子ども」NHKブックズ1974)と述べた。その変化を象徴するものとして、神宮は“子ども像の変化”をあげているが、こどもが一方において社会の産物とするならば、大人をも含めて現実が大きく変わっていることと無関係ではない。
 英米や北欧などを中心に、現実とのせめぎあいの中で生き悩む子どもたちを扱った作品は、70年代に入ってますます増加したといえる。日本でも、松谷みよ子氏が「モモちゃんとアカネちゃん」に離婚の問題をもちこんだことが話題になったり、今江祥智氏が「優しさごっこ」で父と娘の生活を描き、テレビ放映されたりした。
 しかし、昨今の作品を眺めてみると、「子どもをみつめること」から出発するはずだった児童文学がようやく第一歩を踏み出したと手放しで喜んでいいのか考えてしまう。
 私も非力な編集スタッフの一員として、毎日なにがしかの同人誌、文芸誌、新刊書に目を通してきたが、80年代に入ってから、子どもの非行や暴力、心の病いなどを扱った作品が増えてきた。商品になっている作品もそうだが、同人誌などに依拠する若い世代の書き手にとくに顕著である。
 彼らに共通しているのは、現実とのせめぎあいの中で生きる子どもたちの中に分け入り、ともに考え、悩み、一歩でも(何かにむかってか?)前進しようとする熱意であると思えるが、残念ながら“現実”をうつしとるに急なあまり、そういう重く苦しく深い状況の中で生きつづける人間としての意味への洞察が稀薄であることはいなめない。
 児童文学評論研究会の100回記念シンポジウムにおいて、石井直人氏が「82年に多く出版された、いわゆる非行を扱った作品群が、あまりにまとまりよく描かれていて、非行に走る子どもの意識にまでは切り込んでいないのでないか」と問いかけたことが、青山和子氏によって報告されている。(「日本児童文学」1984年3月号、偕成社)
 それにしても、昨今の状況はすさまじい。問われているのは、社会であり、文明であり、それらを築き上げてきた私たちを含めた人間そんのものであろう。児童文学関係の雑誌でも家族や家庭、母親や父親の役割などについて熱っぽい特集が組まれた。また、東北大学病院で日本で初めての体外受精児が誕生したとのニュースはまだ新しいが、今後もあらゆる原則に対して思いもよらぬ挑戦が投げかけられるだろう。
 最近の厚生省の調査によると、現代っ子は物はタップリで、「子ども部屋は八割、専用テレビ10人に1人、ステレオ5人に1人、自転車90%― 衣食足りて礼節ゆらぐ、根気創意に欠ける」と報告されている。礼節が人と人との真のコミュニケーションを円滑にするかどうかは別としても、そのことによって子どもたちは何を得ているのだろうか。
 一方、同じ厚生省の報告で、「子どもの5人に1人が親とべつべつに食事をとる」となっているが、大人にもまして子どもたちは孤独な状況におかれているのである。
 子どもたちの現実を描こうとすれば、いきおい暗く重く深く真剣にならざるをえない。理想主義の文学を望む大人には異和感があるかもしれないが、子どもが文学に求めているのは文学を通じて現実の複雑な体験を自分のものにすることである。言葉をかえれば、子どもたちの最大の関心事はアイデンティティ(自己確認)以外にないともいえる。
 現在、子どもたちは複雑で酷しい現実の中で多くの問題を抱え、自らの生き方の道を真剣に模索している。児童文学は文学である以上、それらの状況の中で子どもとして(また人間として)いかに生きるかを探求するものでなければならない。ここのところの洞察が弱ければ、(マスコミに便乗した形での)テーマと材料の話題性ゆえに市場に流されたとしても、子どもたちは見向きもしないという不幸な結末に終わるかもしれない。
 神宮輝夫は、前掲書の中で、「私は、児童文学を、大人の最良の人生を求める願望と、子どもの自己確認の間に成立する文学であると思う」と主張した。また、猪熊葉子は、「現実の表面には、うっかりしていれば子どもを損うことになるものが数多く存在する。そのような現実の中から、子どもにとって真に意味のあるものをすくいあげて表現を与えるのであるから、大人の作家の責任は大きい。そこに児童文学の「芸術的要素はしばしばこの責任の問題と緊密に結びついている」というヒルディックのような作家の意見が出てくる」(「児童文学のジャンルとその文学性」「児童文学とは何か」明治書院収録)といった。私たちは、このヒルディックのことばを心から受けとめねばならないだろう。
テキストファイル化山本祐子