『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)


10.書くことの意味― 「子ども」との再会

 児童文学というものが存在することを知らなかったころ、私は「何故書くか」などと改まって考えたことはなかった。高校時代に宮沢賢治に出会い、大学時代に岩波少年文庫を通して、デ・ラ・メアやファージョンを知ったが、書く対象として私の中に児童文学が存在するようになったのは、ずっとあとからだった。
 そのころ私は意識はしていなかったが、書く必然性をもち、書く行為に熱中していた。“文学”という芸術行為をめざしていたのではなく、私の内にあるものを外に出す必要性に迫られていた。
 分かりやすくいえば、私は一種のノイローゼ状態にあり、私の内にあって私を不安におとし入れ、脅迫し、追いつめ、襲いかかるものと戦っていた。それは不確かな形をした私自身の影であることは察していたが、私には見たり、触れたりすることはできなかった。
 私は何ヶ月も不眠状態になり、自爆自棄になり、植えた狼犬のように見知らぬ町を彷徨した。<いま>という瞬間からの離脱、<自己>という存在からの逃避、自己をとりまく<状況>からの忘却― それはひたすら歩くことであり、疲弊することであり、そののち1度もなじんだことのない<風景>にもぐりこむことだった。
 私は、人にはあまりあわなかったが、たくさんの町、たくさんの港、たくさんの通りと出会った。みんな煤けたような古い町であり、忘れたようにひっそりとした通りだった。私は、いつのまにか、もう一人の私自身から離れることにより、つかのまの安らぎを楽しむようになった。
 しかし、私には逃れることなどできるはずはなかった。私がせっせと足を運んでいた場所、ひたすら私を忘れることができると思っていた通り―、それは私にとって未知の場所ではなく、みんな子ども時代になじみ深い風景だった。
 私は、無意識のうちに、坂と曲がり角をさがして歩いていた。それも一方がゆるやかな坂であり、斜めに交叉している三叉路を好んでさがしていた。
 それが、私が9歳のときに10歳の姉が三輪トラックにはねられた道だと分かったとき、私は道につっぷして吐いた。
 そのときから、もう私は逃げないでおこうと思った。私を追いつめた目に見えない<影>は、子ども時代に目撃したたくさんの死が積み重なり、くっつきあってできたものだった。つまり、子ども時代の私がつくりあげたイメージだった。
 私は恐ろしかったのだ。それは死そのものの恐怖というよりは、死ととなり合わせに存在している<生>の不条理性のためだった。
 
あの日から、24年の歳月が過ぎた。
 九つだった少年は、かけ足で父の年代に追いついたが、少年の胸の中にいる少女(姉・久子)は、今も十歳のあの日のままである。
 不幸にも目撃を強いられた死は、二重の意味で幼い少年にのしかかった。それは「死」の魅感的な恐ろしさと同時に、錯乱状態の中で子を想う母のすさまじさ、美しさを教えてくれた。
 あのころ母は、少女をとりもどしに、死の世界まで深くわけ入っていたのだと思う。
 堀田全彦君、河崎一郎君― 彼らもまた幼くして死を選んだ。ぼくの胸の中で幼い少年少女がとけあい、いつのまにか一匹の<鬼>になって住みついた。そいつは、期待していたぼくの死をまちきれなくなったのか、あるいはせまいぼくの胸の中では耐えきれなくなったのか、ある日突然バリバリとぼくを突き破って、ぼくというぬけがらを引きずって駆けだした。
 そいつは「マダラの鬼六」や「目一つのずんべらぼう」や「ゆうれい波」のように、ウォーイと大声でほえながら、生と死がつみ重なった<熱い土>の奥へ奥へ、<母なる大地>のむこうへむこうへと、狂ったように疾走しだした。
 もっともっと、もっと、もっとむこうへ!まるでぼくをつれて走ることだけが、そいつのわがままな生だった。ぼくは、そいつからぼくの生をとりもどすために、さらにむこう新しい世界をつくりださねばならなくなった。そういうわけで、この作品群はでき上がった。

 これは、私の最初の短編集「ウネのてんぐ笑い」の<あとがき>の文章の一部である。これを書いてから、はやくも十年近い歳月が流れてしまった。
 この十年間は、私が児童文学を発見した道筋であり、そのことにより予期せぬ苦悩と迷いを抱えこんだ日々でもあった。
 はじめに「マダラの鬼六」があった。「目一つのずんべらぼう」があった。「ゆうれい波」があり、「おゆん」があり、活字にならなかった多くの短編群があった。これらは、私の内から必然的に生み出された作品であった。
 しかし、私は<児童文学>というレッテルを貼られた本をいく冊か出すことにより、何を得ただろうか。二つの全く質の違う問題が私を納得させたり、とまどわせたりしたのは事実だ。私は、長い間のノイローゼ状態に一区切りをつけ、内心ホッとしながら、自分以外の者が創作した子どもの本を読むことに楽しみをみつけることができた。
 不幸なことだが、それは長つづきはしなかった。自身を有能な作家だと自惚したがるもう一人の私が、それまで考えもしなかった状況を前にして、我然頭をもたげはじめたのである。つまり、書くことにともなう諸々の要素を意識しはじめたのである。
 書くことにより、私はなにがしかの支払いを受け、尊敬と錯覚してもよいものを受けとった。また、地域の読書運動や子どもの本の普及活動に助力や助言を求められたりした。そして、私はそのことにより、今まで経験したことのない課題を自己に課そうとした。
 私は作家になろうと思った。作家のままでいたいと思った。私は作品を書こうと思った。次々と課題作を量産しようと思った。私はテクニックを研こうと意図し、実行した。
 先達の文章を盗み、発想をなぞり、構成の形を写しとった。毎日ニ冊もの本を読み、とくに気に入った表現を暗唱した。読者である子どもの意識をさぐろうとし、様々な調査やレポートを読んだ。心理学や医学や美学の本も読んだ。直接子どもに会い、話を聞き、質問をした。
 そして、私は最初の一行を書いた。
 ひろい海のまん中に、たまごが一つうかんでいました。

 しかし、二行目がどうしても浮かんでこなかった。(二行目を書くために、私は六年の歳月を待たねばならなかった・・・・)何故なら、私は私の内にあるものに形を与えるのではなく、私の内にないものに生命を与えようとしていたからだ。
 それでも、なお私は作家になるためのスパルタ式訓練をつづけねばならなかった。もう、どんなにひねりだしても、自分の中に何も残されていないのを認めるのは辛かったのだ。私は<児童文学>の正体をつかむために、悪戦苦闘をした。
 そして、ピアスの次の言葉に出会った。

 物語の着想というものは、何週間も何ヶ月間も、おそらくは何年間もの間の経験から、たぶん生まれたその日以来積んできた経験のなかから湧き出てくるものであるということ― これまでに見たもの、聞いたもの、したこと、感じたこと、考えたことなどから湧き出てくるものだ、ということを信じています。しかし、そのような着想というものは、実は誕生以前の経験から生じるものなのではないか、と最近になって私は考えるようになってきているのです。(注1)

 私は、物語の着想(種)というものが、「誕生以前の経験から生じる」という言葉に出会ったとき、ガツーンと頭をなぐられたように目が覚めた。私は、自分の内にある<種>を育むことを忘れ、小手先で形を作ろうとあせっていたのだ。
 書くという行為は一体何を意味するだろう。私はこの問いの中に深く深く沈んでしまった。皮肉なことに、作家というものは、こういう問いがくり返し見えてくるとおしましのようである。書くという行為は、何か(目的)に付随して出てくるものであり、それ自体では成り立たないものである。
 私は「マダラの鬼六」を書いたとき、私の胸の中でふくれ上がってくる私であって私でない<影>の荒々しい力に圧倒されていた。それは、どうにもならないこと、誰もがどんなにそうしてほしいと願ってもどうすることもできないことへの怒りであり、焦燥であり、突然の噴出であった。
 私は「おゆん」を書いたとき、私の胸の底に張りついて冷たく冷たくなっていくたよりない<影>のことを感じて、苦しみ、とまどい、放心状態になっていた。私は冷たい湖の底に沈んでゆき、うすく引きのばされた<影>となって、もう光あるものと話をしたり、流れるものたちと触れあったりなどできないことを悟っていた。
 あとになって感じたことであるが、初期の作品のいくつかには、実際私の身に起こったことが、そっくりそのまま書き表されていた。それは、悲しいことだが、たくさんの<死>と結びついていた。

 おお、「死」よ、老船長よ、時は来た!
 錨をあげよう!
 僕等は退屈だ、この土地で、
 おお「死」よ!船出をしよう!(注2)

 死は私の中にもあった。それは私自身のおぞましい<影>であった。私はそれをどうすることもできなかった。それは「おゆん」でもあった。
 おゆんの母が三つ子を産むことにより、一家は迫害を受ける。父は酒におぼれ、家も土地もとり上げられる。日照りがつづき、池が干上がりそうになると、おゆんは雨乞いのいけにえとして池の主の白龍大王に捧げられる。
 おゆんは追いつめられていたのだろうか―、 いや、追いつめられていたのは、おゆんを<死>に追いやった村人たちだったのだ。
 おゆんはうすっぺらくて、まるで存在感がない。おゆんは死ななくてもよかった。おゆんは非現実的な存在だ― こういう意味の長い長い批判を私は受けとった。ある集まりで、受講生の主婦たちが、おゆんは子どもに読ませるべきではないと、口をそろえて私にいった。
 しかし、私は子どものことなどどうでもよかった。そして、同じ意味でおゆんのことなどどうでもよかった。
 私は書きたかったのは、おゆんを死に追いやり、おゆんの死に対して何もすることができない人間たちのことだった。そうしたいと願いながらそうすることもできない人間たち。そうしたいと願っていないのに、そうしたらよかったと後になって口をはさむ人間たち。
 私は、いや敢えていうなら、私たちはこの二種類の人間を同時に内在させているのだ。それは、ユングのいうペルソナと<影>との関係なのだ。(注3)おゆんのことなどどうでもよかった。書きたかったのは、おゆんの死を手放しで見物している側に<読者>も位置していることを伝えることだけだった。私たちは<影>から逃れることなどできないのだ。
 1975年まで、主として<101ばんめの星>という同人誌に拠って創作していた意味は以上のようなものであった。
 私は次の段階を迎えなければならなかった。それは、私が「何故書くか」という意味を通して、文学の本質をつかむことだった。それは、様々な研究書やレポートや運動の中にあるのではなく、私という一個の人間の中に存在するものだった。
 私は私の中にある<種>を信じ、それが芽を出すときまで、眠っていることにした。ゆったりと寝転びながら、私の作品が何故<児童文学>という範疇に属するものか、ぼんやりと考えてみた。つまり、私の内にあるものを外に出す方法として、児童文学というものがどういう特徴をもっているかを考えてみた。
 古田足日は「ぼくは児童文学の現状をどのように見、どう向かいあおうとしているのか」(注4)という論文のしめくくりの文章として、「60年代初期児童文学像を基礎に、そのイメージをもっとあきらかにすることと、以上三点、思想・創作方法・子どもの追求、これをやっていくことで現状を突破したいとぼくは思っています」と述べている。
 私は「創作方法」という言葉に強くひかれた。それさえ見つかれば、私の内にまだたまっていると思われるエネルギーに蛇口を取りつけられると思ったからだ。
 しかし、方法というものは、他の二点の思想と子どもの追求と分ちがたく結びついているものだった。このことに気付くのにさらに長い歳月を要した。
 私が一歩でも前進したと思えるのは、方法に関して、物語という形式を学んだためである。それは「エルマー」や「ちびっこカムのぼうけん」や「三匹の高貴な猿」や「指輪物語」や「ナルニア」や「プリデン」や「骨の城」に負うところが大きい。

私の場合、フィクションの創作は、きらいなことや苦手なこと、例えば、抽象作業や言語による論証などからの逃避だった。私は今に至るまで論証よりイメージを持つほうが得意で、大学時代は、私をおしえようとした人たちも、これにはさじをなげていた。(略)フィクションなら、登場人物の後ろに隠れていられるし、何事も即座に結論を出さなくてよい。ところが、不運にも、フィクションを書いてそれが一応みとめられると、なぜ、どのようにして、などと人びとが作品についてあれこれたずねはじめるときがやってくる。(略)もちろん、その気がなければ質問に答える必要はない。しかし、しばらくすると、その質問は、いやおなく私の心をとらえはじめる。(略)そして、それはついに私をして・・・・何と答えさせえるのだろう?形式(フォーム)だと思う。私は、形式(フォーム)という概念にとりつかれていることに気づいた。(注5)

 「骨の城」や「冬の日のエマ」などで著名なファーマーは、児童文学(フィクション)を書く理由に、形式という問題をあげている。つまり、「自分に適した方法と形式で書く以外に、自分を効果的に表現することはできない」ということである。
 ファーマーの指摘した形式とは、<物語>の構成である。近代になり、小説が個の内へ内へと向かうことにより新しい形式を生み出したが、そのときに見捨てられた叙事詩や英雄譚や伝承話といったものが基本的にもっていた物語の形式である。
 つまり、ものごとが起こり、力強く発展し、大胆な展開を見せ、山場を迎え、充足して幕を閉じる― という形である。これを別のことばでいえば、児童文学には明確で最も調和のとれたプロット(筋)がいるということである。物語の中で筋が発展していくのは、人間の成長とよく似ている。そして人の一生というのは、あらゆる意味で最も美しい物語の原型であるということが言えるのではなかろうか。子どもの文学は、物語の本領である。私の中にも物語の種が芽生えている。このことに気付いたのは、病院のベットの上だった。それは、いわば私の中に潜んでいた子ども時代の私との再会であった。

 人はみんな心の奥に自分の叫びをもっている、といわれています。それは、コトバや歌のように作られたものではなくて、無意識のうちに流出してくる人間存在のエネルギーのふるえのようなものかもしれません。ぼくがそのことに気がついた、病院のベットの上でした。
 長い間ぼくの視野に入るものは、白い天井と窓から見える小さな四角い空だけでした。この春(昭和55年)腰の手術をしたため、身動きすることができなかったのです。ぼくは、一日一日と連続する限りない時間の中で、とろとろと夢ばかりを見つづけていました。目覚めているときは、それまで見たきれぎれの夢をつぎはぎ細工のようにつなぎ合わせて、幻像が叫んでいるもののことを考えようとしました。
 そうしているうちに、いつのまにかさまざまな時間が混ぜ合わされ、ぐるぐるまわりだし、しびれるような懈怠と疲極のむこうに、ぼくは不思議な風景が透けてくるのを見ました。
 果てしなくつづく薄墨いろのひろがりを切り裂くように、一人の男が走っていました。男が、手にし棒切れのようなもので虚空をたたくと、そこらじゅうがちかちかとふるえ、男の走り去ったあとから、闇が群青いろの空と黄金いろの野にわかれて、球形のひろがりをどこまでも伸ばしていくのです。
 ちかちかと鳴る音色や、風のようにかけるさまが、あまりうきうきと楽しそうなので、ぼくは負けずにかけながら、男の顔を一目見たいと思いました。男といっしょに毎日かけているうちに、とうとうぼくは男と顔を合わすことができました。

 これは、私の四冊目の作品「花あかり」のあとがきの文章である。
 私が出会った男というのは、「ひろちゃん」である。ひろちゃんは、姿や形は大人であったが、言動はいつまでも子どものままであった。ひろちゃんは、百姓家の雑役をやらされていた男衆(おとこし)であった。
 私が想念の中に見たひろちゃんは、村祭りで踊っているひろちゃんだった。別人のようなすばやい身のこなしや、まぶしいばかりの笑顔は、私に忘れていたさまざまなことを思い出させてくれた。
 身動きのできないベットの上で、それから私はいろいろな人に出会った。私は不思議なことに、五歳の私や八歳の私、そして十二歳の私にも出会った。

 あの子どもはどこかにいるのです。まさに目に見え、手にふられるような具体的なかたちで。彼はまるで、どこかに引っ越していってしまったみたいに思えるのです。私は彼のことがひどく気がかりですし、彼には大きな関心をもっています。私はいつも彼と連絡をとって、いや少なくともとろうとしています。私が一番恐れていることの一つは、彼と失ってしまうことです。

 これは、インタビューに答えた絵本作家センダックの言葉である。文中の「彼」とは、センダック自身の子ども時代の分身のことである。
 私は、センダックのように「彼」と連絡をとろうとした。しかし、「彼」は気紛れで自惚れがつよく、すぐに姿を消してしまう。私は根気づよく現われるのを待つことにした。
 私は「彼」との接触がうまくいくように、子ども時代にことを調べはじめた。幼年時代を過ごした島根の山村や小・中学を暮らした町へ出向いて、記憶の不鮮明なところを補なった。
 私は一種の懐古趣味におち入っていたかもしれない。しかし、確実に言えることは、私は子ども時代をありのままに受け入れようとしていたことだ。

 私はそれまでディケンズやローレンスやボードレールといった人たちの文学を悪用して、自らを慰めていました。残された多くの人生に目を瞑り、喪失したわずかばかりの人生の中の<至福の幼年時代>に想いを馳せ、無垢によって虚飾された甘美な死の匂いを嗅ぐことに熱中していました。子ども時代と言うものを、私をその魅惑的な寝顔で誘った同朋たちの死と、それよりはるかに多い想像力によって一層美化した死とによって、堅く封印してしまっていました。

 1981年、「現代児童文学の世界」のあとがきで、私はこう記した。
 私が封印を解くことができたのは、「彼」、つまり子ども時代の私との再会のおかげである。私は、子ども時代をさぐることにより、たくさんの「彼」に出会った。
 しかし、私は子ども時代や「彼」について、忠実になぞろうとする気はない。「彼」が私に贈ってくれた最大の価値あるものは、遊び精神だった。
 私は「彼」と一緒に、洞窟の探検や、水を切る石投げ合戦や、川遊びや山登りを楽しんだ。一番楽しんだのは、なぞかけ遊びやお話ごっこといった想像力を駆使した遊びだった。
 私は「彼」との遊びの世界の中で、お話の<種>が自然に芽を出すのを待った。

 ひろい海のまん中に、たまごが一つうかんでいました。海のたまご(もしそんなものあればの話ですが)かと思えるほど大きなたまごでした。
 たまごは、正確にいうと、海にういているのではなく、サルガソウとよばれるながれもの上にのっていました。(「海のぼうや」)

 六年前に一行しか書けなかった<物語>がこうして完成した。
 これは紛れもなく「彼」と私の共同作業ではあったが、私はあまりにも「彼」に頼りすぎたようである。

 1975年ミュヘンでプロイスラー氏(注7)に会見するという好運に恵まれたが、氏は自身の創作行為になくてはならないアシスタントとして、彼の八歳の息子のことを話してくれた。八歳の息子を通して、彼は子ども時代の自分自身とも対話していたのである。
当然のとこだが、彼は子どもは有能なアシスタントであっても、文字を操る魔法は大人の<アート>に属するものである。内側にどんなすばらしいワインがつまっていても、蛇口がつけられなければどうしょうもない。
しかし、蛇口をつくる技を研くことは何人にも可能なことである。創作者にとって、もっとも恐ろしいことは、自身の中にどんなに探しても一つぶの<種>も見つからないことである。

 子どもを描くことによって一から出直そうとながう者と、ただあと戻りしたいためにそうする者がいることも、おそらく驚くほどのことでなくなるだろう。(注8)

 こういったのはピーター・カヴニーである。私はすんでのところで救われた。偉大な作家になるかどうかは別としても、とにかく私は出直すことができそうである。
 書くことの意味が何にあろうと、私は「彼」とのごっこ遊びの世界に今まで味わったことのない<楽しさ>を得ることができた。
 私がさらに欲深い人間であるとすれば、アーサー・ランサムが自身が経験した<楽しさ>を、筆をとってもう一度楽しみ直したように、私もまた物語という形(フォーム)の中に改めて表現することができるかもしれない。
 ともあれ、私は「彼」の想像力をつなぎとめられるだけの<アート>(文章力)を身につけねばならない。

注1: フィリッパ・ピアス、猪熊葉子訳「種から木へ」海外作家インタビューシリーズ補足・その一「子どもの館」1974年10月号、福音館書店収録。ピアスは「トムは真夜中の庭で」や「まぼろしの小さな犬」を書いたイギリスの作家。
注2: ボードレール、堀口大学訳「旅」「悪の華」新潮社、収録。
注3: スイスの精神科医で、心理学者であったC・G・ユングは、人間の心の中には意識されない深層があり、それは人間の営みに密接な働きかけをしていると説いた。心の中にはペルソナと呼ばれる「外界に向けて見せるべき自分の仮面」や「自己と相対立する影」というものを存在させていると主張した。
注4: 「日本児童文学」1974年5・6・8月号、すばる書房盛光社に連載。
注5: ペネロピ・ファーマー、神宮輝夫訳「パターンの発見」「とげのあるパラダイス― 現代英米児童文学作家の発言」偕成社、収録。
注6: N・ヘントフ、清水真砂子訳「かいじゅうたちにかこまれて」「オンリー・コネクトIII」岩波書店、収録。ヘントフが「かいじゅうたちのいるところ」の絵本作家、モーリス・センダックにインタビューし、それに答えたセンダックの文章。
注7: プロイスラー氏は「大どろぼうホッツェンプロッツ」や「小さい魔女」で知られる西独の作家。
注8: 江河徹訳「子どものイメージ」紀伊国屋書店。
テキストファイル化山本祐子