『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

7 魅力ある子ども像――『赤毛のアン』を通して

 一般に、文学作品というものが、その時代に生きている人間の思想や行動、生活を描くことによって、読者に単なる娯楽や教育の対象としてではなく、いわば人生そのものへの興味と感動をひきおこすものであるとするなら、何よりも「人間」がいかによく描かれているかが最も大切なことであろう。/つまり、文学が「人間」を描くものであるなら、必然的に児童文学は「子ども」を描くことだといえる。

 鳥越信は『児童文学の世界』(鳩の森書房)の中でこのように述べた。児童文学の本質である〈おもしろさ〉を説きながら、日本児童文学の不振と停滞を「個性的な児童像が、児童文学の上でかつて登場したことがない」という事実によって示している。
 たしかに、文学の面白さの条件の一つに、キャラクターの魅力ある造形が存在するのはいうまでもないだろう。トム・ソーヤ、ジム・ホーキンズ、エーミール、ネメチャク(パール街の少年たち)と並べてみても、すぐその特徴のある顔が思い描ける。
 こういった少年像に対して、アリス(不思議の国のアリス)、ハイジ(アルプスの山の少女)、ジルーシャ(あしながおじさん)、アン・シャーリイ(赤毛のアン)といった少女像も鮮明である。
 今回は、十一歳の少女アンを通して、その魅力ある造形を眺めてみたい。
 L・M・モンゴメリ女史が『赤毛のアン』を書くようになったのは、偶然古い手帳の中に、孤児院の少年をもらいたいと申し出た老夫婦の許へまちがって少女を送ったというメモをみつけ、このすばらしい書き出しによって作品世界が一気に開けたと、角川版の「あとがき」(注1)に書かれている。確かに、女の子のことを考えるだけで身が縮まる極端なはにかみやの老マシュウが、まちがって赤毛でそばかすの少女を馬車に乗せて連れて帰らねばならない劇的で巧みな序章を読むと、物語のおおよその展開まで押しひろげて見せてくれる。しかし、実際家で物事にけじめをつけたがるマシュウの妹マリラにしても、結局はアンを受け入れ、アンも村の中で友人をみつけ、事件をくり返しながら成長していくであろう……という予測は読者によっては、作品世界を狭められると感じる場合があるだろう。
 ところが、例えば同じく十二歳の少女がおじの屋敷に引き取られるところから始まる「フランバース屋敷の人びと」(注2)の場合はどうだろうか。この作品は、のっけから落馬してひどいけがの少年、がんこで酒びたりの乱暴なおじ、荒れはてた屋敷というように、その後の少女の運命を展望する手だては少ない。これは〈家〉にいくまでの設定(人のよいマシュウと飲んだくれのおじ等)のちがいに負うところが多いと思うが、決定的な差異は、アンには孤児院を経過せねばならなかった悲惨な運命背景よりも、子ども性の一つの象徴である楽天性が色濃く現われているのに比べ、クリスチナには同じ位に不幸な生きざまからくる孤独感の方が勝っていたからかもしれない。
 『赤毛のアン』には、何かとまどいを覚えさせるものが存在するようである。
 しかし、それは出発点の違いや、少女を主人公とするロマンチックな作品への私の偏見からくるものではない。グリーン・ゲイブルズが設定上もたらしている精神的価値の包容力(温かさ、優しさ、安穏さ)が、読み手にとっての好奇心を幾分せばめてしまい、十一歳の少女の前途の波瀾をガラス越しでみるような安心感にすりかえてしまっていることと関係があるようである。
 しかし、これもとまどいとは直接関係がない。問題は、そういったことを別としても、そして少女物語への嗜好や偏見の次元を別としても、読み進むにつれて、いつのまにかアン・シャーリイの魅力にまんまと捉えられてしまい、その奮闘ぶりに拍手さえしている――そういう自分に対するとまどいであるようである。
 この作品を読みかえしてみて気付いたことだが、実は物語の節々でいとも簡単に泣けるのである。この涙というものは、安っぽいメロドラマや、図式的なナニワブシほど軽いものではない。だが、しかし――。これだけの涙の重さを読者に見せながら、読了したのち「何かをのりこえたか」と大上段に問われれば、しどろもどろに迷ってしまうのである。

 「今はそこに曲がりかどができたんだわ。そこを曲がった所に何があるか知らないけど、最上のものがあると信じようとしているの。曲がりかどって、魅力があるわよ、マリラ。その先の道がどんなふうにつづくか、――緑の栄光や、光と影につつまれた何があるのか、――どんな風景が、どんな新しい美しいものが、どんなカーヴや丘や谷が、その先にあるのか、――」
(角川文庫版以下同じ)

これは物語の結末で、マシュウの死を体験したのち、マリラに向かってアンが話す言葉である。老人たちとちがって、少女アンには確かに進んでいく道の向こうへの希望と喜びがある。
 そのことに異議はないが、では曲がりかどの向こうにどんな道をモンゴメリーは描いたといえるのだろうか。
 かつて少年期に読んだ本の中で今も残っているのはごくわずかであるが、それらの本は確実に一つ乗りこえ、一つ曲がり角をまがらせてくれた。つまり、自分の心の地平線がぐっと広がった感じがしたものである。
 『赤毛のアン』に不足しているもののことに言及するのはやさしい。例えばマシュウやマリラはともかく、リンド夫人や教師のミス・ステイシィ、牧師のアラン夫妻などのエヴォンリーの住人たちがそれぞれ個性や生きざまは違っていても、つまるところ善意にあふれすぎているとか、アンを取りまく現実の社会背景が、グリーン・ゲイブルズの雇われ人、ジェリイ・ブード少年やマーチンという下層の人々の暮らしにまったく触れていず、とき折り出てくる政治問題もおしゃべりの枠を出ていないなどから察せられるように、表面的な捉え方に終わっているとかいうのはやさしい。
 これらは、一九○三年に書かれた『赤毛のアン』と一九六七年の「フランバース屋敷」との時代の違いからくるものかもしれない。問題(読み手のとまどい)は、もっと別なところに起因していると思える。それは、恐らくモンゴメリ女史が、悲惨なアンの人生と共有する側の論理よりも人生模様に透かせて、かつての自分を振りかえってみたときの(ノスタルジアとは異質な)少女時代への《想い》を込めるのに性急すぎたということにあるのではなかろうか。アンとマシュウとマリラの三人三様のからみからくる、人間への信頼と不信、無常への反抗と諦観――これらの生きる命題の奥底にある幼児性を秘めた人間そのものへの真一文字の《想い》。アンを共有する部分とアンを所有する部分を持った人間の喜びと悲しさを時間(幼時→少女→大人)という縫い針で貫きとおすこと。『赤毛のアン』にあっては、虚なるものは善悪、美醜をのみ下す人生模様であり、実なるものは価値基準をこえた不変なアンの少女性(子ども性)である――といったふうなことに……。
 子ども性を秘めたアンという少女は一体なになのだろう。『赤毛のアン』の冒頭に添えられたブラウニングの詩「よき星の下に生まれし者は、精なり、炎なり、露なり」はアンの純心さを象徴している。ブラウニングより早く十八世紀末ロマン派詩人として活躍したW・ブレイクは、詩集『無垢の歌』の中でも子どもを「喜びのために生まれた小鳥」とうたい、この思想がその後の児童文学に大きな影響を与えたといわれているが、アンはまさに《歌う小鳥》である。もちろん神のように汚れなき小鳥ではなく、自己主張をもち、想像力にあるれ、移り気で感受性の強い存在である。
 アンのおしゃべりの中から抜粋してみると、そこに一人の少女、つまりは一般的な子ども像を見ることができる。

 もしおばさんがアンと呼ぶなら、おしまいにeのあるアンにして下さいね。/失敗ばかりしているわね、でもね、あたしのやらないいろんな失敗も考えてよ。/あたしの原罪は、想像にふけりすぎ、義務を忘れることだわ。/でもね、少し悪いこと(髪をそめること、筆者註)をしても赤毛でなくなる方が価値があると思ったの。/朝には朝が最上だと思うの。でも夕方になると、こっちはさらにいいなと思うの。/はやりものを着ていられれば、いい子になるのだってずっと楽よ。生まれつきの善人ならきっとそんなこと関係ないんだと思うけどね。/牧師さまって大てい胃弱だってね。でもアランさんは牧師さまになって長くないでしょ。だからあたしはまだその害をうけてないと思うんだけどね。

 少し拾ってみても、目の前にやせてそばかすだらけの赤毛のアンが目を輝かせて座っているような気がする。アンが決して平面的な善人でないのは、リンド夫人にかんしゃくもちのことでしぶしぶあやまりにいっても「その屈辱の谷間を通ることをおもしろがり、自分を完全にけなしつけて楽し」んだり、嫌いな友人には必要以上に意識したり、一度のあやまちがギルバートへの憎しみとなり、彼に負けないことで虚栄心を保とうとしたり、良心を責めるような時はちゃんと言い訳を用意したり……こう見ていくと、アンという少女はどこにでもいる一般的子ども像の一つであることに気付く。
 つまり、こういう子どもがいても不思議でないという「子ども像」を見事に魅力的に描出している。
 作者モンゴメリは、アンを造型するにあたって、二つの点を留意したと思われる。一つは、かつての自分自身として描くことである。一つは、子ども読者を意識せずに、自分自身に合った文体で書くことである。
 文体は、少女の目を通して貫ぬかれている。つまり、日記を書くように細々としたものをつみ重ね、リアルに暮らしの部分を浮き彫りにしている。
 かねてより日本の児童文学に強烈な印象を残す主人公の少ないことが嘆かれているが、アンほど不思議な存在感をもった少女は珍しい。だがここで忘れてはならないのは、この作品の魅力と落とし穴は、アンの存在と対峙される形で描かれているマシュウとマリラという老人たちの位置ではなかろうか。『赤毛のアン』は決して不変には生きつづけられない個の内面の時間(子ども時代)を取り出してみせたことで評価できるとしても、同時にアンという喜びの小鳥は、素直であればあるほど、大人たちの目を通して眺めたとき、恣意的な歪曲の危険性をはらんでいるということである。
 幼くして母と死に別れ、父とも離され、母方の祖父母の農場で育てられたモンゴメリにとって『赤毛のアン』は自伝的要素の強い作品である。だが、この作品が自伝をこえて文学に近づいているのは、作者の分身アンの視線ともう一つ、離れてアンをみる老人たちの視線の存在であろう。
 極端なはにかみ屋で人と顔を会わせるより畑で働く方が性に合っているマシュウ。信心深くて感情を外に出すのは罪深いと決めこんでいる実際家のマリラ。子どもなど育てたことのない二人にとって、アンはとまどいであり驚きであった。だが結局マシュウには「一ダースの男の子よりお前がいいよ」といわせ、マリラには「これほどまで俗世の人間を愛すなどなんと罪深いだろう」と思わせるに至るのは、アンの《内質》が二人の老人に喜びを与えたからにほかならない。感動的な場面は、恐らくリンド夫人への詫び、ブローチ紛失事件、ミセス・バーリイの和解、マシュウがアンの服を買いにいく……などだろう。いずれにしろアンの《内質》が関連する大人たちの誤解を解き、愛情でもって報いようとするところである。しかしそれはまた一番危険な読み方を誘うところでもある。
 大人にとって子どもというものは、二つの捉え方ができるものではなかろうか。一つは同時代に生きるものとしての利害情愛を含んだ現実的なつながりであり、一つはかつての自分(子ども性)としての非現実的な対応である。エヴォンリーの住人にとってアンが加わることは大事件であり、できうれば彼らにとってよい子ども(存在)であってほしいと願うだろう。彼らがアンを受け入れ、情愛を抱くのは彼らの善意の内側にアンが位置することを認めたからでもある。素直さ、陽気さといったものは人と人との接続点になくてはならないものである。それは人の心をホカホカさせる。つまるところ大人が涙するのは、それらの《内質》が愛情を支えていると知らされるときである。これは、マシュウとマリラの中にも存在する。だが涙をはるかに越えた感動というものは、人と人との愛し合いの図式よりも、人そのものの内質への深い洞察であり、人間存在への真一文字の突きではなかろうか。『赤毛のアン』に一つの魅力を感じるとすれば、それはアンに寄りそった人生模様、ドラマチックな共体験ではなく、マシュウら大人の目で成長(子ども)の本質をみていることではなかろうか。

 「まあ、アン、なんて大きくなったんだろうね!」とマリラは信じきれないほどだった。思わず吐息が出た。このアンの背丈に、マリラは後悔に似た妙な気持ちを味わったのだ。

 《背丈》は子ども時代の終わりを象徴的に告げている。あれほどおしゃべりで移り気なアンも「楽しい美しい考えごとは宝のように胸にしまっておく方が」賢明だと思うようになったのである。だがマシュウにとっては、アンは今だにブライト・リヴァから連れ帰った時のままの小さなひたむきな女の子であった。マリラはアンに寄りそって年月を過ごし、マシュウはアン(子どもの内質)と共にいたのである。そしてこの二人、とりわけマシュウにとって、アンは善意に答えてくれる存在ではなく、生きている喜びを映してくれる鏡であった。利害や保護すべき愛情の対象をこえて、人間存在の証しそのものであった。だがマリラの身にならずとも、子ども性というものはあまりにもうつろいやすくはかないものである。どんなものにも想像をかり立て、喜びを歌わずにはいられない子ども時代――ジェイムズ・バリは『ピーター・パン』に寄せてその歓喜と哀しみを見事に描いた。だがピーターには、それでもなお生きていく人間存在のありようを展望する方向性は見られなかった。精と炎と露のアンには、「生はなお魅力あふれる声々で呼びかけて」いる。それは人間誰しもが内に秘めている《幼児性・子ども性の内質》が形をかえて人間的成熟の養分となることを暗示しているからであろう。
 ――さて、それでもなお、冒頭に述べたように『赤毛のアン』にはとまどいといらだちが残る。アンの普遍的に子どもが持っている一般的内質の中から、善意や無心さや努力といったものだけが取り出されはしないかという気がかりである。現に図書館むきの本としての紹介文や「アンのように自由に愉快にぐんぐん進んでいけば困った時にも元気をなくしてしまうことはないだろう」(注3)という類の解説書をよく目にする。J・R・タウンゼンドが嘆いているように(注4)、『若草物語』やワイルダーの作品と同じような不幸を与える人々は多いだろうが、『赤毛のアン』は他のいかなる文学作品もそうであるように「いかに生きるか」という問いに答えるような本ではない。

 注1 モンゴメリ、中村佐喜子訳、角川文庫。
 注2 イギリスの作家ペイトンの三部作、『愛の旅立ち』『雲のはて』『めぐりくる夏』アンと同じく孤児のクリスチナ(十二歳)がフランバーズ屋敷に送られ、波乱に満ちた人生を送る姿を描いたもの。
 注3 『赤毛のアン』(旺文社)巻末の「まとめ」
 注4 渡辺茂男訳「新しい衣装をまとった教訓主義」『オンリー・コネクトT』(岩波書店)で、タウンゼンドは『若草物語』やワイルダーの作品といったすぐれた物語を読むうちに、善悪の明白な基準が育ってくる、といった考え方の誤解を鋭くつき、「教訓主義は、幸わせな、くつろいだ、世代間のほぼ平等な関係を理想とする私たちの考え方に反するものである。それにもかかわらず、子どもを導くという願望は、人間の性向に深く刻みこまれている」と述べている。
テキストファイル化武像聡子