『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

4 ロマンの復権―『むくげとモーゼル』を通して

以前ほどでもないが、まだ私は子どもの本を読むときについて離れない悪癖に悩まされることが多い。それは長い間子どもの本の編集に携わってきた者に避けることのできない職業病の一種といってよいのかもしれない。つまり、作品世界に無心に没頭することができず、常に冷めきった視線で作品に内包する商品価値を見極めようとする習癖のことである。しかし、月に十冊近くの商品あるいは商品予備軍の原稿を読みつづけてきて思うことだが、私たちのこのような職業意識を吹きとばしてくれるような作品は非常に少ない。当然のことだが、私たちは作品に能動的に働きかけるが、同時に作品がもつ目に見えない力によっても左右されているのだ。
私たちが職業上の必要性から選ぶ作品の価値とは、おおむね次の四点にしぼられる。
○ 子どもの視点が貫かれているか―子どもの目の高さとその思考や感性といったもの。
○ 新鮮なドラマが構築されているか―作品世界のもつ虚構性と作品全体の構成、展開のさせ方。
○ 子どもの現代を捉えているか―子どもたちを取り巻いている現在の状況にどう切り込んでいるか。その生活環境と文化の問題。
○ 文学作品としての完成度―文学独自の表現方法と作品に伏流する思想の問題。
これら四点は、商品という枠組をはずしても充分成り立つことかもしれない。しかし、四点の解釈、比重のかけ方は微妙にちがうし、残念ながら文学としての深化が、広く浅くという商品価値を弱める結果を生むことだってありうる。ここではこの矛盾(深化と大衆性)に深入りすることは敢えて避けたい。
さて、「ロマンの復権」が叫ばれて久しいが(注1)、いわゆる「血わき肉おどる」というロマンチシズムの真髄を楽しませてくれる日本の作品を、私たちはどれほど持っているだろうか。
ロマンチックというものは、ドラマチックといいかえてよいかもしれない。ドラマには、個性あるキャラクターと、思わぬ発展を秘めた起伏が必要であろう。また、主人公の活躍する世界が明快に提示され、かつ魅力的でなければならない。そして、もちろん、読者をとりまく現代との関わりにおいて、新鮮であると同時に普遍的な要素を含んでいなければならないだろう。
こういった問題を、しかたしんの『むくげとモーゼル』にしぼって考えてみたいと思う。
しかたしんの作品群を読み通して思うことは、子どもの視点と新鮮なドラマづくりにおいて非常に巧みであるということだ。言葉をかえていえば、子どもを読者とする文学にエンターテインメントという太い柱をきっちりと打ち立てている作家の一人といえるのではなかろうか。
物語の舞台となる時代は、日本が朝鮮を占領し、満州(中国の東北地方)へ軍隊を出して満州国という日本のいいなりになる国を作りあげようとした昭和の初期の激動期のころである。主人公のぼくは京城府立竜山中学校の三年に在学している。父は朝鮮人の医学専門学校の教授である。物語は、夏休みに生物クラブの親友マンブタと国境の町茂山にある彼の彼の家に遊びにいくところから始まる。
マンブタの父ヒゲ大人の家は、タイガというシベリヤから中央ヨーロッパ・アラスカまで広がる世界一大きい大密林地帯のはしっこにある。目の前に悠然と流れる豆満江が銀色の川面を光らせ、その向こうは異国の大地"満州国"である。二人はエンジン付の船で豆満江を横断し、密入国して密林調査を企てる。ジャングルのな化で傷ついた少女に会い、医術の知識のあるぼくが手当てをしてやる。少女は逃げるように去り、二人が河岸にもどってみると船が流されてない。
家族や学校や法によって守られていたぼくは、そのことを境にして、自力で生きのびるという非日常的な試練の中に投げ込まれる。のちに種明かしされる朝鮮人であったマンブタの現実見抜くたくましい目に導かれ、危機を脱した二人は、少女ペクスンニに助けられる。そしてイー李牧師を父のように敬い、朝鮮民族の真の独立を願う貧しい小さな部落にかくまわれる。マンブタは家畜の世話係に、ぼくは「シャオダイフウ小大夫」と呼ばれ、医務班の任務を受けもつ。
ペクスンニにほのかな思慕を抱き、労働の汗を流す日々は充実していたが、馬賊のために部落を去り、山中でヌクテのマー馬に救われ、ツンホア敦化という町へ下る。そこで民族の独立に燃え、民衆の人望にあつい馬賊の指導者ヤンターランパ楊大覧把につかえ、大部隊とともに東満州を行軍する。こうして、ぼくは情熱家のマー馬や現実をしっかり見つめる冷静な参謀長のカオ高などから、国や民族のことについて目を開かされていく。
学校で習った「忠君愛国の精神」だとか、「日本民族の指導のもとに中国人、朝鮮人、ロシア人、蒙古人、五つの民族が助け合って理想国家、満州国を築く」といった歌い文句がいかに傲慢なつくりものであるかを知っていく。「国の理想、民族の理想というのは、その民族が自分たちの歴史の中からつくりだすものだ」という高の言葉をからだで受けとめ、理解していく。反満抗日の人びとと暮らし、戦いに参加し、殺戮を目の前で見るうちに、ぼくの中に、生きている意味、生に対する主体的な執着が芽生える。価値あるものは与えられるものではなく、自らの中からつくり出すものだという真理をつかんでいく。
以上が物語りの骨子となる筋であるが、この作品をドラマづくりという観点から眺めてみると、いくつかの特徴が上げられると思う。まず物語世界のスケールの大きさに気付く。酔うようと流れる豆満江、その向こうに広がる果てしない山々の重なり。主人公のぼくはこの雄大な舞台を東へ西へと縦横に駆け回る。部落から部落へ、山から山へ、そしてふもとの町から町へとその行動範囲は広くて、かつスピーディに展開される。
それから、物語世界は緊張感に満ちている。中国、ソビエト、朝鮮、日本という国際関係が険悪であり、軍隊が行進し、馬賊が暗躍し、民族と民族がにらみあい、互いの兵力が一触即発の危機にあるという、いわば燃えている世界である。
以上述べたスケールの大きい緊迫した世界に主人公を投げ込むやり方が、要を得て簡潔である。親友マンブタの生物クラブ(家畜好き)―これはのちに馬賊や山耕民たちの馬の世話に役立つ。ぼくが医者の父さんを手伝って覚えた救急医療―これはのちに少女を助け、シャオダイフウ小大夫といわれて、馬賊や山耕民の人々の役に立つ。学校での教練のけい古の酷しさと居丈高なゴリラ中尉の説教―これはのちに民族と自己の自立について逆接的に心を開く踏み台となる。このようにわずか第一章と第二章の一部で、物語の伏線が簡潔に処理されている。
民族という抽象的かつ困難な概念が、幼い読者にも理解しやすいように工夫されている。つまり、白頭山の精と思われる少女ペクスンニへの思慕によって主人公を異質な世界に誘い、民族の独立をめざして戦う民衆とともに暮らしながら、少女を助け、部落を守るというロマンチックな義侠心と合わせて、人間の尊厳と独立(確立)の問題を提出していることである。
逃亡と潜入、戦いと再会、裏切りと信頼―常に死ととなり合わせというスリルに満ちており、読者にいやが上にも身を守り、道を切り開こうとする意欲と熱っぽい正義感を与える。孤独ではあるが民族(人間信頼と連帯)と愛(少女へのほのかな恋心)といううしろ楯に守られて、勇ましく戦おうとするロマンチシズムが読者のからだの奥底にわき上る。
ぼくとマンブタがかくまわれたペクスンニの部落の暮らし、ヌクテのマー馬たち馬賊の行動、そしてヤンターランパ楊大覧把の大部隊の組織や政治基盤や行事など、部分部分がリアリティを感じさせるように工夫されている。それは、実際的な暮らしの知識と同時に馬賊用語(原語)や生活用語のもつ一種独特な迫真性に起因していると思われる。
未知なるものへの冒険心と異性へのほのかな恋心を抱く年ごろの少年の視点に立って描かれているため、殺戮と肉欲、物質欲にうずく人間のドロドロした部分が巧みに昇華させられている。下卑た心をもつ牛のクソ野郎の金が少女ペクスンニを犯そうとする場面も、人間の真実を追究しようとすれば避けられないところであるが、あくまでも少年と冒険の視点に立って少女を救うという英雄的行為として爽やかに快く浮き上がらせている。
以上述べたように、少年の視点とドラマづくりにおいて、作者の計算はある程度成功していると思える。しかし、この作品を支えている冒険物語という土台を外して、民族の自立、人間の確立という人間として避けられない「生きる意味」にしぼって眺めてみると、すきま風の吹くようなある種のもの足りなさを感じるのも事実である。それは恐らく、前述した四つの条件のうち後者の「現代を捉えているか」「文学作品としての完成度(思想性)」の二つに原因があると思える。
「現代」という点では、あとがきで作者自らが述べているように、この作品のテーマとなっている民族の自立、愛国心という問題は、島国でありかつ単一民族としての色濃い日本にはなじみの薄い問題である。国や民族が一人一人の人間の共同体であることを考えれば、まず山耕民や馬賊の人たちとの交流を主人公の内面を通してキメ細かく描く必要があるだろう。とりわけ、土地に執着せざるをえないその暮らしぶり、協同の生産の大切さをおさえるべきだろう。このテーマが現代の子どもたちにどう時代性をもつとするならば、今彼らをとりまいている状況との関連の中で展開すべきだろう。
国という単位は、家族や仲間や学校や町といった複数共同体に置きかえることが可能だし、また人が人を想う気持ちに深めることもできるだろう。現代の子どもを取りまいている状況を考えれば、管理社会につめこまれている子ども(個)と社会(組織)の問題に関連させて描く必要があるだろうし、個の尊重が究極仲間への愛着と信頼につながり、孤立した迷える人間を救い、自己確立させる原動力になりうることを強調することができるのではなかろうか、主人公が少女ペクスンニに抱く重いを淡い恋心からもう一歩進めて、互いに生きる意味を問いかけながらその内質を触れ合わせる友情、人間対人間としての絆にまで高めれば、現代の子どもたちとのつながりがでるのではないだろうか。
もちろん作者はそのことを百も承知でいながら、全体としての冒険ドラマという土台を生かす方に重点をおいたことは察せられるし、そのことが少なからず成功を収めていることはすでに述べたとおりである。しかしながら、主人公(個)の内面を見つめる視点を深化させることが、この冒険行の底に伏流させたテーマを疎外し、弱めることには決してならないのではなかろうか。
これは、「文学作品としての完成度」の問題と深く関わっている。筋の荒さが一方では急展開の快さとなり、他方ではキメの粗さになり、思想性の深まりの弱さとなっていると思える。しかし、この問題はあっさりとダテマエ論で片付けるほどやさしいことではない。民族の自立の意味を求めて悩む主人公の複雑な心理描写や内面の思想的変化をキメ細かく描くことが、テーマを深めることにつながるのではない。ドラマ展開というこの作品の性格上、あくまでも登場人物たちの行動を具体的により微細に描くことにより解決すべき問題だと思える。物語の展開を支えるキャラクターの暮らしぶり、生き方を克明に描き、とりわけ土地(自然)との関わりにより深い意味を浮かび上がらせるような捉え方が大切だと思える。人間という存在は、土地に執着し、自然の恵みを受け、歴史を築き、共同体を形成し、独自の文かをもちながら、なお発展しつづけるものとして位置づけられるものだと思う。
ともあれ、この作品を貫いているエンターテインメントの快さは捨てがたい魅力である。読者の一人として子どもの目の高さになりきって存分に楽しんだ上に、なお欲深く違和とも思える要素を期待するのは、まさに傲慢な職業意識にほかならないだろう。そのことを十分知りつつも、しかたしんという作家にさらに完成度の高い作品を期待したいし、恐らく彼はそれに答えてくれる作家の一人であることを確信したい。


注1 『日本児童文学』(ほるぷ出版)では、1976年三月号で「新しいロマンの創造」、1976年六月号で「再び『新しいロマンの創造』」の特集を組んだ。
テキストファイル化佐々木美穂