じどうぶんがくひょうろん

No.131999/01/25


           
     
『へびのしっぽ』(二宮由紀子作 荒井良二絵 草土文化社 1998 1200円)
 へびのしっぽはつまらない。だって、みんな頭のことは怖がるのに、しっぽのことは怖がってくれない。たまに怖がってくれたと思ったら、「あ、あたまと間違えた」ってね。それに、頭が止まっていたらこっちもずっとじっとしたまま。いつもいつも頭が先。頭が動いたらやっと動ける。で、誰に声をかけたつもりが、ズルズル引きずられて、別の誰かに。例えば、スカンポの花に声をかけたつもりが、犬のウンコに「ともだちになって」ってね。
 しっぽの悲哀。
 話がスピーディにズレていくさまは、気持ちいいリズムでありつつ、「アイデンティティ」が主題と深読みすれば、そのズレがおもしろさ。真っ向から描く「半神」(萩尾希都)とくらべてみましょうか?
 
ールド ラッシュ』(柳美里 新潮社 1700円 1998)
 この物語は、「児童書」ではありませんが、「14才」を描いているので、ご紹介。ご本人が読書人でのインタビューでも答えていたように、そして誰もが思うように、神戸KIDSへの思いを巡らしたところから、物語は生成しています。
「人を殺す14才」。「何故彼は人を殺すのか」。
 これはある意味で、時事ネタです。私は、作家は時事ネタでナンボの場面もあると考える者ですから、否定的にそう指摘しているのではありません。ドストエフスキーだって、トルストイだって、ソルゲニーツィンだって(あれ、ロシア作家ばっか挙げてしまった。はい、ジョイスもカミュもポール・オースターも)みんなそうした作品を作ってます。だから、『ゴールド ラッシュ』が時事ネタであるとの指摘は、事実を指しているだけです。
 そして、ここではもう一の系も考慮に入れておく必要はあるでしょう。「子どもの残酷性」。『蠅の王』や『悪童日記』などが著名でしょうか。『ゴールド ラッシュ』の帯も書いている村上龍の『コインロッカーズ・ベイビー』もその系譜に入るでしょう。この系譜は、児童文学にとって、なにかしら後ろめたいものとしていつも存在してきました。つまり、「児童文学は、こんな子ども書かないだろう、だから胡散臭いんだよ」との批判がそこには含まれます。
 確かに、児童文学は『蠅の王』や『悪童日記』を書いたことはないし、これからも書かないでしょう。というかそれは同義反復のようなことで、そうした角度から子どもを描かないことが児童文学であり、それが胡散臭いなら、胡散臭くていいのです。
 話が少し外れました、戻します。『ゴールド ラッシュ』は「子どもの残酷性」を描こうとしています。
 つまり、時事、社会性から発する子どもの殺人と、子どもの残酷性を重ねて描かれた物語です。前者からは作者の批評性がでてくるでしょうし、後者からは人間観がでてくるでしょう。それらがどう折り合わせられていくのか?
 舞台は伊勢佐木の黄金町。少年は4軒のパチンコ店を経営する家の息子。父親は将来のこの跡継ぎに帝王学を学ばせています。帝王学といっても、つまりはパチンコ店の経営のそれですけれど。彼の兄は鋭い聴覚を持つ障害者。母親は父を嫌って出奔したまま、妖しげな宗教にかぶれている。姉は金はいくらでもあるのに、援助交際をしている。少年は以前、連れ達が誘った女子高生を回した現場にいたことがあり(彼はしなかった)、少年院からでてきた彼らに、今はゆすられている。お金はもちろん覚醒剤も。
 といったように、イマドキの設定が盛り込まれています。と同時に帝王学を学ぶ彼は特権的な子どもとして設置されていて、それが「子どもの残酷性」を彼に帯びさせるためのイコンとなっている。
 また黄金町は、ラーメン屋をしているワケありの老人がいて、彼は人目で少年に引きつけられている。二階には目の見えない老婆(老人の妻)がずっとふせっている。少年達はここで覚醒剤を吸入する。一方、少年が幼いときから頼りにしているヤクザ者もいて、彼もまた少年にひきつけられている。
 そして、元少年達の子守役で、父親のせいで自殺した男の娘が少年に近づく・・・。

 それぞれに個性的とも見える登場人物と、中上健次の路地を彷彿とさせる黄金町。仕掛けは万全。
 なのですが、何故か私は乗れなかった。登場人物から舞台まで、どこかから借りたようなイメージ。それはそうでかまわないけれど、コラージュの仕方がまずいのか? 映画『スワローテイルズ』に乗れなかったのと似た気分です。

 最終的に少年は父親殺しを自首しようとしている(するかはわからない)ところで終わるのだけれど、人生はゲームだと考えていた彼を自首に導く人物が、人生はゲームじゃないと、考えていることが、どうも私には納得がいかない。「人生はゲームだと考えて」いる少年を「人生はゲームじゃないと、考えている」人物が説得出来るとは思えません。

と娘』(キャロル・セイライン文 シャロン・J・ウォールムス写真 池田真紀子/訳 メディアファクトリー1600円 1996/1998)
 有名無名を問わず、母と娘29組にインタビューした書物。
 巻頭で登場するのは、今まさに娘マーリー(もちろんだから羊水検査をして)を出産しようとしているヴァレリーの母親ペッパーと祖母アリス。アリスは語る「(略)大きくなったら私の話し相手になってくれるような、そんな娘を生まなくちゃって。(略)私が体験したことと同じことが娘にも起きたとき、理解者になってあげられる」と。そしてペッパーもまたそのように考えて娘を望みヴァレリーが生まれた。で、今ヴァレリーがマーリーを産もうとしているわけだ。一方コミック作家のキャシーは「何か悩み事があると母に打ち明けるのよ。母なら必ず解決策を教えてくれるから」、しかし「母が正しいっていうことが気にいらないの」。シングルマザーの娘ショーンは「ママは私の親友だし、病気のときは娘ね。(略)私たちは姉妹でもあるわね」。スーパーモデルのシンディは母親ジェニファーが病気のとき風呂に介護をした話しの後「これからは里帰りのたびにママの裸をみるようにするわ。だって、自分が年を取ったらどんなふうになるのか知っておきたいもの」。子どものころから母親の理想とする娘象に当てはめられ続け、「母への恨みは半端じゃない」ジャッキィーはそれでも母ルィー ズに「あなたなりに生きているから。そのままのあなたを愛してる。私という娘がいるあなたを愛しているんじゃなくて」。喧嘩をするかそうでないときはテープのようにくっついている母ジャネットと娘ミシェル。「私はママそっくりだわ。(略)話し方も。声も。顔も。(略)ママそっくりだとしたら、私はどうやって私になれるの?」。
 結構保守的な視点でインタビューされているけれど、読んで損はない。そしてなにより、母と娘の写真たちが素晴らしい!

『〈ナイト・シー〉の壁をぬけて』(オットー・クーンツ作 原田勝訳 徳間書店 1600円 1989/1998)
 ベンと重病のセアラは母親と共に、夏休みをセアラの療養も兼ねて田舎町で過ごすことに。しかし先にきていたはずの父親は小屋にいない。しかも待ちの住人はなにやら奇妙な話し振り。ここには何かある!
 やがて、セアラに病気は悪化し・・・。
 YA向けのホラー。
 謎の生命たちが、説明的すぎるのが少し難点ですが、勧善懲悪的ホラーではありません。

アリーの鳩 』(アン・ターンブル作 渡辺南都子訳 堀川理万子画 偕成社 1200円 1992/1998)
 1930年代のイギリス。メアリーのパパは失業中。しかも組合の委員長をやっておたので、なかなか雇ってもらえない。主人公メアリー11歳の趣味は、伝書鳩を飼うこと。仕事がなくて出稼ぎにいった父親のかわりに、鳩小屋の世話をする。ハトをレースに出して少しでも賞金を稼ぎたい。でもママはハトに夢中のメアリーにいい顔はしない。
 世界大恐慌の時代の貧乏物語。だから「今」を描いてはいませんが、生活の不安を覚えイライラしてしまう母親の姿などが、結構熱い母娘を描くこととなっています。
 
パが金魚になっちゃった!』(リリアンヌ・コルブ作 ローランス・ルフェーヴル作 佐々木寿江訳 矢島真澄挿絵 徳間書店 1500円 1992/1998)
 レオはパリに住む12歳の男の子です。パパとママは別居中。二人の間を行き来しているレオ。ある日、レオは本屋で「魔法の本」を見つけ、その中のある呪文を覚えます。で、パパの前で何気なく唱えたら、パパが金魚に!
 二人の作者による共作。
 フランスの児童書って所も珍しい。フランスのってめったに訳されませんもの。
 のっけからパパを金魚にしてしまう発想の妙さは、ちょっと違いますね。物語はパパを人間に戻すために奔走するレオを描いていくわけですが、まず、その金魚の面倒を見ることからして大変。一時はママにパパを飼ってもらったり。ママがパパを飼うなんて、すごいよね。脇の少年二人がよいです。

エルの城 』(ヨースタイン・ゴルデル著 猪苗代英徳訳 日本放送出版協会 1200円 1988/1998)
 『ソフィーの世界』の作家の新訳。ただし、作品としてはこちらが先。大好きなおじいちゃんが亡くなったけれど、その事実をなかなか受け入れられない少年。妖精が現れ、カエルにキスをと。だってキスされたカエルは王子様になるはずですから。案の定王子になったカエル。彼に誘われて、お城にでかけるのですが、それは少年の心の中でもあり・・・・。
 いかにもゴルデルらしい、心の世界。
 でも、答えは最初から見える。

『ただいま故障中  わたしの晩年学』(上野瞭著 晶文社1998)
 敬愛する児童文学者上野瞭のエッセイ集。ただし児童文学ではなく、晩年学に関するもの。お間違えなく。老年学でなく晩年学であるのがミソ。晩年は年寄りだけにあるのではないから、世代を超えて晩年を考えようとの主旨。

こがすき、くまがすき 』(アン・モーティマー絵 キャロル・グリーン文 まえざわあきえ訳 徳間書店 1400円 1998/1998)
 絵本。
 シャム猫は女の子と大の仲良し(のつもり)。ところが女の子、お誕生日にもらったかわいいくまに夢中。おもしろくない猫は、なんとかぬいぐるみのクマを排除しようとするのですが・・・。
 こういった話は普遍的で、オリジナリティをストーリーに求めては仕方がないでしょう。それより、スーパーリアリティ(なんて言葉、死語かな?)な絵に注目。そうすると、この猫の哀愁が伝わってきます。
 私は好きです。こーゆーの。

『イヌのすべて 』(サーラ・ファネッリ作 掛川恭子訳 岩波書店 1500円 1998)
 タイトルのままの絵本。
 仕掛け絵本の範疇に入るのかな?
 とにかく犬好きにとっては、いじり倒したいであろう出来。
 し、しっぽが、
 み、耳が、
 猫好きの私でも触りたい。

『しょうぼう馬のマックス』(絵本 サラ・ロンドン文 アン・アーノルド絵 江国香織訳 岩波書店 1600円 1997/1998)
 行商人のレビじいさんは、馬のブッハに荷を引いてもらっていましたが、ブッハも年を取ってきて、引退させることに。代わりに買ったのがマクシミリアンという名前の消防馬。消防局に消防車が入ったので売りにだされたのです。リズム感の良いマクシミリアンをレビさんは競り落とします。ところがマックと呼ばれることになったマクシミリアン、行商の最中も、消防の鐘がなると、商売そっちのけで、現場に走ってしまいます。積んでいた荷物はみんな路上に。マクシミリアンは自分が行商馬マックであることを受け入れられないのです。はてさてどうなりますことやら。


『みけねこキャラコ』(絵本 どいかや作・絵 偕成社 1000円 1998)
 キャラコはみけねこなんだけれど、一見白黒猫。というのはキャラコの黄色は普段は見えない左の脇の下にあるから。だからキャラコは誰かと会うと左前足を上げて、自分がみけねこなのを示そうとします。そうしたことに自分のアイデンティティを持つキャラコでしたが、やがて・・・。
 見えないところだけにある一色って発想で、勝ち。

『鈴木三重吉』(半田淳子 高文堂出版社1998)
 雑誌「赤い鳥」の主幹であった鈴木三重吉に関する論文集。
 「赤い鳥」は日本の「童話」のクオリティを高めた雑誌として有名で、著名な作家が作品を寄せたことでも知られています。童謡では北原白秋や西条八十、童話では芥川(「蜘蛛の糸」)や有島武雄(「ひと房の葡萄」)なんかが有名でしょうか。あと坪田譲治や新美南吉を発掘しています。
 私は「赤い鳥」の成し得た仕事を童謡は別として、創作に関しては余り評価しませんが、それはともかく、この書物は三重吉が童話に手を染める前、すなわち東大時代恩師の夏目漱石に見出され、その門下として書いていた小説郡(だから童話ではない)を、童話の萌芽として見直そうという試みです。
 この辺り、いまどきであるなら、フェミニズム批評やディコンストラクションを分析道具にすれば、もう少しクリアに解明できる気がするのですが、それがなされていないのが残念。年齢や経歴を見ると、この著者なら可能だと思うけれどね。