じどうぶんがくひょうろん

No.6 1998/04/25

『だれかがドアをノックする』
(アン・メリック作 斎藤倫子訳 徳間書店 1400円1998/1993)

 少年トッドは過去の記憶がありません。一緒に暮らす父親からは面倒をみてもらえず、それどころか盗みを強要されています。ガイ・フォークスも近づいてきたある日、トッドはボロ布で人形を作る。
 ガイ・フォークスにしてはちと変わった人形だけど、それに引かれてか、お金をくれる人が結構いる。久しぶりにおいしいものにありつくトッド。しかし隠していたお金を父親に見つけられ折檻。
 そんなおり、人形が話出す。私はミム。緑のドアの家に行くのよ、と。
 トッドは父親から逃れ、ミムと一緒に旅立つ。果たして緑のドアの家とは?そしてそれはどこに?
 旅の途次、様々な出会いの中でトッドは、初めて冗談を言い、初めて笑い、初めて泣く。もちろんそれは初めてじゃなく、記憶が失われているからなんですけどね。
 だから、子どもが、自分を取り戻していく物語。
 ミムって人形がなかなかおもしろい。ミムはトッドの導き手であり、母親代わりでもある。と、同時にトッドの庇護なしには存在できない。トッドはミムを守り、ミムはトッドを目的の地に誘うわけ。旅の途中ミムはトッドに物語を聞かせるんですが、これが次第にトッドに現実の旅と重なってくる辺りが、うまい。


『ダブルイメージ』
(パット・ムーン作 定松正訳 さ・え・ら書房1400円1998/1993)

 デイビットの母方のおばあちゃんが亡くなる。
 デイビットはこのおばあちゃんを好きじゃなかった。陰気で怒りっぽい。だから、めったに会ったことはなく、母親も実家へはいつも一人で帰っていた。
 そのおばあちゃんが亡くなってから、おじいちゃんは元気がない。食事もろくにとっていない。それを心配したデイビットの母親は、彼をおじいちゃんの所へ行かせる。
 おじいちゃんの家の物置でデイビットは、古いトランクの中から一枚の写真を見つける。そこに写っていたのは自分そっくりな男の子。この子は誰?
 封じ込めた家族の秘密を探る物語なんですが、デイビットが(子どもが)そうすることによって、祖父や母親といった大人たちも開放されていくんですね。
「子どもの力」を描いているという意味では、とっても「児童文学」です。


『子ども観の近代』
(河原一恵著 中公新書680円)

 私たちがイメージする子ども像、無垢だとか、純粋だとかは、昔から大人が抱いているものではなく、近代に入ってから社会的に形成されてきたものである、というのは今ではよく知られています。
 子どもは子どもらしいとみなすのは、大人がそう見たいからなんですね。そして、子どもは大人のサインを感受し、子どもらしく振る舞っているのかもしれない。
 この本は、日本において、そした近代的子ども像がどう形成され、受容されてきたかに関して書かれています。扱われている素材は児童文学。児童文学が描く子ども像が、子どもらしさを作っていく過程が、新書らしく、コンパクトに説明されています。
 「明治政府によって一応の近代化が達成された時代にあって、すでに自分たちの理想や栄達を国家の興隆に重ね合わせて求めることができなくなっていた知識人たちは、〈子ども〉の「無垢」に自らを支える新しい価値を見出し」た。「しかし、『童心』がそうした『自我解放』のイメージを提供し得たのは、実のところ男性に対してだけであった」。
 基礎知識として、オススメ。


『きこえる きこえる』
(マーガレット・ワイズ・ブラウン作 レナード・ワイズガード絵よしがみきょうた訳小峰書店1300円1998/1939)

 60年前の絵本。目にごみが入って、包帯を巻いてもらった小犬マフィン。何にも見えないけど、音は聞こえる。
 何の音?。
 子どもの好奇心を小犬の託して描いた絵本、などと言うより、そのシンプルな色と構図とタッチの良さを楽しみました。
 「子ども観」がまだ活き活きしていた時代の香りです。


『はいけい女王様、弟を助けてください』
(モーリス・グライツマン作 唐沢則幸訳徳間書店1350円1998/1898)

 オーストラリアの作品。だから、暑いクリスマスからお話は始まります。
 コリンは不満。だっていつも弟のルークばかりが可愛がられているみたい。
「ママやパパが、自分よりも、ルークのほうをひいきしているとしか思えないようなことをしたり言ったりするたびに、決まって心のなかのどこかがズキンと痛くなる」
 ルークがガンであることが判る。パパとママはコリンをイギリスのおじさんの所へやります。
 コリンはある計画を練ります。いいお医者を女王様に紹介してもらうんだ!
 「はいけい」がすごいのは、なんか暗い設定ですけど、楽しくおかしい物語に仕上がっていること。そうであるからこそ、その裏にある「哀しみ」がリアルに迫ってくる。
 女王様へのコリンの手紙は、「はいけい 女王様弟のルークのことで、至急お話がしたいです。弟はガンにかかっています。でもオーストラリアの医者はなまけていて役に立ちません。陛下のかかりつけの医者で、一番腕のいい人に何日か来てもらえたら、すぐに治してもらえると思います。もちろん料金は、車を売るとか、借金をするようなことになっても、ぼくのママとパパがちゃんとはらいます。今いるところの住所を書いておきますので、すぐに連絡をください。
敬具 コリン・マドフォード
追伸これはいたずらではありません。書いておいた番号に電話をしてもらえれば、アイリスおばさんが話をしてくれます。男の声だったら、すぐに切ってください。」
 いいでしょ!
 やっと探したロンドンの名医から、弟はやはり重いのだと教えられ、病院を飛び出したときは、
「コリンは歩道のはしにすわりこんでいた。目の奥がなんだかチクチクして熱い。こんなふうになるのは、アーニー・ストラッチャンにたばこの煙を顔にふきかけられたときか、泣きそうになっているときのどっちかだ。アーニー・ストラッチャンは、ここから二万キロも離れたところにいる。ということは、ぼくは泣きそうになってるんだ。でも、泣いたりなんかしないぞ。」
 ロンドンで知り合った、そしてコリンを助けてくれるゲイの友人が素敵です。そして、ラストシーンがいい!でも、泣いたりなんかしないぞ。


『妹になるんだワン!』
(スーザン・E・ヒントン作 こだまともこ訳 徳間書店1300円1998/1995)

 スーザン・E・ヒントンといえば、17歳でのデビュー作『アウトサイダーズ』(大和書房刊でも、手に入れば、集英社文庫の訳のほうがいいかも)が有名で、30年前のものであるにもかかわらす、今も読み継がれています。「ヤングアダルト」の古典です。コッポラが映画化したのもビデオで有ります(廃盤ですけど)。
 そのヒントンがヤングアダルトじゃなくもう少し下の、「子ども」向けに初めて書いた物語がこれ。
 ニックの家に小犬が来ます。名前はアリョーシャ。最初ニックは、面倒だなー、なんて思うのですが、だんだん可愛くなってくる。
 ところでそのアリョーシャ。パパもママもニックも大好き(特にパパの靴下の匂いをかぎながら眠ると安心できる)。自分を犬だなんて思っていません。2本足で歩くんだとこっそり練習。言葉だってしゃべれるようになりたい!
 ヒントンも「子供向け」を意識すると、こーゆー動物話になってしまうのか?と思いながら読み進めば、なんと、このアリョーシャ、しだいに人間の女の子のなっていくではありませんか。
 この辺りのリアルな進展(犬が人間いなるのがリアルだというのではなく、そうなったとしてのその過程が)が、いかにもヒントン。彼女が人間になっていく証が、例えば、パパの靴下の匂いを臭く感じるなんてのですから。


『わかれをつげる旅』
(依田逸夫作 ポプラ社1400円1998)

 ぼくの父さんとおじいちゃんは、とても仲が悪い。というのは、医者だったおじいちゃんは、お父さんにそれを継がせようとしたのだけれど、お父さんには無理で、編集者になってしまったからだ。
 おじいちゃんがガンになる。ぼくは田舎のおじいちゃんの所に。けれどお父さんはこない・・・。
 「父」と「息子」の物語。これは日本の(男の書く)小説によくあるパターン。父との相克が自我を築くってもの。志賀直哉なんかですね。ただし、これは児童書だから、そのテーマを彼らの孫であり息子である、子どもの視点から描いています。
 そこがなんだかうまくいってないんですね。
 「あとがき」を読むと、どうやらこれは作者の自伝的要素が含まれているらしい。医者になれなかった息子ってのが作者の位置です。
 うまく距離がとれていないってことでしょうか?


『ふうせんばたけのひみつ』
(ジャーディン・ノーマン文 マーク・ビーナー絵山内智恵子訳徳間書店1998/1994)

 これは楽しい絵本。
 「ハーベイ・ボッタって、すごくかわってるんだよ。おひゃくしょうしてるのは、みんなといっしょだけど、そだててるものが、ぜんぜんちがうの。ほんものの、ふうせんのうじょうをやってるんだ」。
「あたしは、ちゃんと、この目で見たのさ。いんちきなんかじやない。そこらヘんのふつうの地面から、ほんもののふうせんが、にょきにょき生えてくるんだ」。
って発想が、やられたなって感じ。
 そして、この物語と絵がピタリ。
 ごちゃごちゃ申しません。ぜひご覧あれ。