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ぼちぼち便り◆ 

 1月の読書会は『ジェーンとキツネとわたし』(イザベル・アルスノー/絵 ファニー・ブリット/文 河野万里子/訳 西村書店 2015年)を取り上げました。仲良くしていた友だちから「エレーヌは体重100キロ!・・・それに臭い!」とトイレに落書きされるほど徹底的ないじめを受け、『ジェーン・エア』を読むことで心の平静を保っていましたが、2週間のクラス全員で行った英語特訓合宿で、キツネと出会い、ジェラルディーヌという友だちができることで、モノクロだったエレーヌの現実世界に色が戻って来るというグラフィック・ノベルです。

 読書会のメンバーからさまざまな意見が出されました。まず、絵について多くが語られました。カラーとモノクロの使い分けが巧みで、美しく、カラーの場合はエレーヌが心を通わせることができた場面だということがわかる。モノクロはエレーヌの孤独を感じさせる。モノクロの場面でも、鉛筆の線を重ね合わせた多様なグレイが使われており、エレーヌの気持ちの揺れが理解できる。グリーンがエレーヌの喜びを表現している。鉛筆を重ねた中に、消しゴムを使って白く抜かれていることによって、モノクロが際立っている。

 『ジェーン・エア』の場面で、ジェーンの顔が仮面をかぶっているように見える絵があるが、それは、人に心の中を見せまいとしている様子を表していると思う。いじわるな子どもたちの顔の表情がいかにもいじわるそうに見えた。エレーヌやジェラルディーヌも個性的な表情を持っている。色、コマ割り、筆のタッチなど、絵からエレーヌの心理が読み取れる。また、例えば、水着を買いに行ったデパートの様子など、エレーヌを取り巻く周りの風景も丁寧に描かれていて、エレーヌの心理的な状況が理解できる。キツネの赤い色は、いろいろな場面で効果的に使われている。コマ割りが時間の経過を感じさせ、まるでフィルムが回っているように感じられ、読者はエレーヌと同化していく仕掛けになっている。

 また、いじめについて、トイレの落書き、無視の仕方など、悪意のあるいじめが辛辣に書かれていて説得力がある。「わたしは気がつきはじめていたのだ。自分が気にしなければ、悪口は悪口でなくなっていくと。」(p.87)とエレーヌが言えるようになったのがよかった。心理学の本みたいなどの感想がありました。

 そして、エレーヌについてはエレーヌが読んでいた『ジェーン・エア』との比較の中で感想が語られました。ジェーン・エアは美人でないことが作品中で語られているが、エレーヌも自分の姿をソーセージに例えており、共通性を見出していると思った。そこにユーモアが感じられるが、それだけにエレーヌの悲しさが読者に伝わる。それが絵で表現されることによって読者に強い印象を与える。エレーヌはくせのある子だと思った。それゆえ、ジェーン・エアが自分を持っていることが、エレーヌを勇気づけているが、一方で、ジェーンとも共通するエレーヌのかたくなさ、筋の通った意志はいじめの対象となったことも読み取れる。

 作品中に出てくるエレーヌの母については、貧しい中で働きづめの母がエレーヌのために流行のドレスを作ってくれたシーンは、母とエレーヌの間にある愛情に心打たれた。わずかのシーンで多くを物語っていると感じた。母親の手のアップの絵が母の厳しい暮らしを想像させるなどの意見が出ました。季節が作品にうまく取り込まれ、「今年は冬が長い。いつまでも帰らないお客のようだ。」(p.9)という描写が『ジェーン・エア』ともシンクロし、エレーヌの気持ちが表現されていると思ったという感想もありました。

 タイトルにあり、ジェーン・エアがロチェスター氏と出会った場面にも描かれているキツネは、ジェーンに純粋無垢な心で近づいたアデールを象徴しているのではないか、キツネの表情が優しい、キツネとエレーヌが見つめ合ったシーンでは、エレーヌが信頼できる友だちに出会って心を開きたいという思いを表現しているのではないかなど、キツネの論議に花が咲きました。

 作品中でエレーヌが『ジェーン・エア』を読んでいる過程が語られるが、本を読むことは、考えることで自分を育て、自らを確立することであるということが読み取れる、そして、作家になりたいと思うところが読書の意義の一つとして書かれている。読後感がいい。結末のエレーヌの表情がいい。結末の葉っぱが広がっていく絵が、エレーヌの世界が広がる様子に思えた、一人では生きていけない、友だちを見つけることによって世界が広がる、美しくなるということが感じられた、など作品全体に関わる意見もありました。

 『ジェーンとキツネとわたし』というタイトルは、この作品がジェーンとキツネとの出会いによって自分自身を見つけていく物語であることを示しており、表紙の絵も思索にふけるジェーンの頭の上に茎と葉っぱが吹きだし、その茎の上にジェーンとキツネの顔が載っています。『ジェーン・エア』という想像上の人物と、自然に囲まれた中で出会ったキツネがエレーヌの心の中で成長し、花咲かせる様子を読み取ることができます。丸い葉っぱの形は、エレーヌとジェラルディーヌが会話をするときの吹き出しと同じ形であり、まさしく言葉(ことのは)が生み出されていく過程が描かれています。

 読書会でも語られたように、この作品は、グラフィック・ノベルという手法、本の中に本を描いたというメタフィクション的な要素、『ジェーン・エア』を読むエレーヌの心の過程を描きながら読書の楽しさと意義を伝えているという点、いじめの問題、思春期の体型を気にする心理、貧困、母親の愛情、キツネや植物という自然のもたらす力など、革新的な手法で、普遍的なテーマを描いた作品だと思いました。

 『ジェーン・エア』のシーンが描かれている場面は4つ。能面をかぶったような子ども・少女時代、ロチェスターの家でのアデールとロチェスター氏との関係、ジェーンがイングラム嬢に嫉妬する場面、ジェーンがロチェスターに求婚する場面です。嫉妬の場面では、嫉妬を克服しようとするジェーンの戦術をエレーヌが学ぼうとしていることが、求婚の場面では、「『ジェーン・エア』のお話みたいには、うまくいかないに決まってる。」と、作品の結末に懐疑的になるエレーヌの様子が書かれ、文学を読む多様な楽しさが伝わってきます。

 また、コマ割りの多い作品の中で見開きで1つの絵という場面は8つあり、エレーヌの孤独から希望への気持ちの変化が伝わります。特に、エレーヌが母親に縫ってもらったドレスを着て肩を落とし、森の中にたたずむシーンは、期待していたドレスと異なることの落胆と母親に対する罪悪感が読者にひしひしと伝わってきます。そして、このドレスがいじめのきっかけになったことが予想できるのです。

 読書会をきっかけに『ジェーン・エア』も読み直しました。エレーヌが読んだ『ジェーン・エア』と私が読んだ『ジェーン・エア』のギャップもまた、楽しい経験になりました。(土居 安子)

*以下、ひこです。
【児童文学】
『大きなたまご』(オリバー・バターワース:作 松岡享子:訳 岩波少年文庫)
 1956年作。
 ネイトの家のニワトリが大きなたまごを生みます。めんどりが自分ではひっくり返せないほどなのでネイトがお手伝いするほど。それでもめんどりは一生懸命温め、ついに孵ったのは草食恐竜のトリケラトプス。アンクルと名付けます。
 どんどん大きくなっていき、周りの草もなくなったらどうするのか? 研究者たちの欲望とどう向かい合うのか?
 ネイトにとっていちばん大事なのはアンクルの行く末。はたしてどうなる?
 どうしてにわとりが恐竜の卵を産んだかなんて方向に話は進まないのがいいなあ。

『バクのバンバン、船にのる』(ポリー・フェイバー:作 クララ・ヴリアミー:絵 松波佐知子:訳 徳間書店)
赤いリボンの女の子マンゴーと、バクのバンバンは仲良し。マンゴーがチェスを習っている文化センターで、足を踏みならすリズムがフラメンコの先生に気に入られたバンバンですが・・・・・・。
仲良しである幸せが一杯なシリーズ第二作。

『スピニー通りの秘密の絵』(L・M・フィッツジェラルド:作 千葉茂樹:訳 あすなろ書房)
 祖父のジャックが亡くなるときに遺した言葉は「卵の下を探せ」。ジャックが死んでからセオの母親はますます心を閉ざすようになり、セオは残されたわずかなお金で毎日を凌いでいます。
 絵描きだったジャックの一枚の絵。いつも置いていた卵の後ろに置かれていたそれの上にセオはシンナーをこぼしてしまいます。すると、ジャックの絵は溶けて流れその下から出てきたのは古そうな別の絵。一見聖母子と見えるそれは誰が画いたのか? これがジャックが遺してくれたものなのか? 知り合ったセレブ(両親が有名映画俳優)な友だちボーディと二人は絵の謎に挑みます。え? ひょっとしてラファエロ?

『怪盗ルパン 謎の旅行者 ルブラン ショートセレクション』(平岡敦:訳 ヨシタケシンスケ:絵 理論社)
 ヨシタケシンスケが表紙と各話の扉を描くショートセレクションシリーズです。この後、ロレンス、ジャンク・ロンドン、マーク・トウェイン、チェーホフと続きます。短編の面白さに、ヨシタケ画から入っていってくださいませ。

【絵本】
『レッド』(マイケル・ホール:作 上田勢子:訳 子どもの未来社)
 クレヨンのレッド。実はブルーなのに包まれている紙が間違ってレッド。でもみんなはレッドだと思っているので、イチゴが描けない。一生懸命練習するけど、やっぱり描けない。オレンジを描くためにイエローと共同作業をするけど、オレンジ色にならない。
 みんなもレッドも自分はレッドだと思い込んでいる。本当はブルーなのに。
 レッドが自分を発見して、綺麗な青空を描く物語です。

『なかないで、アーサー てんごくにいった いぬのおはなし』(エマ・チチェスター・クラーク:作・絵 こだまともこ:訳 徳間書店)
 犬のデイジーとアーサーはいつも一緒に遊んでいます。でもしだいにデイジーは休むことが多くなり、亡くなります。もう犬を飼いたくないアーサー。心はデイジーで一杯です。
 天国からデイジーはアーサーに夢に入ったりして、慰めを与えようとします。それでも難しい。
 デイジーは、夢の中でアーサーに新しい子犬と出会うことを伝えます。そうして、アーサーは一歩を踏みだすのです。
 欠落感を100%埋めることはできません。けれど、そうする必要はないのです。それを大事な思い出として育んでいけば。

『脳とからだ ―運動、感覚、思考のひみつ』(スティーブ・パーカー:著 デイビッド・ウェスト:絵 井上貴央:訳 西村書店)
 体全体を司る脳の機能を、イラスト豊富に解説しています。まず、古代には頭痛治療に脳に穴を開けていたらしいって話でビビりますが、まあ、わからないでもありません。
 脳の様々な機能を、脳を使いながら学習していると思うと、ちょっとヘンな気分ですが、人間の構造を多少なりとも理解しておくことは、「私」の理解のためにも役立つでしょう。

『ばあばは、だいじょうぶ』(楠章子:作 いしいつとむ)
 大好きなばあばが、「わすれてしまう」病気になってしまう。イチゴジャムを一人で食べてしまうばあば。隣の庭の木を折るばあば。そんなばあばに、ぼくはついていけなくなる。
 あるとき、ばあばがいなくなり、両親が探しに行っているとき、ぼくは、ばあばの引き出しからたくさんのメモ書きを見つける。それは、ばあばが、必死で忘れないようにしようとしていた証だった。
 著者の経験から生まれた作品だけに、エピソード一つ一つにリアリティがあります。

『ぐるりヨーロッパ街歩き たびネコさん』(ケイト・バンクス:文 ローレン。カスティーヨ:絵 住吉千夏子:訳 きじとら出版)
 イタリア、ローマから始まるヨーロッパ一周家族旅行に同行するネコ。マルセイユ、バルセロナ、パリ、ロンドン、アムステルダム、ミュンヘン、ヴェネツィア。ネコの視点ではなく、その風景の中にネコがいる旅絵本。それだけで、和みますよ。

『しあわせな いぬになるには にんげんには ないしょだよ!』(ジョー・ウィリアムソン:作 木坂涼:訳 徳間書店)
 いぬの側から、飼い主とどう付き合うか、どうすれば快適な、人間との共同生活をおくれるかをアドバイスしています。なるほどね。とすれば人間はこの絵本を読んで、いぬ側の気持ちを理解すればいいわけだ。

『ちいさなあなたが ねむる夜』(ジーン・E・ペンジウォル:文 イザベル・アルスノー:絵 河野万里子:訳 西村書店)
 「あなた」が小さかった頃、眠りにつくと「わたし」は「あなた」のために絵を描きます。
 最初は小さな白い一片。それはまるで「あなた」のよう。
 そこから始まった言葉は、寒い、寒い冬の夜にある、生命の息づかいを静かに、静かに描いていきます。

『ちいさなサンと天の竜』(チェン・ジャンホン:作・絵 平岡敦:訳 徳間書店)
 大雨で崖が崩れ、山を越えて、畑に行かなければならなくなり、人々は出ていく。そんな中残った夫婦に生まれた子ども、名前はサン。六歳のみぎり、山を背負う夢を見た彼は、両親のために山を取り去ろうと決意します。一石一石、その途方もない試みは成功するのか?
 チェン・ジャンホンらしい、壮大で美しい物語と、圧倒的説得力のある絵。


【その他】
『大人に贈る子どもの文学』(猪熊葉子 岩波書店)
子どもの本は、子どもだけではなく大人にも大切なものであることを語ります。
猪熊が何故トールキンに師事したかなど、楽しいエピソードもあります。
子どものために子どもの本を選ぶだけでなく自分のために子どもの本を探していくこと。ここには古典が多く紹介されていますが、物語が時代性を帯びるものであるなら、現代の子どもの本もぜひ、手にとってください。


【お詫び。】
先号の、絵本カフェで、著者名等、抜けていました。ごめんなさい。(ひこ)

『ちっちゃいさん』(イソール:作 宇野和美:絵 講談社)
新しく迎える命を描いた絵本は、私はいかにあなたを愛しているかを語り、赤ちゃんの可愛さや純粋さをたたえるものが多いです。けれど、それを読んでもらう子どもは息苦しいのではないかな?
この作品はちょっと違います。赤ちゃんはそもそも何者なのか。この突然やってくる不思議な生き物についてユーモアを交えて語ります。
赤ちゃんの泣き声は親をイライラさせることもあります。が、「すごい おとを だすので、どこに おいたか、いつでも わかるのです」と考えれば気分も少しは晴れます。
泣き声で何を要求しているか、親にはなかなか分かりません。でも、「どの こたえが ただしいか、なるたびに あてるのは たのしいです」と思えばいいのです。
食べたものは「おさまるか、もどってくるか、どちらになるかは ざんねんながら だれにも わかりません」。
この絵本を読む子どもは、自分がちっちゃいさんだったころ、こんなとんでもない生き物だったんだと笑い転げるでしょう。そうだったんだよと、親も一緒に笑えば素敵な時間が生まれます。
そして、「ちっちゃいさんが くるまえ、どんなふうに くらしていたか、おとなたちは おもいだせなくなります」という言葉。大人と子どもの愛情は、この絵本に描かれているようなドタバタやジタバタの中で自然に育まれていくものだということが、心にしみこんでいくと思います。
こんなに愛情深い赤ちゃん絵本を私は見たことがありません。(2016/07)

『おはなを あげる』(ジョナルノ ローソン :著 シドニー スミス:絵 ポプラ社)
基本的に絵本は言葉と絵で出来ています。言葉が作る世界を絵が支えつつ、画家の解釈を施していくわけです。
言葉と絵が常に抜き差しならぬ関係を保っているのが絵本と言えるでしょう。
ところがこの絵本。いっさい言葉がありません。
帰宅途中の父親と娘。父親はスーパーの袋を持っていて、そこからバゲットが覗いています。きっと夕食の材料が入っているのでしょう。彼は前を向きひたすら歩いています。早く帰って食事を作りたいのかも知れません。携帯電話で話すのにも忙しい。一方の娘は街のあちこち、地面や壁から顔を覗かせている草花に目をとめ摘んでいきます。
そして今度はその花束から花を抜いて、死んだ小鳥、ベンチで眠っている人の足下、犬の首輪。次々と花で飾っていきます。
私たちは言葉による説明ではなく、少女の行動、行為そのものから、たくさんのメッセージと、少女の心の、なんとも知れぬ暖かさをもらうことが出来るでしょう。
言葉が書かれてないからといって、絵描きだけで作った絵本ではなく、ちゃんと作者はいます。もちろんだから作者の心の中言葉はあったはずです。それが次第に削られてついにはなくなってしまったのか、それとも、最初から言葉は付けないと決めていたのか。どうであれ、沈黙こそが最良の言葉でもあることを知っているのでしょう。
どうぞ絵本を開いて、ご自身の言葉で読んでみてください。(2016/11)