210

       
【児童文学評論】 No.210
 http://www.hico.jp
   1998/01/30創刊

*金原瑞人からのお知らせ。
 「BOOKMARK(ブックマーク)」という小冊子の第1号を発行しました。
 「もっと海外文学を!」「翻訳物はおもしろいんだ!」と主張する冊子で、名前は「BOOKMARK」です。年に4冊出していければいいなと考えています。
 ぼくと同じように翻訳をしながらヤングアダルトむけの本の書評を書いている三辺律子さんと、昨年ラボの翻訳大賞でいっしょになったときに、海外小説の紹介冊子を出したいという話が持ち上がり、イラストレーターのオザワミカさんの協力を得て形になったところ、本の営業をしている酒井謙次さんが大々的にバックアップしてくれて、いよいよ発進しました。
 サイズは、CDケースの大きさで、全24頁。フルカラーで、1頁に1作ずつ、合計16冊紹介する予定です。表紙やデザインはオザワミカさん。
 スポンサーはなく、完全に金原の個人雑誌です。5千部作って、無料で、書店や図書館に置いてもらおうと考えています。図書館や書店への発送は、LAS(ライブラリー・アド・サービス)のご協力を得ることができました。
 最初の1、2頁を見開きにして、毎回、ゲストに原稿を依頼する予定です。第1号は江國香織さんに『パールストリートのクレイジー女たち』のあとがきをお願いしました。
 第1号は、「これがお勧め、いま最強の17冊!」という特集で、以下の作品を取り上げました。現代作家による現代を舞台にしたリアリズム物です。

パールストリートのクレイジー女たち(江國香織訳、ホーム社)
トラベリング・パンツ(大嶌双恵訳、理論社)
夜中に犬に起こった奇妙な事件(小尾芙佐、早川書房)
希望【ホープ】のいる町(中田香訳、作品社)
郊外少年マリク(中島さおり訳、集英社)
解錠師(越前敏弥訳、早川書房)
僕らの事情。(田中亜希子訳、求龍堂)
はみだしインディアンのホントにホントの物語(さくまゆみこ訳、小学館)
きらきら(代田亜香子訳、白水社)
シカゴよりこわい町(斎藤倫子訳、東京創元社)
タトゥーママ(小竹由美子訳、偕成社)
ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯(原田勝訳、あすなろ書房)
闇のダイヤモンド(武富博子訳、評論社)
ビリー・ジョーの大地(伊藤比呂美訳、理論社)
靴を売るシンデレラ(灰島かり訳、小学館)
彼女のためにぼくができること(西田登訳、あかね書房)
マルセロ・イン・ザ・リアルワールド(千葉茂樹訳、岩波書店)

 作品の解説はすべて訳者の方々にお願いしました。
 全国の公共図書館など、2千館ほどに送る一方、ご協力していただける書店にも置いてもらう予定です。
 「BOOKMARK」の置いてある店舗やフェアのお知らせは、このサイトを見てください。ただし、冊子の在庫の有無、フェアの日程等は直接、各店舗にご確認下さい。
 また、ツィッター【@bookmarkFB(bookmark.freebooklet)】でも、金原、三辺、オザワの3人が、配布書店やフェアのお知らせ、その他をつぶやきます。

【冊子がほしいという方へ】
・ご希望の書店さんには20冊までお送りします。ただし着払いにさせてください。また、棚を作ってくださる、フェアをしてくださる場合には、別途、ご連絡ください。ポップに使えるよう、また冊子がなくなった場合に対応できるよう、データをお送りします。
・個人の方には2冊までお送りします。ただ、送料・封筒負担にさせてください。
【問い合わせの方法、送料などについては検討中です。しばらくお待ちください】
以上、金原瑞人。

*『10代のためのYAブックガイド150!』(金原瑞人+ひこ・田中:監修 ポプラ社)
ここ五年に刊行された(復刊、文庫化含む)本からのチョイス、150冊です。
執筆者(アイウエオ順):東えりか、大橋崇行、奥山恵、兼森理恵、斎藤美奈子、酒井七海、佐藤多佳子、三辺律子、鈴木潤、鈴木宏枝、土井美香子、土居安子、豊ア由美、名久井直子、那須田淳、西村醇子、西山利佳、東直子、古川耕、ほそえさちよ、穂村弘、右田ゆみ、目黒強、森絵都、森口泉。
 十一月刊行予定。

*『ロックなハート モールランドストールー2』(ひこ・田中 福音館)と『なりたて中学生 中級編』(ひこ・田中 講談社)も十一月刊行予定です。

*毎日新聞十一月の童話を担当します。ヨシタケシンスケさんと久しぶりに組むので楽しみ。(ひこ・田中)

*今月は、児童書やYAではないけれど、色々な意味で若い読者にもぴんとくると思う作品です。奇人変人が次々登場、カラー写真も満載で、映画『ザ・フューチャー』のメイキングにもなっているという、ミランダ・ジュライの『あなたを選んでくれるもの』を。(三辺律子)

『あなたを選んでくれるもの』ミランダ・ジュライ著 岸本佐知子訳
   ブリジット・サイアー写真 新潮社

奇跡起こした感性と行動力
 パフォーマンス・アーティスト、作家、映画監督、女優。多彩な顔を持つミランダ・ジュライが、今度はフォト・インタビュー集を発表した。
 インタビューの相手は、フリーペーパーに「売ります」の広告を載せた人たち。つまり、無名の一般人。とはいえ、なにか引き寄せる力があるのか、ミランダは実に様々な人と出会う。
 革ジャンを売りに出した男は60代後半で始めた性転換の途中だし、スーツケースを売りたい老女には、女優に似せたマネキンを部屋に置く孫がいる。足にGPS装置をつけた男(仮釈放中ということ)はしゃべり続けてミランダたちを帰そうとしないし、年齢不詳のタトゥーだらけの女は、バイブレーター付きの舌ピアスを試そうとしている。
 でもこれは、ミランダが彼らの多様な人生に共感するというような、ちょっといい話ふうの本ではない。むしろ彼女は時に辟易とし、「(LAという)街は、わたしがインタビューしているような人たちから、わたしを保護」してくれる、とさえ思う。そもそもこのインタビューは、執筆中の映画の脚本に行き詰まり、暇つぶしで始めたのだ。
 やがてミランダは、ドライヤーからオタマジャクシまであらゆる物を売る人々に一つだけ、共通点があることに気づく。ネット時代に、広告を紙媒体に載せている彼らは誰一人、パソコンを使わないのだ。「人間の生の営みの大半はネットの外」にあるという当たり前の事実に愕然としたとき、滞っていた脚本が進み始める。そして、最後のインタビューで、ジョーとの運命の出会いを果たすのだ。
 81歳のジョーとの邂逅を綴った章は、奇跡のように美しい(ウェディングケーキの写真に注目!)。ジョーが現れたことで、映画『ザ・フューチャー』は物理的にも精神的にも完成する。その経緯はぜひ本書を読んでほしい。
 忘れてならないのは、奇跡を起こしたのは、神ではなく、ミランダの感性と行動力だということだ。人生が「小さな瞬間の寄せ集め」だと悟った彼女に、また驚かされるのが今から楽しみでならない。
 (2015.9.13 産経新聞掲載)

【追記】
 この本に描かれた顛末のすえ、完成したミランダ・ジュライの映画『ザ・フューチャー』に、主人公のソフィー(ミランダ・ジュライ)が、動画サイトでヒット数更新中の友人に対抗し、自分のダンスの動画をアップしようとする場面がある。ソフィーはもとより、その友人の動画もかなりたいしたことがないのだが、実際、YouTubeなどの動画サイトには、本当にどうでもいい動画が溢れている。ヒット数100はぜんぶジジババだろと言いたくなるような赤ちゃんの動画から、わたしも持っていないようなブランドもののコートを着た愛犬の動画、ただの石ころがずーっと映っているだけの謎の動画……(それはそれで怖かった)。
 一方、これが素人!?と思えるようなおもしろい動画もたくさんある。歌、コント、漫才、体験記、動物のおもしろ&かわいい映像、ゲームの実況中継……。中には、プロデビューしたり、一千万円以上かせぐYou Tuberもいるのだから、すごい。それこそ星の数ほどある中から、ちゃんと面白いものが出てくるのも、すごい。ランキングや、「お勧め」動画の表示によるところも大きいから、批判もあるだろうが、それなりに淘汰されていく(ように見える)状況には、興味を引かれる。
 今の時点ですでに、一生楽しめるんじゃないかというくらい、おもしろ映像がたくさんある。おもしろ映像だけでなく、ためになるものだって、やまほどある。しかも無料(ただ)。むむむ、本、不利。
 先日も、お笑いが好きで古今東西よく見ているという高校生に、「ぜひぜひ」とラーメンズを薦めた。その後、「どうだった?」ときくと(←ちなみに、これは、やってはいけないとわかっているのに、ついやってしまう)、「おもしろいけど、長すぎてたるい」。えっ、だって、10分くらいでしょ!?(長いものもあるが、それだって30分くらいだ)。ショックを受けて、高校生&大学生に聞き取り調査【注:十数人】をしたところ、「(楽しめるのは)長くて5分くらいかなー」とのこと。むむむむむ、本、かなり不利。
 とはいえ、「Love Diamond」のようなマルチメディア・パフォーマンスを制作したり、オンライン・アート・コミュニティを創立したりしているミランダ・ジュライも、「人間の生の営みの大半はネットの外」という事実に愕然としたり、あいかわらず紙の本を出版したりしているのだ。多様化する選択肢の中に、本が残ることを祈っているし、確信してもいる。(三辺律子)

〈一言映画評〉*公開順です

『海賊じいちゃんの贈りもの』
 児童文学では定番の、老人と子どもの交流を描いた映画。バイキングの子孫だと語るおじいちゃんも面白ければ、メモ魔の姉や石ころをかわいがる弟など、孫たちもおかしい。今、新宿紀伊國屋でこの映画と連動した、金原瑞人さん選書の「おじいちゃん・おばあちゃんと孫」の出てくる児童書フェアやってます。(わたしの訳書もあるらしい!【宣伝】)
https://www.kinokuniya.co.jp/c/store/Shinjuku-Main-Store/20150914100028.html

『光のノスタルジア』『真珠のボタン』
 チリの歴史を描き続けるパトリシオ・グスマンが監督・脚本。先住民のインディオの大量虐殺や、ピノチェト独裁政権下で殺された犠牲者たちの歴史を描いたドキュメンタリ。広大な砂漠で遺骨を探し続ける、政治犯の妻や母たちが「(過去の歴史にこだわりつづける)自分たちはチリのお荷物」と語る場面は、重い。

『ボーダレス ぼくらの国境線』
 紛争地域の国境線沿いに放置された廃船で、たった一人で暮らす少年。そこへある日、ある闖入者が。紛争地域の子どもたちの置かれた状況を考えずにはいられない。特に最後の場面は胸に刺さる。イラン映画。

『わたしの名前は……』
 ファッションデザイナーのアニエスベーが監督・脚本。ポスターのかわいらしい少女の写真に惹かれ、おしゃれな映画だと思って観にいくと(←わたし)、最初の場面に衝撃を受ける。12歳のセリーヌは、父親に性的虐待を受けているが、誰にも言えない。父親から逃げ出したセリーヌは、ひょんなことからスコットランド人のトラック運転手と旅をすることになる。中年男と少女のロードムービー。

『エール!』
自分以外、耳の聞こえない家族で育った高校生のポーラ。両親は明るくて仲が良く、一家で力を合わせて酪農を営んでいる。ある日、気になる男の子がコーラスの授業に登録しているのを見たポーラは、自分も登録。歌の才能に目覚めていくが……。直球にやられます。お勧め。

あとR15ですが、『マジック・マイクXXL』も10月公開。チャニング・テイタム主演の男性ストリッパー映画第二弾。このシリーズ、要は旧来の映画の男女を入れ替えたストーリー(特に一作目)。今回は「男にうんざりした女を癒したい」的メッセージが出すぎてる気もしたけど、マシュ・マコノヒーが出てない分はカバー。(とここまで書いたところで、これまでも、R15の映画も紹介してきたような気がしてきました。)
では、今月も、みなさまが本・映画三昧の日々を送ってくださいますように。(三辺律子)

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西村醇子の新・気まぐれ図書室(14)――類は友を「読む」
 「類は友を」に続けて「呼ぶ」と書くつもりだった。犬や猫の本がまとまったからだが、入力ミスで「読む」となった。…これで良しとするか!?

今月取り上げる1冊目は『くろねこのロク 空をとぶ』(インガ・ムーア作・絵、なかがわちひろ訳、徳間書店、2015年5月)。60頁で、全体に文字が少なく、絵の比重が大きい。この絵物語でまず興味深く思ったのは、6つの家族全員で一匹の猫を飼っているという設定だった。黒猫のロクは、広場を囲む6軒の家屋の窓や猫用の出入り口から自由に出入りしては、それぞれの家でごはんをもらっていた。
ドキュメンタリー番組の『岩合光昭の世界ネコ歩き』を視聴していると、ときどき、一匹の猫が複数の場所で餌をもらう光景が映る。果たして餌をあげている人たちは、同じ猫を相手にしているとわかっているのだろうか。猫にしてみれば、餌がもらえさえすれば、相手は誰でもよいかもしれないが…。
インガ・ムーアの物語の場合は、6つの家族には、ロクを共同で飼っている意識があった。だからこそ一斉に休暇をとることになったとき、彼らは留守中のロクの食事を心配する。結局、全員が同じスコットランドの田舎に旅行し、ロクを連れて行った。そうすればロクも町にいるときと同じように、6つのバンガローから食事がもらえるからだ。
さて、スコットランドにきた町猫のロクは、地元の山猫スコットに出会う。スコットは、おいしいごちそうを手に入れる方法をいろいろ教えてくれたのだが、万事に不慣れなロクは手本通りにできず、ことごとく失敗。まるで「町のネズミと田舎のネズミ」の猫バージョンの話かなと思っていると、物語はここから一気に展開する。ワシの巣から卵を失敬しようとした2匹はとんでもない冒険に巻き込まれるが、そのとき、ロクは町場で鍛えた能力を発揮して名誉挽回したのだ。冒険からバンガローに戻ったロクは、6皿では空腹を満たせないと、「こんどこそ、じぶんの力で」ごちそうをみつけると宣言する。…ロクのいう自力の意味がわかると、くすっと笑えるオチになっている。
英国を舞台としたインガ・ムーアの作品は、動物の視点に寄り添って物語が描かれている。スコットランドの風景のもと、猫とワシが空中でダイナミックな戦いを繰り広げているが、現実味を失うほどではない。経歴をみると、インガ・ムーアは英国のサセックス州で生まれ、8歳でオーストラリアへ移住し、成長後に再び英国に戻った、とある。ネットでは、古典児童文学作品へのインガ・ムーアの絵には英国らしさがふんだんにあるという評価を見かけた。本作品も、スコットランドの風景を物語にうまく活かしている。
  *
『おいぼれミック』(岡本さゆり訳、あすなろ書房、2015年9月)の作者バリ・ライは、?スター生まれの英国人。半世紀前に両親がインドから移住してきたので、バリ自身はインド系移民2世だという。レスター市が多文化都市となっている状況が、物語の重要な背景となっている。
15歳のハーヴェイ・シンは、両親と兄や姉の5人で暮らしている。一家はバンジャブ地方出身で、ターバンは巻かないシク教徒だ。シン家が今回引っ越した家の隣には、犬のネルソンと暮らすミック老人がいた。ミックは偏見のあるけんか腰の嫌味な人物で、引越しの挨拶に行ったら、手土産を突っ返してきた。その後も、飼い犬がハーヴェイたちと仲良くするのを嫌がるし、何かと怒鳴りつける。夜遅くまで音楽を大音量でかけたこともある…。ハーヴェイはミックを好きになれないと思ったが、孤独な老人であることが見えてきてからは、少しずつ気持ちが変わる。たとえば同じ学校に通う不良グループが、ネルソンとミックに絡んでいる場面に遭遇したとき、ハーヴェイは放っておけず、ミックをかばった。そしてミックと、ときどき話をするようになる。
シン一家にたいするミックの不愉快な態度の一因は、町がほかの人種に占められ、自分たち白人がマイノリティになっている状況への不満だった。しかし、ハーヴェイはミックに偏見を気づかせようと、目をつぶって自分の声を聞いてもらい、声から肌の色の違いがわからないことを認めさせている。ハーヴェイだってレスター生まれの英国人だと、わかってもらうことに成功したわけだ。また、ミックがハーヴェイからカレーの匂いがすると、ステレオタイプを持ち出して挑発すると、「ぼくがカレーなら、ミックのにおいはビールとチップスだよ」(p62)と、じょうずに返している。
ある日、犬のネルソンがシン家に現れ、何かを伝えようとする。ハーヴェイたちがネルソンについて行くと、ミックは発作を起こし、倒れていた! シン一家はミックが救急車で病院へ運ばれると、残された犬の世話をし、汚れた家の掃除をする。そして、手術を控えたミックに、じつは娘がいて、仲たがいしたままだと知る。それは娘が黒人男性と結婚したことがきっかけだったが、ミックは、シン一家のお節介によって娘と仲直りを果たすし、退院後はシン家と隣人付き合いできるように、変わった。
物語中では、白人だけでなく、インド系のなかにも、シン一家のおじ──女性をあからさまに軽蔑し、またホームレスへの支援を嫌がる──のような偏見の持ち主がいることが描かれている。おじの偏見が変わる様子はみられないのは、現実を映しているのかもしれない。そしてミックとハーヴェイたちの物語には多文化社会のありようへの作者の願いがこめられているだろう。
余談だが、今年2015年夏に(レスターではなく)バーミンガム市を旅行中、名物のカレー料理「バルティ」を食べようとして、パキスタン人街へ行った。英国のパキスタン人街といわれる地域に足を踏み入れたのは初めてだった。特に目を引いたのが、ターバンを巻いた男性が長いゆったりした上着(サルワール・カミーズというらしい)を着ているマネキン。男性の衣装にはほかの色もあったが、白地に金糸銀糸で刺繍がされていると、ゴージャス感が際立った。女性用ドレスには、アンダードレスにガウンと二重になっているものや上下に分かれている(へそが見える)ものもある。ショーウィンドウに並んでいるのは正装用らしく、色鮮やかな生地にびっしりと縫い取りがされている。こうした民族衣装の店がずらっと並んでいることに加え、行きかう若い女性たちの服装の色も柄も鮮やかで、目を奪われっぱなし。自分が異国空間にいる旅行者であることを自覚し、彼らとの間にある見えない壁にどきどきしたことは否めない。
  *
『おいぼれミック』の犬、ネルソンは物語では脇役だったが、『走れ、風のように』(マイケル・モーパーゴ作、佐藤見果夢訳、評論社、2015年9月)の場合、主役はまちがいなく、一匹の犬である。
物語の始まりは、運河の土手道を通学路にしているパトリック少年が、川を流れている袋に入れられていた5匹の子犬を、川に飛び込んで助けたことだった。パトリックは犬の命を救った英雄だとして称賛される。また犬の一匹を飼いたいという願いが両親を動かし、アパートから一軒家に引っ越す。そして公園で、「ベストメイト」と名付けたグレイハウンド犬を、「行くんだ!行け、行け」という掛け声で走らせるのが日課となった。だが、ベストメイトが生後18か月ぐらいになったとき、事件が起こる。その日に限って、いつまでたっても戻らなかったのだ。じつは走る犬のスピードに目をつけていたある男が盗みの手引きをし、ベストメイトはドッグレース用にと、売られていた。
ベストメイトを買い取ったのは、ドッグレース用の犬を何匹も飼っている農場主クレイグだった。賭け好きの乱暴な男で、少女ベッキーは、父の死後に母がクレイグと暮らすようになったことを嫌悪している。だが、母はそれしか生きていく方法がないという。
見知らぬ環境に連れてこられ、ぶるぶる震えていたベストメイトは、農場ではブライトアイズと呼ばれた。若いブライトアイズはドッグレースでの先輩犬アルフィーを見習ううち、好成績をおさめられるまでに成長する。みなにとって万事が順調に思われたが、ある日、アルフィーがドッグレースで勝てなくなると、すぐに、これまでの犬と同様にどこかへ連れ出された。母は、どこかへ貰われて手厚い保護を受けられるはず…というが、それが嘘だったことが発覚する。ベッキーは、元気を失くしたブライトアイズまで処分されることを恐れ、犬を連れて家出をする。
お金を使い果たし、行き倒れとなったベッキー。ブライトアイズが人間の注意を引き、命をとりとめる。犬を飼えない境遇となったベッキーと母(クレイグとは別れた)に依頼され、ブライトアイズは、一人暮らしのジョーという老人に引き取られ、バディワッツとなる。
ある日、バディワッツがジョーの目の前で脱走した。ジョーが追いかけていくと、グレイハウンドを連れた少年のもとに走っていた。バディワッツ――かつてのベストメイト──には、少年がパトリックだとわかったのだが、パトリックには犬が見分けられなかった。ただ、かつて飼っていた犬種がグレイハウンドだったことや、その犬が行方不明となり、現在のグレイハウンドを引き取ったことをジョーに話してくれた。犬は思った。パトリックが恋しいし、ベッキーも、アルフィーも恋しい。でも今の自分にはジョーがいる…と。
あらすじが長くなったが、モーパーゴは、ところどころに犬の視点(活字を変えている)をまじえ、この犬が人間によっていくども運命を変えられていく様子を描き出している。たくさん生まれたから、足が速いから、歳をとったから…と人間に運命を翻弄される犬。作者の怒りと悲しみが物語の原動力となっている。
  *
モーパーゴの物語の中盤、ドッグレースで走れなくなった犬が動物愛護センターに連れて行かれる、というのは口当たりのいい嘘で、実際にはすぐに殺されていたとわかる。だが、現実において、動物愛護センターに連れて行かれても、そこで「処分」、つまり命を奪われるほうが多いという。『犬たちをおくる日』(今西乃子著、浜田一男写真、フォア文庫、2015年9月、2009年に金の星社から出た本の加筆修正版)は、動物愛護センターの職員の日常をとおして、こうした厳しい現実と、それを少しでも良くしたいという願いを伝えるノンフィクションである。本日はそのことをあわせて紹介し、閉室する。

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以下、ひこです。

「絵本カフェ」(公明新聞)
2015年01月〜06月

1月
『こどものじかん』(ギョウ・フジカワ:作 二宮由紀子:訳 岩崎書店)
私たち大人はすべて、子どもの時間を過ごしてきました。それがどれくらいの長さであったかは、時代や環境によって様々ですし、その時間が幸せなものであったかそうでなかったかも人それぞれです。とはいえ、近代社会において子ども時代は、大人から守られ慈しまれる特別な存在と見なされるようになったのは確かです。児童労働の禁止や、就学の保障などはそうした考え方から生まれてきました。
ところが子どもの時間を終えて大人になった私たちは、子どもを守ることはしても、自分が子どもであった事実を時々忘れてしまいます。すると子どもが何をどう楽しみ、何を考えているかが見えなくなり、こごとを言いがちになります。
この絵本は、子どもが一日を、四季を、一年を、どんな風に過ごすかを思い起こさせてくれます。
「どこだって ぼくらは あそぶ/にわだって こうえんだって/くさぼうぼうの はらっぱだって」。
友だちと仲良くし、けんかもする。大人になったら何になろうかな? 長い夏休みの過ごし方。雨の日はどうしよう。もちろん、悲しいときだってある。
 様々な子どもの様々な日常が、活き活きとした姿と、リズミカルな言葉でいっぱい詰め込まれています。
 子どもの時間はなんて豊かなんでしょう!
 もしそれをうらやましいなあと思う大人のあなたがいたら、どうぞご自分の毎日を振り返ってみてください。もう子どもじゃないからと捨ててしまった子どもの時間の中に、今でも楽しんでいいものがきっとみつかりますよ。

02月
『だいたい いくつ? 数えてみよう・はかってみよう』(ブルース・ゴールドストーン:さく まつむらゆりこ:やく 福音館書店)

大人は子どもに向けて何かを伝えるとき、「だいたい」と表現するのをためらいます。
「だいたいこうだ」とか「まあ、だいたいそれでいい」などと言うと、子どもにいい加減な人だと思われやしまいか。子どもの時期から「だいたい」なんて発想を覚えると怠け癖がついてしまうのではないか。白は白、黒は黒、正しいか間違っているか、はっきりしていた方が、酸いも甘いもかぎ分けられない子どもには理解しやすいだろう。といった案配です。
けれど、私たちは知っています。世の中、ほとんど事は「だいたい」で出来ているし、それで何も問題がないし、むしろその方がスムーズに運んだりもすると。
これは、「だいたい」についての絵本です。
数え切れないアヒルの人形が示されます。アヒルを全部数えるのは大変です。次のページから、数えられる範囲のアヒルが示され、10匹、100匹、1000匹と増やしていきます。だからといって正確な数が出るわけではありません。だいたい10000匹だとわかればいい。
つまり、正確に数えられる範囲を調べ、だいたいそれの何倍かで、おおよその数を把握すればいい。細かな正確さにこだわっているうちに全体が見えなくなってしまうよりは、だいたいでもわかっていた方がいい。
要するにこれは、類推するおもしろさです。だいたいという捉え方は、私たちの心に余裕を生み、やがてそれは豊かな想像力を育てる糧となります。
「だいたいでもいいんだよ」と子どもに伝えたいですね。

03月
『12にんのいちにち』(杉田比呂美 あすなろ書房)

表現方法において、文学が絵本に負けてしまう場面はいくつもあります。例えば、こ複数の人物の行動や思いを同時に伝えるこの絵本もそうです。
一つの町で十二人の人たちがそれぞれの一日をスタートします。登場するのは、サッカー少年、ペンキ屋さん、看護師さん、音楽家の銅像、テレビ記者、パン屋さん、消防士、おばあさん、ライオン、小説家、宅配便屋さん、あかちゃん。
朝の六時。少年とペンキ屋とテレビ記者とライオンと宅配便屋はまだ眠っていて、パン屋と消防士とおばあさんとあかちゃんはもう目覚めています。夜勤だった看護師さんと徹夜で書いていた小説家はまだ起きています。銅像の周りには鳥たち。これが八時になると、少年とペンキ屋は家を出て、テレビ記者は新聞のチェックし、ライオンは檻に移動。宅配便屋はどうやら寝坊したみたい。パン屋はパンを焼き終え、消防士は朝の点呼、おばあさんは朝食、あかちゃんはお遊び。看護師は帰り支度。小説家は寝室へ。銅像の周りは通勤の人たち。
ややこしいですか? 言葉で説明するとややこしいですね。ぜひ絵本でごらんになってください。
十二人の一日を同時に辿っていくこの絵本は、様々な人が様々な日常を送っていて、時にそれが交差することもある、つまりは日常を鮮やかに描いています。眺めていると、こんな日常風景が愛おしくなってきます。
十二人がほぼ同じ生活をせざるを得なくて、この絵本が成立しなくなる状態が一つあります。
それは戦時下です。

04月
『悲しい本』(マイケル・ローゼン:作  クェンティン・ブレイク:絵 谷川 俊太郎:訳 あかね書房)

最初に男の顔が描かれています。笑ってはいますが、その表情を現す輪郭線は、とても荒々しい。添えられた言葉は「幸せそうに見えるかもしれない。じつは、悲しいのだが、幸せなふりをしているのだ。悲しく見えると、ひとに好かれないのではないかと思ってそうしているのだ」。
いきなり私たちは、悲しみが引き起こす複雑な感情を突きつけられ、この後絵本は徹底的に悲しみの奥底を示していきます。
彼が悲しいのは息子を亡くしたからだとわかった後、息子との楽しかった日々が描かれるのですが、言葉は「よくも、そんなふうに死ねたもんだね? 私をここまで悲しませて」。息子への愛と、彼に投げつけられる怒りから、その悲しみの深さが伝わってきます。
誰かに話したいときもあるけれど、誰の物でもない私だけの悲しみだから、ひとりで考えたい。しかしそれでは狂ってしまいそう。ついつい私は怒りを無関係なひとにぶつけてしまう。それでまた落ち込んでしまう私。
ここには、悲しむ人間の生々しい姿が、同情でコーティングされることなく真っ向から描かれ、悲しみという存在のなんたるかを読者に見せていきます。文章でこれをやると陰鬱になりかねません。一方絵本は、文章だけでは亡く、絵からも情報を得ながら読んでいきます。だから、本を外から眺める読書スタイルになるので、私たちにある種の冷静さも確保してくれます。
果たして彼は、この深い悲しみから立ち直れるのだろうか?
もちろん、それも後半で提示されていきますが、そこは読んでください。
絵本は、こうした極限の痛みも描いているのです。

05月
『ドングリ・ドングラ』(コマヤスカン くもん出版)

絵本は十五面の見開きで構成され、絵と言葉を使ってその中で世界を作ります。ですから、人生や日常の断片を切り取ったり、一つのテーマを絵の力で深く掘り下げて表したりは、とても得意ですが、叙事詩のような長編物語は苦手です。ところがこの絵本は見事に大きな物語を見せてくれています。
海の向こうの島。火山が突然噴火します。「あの しまが、ぼくらが くるのを まっている。さあ、いこう。さあ、うたおう。ぼくらの たびを はじめよう」。ドングリたちは島へ向かって旅を開始しようと、集合地点に次々と集まってきます。様々なドングリたちの数のすごいこと。
いったいどうして彼らはこんな大移動をするのか? という興味を持ちながらページを繰ると、敵が襲いかかってきます。それは食料を得ようとするリスなのですが、ドングリの視点で描かれていますから、その姿はとてつもなく大きく、凶暴そうです。難を逃れ険しい雪道を進みます。急がないともうすぐ冬。草原に出てようやく一息つくのですが、残念ながら離脱するものたちが現れます。つい気を緩めて頭から芽を出してしまったのです。
ようやく海にたどり着いたドングリたちは、木の切れ端やペットボトルの船に乗り、火事で樹木を失ってしまった島へと向かいます。そう、彼らは島を再び蘇らせるために、はるばる旅をしてきたのでした。
人間ではなく小さなドングリたちにすることで、創世記のような雄大な物語が絵本の中に広がっていきます。

06月
『トルコ エブラールの楽しいペンション 世界のともだち24』(林典子 偕成社)

 地球上にはたくさんの国があり、たくさんの文化があります。おそらく私たちは、そのほとんどと触れることなく過ごしていますし、それで困ることもないでしょう。でも、自分たちとは違う価値観や習慣を、排除するのではなく受け入れる心根を育てておくためには少しでも知っておいた方がいい。すると、考え方や発想に拡がりも出てきますし、気持ちに余裕も生まれます。
このシリーズは、各国一人の子どもに焦点を当て、その生活ぶりを見せてくれます。もちろん、その子の暮らしがその国の文化を代表しているわけではありません。しかし、一人の子どものリアルな毎日を知ることで、私たちは最初の一歩を踏み出せるのです。
エブラールの母親は二階をペンションにしているので、彼女はよくお手伝いをします。と写真入りで語られると、国や文化を越えて、エブラールに親しみを覚える人が多いでしょう。十一歳の彼女の一日。学校へ行ってお昼は家に戻って食事をし、また学校へ。
最近エブラールは放課後、コーランを教える学校にも通っています。そこでは普通の学校とは違い、スカーフで髪の毛を覆っています。母親にトルコの伝統料理を教わるエブラール。将来は医者になりたいと語るエブラール。お気に入りの民族衣装。でも服を買いに行くと、やっぱり今風の服も欲しい。
写真ですから、部屋の隅々にも色んな発見があるでしょう。
こうして私たちは一人の子どもを通して、違う国、違う文化への興味と親しみを感じ始めるのです。

***
「青春ブックリスト」(読売新聞)
2014年04月〜06月

04月「戦争がなかったら」
戦争において、子どもは最大の被害者だとよく言われます。戦争は子どもによって引き起こされるわけではなく、子どもは戦争を止める権利も権力も与えられておらず、それでも子どもは戦争に巻き込まれてしまうからです。子どもにとって戦争は、理不尽そのものであり、戦争の責任は百%大人にあります。
被害者で、責任がないなら、戦争がどんな顔をしているかに、興味がなくてもいいんだと思う人もいるでしょう。でも、残念ながらそういうわけにはいかないのです。だって、子どもはやがて大人になります。だから大人になる前、子どもという立場に置かれている今こそ、戦争について考えるいい時期だと私は思います。
『ぼくは満員電車で原爆を浴びた 11歳の少年が生きぬいたヒロシマ』は、米澤さんの実体験です。爆心地から一キロも離れていない場所で被爆しました。その瞬間どんな感じだったか。歩いて疎開先に戻るまでに見た風景。母と妹が亡くなること。事実の重さに、読むのが辛いほどです。「ぼくは、たまたま生きている」という米澤さんが、「なつかしくなることは絶対にない、苦しい記憶」を本にしたのは「黙っていたのでは、いつの日か、何もなかったことにされて、歴史の中にうもれていってしまう」と思ったからです。
『戦争がなかったら 3人の子どもたち10年の物語』は、戦場カメラマンの高橋さんがリベリア内戦で偶然出会った子どもたちとの十年間のかかわりを記録しています。
ファヤとモモは少年兵にされた子どもです。ムスは左手を失ってしまいました。ギフトは、アメリカ人の養子になりましたが、戦争によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ続けています。
高橋さんは、戦争の被害者となった彼らが大人になっていく過程にできるだけ寄り添いながら、大人としての自分の生き方を問い直していきますから、戦争とはいつも「絶対なる悪」だと信じているという彼の言葉は、とてもリアリティをもって迫ってきます。
大人になる前に、ぜひ読んで欲しい二冊です。

05月「言葉」
インターネットが本格的に普及し始めたのは今から20年近く前です。手紙や葉書に変わってメールで簡単にやりとりもできるようになりました。みなさんは、物心ついた頃からネット社会を生きていて、メールやSNSなしの生活は想像もできないかもしれません。
見知らぬ人の文章から、友人のちょっとしたつぶやきまで、私たちは今、ありとあらゆる言葉のシャワーを浴び、自分にとってどれが大切か、必要かを考える暇もなく、友人からの軽い問いかけにまで、大急ぎで返事を書いています。あなたは私が書いた言葉を、いつ、どこにいても読めるはずだから、すぐに返事をよこさないのは、あなたが私を軽んじている証拠だ。友人からのそんな評価への恐怖におびえながら。
今回は、特別な言葉の本を二冊。
『二つ、三ついいわすれたこと』の主人公たちは高校三年生。メリッサは名門大学に入学が決まった優等生ですが、親の過度な期待のために、いつも達成感がありません。ナディアは空気も読めず、男子から性的いやがらせも受けていて、一方的に恋をした教師に父親の貴重品を盗んでプレゼントしてしまいます。不安定な彼女たちの心を突き動かし、支えてくれるのは転校生のティンクの言葉。子どもの頃にTVドラマで人気があった元子役で、注目の的ですが、そんなこつは歯牙にも掛けず自分の気持ちにただただまっすぐ生きています。ところが彼女は亡くなってしまい、メリッサとナディアには、ティンクが生前発した言葉だけが残るのです。返事を書けないティンクの言葉。
『山之口貘 日本語を味わう名詩入門』。山之口貘は1903年沖縄生まれ、60歳で亡くなった詩人です。子ども向けの詩を書いていたわけではありませんので、知らない方も多いと思います。彼の詩は、どのような解釈も許してくれる柔らかなユーモアの精神から生まれています。「自己紹介」という詩から一節ご紹介。「僕ですか? これはまことに自惚れるようですが びんぼうなのであります」。

06月「音楽」
 文学で物を表現し、感情や思いを伝えようとしている人たちにとって、音楽は嫉妬の対象であってもおかしくはありません。だって音楽は言葉の壁をあっさりと乗り越えて、ダイレクトに人の心に届きます。喜びや悲しみ、笑いや怒り、騒々しさや穏やかさなどを、誰もが共有しやすいメディアです。
 一方文学は、それぞれの言語圏でしか通用せず、しかも音楽ほど抽象的なイメージで届けられません。しかも、説明する言葉はすべてを表現できるわけでもありません。
 うん。悔しいぞ。
けれど文学も、音楽を使った物語を紡ぐことはできます。
 今日はそんな二冊をご紹介。
 『星空ロック』の主人公レオが友だちになったのは九十歳の男ケチル。レオは彼の小屋をギターの練習所に貸してもらい親しくなります。ケチルは戦前、ベルリンに留学をしていたのですが、そのとき心残りだったことがあります。ケチルが亡くなった後、家族の事情で、たった一人でベルリンに行くことになったレオは、ケチルとの約束を果たそうとします。
 ケチルが七〇年間、心に秘めていた秘密とは?
 ベルリンで知り合った若者たちとは、音楽を通して仲良くなり、理解し合えます。彼らは異国から来たレオを助けてくれるのです。
 物語は、ドイツの若者の様子や、状況を語っていきます。日本に住むみなさんとそれはどう違うのか、どこが似ているのかも読みどころです。
『ルーシー変奏曲』は天才ピアニストであったルーシーのお話。コンサートで忙しく世界を巡っていた彼女は、十六歳の時にプラハ会場から突然消え、そのキャリアを失います。
 ルーシーがそうしたのは、ピアノを最優先にして生きるよう強いる祖父の支配から脱したいためでした。確かに祖父はルーシーに失望し、代わりに弟のガスを育成し始めます。ルーシーは弟のことが心配なのですが、彼のピアノ教師になったウィルは幸い、縛り付けるタイプではありませんでした。
 ルーシーはピアノが嫌いではないのです。音楽が持つ、誰とでも感情を共有できる利点を活かせない、自由に弾けない毎日が耐えられなかっただけです。
 彼女の出口はどこに?
 音楽の力を描いた二冊を読んで、文学の力も感じてくださいね。