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「14歳からの海外文学」第二回
100年前のアメリカ女子
  ―――夢育てる『ダーウィンと出会った夏』

中2女子ゆい この間、親に「大人になったら、何の仕事をするの?」ってきかれて、けんかになっちゃった。そんなの、まだ分からないよ。

三辺律子(翻訳家) でも、きいてくれるだけましかもよ?

ゆい えーっ、そう?

律子 百年ちょっと前までは、女の子は主婦になるのが当然って考え方が強かったからね。

ゆい 日本はね。

律子 外国もよ。例えば、一八九九年のアメリカを舞台にした『ダーウィンと出会った夏』(ジャクリーン・ケリー著、斉藤倫子訳)では、主人公のコーリーのクリスマスプレゼントが『家事の科学』って本だったんだから。

ゆい そうなの!?

律子 家事を学んで、最高の主婦になるのが女の幸せって説く本は、当時はやってたの。

ゆい コーリーは?

律子 おじいさんに自然科学者ダーウィンの『種の起源』を借りて読むような子。それで、科学者になりたいと思うようになる。

ゆい かっこいい!

律子 ――とは、周りの人は思ってくれないわけ。コーリーに夢を打ち明けられた友達は、「でも、女は結婚して子供を産むものでしょ?」って。その前提を疑う人はいないから、反対とか以前に、女の子が何かになりたがること自体が理解してもらえない。

ゆい つらいね。

律子 そんなコーリーを助けたのが、変わり者のおじいさん。お酒の造り方を研究したり、新種の植物を探したり、二人の日常が綴られているのもこの本の魅力。初めてコーラを飲んだとか、当時の生活の事細かな描写も楽しい。

ゆい 100年前のアメリカの女の子の日々か。なんか興味わいてきた!


追記:以前ここでも書いたけれど、最近の子は高校生、へたをすると中学生から、「将来どんな職業に就くか考えろ」と言われて、本当に大変だと思う。以前、高校生相手に、翻訳というのはどういう「職業」かということについて話してほしいと言われて講演したことがある。そのあと、ひとりの生徒が質問にきた。「わたしは出版業界で働きたいんですけど、親が斜陽産業だからやめろって言うんです。どう思いますか?」
 斜陽産業!という言葉に軽く衝撃を受けつつ、なんて答えようか悩んでしまった。個人的にはご両親の考えにあまり賛成できなかったけれど、でも、ご両親の心配や我が子を思う気持ちはわかるし、彼女がそうした意見に一生懸命耳を傾け、考える気持ちもわかる。なにしろ、新聞やテレビでは連日のように、不況、倒産、就活、格差、さらには、都議会等のヤジ発言、マタハラ(マタニテイ・ハラスメント)問題、女性役員比率、などの言葉が飛び交っているのだから。なにも感じない方がおかしいかもしれない。成長産業とか斜陽産業なんて、実はくるくる変わってるんだよ、なんて言ってみたところで無駄だろうし、だいたいわたしごときに10年後20年後の日本の経済状況などわかるわけもないので、適当なことを言うのは無責任すぎる。
 そんな大人でも答えあぐねるような問題を十代から突きつけられたって、答えられる子は少数だろう。それに、例えば医者や弁護士など、大学進学時点で決めなければならない職業だって、もしかしたら途中で「違った」と思うかもしれないのだ。
どんなことにしろ、違ったと思ったら、それでも好転するのを待って続けるか、やり直すしかなく、自分はやり直したので(銀行を辞めて、翻訳業についたhttp://melma.com/backnumber_172198_5937924/)、生徒にはそんなことなどを話してみた。上記の例でも、「違った」と思い別の道に進んだ人や、逆に、あとから「やっぱり医者(弁護士)になりたい」と大学に入り直して希望をかなえたひとも、たくさん知っている。
でも、日本はこの「やり直し」もしくは新聞等で見かける言葉でいうところの「敗者復活」の制度がまだまだ整っていない。男女ともに、就職時期(新卒一括の就職活動)や働き方など、もっともっと選択肢を増やしていけば、若い人たちが少し楽になるのではないかと思う。
にもかかわらず、先日もネット上で
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf
という文書を見た。これは「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議(第1回) 配付資料」として文科省のサイトで公表されていたものだ。これを読むと、なんだか今書いたことと、世の中が反対の方向に進みつつあるような気もするけれど、そうならないように、ここに書かれている「実践力」とやらに役に立たない本をこれからも訳していきたい。
(三辺律子)

*以下、ひこです。
【児童書】
『わたしの心のなか』(シャロン・M・ドレイバー:作 横山和江:訳 すずき出版)
 脳性麻痺で、生まれてから一度も言葉で話せたことがないメロディの日々を描いています。語り手はメロディ自身。口に出して言葉にできない彼女の思いが綴られていきます。
 障害者だから優しいのでも心がきれいなのでもなく、だた一人のメロディとしての感情、いらだち、願い。
 やがて、コンピューターを使うことで、自分の思いを少しは伝えられるようになるメロディ。それはよろこばしいことですが、同時に、彼女が知恵も知識も劣っていると思っていた教員や学友にとって、ある種の受け入れがたい存在ともなっていきます。
 痛い終盤ですが、こう描くことで、私たちは考えることを迫られるのです。
 いい物語。

『鈴狐騒動変化城』(田中哲弥 福音館書店)
 鈴ちゃんの婚礼はもうすぐ。若い衆あこがれの小町ですから、幸せになって欲しい。ところが彼女の評判を聞いたアホ若殿様、鈴ちゃんをご所望。断れば婚約者を殺すと脅します。鈴ちゃんを救え! 若い衆たちは、助けた狐に鈴ちゃんに化けてもらい大作戦を開始。
上方落語風、痛快時代劇です。
セリフ、間合い、展開、なんかもう、おもろくて、おもろくて。
 児童書の枠を広げる一冊。

『オリガミ・ヨーダの研究レポート』(トム・アングルバーガー:作 相良倫子:訳 徳間書店)
 大人から見ればささいな、またはつまらないことでも、子どもにとっては結構深刻な悩みがあります。ズボンに水がかかった、おしっこと思われたらどうしよう。バットにボールが当たらない。どうしよう。
 そんな悩みを解決してくれる、折り紙で作ったヨーダ。クラス一の変人と見なされているドワイトはある日折り紙でヨーダを作ってくる。もちろんあの、スターウオーズのヨーダだ。
 このヨーダに聞けば悩みは解決すると、ドワイト、いやその折り紙ヨーダがのたまう。
 そして、ヨーダの意味深な予言やアドバイスはクラスの子どもたちの悩みを見事に解決していく。
解決方法は、どれも現実的であり、決して荒唐無稽ではありません。
子どもの気持ちに見事に寄り添った物語。
 折り紙のヨーダを思いつくのがまずすごいなあ。

『サバイバーズ』(エリン・ハンター:作 井上里:訳 小峰書店)
 地震に見舞われ、人間が消えた世界。野犬、孤独の犬として生きるラッキーは、建物も壊れた町を、餌を求めて彷徨う。出会ったのは、人間に飼われていた囚われの犬たち。人間を頼り切っていて非常事態に全く対処できないように見える彼らに請われたラッキーは不承不承リーダーとなる。彼らを群れとして率いるには、どうすればいいのか?
 様々な危機に遭遇する中で、ラッキーは気付く。囚われの犬たちも、それぞれに役立つ能力があることを。
 彼らは生き延びることが出来るのか? ラッキーはリーダーであり続けるのか? それとも孤独の犬として生きていくのか?
 犬版七人の侍であります。さあ、どうなっていくのか。楽しみ楽しみ。

『母さんが消えた夏』(キャロライン・アンダーソン:作 田中奈津子:訳 講談社)
 母親が帰ってこない。前にもこういうことがあって、よそに預けられたことがある。もうあんな思いはしたくない。
カーティスは幼い弟のアーティの面倒を見ながらそれを隠し続ける。限界が来た頃、向かいの足の悪いおばあさんが助け船を出してくれる。彼女をサポートするのと引き替えに、祖母の役を演じると。
 やがておばあさんは、自分が持っている湖畔の小屋で一緒に住むことを提案する。母親と連絡がつかなくなると不安なカーティスだが、どうしようもなく。
 母親の失踪を受け入れたくない子どもと、子どもを亡くした孤独な老婆の出会い。
 どっちがどっちを保護しているかは関わりなく支え合います。
 だけど・・・。
 切ないけれど、幸せな結末ですよ。

『ハングリーゴーストとぼくらの夏』(長江優子 講談社)
 ハングリーゴーストとは、供養されていない霊のこと。仏教だと成仏していない魂です。
 シンガポールの日本人学校に通う朝芽は、植物園でゴーストと遭遇します。それは、戦時下、日本人に殺された魂。ここで、何が起こっていたのか?
 『ハンナの記憶』に続く、戦争の記憶を今につなげる物語。

『サラスの旅』(シヴォーン・ダウト:作 尾高薫:訳 ゴブリン書房)
 ロンドンの児童福祉施設で育った14歳ホリーは、里親が見つかるも、落ち着かない。本当は母親の元へ帰りたい。その家でウィッグを手に入れたホリーは、ブロンド女サラスに姿を変え、母を求めてアイルランドへと向かう。旅の途次で、サラスの心の中に真実が輪郭を持ち始め・・・。
 切なくも力強いYA小説。

『風味さんじゅうまる』(まはら三桃 講談社)
 長崎街道にある大正時代からつづく和菓子屋「菓匠・一斗餡」の娘、風味。三代目のおじいちゃんは風味のためにあるお菓子を作ってくれると言っていたのですが、果たせず亡くなりました。
 和菓子グランプリが開かれることになり、父親の和志はりきるのですが・・・。
 と書けば、風味が和菓子作りに大活躍する職能物のようですが、さにあらず。風味は微妙な味の違いを舌で探り当てる能力に乏しいのです。彼女は絵を描くのが得意なのですが、文化祭用に仲間と描く絵を、ついつい自分のペースで進めてしまい関係が悪くなっています。
物語は、そんな風味の悩みと、和菓子グランプリに出す新菓子の工夫に悩む父親たちをからめながら進んでいきます。
ともすれば個人の問題に収斂しがちだったYA小説に、家族や地域を関わらせていく作品です。

『びんのなかのともだち』(垣内磯子:作 松本春野:絵 偕成社)
 そうたは学校帰りに空き瓶を拾って持ち帰ります。ところがその中には仙人がいて、彼の姿は「悪い子」にだけ見えるといわれ、落ち込むそうた。
どこか懐かしい物語に、どこか懐かしい挿絵。そこがファンタジー。

『げんきなぬいぐるみ人形ガルドラ』(モドウィナ・セジウィック:作 多賀京子:訳 福音館)
 メリーベルの持っている手作り人形のガルドラは、大事にされてはいるんでしょうが、そこは元気な子ども故、御難続き。
 襲いかかる数々の困難を人形ですから、自ら克服したり、冒険で戦ったりなんかはできません。それでも波瀾万丈物語なのがおもしろい!

【絵本】
『うるわしのグリセルダひめ』(イソール:作 宇野和美:訳 エイアールディー)
 姫があんまり美しいもので、お目通りした人々は首を落としてしまいます。姫はそれをコレクション。もっと増やそうと、美の探求に余念がありません。
 でも、さすがにみんなは恐れをなし始め、誰も寄りつかなくなって、姫は退屈。
 イソールの奔放にはじける想像力は、その絵のクラッシックでクールな味わいとともに、子どもが秘めているパワーを喚起させます。
 すごい作家だ。

『いのちは』(内田麟太郎:作 たかすかずみ:絵 WAVE出版)
 「いのちはみえないところにかくれている」。
 詩人は、世界の、風景の、そこここに命を探していきます。
 それは世界にあふれるいのちと、あなたのいのちを確かめること。

『切り絵アート絵本 かげのむこうに』(ヴィルジニア・アラガ・マレルフ:作 のざかえつこ:&いぶきけい:訳 グラフィック社)
 絵の見せ方に主眼を置いた絵本ですから、物語があるわけでも、多彩な色で描かれているのでもありません。使われている色は黒、白、オレンジ。見開きの間に樹木や草木の切り絵が挟んであって、それを捲ると動物が現れるシンプルな仕掛け。そして、テキストの中にその動物の名前が埋め込まれています。
 このシンプルさが、センスや想像力を刺激する。
 最後にもう一つ仕掛けがあるのが楽しいですね。

『だいすき、でも、ゆめみてる』(二宮由起子:文 高畠那生:絵 文研出版)
 誕生日にきりんをプレゼントされたけど、だんだん大きくなって、頭が天井に当たるようになって、二階、三階、四階・・・。
 ぼくは、きりんの頭をなぜたいけど、足を触るだけ。でもね。
 優しく包む二宮ワールドを、高畠が存分に展開。夜の部屋の色遣いや、子どもの表情がすてき。

『はじまりのはな』(マイケル・J・ローゼン:文 ソーニャ・ダノウスキ:絵 蜂飼耳:訳 くもん出版)
 渡り鳥のローザは、自分の頬と同じ色をした花が大好きで「ほっぺのはな」と名付けます。首からぶら下げるかごを作り、そこに花びらを入れて・・・。そうこうしているうちに仲間たちは飛び立ってしまう。
 取り残されたローザは弱り、やがて犬に助けられ、人とともに暮らすのですが・・・。
 移ろいゆく季節と時間。そこに息づく命のときめき。
 ダノウスキの愛おしくなるほどの表情豊かでリアルな画でシンパシーを感じてください。

『不思議の国のシロウサギかあさん』(ジル・バシュレ:作 いせひでこ:訳 平凡社)
 もちろんアリスのシロウサギ。いつも遅刻して、走り回っている彼の連れ合いの物語。
 六匹の一筋縄ではいかない子ウサギと、透明で消えそうなネコの世話に忙しいこと!
 もうこてこての日常が展開されます。
 バシュレは、ユーモア全開で画面の隅々まで遊んでいて、アリスを読んでいればなおいっそう楽しめます。
 家族や夫婦のパロディでありつつ、日常の活写です。

『もう10年もすれば・・・ 消えゆく戦争の記憶―漫画家たちの証言』(中国引き揚げ漫画家の会:著 今人舎)
 赤塚不二夫、上田トシコ、森田拳次、ちばてつや、北見けんいち、高井研一郎、古谷三敏など、年齢は違えど子ども時代に引き揚げ体験をした漫画家たちによる、漫画付きの証言記録絵本。
 こうした生の証言を記憶としてとどめ伝えていくことは、大切な行為です。
 今、新たに刊行された意味は、明らかでしょう。

『ほんをひらいて』(トニ・モリスン&スレイド・モリスン:文 シャドラ・ストリックランド:絵 さくまゆみこ:訳 ほるぷ出版)
 図書館の魅力を伝える絵本ですが、図書館への途次の描写など、単に図書館ラブでないところが、トニ・モリスン。っていうか、よいです。
 お天気の悪い中、女の子は気分を変えるために図書館へ向かうのですが、その途中にいろんなものを見ます。路上でハーモニカを吹く人。空き家。大きなゴミ捨て場。
そして図書館の森へ。
つまり、図書館や本で閉じるのではなく、外に開かれた視線です。その上で、図書館はすてきだよと伝えます。

『くるくるかわるねこのひげ』(ビル・シャルメッツ:作 武本佳奈:訳 ぶんけい)
 半世紀前の絵本。線を主体としたイラストのなんてモダンでおしゃれなこと!
 あるひ少女がつり上げたのはひげのなが〜いネコ。縄跳びできるし、びげで絵も描けるし、ひげを現にして音楽も奏でられる。
 でも、そんなネコがさらわれた!
 発想の跳び方、輪郭線の大胆さ。
 いいですね。

『いえでをしたくなったので』(リーゼル・モーク。スコーペン:文 ドリス・バーン:絵 松井るり子:訳 ほるぷ出版)
 両親に怒った四人兄弟と犬一匹。荷物をまとめて大がかりな家出を決行します。それだけでもう、愉快。一人じゃないから、色々やりくりをして、家出を継続していきますよ。はてさて、どこまでやれるやら。
 子どもの真剣さが可愛い。
 ペン画がとってもおしゃれてすてきな絵本です。

『トラさん、あばれる』(ピーター・ブラウン:作 青山南:訳 光村教育図書出版)
 ちゃんと正装した動物たち。みんなこれでいいと思っていました。ところがトラくんは違っていて、堅苦しい服を脱ぎすてたい。やってみると、周りは驚き近寄らない。
でも、トラくんはいい気持ち。トラの生活を満喫。
でも、みんなと違うのはやっぱり・・・と、みんなの所へ戻ろうとするとみんなは?
画面構成が本当に巧いピーター・ブラウン。

『おたすけなみだと おじゃまなみだ』(イローナ・ラメルティンク:文 リシュー・ジョルジェ:絵 野坂悦子:訳 西村書店)
 緊張すると涙が出て困ってしまう女の子のお話。涙はなかなか制御できないけれど、というか、出来ないところが涙の大切さであったりしますが、でも、それが心の重荷になっては本末転倒。
涙を例に、心のケアを描いています。

『ルッキオとフリフリ おおきなスイカ』(庄野ナホコ 講談社)
 黒猫とホワイトソックス、二匹のネコとお話です。
お腹がへって仕方がない二匹は、大きな大きなスイカを手に入れ。これをお金に換えようと海辺で店開きをするのですが、これが売れない。困った二匹は、お腹いっぱいになれるのか?
ネコたちの面立ちがキャラクターとしてしっかりしているので、物語に乗りやすいですね。今作はお披露目として、二作目がありますように。

『ちいさなちいさな めにみえない びせいぶつの せかい』(ニコラ・デイビス:文 エミリー・サットン:絵 越智典子:訳 出川洋介:監修 ゴブリン書房)
 世界のありとあらゆる所に生息する微生物のついて語ります。私たちの生活空間に普通に生きている微生物。それを語りながら、地球と私たちを考えていきます。
 CGを使うわけでも、電子顕微鏡写真を使うわけでもなく、エミリー・サットンの絵は、あくまで絵本的な佇まいで、ほっこり。

『どうぶつ まぜこぜ あそび』(サトシン:さく ドーリー:え そうえん社)
 「こあらいおん」って、どんなどうぶつ? 「コアラ」と「ライオン」はまぜこぜ。
 という風に、不思議などうぶつがどんなどうぶつのまぜこぜかを当てていきます。
 言葉でのまぜこぜを絵で見せていくわけですね。

『つかまえろ!』(カタリーナ・ヴァルクス:作 ふしみみさお:訳 文研出版)
 『てをあげろ!』の2作目です。
 ハムスターのカウボーイ、ビリーはパパにバッファローをなげなわで捕まえると宣言します。で、確かに角になげなわがからまるのですが、それはまあ、捕まえたと言うより、引っ張られているだけで・・・。でもビリーにすれば捕まえたことになり、パパに元に連れてきます。
 ほんわか親子のほんわか絵本です。

『プラレール超図鑑』(ポプラ社)
 タイトル通り、トミーのプラレール半世紀の歴史図鑑です。
 初期の素朴なおもちゃから、現在の本格フィギュアまで。でも基本はやっぱり、電車遊びです。
 子どもって、最初は丁寧にレールを敷いて列車を走らせるのですが、だんだん興奮してくると、線路を破壊する怪獣になったりするのよね。
 半世紀前の資料がもっと欲しかったですが、こういう図鑑は本当にうれしい。

『トマス・ジェファソン本を愛し、集めた人』(バーブ・ローゼンストック:文 ジョン・オブライエン:絵 渋谷弘子:訳 さ・え・ら書房)
 アメリカ独立宣言を書いたジェファソンの本にまつわる伝記絵本です。
 字が読めるようになってから、とにかくもう、ありとあらゆるジャンルの本を読み続け、集め続けた人。独立戦争の後フランスに助けを求め彼が渡仏します。その感も読み続け、パリでは図書館に通い詰める。
大統領になって、議会図書館の充実のために蔵書を寄贈。
そして分類。
本好きにとっては、まあ、うらやましい限り。
知識は人を育てるのですよ。

『くろいながい』(おくはらゆめ あかね書房)
 夜のように黒く多長いしっぽの黒猫と、黒くて長い髪の女の子。二人は仲良しになる。そしてその黒くて長いしっぽと髪が、奔放に踊り、遊びます。
 おくはらのイメージの広がりは、私たちの心をもひろげてくれます。

『トラネコとクロネコ』(宮西達也 すずき出版)
 トラネコとクロネコが一個の桃を争って、不毛な自慢合戦に突入だ。ネタがつきでどんどんしょうもないことに。そして最後はわかりやすいかけっこに。
落としどころが相変わらず巧いですね。

『からだのふしぎ うんちはどこへいくの?』(マイク・ゴールドスミス:作 リチャード・ワトソン:絵 たなかあきこ:訳 今泉忠明:監修 小学館)
 小窓を開く仕掛け形式で、体の中などを見せながらうんちについて語ります。どれほどの量が排泄されて、どう処理されていくのか。
 エコロジーも視野に入れて、うんち全体を見通す絵本です。

『ぼくはうさぎ』(山下哲:作 福田和之:絵 あかね書房)
 ころんは、うさぎです。さえちゃんと一緒に遊びます。ところがさえちゃんの友だちに子犬を間違われ、なんとさえちゃんもそれを訂正せず・・・。ぼくはいぬになる決心をするのですが・・・。「自分」物語です。

『つきが いちばん ちかづく よる』(竹下文子:作 植田真:絵 岩崎書店)
 夜の町をネコが急いで歩く。どこへ言ってももう場所をとられている。最後にネコがたどり着く場所は? そしてその月は?
 というストーリーよりむしろ、まちを彷徨するネコの姿を楽しんでください。
 いい絵だ。

『ぼくのかぼちゃ』(かもがわ しの こぐま社)
 かぼちゃの種をまいて、大切の育てて、さあ、収穫。スープにプリンにケーキ、いろいろ作りたいものが思い浮かびます。ところがおさるさんの親子が一個持って行ってしまいました。でも大丈夫、残りを美味しくいただきます。おさるさんも美味しく食べているかな?
 山科とか京都のちょっと山よりのところなんかではよく聞く話です。
素朴な展開が暖かい。切り紙版画のぬくもりも味わってください。

『手づくり科学あそび1』(塩見敬一:監修 西博志:著・おもちゃ発案 こばようこ:イラスト・おもちゃ制作 アリス館)
 特別支援学校の生徒にももっと科学を教えたいとの発案から生まれた手づくり科学おもちゃの作り方を事細かく再現し、同時に科学的に解説していきます。
 一つ一つの項目も手づくり感があって、とてもわくわくする出来です。
 手間はかかるでしょうが、こういう本が作られるのはすごくうれしいです。
 カエルでおなじみ写真家の松橋利光さんもお手伝いされておられるようですよ。

【朝日小学生新聞2013年度分】
『小公女』(フランシス・ホジソン・バーネット:作 高楼方子:訳 福音館書店)
「どんなぼろをまとっていようと、心はプリンセスでいることはできる」。
 これまで読んだガールズ小説やマンガで、これに似た言葉に出会ったことはありませんか? 
 セーラ・クルーは、寄宿舎学校に入るためにインドからロンドンにやってきます。学校を経営するミンチン先生は資産家の娘である彼女をプリンセスのように扱いますが、セーラはそれがお世辞であると見抜いています。
 父親が破産して亡くなったセーラは屋根裏部屋に追いやられ、ろくに食べさせてもらえないメイドとなってしまいます。過酷な運命に彼女はどう立ち向かっていくのか?
最初にあげた言葉は、彼女が自分を奮い立たるために考えたものです。
 セーラはプリンセスごっこのように、空想の中で遊ぶのが大好きな少女です。でも、現実から目をそらしているわけではないことを、注意深いみなさんはすぐに気づかれるでしょう。
 セーラはいつも、人を観察し、自分で考え、他人に流されず、自分が正しいと判断した行動をしています。もちろん、耐えられなくなってめげるときもあるのですが、それでも誇りだけは決して失いません。
 プリンセスであるとは、きれいに着飾ることでも、お金持ちになることでも、ちやほやされることでもなく、まわりに流されず、しっかりと前を向き、自分の頭で考え続けることなのです。
 百年以上前に書かれた物語の中から、セーラ・クルーはそれを教えてくれます。
物語の終盤でセーラはこう言います。「私、自分が何をすべきなのかって考えていたの」と。
 ガールズ小説の原点。

『ヨーンじいちゃん』(ペーター・ヘルトリング:作 上田真而子:訳 偕成社)
 家族は共に過ごしていますから、たがいの正確もわかり助け合いながら生きています。家の中でそれぞれの居場所を見つけて暮らしているといえばいいかな。ヤーコプ一家もそうでした。でも、そこに誰かが加わったたら?
おかあさんは、七十五歳になった父親のヨーンのことが心配で呼び寄せます。おかあさん以外の家族にとって、ヨーンと暮らすのは初めての経験です。おとうさんは最初ためらっていましたが心を決め、ヨーンが喜ぶようにと部屋の壁紙も新しくします。
ヨーンは自分の部屋を見回し、満足しながらも、「じゃが、この壁紙は」だめだと言い、ペンキを買ってきて塗り替えてしまいます。そして自分だけの玄関ベルを付け、自分が座りたいソファーの位置を決めます。
ヨーンの行動や態度はちょっとわがままに見えるでしょう。でも、ヨーンは自分がどんな人間かをみんなに見せることで、この家での居場所を作ろうとしているのです。家族が一人増えたとき、私たちは自分の居場所を少しずつ譲る必要があります。相手が赤ちゃんでも老人でも同じです。
ヨーンは恋もします。老人の恋愛を不思議がるヤーコプに彼は、生きている限り人は人を好きになれるのだと伝えます。
やがて衰えていき、恋人のことも誰だかわからなくなり、死を迎えるヨーン。
今度は家族の中に隙間が生まれます。それはヨーンが自分の居場所にもういないからです。さみしいけれど大丈夫。ヤーコプたちの心にヨーンの居場所ができ、彼の記憶は消えないからです。

『ふしぎなナイフ』(中村牧江・林建造:さく 福田隆義:え 福音館書店)
まだ表紙を開かないでくださいね。
表紙に描かれているナイフは肉や魚や野菜を食べやすい大きさに切るためのものです。
「そんなの、知っているよ!」と怒られそう。
絵本のタイトルは「ふしぎなナイフ」ですが、みなさんはどんな絵本を想像されますか?
鉄でも石でも何でも簡単に切れてしまうナイフ。
これはすごいですね。
人と話せるナイフ。肉を切っている最中に、「おいしいよ」なんて教えてくれるのです。
これも、楽しいなあ。
では、ページを繰っていきましょう。
「ふしぎなナイフが まがる」。
あれまあ、ナイフの先が曲がっています。
ナイフは硬くて曲がらないと考えていましたから、そんな想像はしていませんでした。だって、曲がってしまってはナイフじゃないでしょう?
次のページは、「ねじれる」。
柔らかいナイフかな?
すると次は、「おれる」、そして「われる」。
柔らかくないみたい。ガラスみたいなのかな?
「とける」。氷でできているの?
そして、「ふしぎなナイフが きれる」。
とうとうナイフの方が切られてしまいました!
その後は、「ほどける」、「ちぎれる」、「ちらばる」と続いていきます。
どれも、私たちがナイフに抱いているイメージとは合わない言葉ですね。
私たちは言葉と、それが表すものを決めています。そうしておかないと話が通じなくなるからです。
でも、ときどきはこの絵本のように、物と言葉に組み合わせを頭の中で色々と想像して遊んでください。
そうすれば、心がふんわり軽くなりますよ。

『まぼろしの小さい犬』(フィリッパ・ピアス:作 猪熊葉子:訳 岩波書店)
ベンは犬を飼いたいのですが町中のアパートでは無理。祖父母から誕生日に送られた刺繍の犬の絵には「チキチト チワワ」と書いてありました。本物の犬を飼いたいけれど、町中のアパートでは無理なので、いつしかベンは、心の中に賢くて勇敢な犬、チキチトを飼い始めます。目を閉じればチキチトを見られる。歩きながらそうしたためにベンは交通事故に遭ってしまったほどです。そんな折、祖父母の家で子犬が生まれ、ブラウンという名の一匹をベンのために残してくれます。飼うことはできなくても、ベンの犬は祖父母のところにいるのです。いつしか彼はブラウンをチキチトだと見なし始めます。
犬を放せる大きな公園のある地域に引っ越すことになったベンは、祖父母のところへチキチトを引き取りにいきます。チキチトと呼ぶベン。しかしブラウンには応えようがありません。そしてブラウンはベンが思い描いていた賢くて勇敢なチキチトとは全く違う臆病な犬でした。
失望を隠せないベン。その思いはブラウンにも伝わり、家に連れて帰る間もブラウンはおびえています。自分がベンに受け入れられていないことを感じているのです。
チキチトを散歩させて一緒に遊ぶことを夢見ていた大きな公園でベンはブラウンを置き去りにしようとします。去っていくベン。やがてそれを理解したブラウンもまた去ろうとしますが・・・。
いくら望んでも、手に入れられないものは必ずあります。だからといってそれ以外のものをみんな拒否していては、現状はなにも変わりません。今手に入ったものを受け入れ、慈しんでみれば、案外一歩先へ進めるものです。

『床下の小人たち』(ノートン:作 林容吉:訳 岩波書店)
床下に住む小人一家の物語です。彼らは生活に必要な物は床上から取ってこなければなりませんので人間に知られては大変。一人娘のアリエッティは生まれてから一度も床上に出たことがなかったのですが、とうとうその日が来て、父親に連れられ彼女は、幸せいっぱいに未知の世界へ。が、少年に見つかってしまう・・・。体が弱く療養中の彼は、さみしくて小人と仲良くなるために人形の家にある豪華な家具などをプレゼントします。娘が観られてしまったので引越を考えていたアリエッティの両親も、これで大満足! けれど・・・。
龍や魔法使いが出てくる異世界でファンタジーはたくさんあります。でも、この物語はちょっと違います。床下に暮らしていたアリエッティにとって床上、つまり私たち人間の世界が異世界なのです。自分たちの見慣れた日常の風景を、アリエッティの視線で眺め返すわけ。すると、これまで当たり前だと思っていた世界が違って見えてくるかもしれません。
この物語の特徴を、もう一つ。これは、ケイトという女の子におばさんが、自分の弟から聞いた話を語っています。弟というのが、アリエッティが出会った少年です。そして、物語の語り手は、自分はケイトではないと言っています。つまり、今読んでいるアリエッティのお話は何人もの人を経て語られているのです。なぜ作者はこんなややこしいことをしたのか? を考えてみるのも面白いと思います。
この作品はアニメ『借りぐらしのアリエッティ』の原作ですから、そちらをご覧になった人も多いでしょう。アニメを観たから本はもういいやと思わないで。全く違います。ぜひ比べて読んでみてください。別の世界が待っていますよ。