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産経新聞 「翻訳机」 より

 週に二回、大学で翻訳を教えている。私自身は、小中高を通しておしゃべり・忘れ物の常習犯で、おそろしく迷惑な生徒だった。自分でも(こんな生徒がいたら、先生も迷惑だろう)と思うほどで、では反省して優等生になったかといえばそうではなく、将来先生なんて大変な仕事につくのだけはやめようと思っていた。
 それなのに、大学で教えるようになったのは、(YAを訳しているから、若者に触れる機会があるといいかも)という不純な動機を抱いたからだ。ところが、始めてみたら、「先生」は楽しかった。
 不純な目的も、ちゃっかり果たしている。大学生に「先生、カレシなんて言い(書き)方、もうしません」と指南されたり、こちらから「今は、スパッツじゃなくて、レギンスだよね」などと確認したりするのは、しょっちゅう。ほかにも、「チャンネルを回す」という言い方を今も使うかとか、英米の小説でも頻繁に見るようになったメールやSNSの文体についてなど、興味深い話題は尽きない。
 学生の訳に、感心することも多い。語り手の女子高生の一人称を「うち」で訳したものなど、実際出版するものに使えるかどうかは別として、活き活きしていて、読むのが楽しかった。では、そのまま真似できるかというと、できないと思う。自分の血肉となっていない言葉を使うと、どうしても文章から「無理」が透けてしまうのだ。
 そんな手ごわい彼らを相手になんとか「先生」をしているわけだが、そこから学ぶことは多い。学生は、もちろん文法的なミスも犯すが、それ以外に、原文の意図を取り落とすことがよくある。英文の字面だけ追って、文章の「意味」はわかっても、その「意図」するところまで追求できていないのだ。登場人物のGreat!というセリフは、意味的には「よかった!」かもしれないが、意図は皮肉かもしれない。ここは、読者を驚かせるところなのか、それとも笑わせるところなのか? それを理解しないと、正確な訳語は出てこない。
 とはいえ、その「正確な訳語」がまた難しいのだ。原文の意図をもっとも効果的に伝えるには、どうすればいいのか!?
そんなことを議論しながら授業をしているうちに、自分がどうして翻訳が好きか、よくわかってきた。自分が面白かったものを、ほかの人にも面白がってほしいのだ。自分がクスッと笑ってしまったところは、なんとか読者も笑わせたいし、怒りを覚えたところは、いっしょに怒ってほしい。それには「意図」をきちんと拾い、なおかつ、それを正確に伝えなければならない。
要は押しつけがましいわけだが、ふだんは内気(!)な私も、翻訳なら堂々と自分が好きなものを人に押しつけられる。というわけで、これからも自分がいいと思うものをなるべく多くの人に押しつけていきたい。
(2013.11.3 産経新聞掲載)


追記:黙っていると、おとなしそうに見える、と言われるのが唯一の自慢なのであまり公にしたくないのだが(ここまで書いて、でも黙ってるのに、うるさそうな人なんているのか!?ということに気づいたが)、わたしは、小学校3年生から高校まで学校で叱られ続けていた。なぜ小3かと言えば、パジャマの上に制服を着てくるYと仲良くなったからだ【*2014.1.28号参照】。
 それからはたがが外れたようになり、小学校では、常に「忘れ物をした人リスト」のトップ争いに食いこみ、連絡帳は「もう廊下を走りません」という反省文だけでも10以上になって、学期半ばで二冊目を買わなければならなくなった。
 でも、ぜんぜん反省してなかった。というか、気にもしてなかった。
中学になってもそれは変わらなかった。ある日、体育の授業から教室にもどる際、Yとわたしは、友人Oの口数が少ないことに気づいた。心配して「どうしたの?」と気遣うと、「どうしたのって、さっき体育の授業であれだけ叱られたのに、忘れたの!?」と逆に怒られた。忘れていた(もちろん、Yも忘れてた)。
中には、わたしの担任になってしまったという不幸をバネに使命感に燃える先生もいた。高2の一学期の保護者面談から帰ってきた母が、「なんだか先生が、あなたのことを生まれ変わらせるっておっしゃってたわよ。これからはあなたも大変ね。ふふっ」。ちなみに、親戚の証言によれば母はむかし真面目だったらしいので、娘が「生まれ変わる」必要があるとまで言われているのに、「ふふっ」と笑い飛ばしてしまったのは、当時すでにあの″父【*2013/02/25号及び2013/07/30号参照】と結婚して20年近く経っていたせいと推察される。
 母の予言は的中した。その先生は四六時中わたしのことを見張るようになり、男の先生だったのに女子トイレまでやってきて、窓枠の上に立っていたわたしと友人を叱ったり(どうしてそんなところに立っていたのかは、ここには書けません)、毎日のように掃除の時間にわたしがサボっていないか見にきたりした。おかげでぜんぜんサボれず、とうとうわたしの掃除班は「掃除をがんばった班」として全校朝礼で表彰までされてしまった。あまりにも意外なメンバーの表彰に、一同大ウケだった。
 でも、とうぜん仲のいい友人たちからは、「わたしたちまで見張られて迷惑!」と大ブーイングだった。おまけに、大変申し訳ないけれど、その先生の努力はまったくの無駄に終わった(ごめんなさい)。
 じゃあ、生まれ変わることはなかったのか、と言えば、実はちゃんと生まれ変わったのだ。大学院のときに(遅い!)。大学卒業後の銀行生活で挫折したわたしは【*2013/11/29号参照】、大学院に入ったとき、それまでの適当生活を反省し、今後は生まれ変わって、授業をちゃんと聴き、積極的に参加して、目標を持って努力しようと決意し、実行に移した(と思う)。
 怒られた理由にしろ、決意の内容にしろ、小学生並じゃないか、というツッコミはさておき、子どもは親や教師に言われたくらいじゃ生まれ変わらない、ということを、わたしは身を持って知っている。無理やり変えようとしたところで、それは表面的に変わるだけで、「生まれ変わった」わけではない。
でも、ただ見守るというのが、実はいちばん難しいかもしれない。そんなとき、案外役に立つことが児童書やYA文学にかいてあったりするので、大人の方もぜひ手を伸ばしてみてください!(三辺律子)

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以下、ひこ・田中です。
【児童書】
『二つ、三ついいわすれたこと』(ジョイス・キャロル。オーツ:作 神戸万知:訳 岩波書店)
 スポーツも勉強もできる優等生メリッサは、他の誰よりも早く名門大学の入学許可をもらいます。非の打ち所のないメリッサですが、そんな自分が何者なのか、実のところよくわかりません。彼女の心を動かせてくれる存在は一人。それはティンクです。
 太り気味で、空気も読めず、男子からは性的いやがらせも受けているナディアは、科学の教師に恋をし、父親のコレクションから一枚の絵を盗んで教師の誕生日祝いにします。画の作者はカンディンスキー。ナディアの心の支えはティンクです。
 ティンクは転校生。母親は女優で、ティンクもまた小さな頃子役としてTVで人気者でした。しかし、今のティンクは自分の気持ちにただただまっすぐな少女。そのことと、かつて人気者であることとで、彼女は学校でも特異点となっています。
 物語は、死んでしまったティンクの影を抱え、時にそれに助けられ、時に迷路に誘い込まれながら、一歩ずつ生きているメリッサとナディアを、とても細かく描いていきます。
 キャロル・オーツの作品は『アグリーガール』もそうでしたが、ぐさっと内面を突いてきますね。

『パン屋のこびととハリネズミ』(アニー・M・G・シュミット:作 西村由美:訳 たちもともちこ:絵 徳間書店)
 11の小さなお話が入っています。どれも雑味のない愉快なお話。物語の面白さを知るための入り口に最適な一冊です。
 私は、ついつい雑味を入れたくなるので、こういう寸止めのセンスというか、力がうらやましいです。
 そうそう、たちもとみちこによる絵がとてもいいです。汗臭くなく、軽やかで、センスのいい、丁寧な作り。

『紫の結び』(全3巻 荻原規子 理論社)
 荻原源氏が完結です。『源氏物語』をベースに、現代の子どもに向けて、読み安い言葉使いで、というか荻原言葉で源氏へと仕上げています。勾玉シリーズやR.D.Gシリーズが読みやすかった、夢中になれた人にとって源氏物語入門にぴったりです。

『デリリウム17』(ローレン・オリバー:作 三辺律子:訳 新潮文庫)
 恋愛状態は確かに、ハイになったり、心ここにあらずであったり、涙もろくなったり、イライラしたりと、不安定な様子になりますが、この物語はそれを病と規定し、成人になる前に脳外科手術をしてしまうデストピア社会を描いています。
 何度手術をしても愛を捨てられず自殺を図った母親を持つ一七歳レナ。この社会の成人儀礼であるその手術をもうすぐ受けるのですが、彼女は恋に落ちてしまいます。やはり、それは母親の影響か? と自身も畏れるレナ。しかし、やがてレナは愛の本質を知ります。
 あり得ないデストピアを描いているはずが、これがなかなかリアル。それは恋愛そのものと、思春期の苛立ちが時に、非日常性を帯びて見えるからでしょうか。いや、それだけではなく、現代が、このデストピアにどこかしら既視感を持っているからでしょう。
 レナの視線で今の社会を見つめることもできる一品。

『千の種のわたしへ』(さとうまきこ 偕成社)
 千種は、友人と行くつもりだった私立中学に一人受かってしまい落ち込んでいるところに、担任が千草と間違ってしまった名前の訂正シールをクラスで配ったところ、多くが感心を示さず床に捨てられてしまいます。自分を否定されたかのように感じた千草は不登校に。
 物語は、彼女の鬱々とした日々から始まり、その再起動までを描いています。
 家の近くにある楠の精霊が、千草の元へ様々な不幸を体験した動物や霊を送り込みその話を聞かせるという非日常を使いつつ、自分を心配するばかりで、そのままを受け入れてくれない母親への違和感などを言語化していきます。

【絵本】
『山之口貘 日本語を味わう名詩入門14』(萩原昌好:編 あすなろ書房)
 児童書で貘さんの詩集にお目にかかれるとは思いもしませんでした。あすなろ書房さん、本当にありがとうございます!
絵は、ささめやゆき。
 うん、なるほど。ささめやさんがいい。
 死んでも死なない柔らかな精神を言葉にした貘さんの詩に出会って45年。どれだけ力をもらったか。
貘さんの詩はストレートなようで曲がりくねっているので、読者の懐で変幻自在。そこをどうぞお楽しみ下さい。

『パパのところへ』(ローレンス・シメル:文 アルバ・マリーナ・リベラ:枝 宇野和美:訳 岩波書店)
 パパは出稼ぎに出かけて二年近く会えていません。ママとおばあちゃんと犬のキケとの暮らし。今日、パパから電話がかかってくる!
 私たちはパパが働いているところへ引っ越すことになりました。おばあちゃんとキケは残ります。
新しい希望と不安と寂しさが、静かに伝わってきます。

『ルーマニア 世界のともだち』(長倉洋海 偕成社)
 副題に「アナ・マリアも手づくり生活」とあるように、アナ・マリアちゃんの毎日を、あくまでもその日常を、写真よイラストと言葉で伝える本作。たった一人の女の子の家での暮らし、学校生活、地域などから、ルーマニアがほんの少し、リアルに見えてきます。身近になってきます。

『韓国 世界のともだち』(ペソ 偕成社)
 ソウルの下町に住むピョンジュンの毎日を伝えます。大晦日から始まって三月五年生になるピョンジュン。学校での授業。給食。サッカー。放課後友達とトッポギを食べたり、囲碁の教室に通ったり。夏祭りも楽しそう。
 こうした日常を伝えるのが、一番の文化交流。

『時計がわかる本』(矢玉四郎 岩崎書店)
 矢玉さんが、いい絵本を出してくれました。「時間がわかる」や、「時計の歴史」みたいな本はありますが、「時計」が「わかる」なんて本はなかったと思います。
 「時計は時間を計るメーターです」って、いきなりすばらしい説明ではないか!
 そこから延々と矢玉さんらしいしつこさで、教えていってくれます。
 大人向けの解説頁では「アナログ時計はおおざっぱがいい」。その通り! 「子供に時計の読み方を教えるということは、頭の中にアナログ時計をつくりあげることです」。いいなあ。
 ところで、この絵本に出てくる時計は全部、矢玉さんのコレクションなんですって。それもすごい。

『おいしいいちにち』(マンディ・サトクリフ:作 ひがしかずこ:訳 岩崎書店)
 「ベルとブゥ」シリーズ第3作。ケーキが大好きで、ケーキばっかり食べたがるウサギのブゥ。そこでベルは、いろんなおいしいものをブゥに教えようとします。
 一人と一匹の掛け合いが楽しく暖かいシリーズの調子がいよいよ上がってきた感じ。
 切れのいい絵も好きです。

『じぶんで おしり ふけるかな』(深見春夫:作 藤田 紘一郎:監修 岩崎書店)
 トイレをした後のおしり拭きを、自分でできるようにうながす絵本。うんこの話を子どもは大好きですが、自分の排便処理の話はどうかなと、反応が楽しみな一冊。日本の場合ウォシュレットが普及しているから、こういうことを教えるのも難しくなっていきますね。

『虹色いきもの図鑑』(齋藤槙:文・絵 「たくさんのふしぎ」一月号 福音館書店)
 カメレオン、オオハシ、トンボ。鮮やかな色の生き物たちを齋藤が、貼り絵で活き活きと見せてくれています。それは本物の写真以上に、その色合いを引き立たせ、美しい。
 それは、齋藤が見て、心に抱いたイメージで再構成しているからですね。

『えをかく かく かく』(エリック・カール:作 アーサー・ビナード:訳 偕成社)
 うま、うさぎ、きつね。色んな動物を好きな色で描く喜び。エリック・カールの原点を今を見せる絵本です。

『へんしんするゆび』(宇田敦子:さく 寄藤文平:デザイン 「かがくのとも」三月号 福音館書店)
 絵本の真ん中に指一本が通る丸い穴。そこに指を通しておき、頁を繰るとそれは、鏡に映る指であったり、ソーセージになったり、クレヨンになったり。
見立てのおもしろさがわかりやすく示されます。
といわなくても、単純に面白い。そのアイデアが秀逸。

『モンゴルの白い馬』(王敏:文 李暁軍:絵 小峰書店)
 大塚さん再話、赤羽さん画の『スーホーの白い馬』と同じ昔話ですが、こちら李暁軍の画は、その哀しい背景を力強く幻想的に描きます。90年刊行の新装版です。

『うらしまたろう』(こわせ・たまみ:文 高見八重子:訳 鈴木出版)
 よく知られたお話を、こわせがリズミカルに、読み聞かせやすくリライトした絵本です。高見の絵は、できるだけベタなシーンにならないように、ほんの一瞬を切り取ることに注力しています。

『だいおういかの いかたろう』(ザ・キャビンカンパニー:作・絵 すずき出版)
 寒い日、ゆめたくんが園に向かっていると、助けを求める声。なんとだいおういかが湖で凍っています。なんでも、海で踊っていたら、調子に乗って湖までやってきて、凍ってしまったんだそうです。大変だあ! 園の先生やみんなとお湯を使って溶かしてあげます。お礼はもちろん、いかダンス。
 なんだかよくわからない展開に、思わず乗せられてしまいますよ。

『本屋さんの秘密』(秋田喜代美:監修 稲葉茂勝:文 ミネルヴァ書房)
 「本屋さんのすべてがわかる本4」です。本屋さんでメディアリテラシー、本屋さんで異文化理解など、具体的に見せていきます。
 本屋さんはテーマパークみたいに面白く、なおかつ自分でアプローチすれば色んな顔を見せてくれるテーマパークなので、飽きることはありませんよ。ということが、子どもたちにも、いや大人にももっと伝わるといいですね。

*「青春ブックリスト」(読売新聞 2013.02)
チェルノブイリ原発事故には確かに衝撃を受けましたが、それでも心のどこかで他所の国の出来事と感じていました。しかし二年前、私たちは原発事故の当事者となったのです。「私は福島やその近郊には住んでいないよ」と言う人もいるでしょうけれど、海外から見た場合、あなたも私も原発事故を経験した国の人間です。事故が起こると、あらゆる生物に深いダメージを与え、原状回復が非常に困難であり、いつ終わるともわからない恐怖と、住み慣れた土地に帰れないかもしれない不安に包んでしまう原発について、当事者としてあなたがどう考えているのかは、世界の人々にとって重要なメッセージになるのです。政府の方針は関わりなく、あなた自身の見解を聞きたいと彼等は思っています。支持不支持、どちらであれ、持っている知識と想像力、そして他者を思いやる心をフル動員して、あなたの言葉を紡いでください。
『いつか帰りたいぼくのふるさと 福島第一原発20キロ圏内から来たねこ』(大塚敦子:写真・文 小学館)は原発事故で現地に残されたペットと、その飼い主を巡る写真絵本です。現地取材を続けていた写真家の大塚さんは一匹のネコを引き取ります。キティを名付けられたこのネコの背後には、事故によって疎開した人々の無念さが横たわっています。そして、思わぬ出来事が・・・。
『発電所のねむるまち』(マイケル・モーパーゴ:作 ピーター・ベイリー:絵 杉田七重:訳 あかね書房)。マイケルは半世紀ぶりに故郷へ帰ります。彼が子どもの頃、原発建設の話が持ち上がりました。最初は反対意見で結束していた住民も一人一人と賛成に回っていき、最後まで反対を貫いたのは建設予定地に住むタイ人女性とマイケルの母親だけでした。その後、母親はマイケルを連れて町を去ったのです。帰った町でマイケルは、原発は廃炉となり、安全確保のためにこれから長い時間が費やされることを知らされます。
原発の建設は、何百年先の未来までを決めてしまうことなのです。