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西村醇子の新・気まぐれ図書室(1)――絵本の話―― 

 みなさまのなかには、かつての「気まぐれ図書室」をご覧になっていた方もおいでかもしれない。15回ぐらい掲載したところで中断し、その後は単発の書評を発信するにとどまっていた。このたび、思うところあって再開を決めた。不定期になるだろうが、お楽しみいただければ幸いである。

 再開一回目は絵本を少し取り上げることにしたものの、画像抜きで絵本を語るというのは、なかなか骨が折れる…。
 中垣ゆたか『ぎょうれつ』(偕成社2013年2月)は、画面いっぱいにうねうねと続く表紙カバーに始まり、行列の行先が気になる読み手は、ひたすら行列を追いかけることになる。日常的にも人気ラーメン店や有名スィーツを求める人が行列をつくるし、最近も新しいiphoneの発売に行列する人が報道されていた。本書は人々が行列する習性を逆手にとり、皮肉っているようにも思える。
見開き画面いっぱいに、さまざまな小さな人やものがカラフルに詰めこまれているところは、有名な<ウォーリーを探せ>を連想させる。ただし異なるのは、この絵本には特定の主人公がいないこと。また文字なし絵本ではないが、文字数は少ない。一種類は人物が吹き出しで「かいだん つかれる」とか「のどかわいた」といった感想を示すもので、見開き一つに二つぐらいと控えめ。もう一種類はゴシック体で「やままでつづいていた!」とか「そろそろおわりかな…」と、見開きページ間のつながりを示す読者への案内である。
よみ手は絵本のイラストをじっくり「よむ」ように求められている。背景の場面は野外と室内が混交しているし、年齢性別の異なるさまざまな人間と「人外生物」とが入り混じっている。行列がひたすら続くなかに、我が道をいく、つまり行列していない人々がまじり、サブストーリーを構成していることを指摘しておきたい。
「なぜか」「それはね」という応答もまた、読者を次のページへといざなう手法である。エドワード・ギブス作、谷川俊太郎訳の『ちびはち』(光村教育図書、2013年8月)はこの応答を利用し、生き物同士の力関係をユーモラスに描いたもの。表紙は水色が基調で、そこにミツバチのとんだ軌跡を示す長めの点線が入り、書名は黄色の文字で描かれている。各見開きは、(一つの絵がページをはみ出しているように見える)断ち切りをまじえた大ぶりの絵がインパクトを与えている。またミツバチを追いかけるカエルを追いかけるヘビ…というように、各ページはナーサリーライムさながらにつながりをもっているが、このとき、前ページの「はらぺこへび」は次ページでは「ぺこへび」に、また「はらぺこマングース」は「ぺこマン」にと、呼び方が縮められ、よりリズミカルになっている。そして、折りたたまれたページを最後に開けると…最初と最後がつながっているとわかる仕掛け。
じつは裏表紙で「おいかけっこがはじまるよ! みんなにげてる、でもなにをこわがってるんだろう?」という文字が円をつくり、その外側に絵本に登場する顔ぶれが、同じく円になって予告されていた。
どうということのない犬の日常(チャイくん、失礼!)を描いた本なのに、読んでいて好感を覚えたのが『シバ犬のチャイ』(BL出版、2013年4月)である。実生活でも三人兄弟の母だというあおきひろえの文に、パートナーの長谷川義史が絵をつけている。
大きな特徴は、一貫して犬の視点を用いていることだ。まず、表紙に大きく描かれた、こちらを見上げている犬の顔に目を奪われ、全身で嬉しさを示しているのがチャイだろうと、予想できる。続く見返しには、茶の輪郭線だけで犬にも喜怒哀楽があることが提示されている。扉絵には再び上を見上げ、右前脚の裏を見せてご挨拶(ワン!)しているチャイ。ここで、内面の声が「おいら、シバ犬でござんす」というセリフとして画面下に言語化されている。ここだけをみると、全体にしろっぽく見えるが、豆柴らしい茶色の部分は、両耳と輪郭の一部に見えている。
ご存じの方も多いだろうが、犬・猫は一年でおとなになる。この物語でも、三人兄弟といっしょに遊んでいた犬は「とっくにおまえらのねんれいこえてんだよ、しってんのか?」と醒めたセリフをはき、窓の外を通る素敵なマルチーズに恋心を抱く。ところが…。ここからの展開を明かすのは野暮なので避けるが、作者に「してやられた」と思った。
わたしはまぎれもない猫派ではあるが、ここは「犬」つながりで、昨年出た犬の絵本にも触れておく。マラキー・ドイル文、スティーブン・ランバート絵、まつかわまゆみ訳の『だいすきだよ ぼくのともだち』(評論社、2012年9月)がそれだ。この絵本の表紙もまた、真っ白な犬がリードを口にくわえ、全身でお願している場面である。この犬は外へ連れて行ってと訴えているらしい。だが、老いた飼い主のエレンさんにはなかなかそれにかっこを申し出たことがきっかけで、結局「ぼく」は犬のチャーリーともエレンさんとも友だちになるというのがストーリー。
エネルギーいっぱいで、リードをはずされた瞬間に駈けていくチャーリーに、少年は振り回され続ける。その光景は、大きく曲がる公園の道とそこを走る犬をひとつの見開きに複数描いたり、見開き画面を上下に分割して犬と少年を複数描いたりする、異時同図の手法が効果的に伝えている。
犬の白さにもまして印象的な白色の使い方と、切り絵の見事さに思わず手にとり、見入ってしまうのがナタリー・ベルハッセン文、ナオミ・シャピラ絵、もたいなつう訳の『紙のむすめ』(光村教育図書2013年8月)である。
表紙につけられたカバーを触ると、挿絵部分がかすかに盛り上がっている。ただし本体では、各見開きごとに異なる色を背景として切り絵が置かれ、切り絵のもつ力で勝負を挑んでいる。物語は、白い紙から生まれた紙の娘の静かな暮らしを描いている。娘はやがて真っ白な紙を手に入れ、その紙から自分で切り抜いた気球に乗ったり、帆かけ舟に乗ったりする。冒険を語り合う相手がいない物足りなさを変えようと、今度は犬や猫、小鳥を切り抜き、やがてとなりの丘に話し相手をもつことに成功する。不思議なストーリー展開は、メタフィクションに属するものだが、平面から立体がうかびあがることも、見方によってはきわめて不思議である。
さて、とっておきの1冊となりそうなのが、ポール・フライシュマン文、パグラム・イバトゥーリン絵、島式子・島玲子訳『マッチ箱日記』(BL出版、2013年8月)である。セピア色がかった全体のトーンは、老人の昔語りに合致している。ヨーロッパからの移民を素材にしたこの絵本が強い印象を与えるのは、読み書きができなかったころの曾祖父が、自分の体験を忘れないようにするためにものをうまく利用しているせいでもある。
「もの」を手がかりにして昔話を紡ぐというと、アメリカのルイザ・メイ・オルコットの『昔気質の一少女』6章が思い出される。主人公のポリーは金持ちの友人ファニー・ショーの家に滞在中、ショー老夫人にキャビネット内の品々にまつわる昔の話を聞かせてもらう。ポリーの行為がきっかけとなり、同居家族がいながら孤独だった老夫人のもつ良さが、ファニーたち孫にもわかっていくという展開になっていた。
オルコットの物語中でキャビネットから取り出されたのは、ハイヒールや色あせた麻のバッグ、手紙の束、壊れたピストルといったものであった。いっぽうフライシュマンの絵本では、葉巻のケースにしまい込まれているたくさんのマッチ箱の中身が、それぞれ曾祖父の記憶をよびさます。たとえばオリーブの種。これはイタリア出身であることのあかしであると同時に、貧しいなかで空腹を紛らわすためになめていた時代を伝える。瓶の王冠は、一足先にアメリカへ渡り、渡航用の切符を送ってきた父に合流することになったナポリではじめて入手したマッチ箱を日記がわりに使おうと思いついた時代を。瓶入りの飲み物や自動車や海を初めて見たという。折れた歯のように、移民への嫌がらせの記録もあれば、初めて見た野球の試合の半券、字をならいたくて石炭のかけらを使ったこと…。
さざまな記録メディアを使える現在と違い、きびしい日々を生き延びながら、その時々の記憶を持ち続けるために曾祖父が見つけた方法は、その手法のユニークさと同時に、アメリカの通り過ぎた過去をも蘇らせてくれる。
本日はここまで。また次回に。 2013年9月

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以下、ひこです。

【児童書】
『日ざかり村に戦争がくる』(ファン・ファリアス:作 宇野和美:訳 堀越千秋:画 福音館書店)
スペイン内戦を描いていますが、戦いのまっただ中ではなく、遠く離れた村を舞台にしています。それでもしだいに戦争の影響が出始め、ついには軍もやってくる。日常に侵食してくる戦争の足音をこんなにリアルに描いた物語は少ない。
ペンが、もうちょっと描いてしまいそうなところを作者の手が、意思が押さえているので、ただならぬ気配が伝わってきます。
戦争と日常は、勧善懲悪的に描くのはたやすいですが、事実はそんなものじゃないでしょうから、この物語の真実感はすごいです。
この物語から、スペイン内戦のみならす、戦争の足音に耳をそばだててくれる子ども読者が生まれますように。

『紙コップのオリオン』(市川朔久子 講談社)
 論理は中学生二年生。母親と、その再婚相手、異父妹の有里と暮らしています。ある日、母親が突然旅に出てしまいます。その理由も意味も不明。しかも母親は自分のブログに旅の様子を書き、写真を掲載していきます。ですから彼女の無事はわかるのですが、論理は義理の父に申すわけなく、気遣っています。義父はといえば割合落ち着いていて、様子見です。
 中学生活では、学校の創立記念行事の委員に偶然選ばれてしまった論理は、どんなイベントをするかで頭を悩ましています。
 母親はなかなか帰る様子もなく、アルバイトをしながら旅を続けていて、義父は、自分たちは試されているのかもしれないと論理に言います。
 ここでは、主人公の学校生活で、心が切り裂かれるような出来事が起こるわけではなく、設定された目標に向かって進んでいくだけです。一方で、大事件であるはずの母親の理由なき旅は、語りが一人称なので論理のいらだちなどは出てきますが、基本的にはただ淡々と事実として描かれています。
 つまり、現代の物語が動き出す要素が物の見事に外されています。ならば古くさいのかといえばそんな印象は受けません。むしろ新鮮です。それは、論理から母親まですべてを暖かく見守るような、ほどよい距離から物語が描かれているからでしょう。

『庭師の娘』(ジークリート・ラウベ:作 若丸宣子:訳 中村悦子:絵 岩波書店)
 18世紀ウィーンが舞台です。
 庭師の娘マリーは修道院に入るための修行中。でもちっとも実が入らず叱られてばかり。だって、マリーがなりたいのは修道女ではなくて、庭師なのです。しかし、この時代、女の庭師なんてとんでもないこと。腕のいい庭師の父親もマリーの希望に耳を貸してくれません。浮ついた夢を見ていると、よりいっそう修道女にしたがりばかり。
マリーは間に中で一人の少年と出会います。彼はほらふきらしく、まだ10才なのに今、女王のためにオペラを作曲しているなどといいます。名前はモーツワルト。
マリーのただ一人の理解者は、父親の仕事先の主人メスメル博士。妻が大金持ちで大きな屋敷に暮らしています。彼はパリから聞こえて来る進歩的な考えの持ち主。マリーはメスメル博士から、少年が言っていることは真実だと知ります。男の子のモーツワルトはまだ10才なのに才能を認められ開花させているのに、自分はどうしてそのチェンスも与えられないのだろう? 博士が素敵な提案をしてくれます。自分の庭の端っこを自由にデザインしてみないかと。庭全体は父親がフランス式庭園として秩序正しく作り上げています。しかし、マリーが作りたいのはもっと自由に花の咲き乱れるそれでした。果たしてどうなる?
ウィーンがもっとも輝いていたマリア・テレジア統治時代を背景に史実も織り交ぜながら、一人の少女の夢を描いていきます。
楽しいし、歴史への興味もきっとわいてくるでしょう。

『木曜日は曲がりくねった先にある』(長江優子 講談社)
 ミズキは中学受験に失敗し、心を閉ざした公立中学校生活を送っています。誰とも関わらないことが心の安寧。彼女の痛みの本当の根っこは母親なのですが、それもとりあえず無視。
そんなミズキですが帰宅部のつもりが、クラスで弾かれている他の二人と共に理科部に入るはめに。しかも石の研究。でも、石は意志を持ちませんから、ミズキには気楽かもしれません。
小学校途中で転校したカナトが戻ってきて、同じく理科部に入ってきます。
カナトは共感覚の持ち主で、世界が少し違って見えています。私たちには一見つながりのないものがつながって感じられます。主に、何かと色が結びつき(アルチュール・ランボーのように)、彼にとっての快不快は他の人にはわかりません。
ミズキにはその能力があるわけではありませんが、世界との違和感を持っている点では同じです。
ミズキの心がどう開いていくのか読んでみてください。

【絵本】
『とんとんとん! だれかな?』(ミカエラ・モーガン:文 ディヴィド・ウォーカー:絵 ひがしかずこ:訳 岩崎書店)
 とんとんとん! 扉をたたく音。扉が仕掛けになっていて、開けてみると毎回いろんな動物が立っています。でも、男の子が待っている相手ではありません。訪ねてきた動物をみんな家に入れて、どんどん増えていき、そして最後にやってきた本当に待っていた相手とは?
 驚きより、納得のオチです。
 シンプルな仕掛けがかえって楽しい一品。

『ベルとブゥ おやすみなさいの じかん』(マンディ・サトクリフ:さく ひがしかずこ:やく 岩崎書店)
 女の子ベルと子ウサギのブゥ。仲良しの二人、お休みまでの楽しいひとときを描いています。絵本を読んだり隠れん坊をしたり。なんてことはないのですが、見ていて心が温かくなっていきます。このコンビの仲の良さが、ちょいと懐かしい絵柄と共に伝わってくるからでしょうね。

『ぼくの おおじいじ』(セティバンヌ:さく ふしみみさを:やく 岩崎書店)
 ひいおじいちゃんと二人の時間。ぼくのじいじは恐竜くらい年をとっている。みんなを笑わせるためにわざとあほなこともする。おならもいっぱいできるし、一緒にいると楽しくって仕方がない。でも、じいじは亡くなってしまった。だけど、ぼくのなかにじいじはいる。
 暗いトーンではなく、明るいのが素敵。それは絵の表情の豊かさからもきていますね。

『ちびはち』(エドワード・ギブス:作 谷川俊太郎:訳 光村教育図書)
 ちびに蜂がカエルから逃げていて、カエルはヘビから逃げていて、ヘビはマングースから逃げていて、マングースはハイエナから逃げていて・・・・・・。はい、そういうことです。
 このわかりやすい展開がくせになる。

『ぐるんぐるん つむじかぜ』(アーノルド・ローベル:さく ふしみみさお:やく ほるぷ出版)
 『ふたりはともだち』のローベル作。
 まずは様々な人々をご紹介。てまわしオルガンひきと猿。しちょうとおくさん。のうふとおうしとブタ。むすめとへいし。キツネヲおうかりゅうど。等々。そして大きなつむじ風がやってきて、みんなをぐるんぐるんと混ぜてしまい、一つの顔がひっくり返すと別の顔になってしまいました。
 風が去って、良かった良かった、はい元通り。
 画の勢いもつむじ風に負けずにすごいですよ。

『月のしずくの子どもたち』(ローラ・クラウス・メルメッド:文 ジム・ラマルシェ:絵 灰島かり:訳 BL出版)
 農場を営む仲の良い老夫婦。仕事は苦になりませんし充実した毎日なのですが、子どもがいないことが唯一のさみしさです。雨が上がった満月の夜、二人は草原で小さな小さな一二人の赤ちゃんを見つけます。
それから二人は、どんなときも、何が起こっても彼らを守るのでした。
有る夜、男がやってきて、お金持ちのおくさまのために子どもたちを譲って欲しいと言われますが・・・・・・。
ラマルシェの描く光をお楽しみください。

『紙のむすめ』(ナタリー・ベルハッセン:文 ナオミ・シャピラ:絵 もたいなつう:訳 光村教育図書)
 切り絵で描いていきますが、その絵の表情豊かなこと。
 白い紙の家にたった一人で住んでいる紙のむすめ。ある日洗濯物を干していると、きれいな紙が風に飛ばされてやってきました。よろこんだむすめははさみを取り出して切り絵を始めます。友だちを切り抜きますがやっぱりそれではだめ。むすめは種を切り出して庭に。するとそこには紙の木が伸びてきて、たくさんの紙が実ります。
 いろんな動物、いろんな植物と切り出したむすめは、最後の二枚の紙の一枚で自分のと同じ小さな家を切り抜きます。するとそこには人がいます。むすめは最後の一枚をどう使うの?
 いいわあ。切り絵のメタ絵本。

『BLUEBEARD ぼくとことり』(ボブ・スタック あすなろ書房)
 言葉のない絵本です。
 もちろんそれでもお話はちゃんとわかりますのでご安心を。
 うつむき加減で登校する少年。みんなは横目で彼を見ながら、楽しそうにはしゃいでいます。
 ひとりぼっちの少年。と、そこへ青い鳥が飛んできます。少年の後ろを離れない小鳥。ちらちらと気にしながら歩く少年。おかしをすかしわけてあげます。そして、ついに小鳥は少年の肩に止まります。笑顔がこぼれる少年!
 それからは一緒。やがて少年の笑顔に、小鳥に、他の子どもも近づいて来て・・・・・・。
 描き割りのシャープな線。パーツのように単純化した人物画などが却ってドラマ性を高めています。

『ガンたちとともに』(イレーヌ・グリーンスタイン:作 樋口広芳:訳 福音館書店)
 刷り込みを発見し、動物学のおもしろさを世の中に広めたコンラート・ローレンツの伝記絵本です。
 自然の中で元気に育ち、動物を愛したローレンツは、医者になりましたが、やっぱり動物が好きで医者をやめ、動物行動学の研究者に。
 野生のガンの卵をアヒルに温めてもらって、卵がかえるところを見ていたら、目線の合った雛が、なぜかず〜っとローレンツの後ろをついてくる。どうやら最初に見たものを親と認識するらしい。こうしてローレンツは動物の不思議さに魅せられて行くのでした。

『さみしかった本』(ケイト・バーンハイマー:文 クリス・シーバン:絵 福本友美子:訳 岩崎書店)
 図書館で大人気。子どもたちみんなに愛されていた本。けれど時が過ぎ、本は古くなり、誰も借りなくなり、そんなとき一人の子どもがこの本を大好きになる。
 図書館に返した本ももう一度借りようとやってきた子ども。ところがその本はもう棚にはありませんでした。
 そこから本と子どもが再び巡り会うまでを描きます。
 本好き心には染みます。

『ときめきのへや』(セルジオ・ルッツィア:作 福本友美子:訳 講談社)
 「大切」ってどういうことかが、すとんと胸に落ちてくる一冊です。
 モリネズミのピウス・ペローシは、いろんな物を集めるのが大好きです。散歩に出かけて、自分がおもしろいと思った物をなんでもかんでも拾ってきます。そうして一つ一つ大切に棚に飾っていきます。友だちが来たら、その品々の説明もします。おもしろがらせるためにちょっと作り話もします。
 そんな中でもたった一つ、ガラスケースに入れて大切にしているのは灰色の石。なぜならそれはペローシが最初に拾ってきた物だからです。でも、ともだちたちにはだたのつまらない石にしか見えませんし、そう言います。
 ペローシは、その石を海に投げ捨ててしまうのですが、すると、心が、気持ちが、気分が・・・・・・。

『ジェット機と空港・管制塔』(モリナガ・ヨウ:作 あかね書房)
 「乗り物ひみつルポ」シリーズ最新作。このシリーズ、なかなか入り込めない仕事場まで紹介してくれるので、子どもだけでなく大人も楽しめます。今回特に飛行機ですから、その職場風景は子どもには興味深いことでしょう。
 取材先はANAですが、キャビンアテンダントはみんな女なのですかね。今時、それはちょっと驚きです。

【その他】
『世界女の子白書』(電通ギャルラボ 監修・協力:NGOジョイセフ 木楽舎)
 モードへの関心に忙しい女の子から、学校に通えない女の子までを、白書の形で、女の子の置かれている状況が見えやすいように示します。SEX、ファッション、ダイエット、貧困、難民。様々な表情の様々な女の子たち。自分をここに置くことで、つながりが見えてくる・つながりたい気持ちも芽生えてくる。
「あなたたちは幸せなんですよ!」なんて視点で書かれていないところがとてもいいです。
 監修・協力は、国際難民女性支援を続ける、NGOジョイセフ。東北大震災の時も活動しました。
 
「青春ブックリスト」(読売新聞)
第9回(死)
近しい人が亡くなったとき、心の中には大きな穴があいた気持ちになります。それは、失った人が自分にとって、いかに大切であったかを示していますが、その気持ちを相手に伝える術はもうありません。一方、私たちは自分自身の死を、自分の言葉で語ることはできません。そう、死は誰にとっても、やり直しの利かない出来事です。死に目を向けない人が多いのはそのためでしょう。
今日は死が出てくる物語を二つご紹介します。
『ハードビートに耳をかたむけて』(ロレッタ・エルスワース:作 三辺律子:訳 小学館)は、亡くなってしまった少女イーガンと、彼女の心臓を移植されて命を永らえることができた少女アメリアの物語です。新たな心臓を得たアメリアは、ドナーがどんな女の子だったのかが、なんとなく分かるような気がしてきます。彼女はイーガンの両親にあう決心をしますが、それはアメリアとその両親の間に残された痛みを埋めてくれるのでしょうか? 死(イーガン)と生(アメリア)が交差する展開は、死について別の見方をするきっかけを与えてくれます。
『アニーのかさ』(リサ・グラフ:作 武富博子:訳 講談社)。お兄さんが病気で亡くなってからアニーは死を恐れるようになり、病気のことばかり考えるようになってしまいます。両親が彼女を気遣ってくれたらいいのですが、息子の死にショックを受けたままです。アニーたち家族は、死に束縛されてしまうのです。そこからアニーを元の日常に引き戻すのは、親戚でも古くからの知り合いでもなく、最近引っ越ししてきた老人です。それはどうしてなのか? に注目してみてください。
私たちは生まれ落ちたときから死に向かって歩みを進めており、死は平等に誰の元にも訪れます。時々で良いですから、死とは何かについて思いを巡らせてみてください。まだ何度でもやり直しの利く、あなたの生を、その手でしっかりとつかんでおくために。

第10回(表現の自由)
言葉には考えを伝える力があります。様々な表現が様々なメディアを通して伝わり、私たちは互いの考えを知ることができます。その自由は、いつでも保証されているわけではなく、たとえば憲法第21条によって守られています。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」です。わざわざ守っているのは、この自由は言葉の力を恐れる為政者から簡単に制限されてしまう危険があるからです。憲法も人が作ったものである限り、人によって変えることができますから安心はできません。言葉の自由が犯されそうになったとき、それを最後に守るのは、私たち自身です。
今日の二冊は過去と未来のそんなお話です。
『印刷職人は、なぜ訴えられたのか』(ゲイル ジャロー:作 幸田 敦子:訳 あすなろ書房)は実際にあった話です。アメリカがまだ独立していなかった一七三〇年代。ニューヨーク総督に赴任したウィリアム・コスビーは、己の欲得のためにだけ動く男でした。それに怒った最高裁判官ルイス・モリスは、彼を非難して罷免されます。そこで新聞を発行し、コスビーの行状をニューヨーク市民に伝えるのですが、コスビーは新聞の印刷職人ゼンガーを扇動的文書発行の罪で逮捕。言葉の力を恐れる為政者と、それと戦う人々を描いています。
言葉を残し、流通させる優れた道具の一つである本を読むことが禁止された近未来の物語、『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ:作 宇野利泰:訳 ハヤカワSF文庫)。焚書官は本を見つけたらそれを焼き尽くす職業です。元々は消防士であったようなのですが、その記憶は封印され、ホースで撒くのは水ではなく石油。隊長は言います。「考える人間なんか存在させちゃならん」。それに疑問を持ち始めた焚書官のモンターグは、焼き尽くすはずの本をこっそり持ち帰るようになります。果たして本と彼の運命は?
 忘れないでください。守るのは、私たち自身です。

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『ラジオスター・レストラン』(寮美智子:作 長崎出版)
高原にある小さな町に暮らす少年ユーリ。バイオリニストの父親は海外へ演奏旅行に出かけたまま帰ってこなくなりました。でも、母親はその事実を受け入れられず、夫が戻ってくるかのような幻想の中に時々入り込んでしまいます。ユーリは母親の希望に沿って、大きな町にバイオリンを習いに行っていますが、技量はなかなか上がらず、先生をがっかりさせ、心が重い毎日です。
ある日、稽古の帰りにユーリは、今はもう滅亡して化石しか残っていないはずの牙虎を見ます。そして星祭りの日、稽古をさぼった彼は、牙虎や旧式ロボットのラグに導かれ、時空を越えた旅に出るのです。
父の不在。それをからかういじめっ子の名前がザネリ。天文の授業風景。祭りの夜に出来事が起こるなど、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』からインスピレーションを得ていることを作者ははっきりと刻印しています。
ただし、始発駅は似ていても、『ラジオスター〜』は『銀河鉄道〜』とは別の世界へと誘います。それは、人類、あらゆる生物、星までをも視野に入れ、「空いっぱいに広がる無数の星」が「みんな、わたしといっしょに、たったひとつのところにいた」地点から現在の私たちの状況を見つめ直すための旅です。ユーリを導くのが牙虎と、人間が作ったロボットという、一見両極端の存在であるのは示唆的です。自然だけを尊ぶのでも、科学だけを信奉するのでもなく、そのどちらも含めた「ひとつの命として、地球の奏でる大きな音楽に耳を澄ま」すこと。広大な宇宙と長い時間の前で、もう少し謙虚になること。そうすれば、私たちが現在抱えている様々な問題の多くは、解決への糸口を見つけることができるのかもしれないではないか。作者はそう呼びかけています。
今回版元を買えて改訂版が登場したのですが、二〇年前の作品は驚くほど古びていません。というか、今だからこそ心に響く物語なのです。(公明新聞 2012年9月)

『さよならを待つふたりのために』(ジョン・グリーン:作 金原瑞人・竹内茜:訳 岩波書店)
 ヘイゼルは甲状腺がんが肺に転移して、酸素ボンベなしには生きられない十六歳の少女。両親の薦めでがん患者のサポートグループに入り、そこで骨肉腫で片足を切断した少年オーガスタスと出会い、二人はしだいに心を通わせていきます。
だからといって、「号泣」好き読者へのサービスなどどこにもなく、同じ学校に通って恋に落ちるように、ライブハウスで知り合って恋に落ちるように、サポートグループに出席して恋に落ちただけです。そんな描き方が読んでいて心地いいです。
残された時間が少ないからピュアな恋愛をするわけではなく、ヘイゼルとオーガスタスが強く惹かれ合ったのは、自分が生きている意味を相手の中に見つけたから。
だれだってそうでしょ?
社会や大人や親などへの異議申し立てをしたり、大人になる意味を探したりする若者の姿を描いた作品がYA小説ならば、この物語はちょっと違うように見えるかもしれません。ヘイゼルたちの前にあるのは未来よりむしろ、いつ訪れてもおかしくない死であり、自分の方が先に死ぬ可能性の高さにおいて、彼らにとって大人は乗り越えるべき相手ではないのです。彼らにとっての気がかりは、自分が死んだ後、親がちゃんと立ち直って生きていけるかです。ヘイゼルは娘の心配ばかりする母親に「人生を楽しまなきゃいけないのはママのほうよ」と諭します。つまりここには、大人と子どもの間に存在する力関係が生じていません。
しかしそれでもこの物語は紛れもなくYA小説です。それも一級品の。
大人のみならず友達すら「私ががんを乗り越える力になりたいと思ってくれているみたいだけど、結局は力になれないと気づく。そもそも、「乗り越える」なんてできない」という現実の中ででも、思考を深め、感性を研ぎ澄まし、ウイットに富んだ会話をし、きついジョークを飛ばし、時には怒り狂い、死を恐れ、そして恋をしてしまうヘイゼルとオーガスタスの、憎たらしいほどの生命力といったら!(公明新聞 2013年9月)

『小公女』(フランシス・ホジソン・バーネット:作 高楼方子:訳 福音館書店)
「どんなぼろをまとっていようと、心はプリンセスでいることはできる」。
 これまで読んだガールズ小説やマンガで、これに似た言葉に出会ったことはありませんか? 
 セーラ・クルーは、寄宿舎学校に入るためにインドからロンドンにやってきます。学校を経営するミンチン先生は資産家の娘である彼女をプリンセスのように扱いますが、セーラはそれがお世辞であると見抜いています。
 父親が破産して亡くなったセーラは屋根裏部屋に追いやられ、ろくに食べさせてもらえないメイドとなってしまいます。過酷な運命に彼女はどう立ち向かっていくのか?
最初にあげた言葉は、彼女が自分を奮い立たるために考えたものです。
 セーラはプリンセスごっこのように、空想の中で遊ぶのが大好きな少女です。でも、現実から目をそらしているわけではないことを、注意深いみなさんはすぐに気づかれるでしょう。
 セーラはいつも、人を観察し、自分で考え、他人に流されず、自分が正しいと判断した行動をしています。もちろん、耐えられなくなってめげるときもあるのですが、それでも誇りだけは決して失いません。
 プリンセスであるとは、きれいに着飾ることでも、お金持ちになることでも、ちやほやされることでもなく、まわりに流されず、しっかりと前を向き、自分の頭で考え続けることなのです。
 百年以上前に書かれた物語の中から、セーラ・クルーはそれを教えてくれます。
物語の終盤でセーラはこう言います。「私、自分が何をすべきなのかって考えていたの」と。
 ガールズ小説の原点。(朝日小学生新聞 2013年5月)

『ヨーンじいちゃん』(ペーター・ヘルトリング:作 上田真而子:訳 偕成社)
 家族は共に過ごしていますから、たがいの正確もわかり助け合いながら生きています。家の中でそれぞれの居場所を見つけて暮らしているといえばいいかな。ヤーコプ一家もそうでした。でも、そこに誰かが加わったたら?
おかあさんは、七十五歳になった父親のヨーンのことが心配で呼び寄せます。おかあさん以外の家族にとって、ヨーンと暮らすのは初めての経験です。おとうさんは最初ためらっていましたが心を決め、ヨーンが喜ぶようにと部屋の壁紙も新しくします。
ヨーンは自分の部屋を見回し、満足しながらも、「じゃが、この壁紙は」だめだと言い、ペンキを買ってきて塗り替えてしまいます。そして自分だけの玄関ベルを付け、自分が座りたいソファーの位置を決めます。
ヨーンの行動や態度はちょっとわがままに見えるでしょう。でも、ヨーンは自分がどんな人間かをみんなに見せることで、この家での居場所を作ろうとしているのです。家族が一人増えたとき、私たちは自分の居場所を少しずつ譲る必要があります。相手が赤ちゃんでも老人でも同じです。
ヨーンは恋もします。老人の恋愛を不思議がるヤーコプに彼は、生きている限り人は人を好きになれるのだと伝えます。
やがて衰えていき、恋人のことも誰だかわからなくなり、死を迎えるヨーン。
今度は家族の中に隙間が生まれます。それはヨーンが自分の居場所にもういないからです。さみしいけれど大丈夫。ヤーコプたちの心にヨーンの居場所ができ、彼の記憶は消えないからです。(朝日小学生新聞 2013年7月)

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