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以下、三辺律子です。

フィガロジャポン7月号
【映画】『イノセント・ガーデン』
美しい悪夢のような映像が、音楽や物語と奏でる至福。

物語は、ミア・ワシコウスカ演じるインディア・ストーカーが18歳の誕生日を迎える場面で始まる。そして、その同じ日、彼女は最愛の父を不審な事故で失う。
もともと父と折り合いの悪かった母エヴィ(N・キッドマン)は涙ひとつ見せず、にこやかに弔問客らをもてなす。その中に、インディアがそれまで存在すら知らなかった父の弟チャーリー(M・グード)の姿もあった。
 過剰なまでに快活で、料理から語学、スポーツまですべてに万能なチャーリーを、最初インディアはかたくなに拒否する。その上、冷ややかな母とは通じ合うところもなく、ますます孤独感を募らせていく。なぜ父は死んだのか? 
チャーリーが急に現れた理由は?
だが、観客はやがて、この物語は決して、家庭でも学校でも理解されないかわいそうな″少女のお話などではないことを知る。エヴィの磁器の人形のような美しさに隠された寂しさの原因、チャーリーの一種子どもじみたところさえある欲望の正体、そして、そのチャーリーしか、インディアの理解者になりえないことを。
 原題でもある彼らの姓Stokerから、19世紀末の作家ブラム・ストーカーが書いた、呪わしい宿命を持ちつつも孤高の生を貫く種族の物語を、ふっと思い出した。
 アジアの奇才ハリウッド進出、と聞けば、かきたてられるのは必ずしも期待ばかりではないが、パク・チャヌク監督は美しい悪夢のような映像をさらに飛躍させ、実力派俳優陣を使いこなし、情感溢れる音楽が印象的な、比類ない作品を創りだした。映像に興味がある人、音楽が好きな人、ストーリーに惹かれる人、そして、それらが完璧なハーモニーを奏でる映画が好きな人すべてに、至福の満足感を約束する作品だ。
(http://feature.madamefigaro.jp/culture/5-2013619/)
 追記:
 五回目になる今月は、映画評を。
 むかし、某大学の英語の授業で、「英語の勉強」と称して、学生に映画を見せていた。年度初めにするアンケートで、まったく個人的興味から設けた「最近、面白かった映画は?」という質問に、ほとんどの学生が「最近、映画は見ていない」か、見ていても、TVドラマのスピンオフ的作品の名ばかりを挙げていたからだ。ドラマのスピンオフも悪くないけど、正直、1800円払って映画館で観なくてもいいようなものが多いのも事実。そんな彼らに映画の面白さを教えたくなって、ごくたまに、授業で上映会をしたのだ。日本語字幕つきで見せてたじゃないか、とか、そもそも英語じゃない映画が混ざっていたぞ、とか、そういう細かいことはここでは追及しない。

 わたしが映画に開眼したのは、小学生のとき。『スターウォーズ』だった。それまでは、お子様の映画しか見たことがなく、確かそのときも『キタキツネ物語』という動物映画を観にいったのだけれど、混んでいて入れなくて、泣く泣く(本当に泣いた)なぜかガラ空きだった『スターウォーズ』を観たのだ。そして、世界観にとりつかれた。
 初めて、友だち同士で観にいったのは、『インディ・ジョーンズ』。予告編を観ながら、「あ、この映画知ってる。スプラッシュとかいう、人魚の映画だよね」と大声で自慢していたら、本当に『スプラッシュ』だった。係員さんに、間違えてとなりの映画館に入ってしまったというやむにやまれぬ事情を説明し、無理やり途中から『インディ・ジョーンズ』の映画館に入れてもらった。
 それからも、『危険な情事』の、死んだと思ったグレン・クローズが浴槽からガバッと起き上がるシーンで、友だちがコンタクトを飲みこんだり(乾いたから、口に入れていたらしい)、ドラえもん映画で、隣りの子どもがいきなり「のび太、うしろ!」(うしろに悪者がいた)とさけんだせいで、ポップコーンをひっくりかえしたり、映画にはいろいろ思い出がある。
 いろいろな国の歴史や文化、現状の一側面を見せてくれるのも映画だ。『亀も空を飛ぶ』、『ペルシャ猫を誰も知らない』(イラン)、『キャラメル』(レバノン)、『シリアの花嫁』(シリア)、『子供の情景』(アフガニスタン)、『4ヶ月、3週と2日』(ルーマニア)、『サラエボの花』(ボスニア・ヘルツェゴビナ)、『そして、私たちは愛に帰る』(ドイツ・トルコ・イタリア)、『闇の列車、光の旅』(メキシコ・アメリカ)などなど、思いつくままに挙げるだけでも、普段あまり馴染みのない国や場所について、映画にいろいろ教えてもらったなあ、と思う。
 ちなみに、冒頭の大学での映画上映会は、予想以上に反響があった。その後、書いてもらった感想(さすがに、一応英語にしました)も、いつになく熱のこもったものが多かったし、「映画ってこんなに面白いって初めて知りました」と言われたり(これは何人かが言ってくれて、かなり嬉しかった)、「お勧めの映画をもっと知りたい」と言われて、あれこれ勧めたりもした。それですっかり悦に入ったわけだが、自分の仕事的には、まず翻訳文学宣伝に打ち込んだほうがよかったかも!?

〈ハン・ソロを探して酒場を見渡せばたむろするのは異星人 彼も〉
                           三辺 律子

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以下、ひこです。

【読売新聞「青春ブックリスト」】

第三回

 この夏の家庭では節電がキーワードですが、歴史を紐解くと家電製品は、作られすぎた電力(それは保存が出来なかったので)を消費させるために次々と発明され、新しい生活スタイルとして新聞やテレビで購買欲をそそられてきたのです。つまり、家電製品を使い過ぎるから電力が増やされてきたのではなく、話は逆なのです。でも、快適さの誘惑に負けて私たちがそれを受け入れてしまったのも事実。ですから、自分たちが贅沢しすぎなのだと反省ばかりして我慢するのではなく、「やれやれ、どっちもどっちだなあ」ってため息をつきながら節電をすれば、少しは心に余裕が出来るでしょう。
本当に重要なのは節電ではありません。電化製品や車、携帯電話(スマートフォン)などの商品で私たちが得ようとした快適について考えることです。それは脱自然を目指す快適さなのですが、脱自然以外に快適はないの? ってことも節電をしながら考えてみてください。
さて今日は、自然と人間について思いを巡らす物語を二つ読んでみましょう。
『大草原の奇跡』は、六歳になってもまだ言葉を出せないのを父親に嘆かれているベンが迷子になってしまう話です。彼が雨露をしのぐために隠れた穴は、子どもを失ったばかりのアナグマの巣でした。アナグマはベンを失った子どもの代わりにしてエサを運び、ベンは罠で怪我をしたアナグマの手当をします。人間と野生動物ですが、互いを必要とする強い関係が結ばれていくのです。生まれて初めて自分を必要としてもらった体験がベンをどう変えるかを読んでみてください。
『グリーン・ノウのお客様』は、密猟で両親を殺されて動物園に売られたゴリラ、ハンノーと、孤児ピンの出会いを描いています。園を脱走したハンノーが逃げ込んだのは、ピンが招かれたグリー・ノウ屋敷の藪の中だったのです。ハンノーをかくまうピン。ピンを守るべき自分の子どものように感じているハンノー。この物語でも互いを必要とする強い関係が描かれます。アナグマやハンノーは自然のシンボルと考えもいいでしょう。
 人間と自然が、互いに必要とする強い関係をどうすれば結んでいけるのか?
この夏は涼しい図書館で本でも読みながら考えてみてはいかがでしょうか?

第四回

 何か問題が生じ、目の前に立ち塞がったとき、それを受け入れず戦いたい気持も、そこから逃走したい気持も起こると思います。どうするかは、問題の大きさや、心のありようによって違ってくるでしょう。ただ、忘れないで欲しいのは、受け入れるのも前に進むための一つの選択肢である点です。納得して受け入れられるのが一番ですが、そうでない場合でも、とりあえず受け入れてみれば案外、理解できるケースも多いのです。 
 『かかし』。サイモンは母親の再婚が許せません。お相手は、硬派の父親とは正反対の画家ジョー。幼い妹ジェーンがジョーになついているのが嫌だし、新しい家族はまるで、彼なしで成立しているようです。怒りにまかせてサイモンは父親の墓がある方角に向かって助けを求めます。しかしその願いは殺人事件があった近くの水車小屋に届いてしまい、サイモンの憎悪に呼応した3体のかかしが出現し、家族を襲おうと近づいてきます。母親たちを救うにはサイモン自身が憎悪を消し、新しい家族を受け入れるしかありません。そもそも母親は自分の新しい伴侶を見付けただけで、サイモンの新しい父親を作ろうとしたのではありません。それを理解するには、とりあえず新しい家族を受け入れ、その中に入ってみる必要があるのです。ホラー仕立てで読ませますよ。
 『迷子のアリたち』。サムは家出をしてロンドンの安アパートに住み着きます。人付き合いは苦手なようですが優しい一面を持っています、家出の理由はわかりません。母親がアルコールにおぼれていてかまってくれない少女ボヘミアンがサムになつきます。サムも結構面倒を見るのですが、自分の内面に立ち入ってくるボーにキレてしまい、そのため彼女は姿を消してしまいます。どこに行ったのか?
 自分の過去の過ちから逃げてきたサムは、新しい人間になろうとロンドンにやってきているのですが、それでは問題の解決にはなりません。ボーはサムの問題にどうかかわっていくのかも読みどころです。
 受け入れることは、決して妥協ではありません。自分が抱えてしまった問題と向き合うための一手段なのです。
  もちろん、それでもどうしても納得がいかないときは、戦ってください。逃げてください。それも選択の一つだし、あなたにはその権利がありますからね。

【朝日小学生新聞】
『小公女』(フランシス・ホジソン・バーネット:作 高楼方子:訳 福音館書店)
 セーラ・クルーは、寄宿舎学校に入るために植民地だったインドからロンドンにやってきます。学校を経営するミンチン先生は資産家の娘である彼女をプリンセスのように扱いますが、セーラはそれがお世辞であると見抜いています。
 父親が破産して亡くなったセーラは屋根裏部屋に追いやられ、ろくに食べさせてもらえず、過酷な労働を強いられるメイドとなります。そんなとき彼女はこう考えます。
「どんなぼろをまとっていようと、心はプリンセスでいることはできる」。
 それは現実から目をそらしたり、逃げたりするために夢見ているのではないことは、注意深くお読みになればすぐにわかります。彼女は辛い環境と闘うための武器として想像力を使っているのです。
 どんな状況下に置かれてもセーラは、人を観察し、他人に流されず自分で考え、正しいと判断した行動をとることを忘れない少女です。もちろん、耐えられなくなってめげるときもあるのですが、それでも誇りだけは決して失いません。
物語の終盤でセーラはこう言います。「私、自分が何をすべきなのかって考えていたの」と。
 プリンセスであるとは、きれいに着飾ることでも、お金持ちになることでも、ちやほやされることでもなく、まわりに流されず、しっかりと前を向き、自分の頭で考え続けることなのです。
百年以上前に書かれた物語の中から、セーラ・クルーはそんなメッセージを、私たちに送ってきています。
 ガールズ小説の原点とも言える物語ですよ。

【児童書】
『バンヤンの木』(アーファン・マスター:作 杉田七重:訳 静山社)
 インドの分離独立を控えた、小さな町。ここはパキスタンになります。今まで穏やかに暮らしていた人々が、イスラム教徒とシーク教徒、ヒンドゥ教徒、宗教によって心を分断され対立しています。ラビルは、死を目前にした父親に、その状況を教えないことにします。外では今まで通りに平和な日々が続いているかのように。今では対立する立場になった親友たちも協力してくれるのですが、果たして、嘘をつくことは正しいのか? ラビルは日々悩みます。
 時代の波と、大人の対立に翻弄されながらも、自身の道を探るラビルの姿は心を打ちます。
 日本では実感の薄い宗教対立を、こうした物語からそこ死でも想像していきたいですね。

『インディゴ・ドラゴン号の冒険』(ジェームズ・オーウェン:作 三辺律子:訳 評論社)
 ガンダムを生み出した富野由悠季はかつて、ガンダムからいつまでも卒業せず、大人にならない(と富野には見える)ファンたちへの苛立ちから、自分とそれ以外の監督が生み出したすべてのガンダム(ガンダムシリーズ)を貫き通した『ガンダム・ターンA』を作ったことがあります。彼の意図に反して、ファンたちはよりいっそう盛り上がってしまったように私には思えますが、子ども時代の物語からの卒業を富野は成長の一つの要素として考えていたわけです。
「ガンダム? そりゃあ、卒業しないと気持ち悪い」と、私たちの多くは反応するのかもしれません。が、それならば、
「ホビット? そりゃあ、卒業しないと気持ち悪い」。「ニルス? そりゃあ、卒業しないと気持ち悪い」。「ゲド? そりゃあ、卒業しないと気持ち悪い」。「若草物語? そりゃあ、卒業しないと気持ち悪い」。「宝島? そりゃあ、卒業しないと気持ち悪い」。「海底二万マイル? そりゃあ、卒業しないと気持ち悪い」。「プーさん? そりゃあ、卒業しないと気持ち悪い」と反応するのかどうか?
もちろん、する人もしない人もいるわけですが、おそらくガンダムへの反応とはかなり違うでしょう(ちなみにガンダムのベースは『二年間の休暇』です)。
というようなことを考えながら、楽しんだのが、この物語。
第一次世界大戦さなか、非現実世界へと冒険に出るはめになったオックスフォードの三人の学徒。そこは創世記からヴェルヌの作品まで様々な物語が同一線上に貫き通されています。
果たして、彼らはその世界を救えるのか? そして彼らは誰か?
物語好きでないとわからないお楽しみがいっぱい。
おもしろくするためなら何でもしてやろうという姿勢がいいですね。
ただし、物語を串刺ししてしまうことで、失われるものがあるのも確かです。そのあたりをどうするかを、二巻目で楽しみに。

『時をつなぐ おもちゃの犬』(マイケル・モーパーゴ:作 マイケル・フォアマン:絵 杉田七重:訳 あかね書房)
 第二次世界大戦。戦艦が沈み、捕虜として強制労働をした元ドイツ軍兵士と、彼にかわいがられたイギリス人少女。不幸な出会いから二十年後の再会。国と国との戦いは、人と人とを隔てますが、それを乗り越える力も人にはあるのです。
モーパーゴは、いつもそこを描きます。

【絵本】

『わすれないよ いつまでも』(ヨシコ・ウチダ:文 ジョアナ・ヤードリー:絵 浜崎絵梨:訳 晶文社)
 第二次世界大戦中、強制収容所に入れられた日系少女の姿を伝える絵本です。
 ヨシコ・ウチダ自身がそのような体験を持っていて、そのことを伝えるための活動に生涯を捧げました。
 人種間にある偏見と、それを助長する戦争。その愚昧さを感じ取る想像力を、この絵本から受け取ってください。
 なお、晶文社からはキリスト教徒とユダヤ教徒の心の交流を描いた『イライジャの天使』という絵本も出ています。こちらも併せてぜひどうぞ。

『ちょんまげのひみつ』(菊池ひと美 偕成社)
 「江戸の子どもたち」の二作目です。ちょんまげの歴史をわかりやすく描いています。
 実用で始まり、それが美的に洗練されていき、流行り、ステータスの徴しとなるプロセスは、服飾史などにも適用できるでしょう。また、日本の近世風俗史としても楽しめます。いい絵ですね。

『ランドセルは海を越えて』(内堀タケシ:写真・文 ポプラ社)
 使わなくなったランドセルたちが、アフガニスタン子どもたちに届けられる様子を伝える写真絵本です。元々行軍用だったものが、日本独自の小学生向けカバン変化したランドセルの姿に戸惑いながらも、喜びを隠せない表情が素敵。
私も資料にランドセルは持っていますが、これがやたらと丈夫なんですねえ。
とはいえ、ランドセル一杯に学校用具をつめて登下校する日本の子どもたちを見ていると、教科書は学校に置いて帰る教育観に大人がなって欲しいと思う。

『おおきなおひめさま』(三浦太郎 偕成社)
 『ちいさなおうさま』の続編です。子どもが欲しいおうさまとおひさきさま。あるあさ、庭の花にちいさなおひめさまが座っていました。大切に育てる二人。でもおひめさまには魔法が掛かっていて、彼女はどんどん、どんどん、大きくなって、やがてはお城よりも育ってしまい……。
 三浦太郎が、遊び心満載で、絵本の楽しさを味合わせてくれます。

『いしのはなし』(ダイアナ・アストン:文 シルビア・ロング:絵 千葉茂樹:訳 ほるぷ出版)
 たまご、たね、蝶と、一つのもの焦点を当てて、それを徹底的に描くことで、世界の美しさを伝えるシリーズ最新作。
砂から山まで地球のありとあらゆるところに存在し、地球を形成している石について、愛情深く語る絵本。貴石、鉱石、砂粒。宝石にされるものもあるし、道具になったものもある。どれもが美しい。

『うみべのいえの犬 ホーマー』(エリシャ・クーパー:作・絵 きたやまようこ:絵 徳間書店)
 海の見えるポーチがホーマーのお気に入りの場所。この本は絵本で日常を語る方法を極めてわかりやすく、かつ美しく示してくれています。
 ホーマーは一日中同じ場所で寝そべって海を眺めている。その横を走り抜ける他の犬たち。一緒に遊ぼうと誘う飼い主の家族達。でも、ホーマーは動かない。
彼にとっての幸せが、絵本的なほど絵本的に、そこに描かれています。
もちろん、夜はお気に入りのソファーで眠ります。
訳者は選択の余地なく、きたやまようこ。素敵。

『バナナじけん』(高畠那生 BL出版)
 大量のバナナを運ぶトロッコ三台。バナナが一本落ちました。そこへやってきたお猿が食べて、皮をポイ。そこへうさぎがやってきて、皮で滑ります。その後、ワニさんが皮を背中に乗せました。ここからが高畠。実は落ちたバナナは一本ではなく、次々と。猿、うさぎ、ワニも繰り替えされ続け、そして、目的地に到着したトロッコは空っぽ。どうなるの?
こういう、わけのわからない設定を思いついて、わけのわかる話に仕立てる高畠那生は、やはりおもしろい。

『エルトゥールル号の遭難』(寮美千子:文 磯良一:絵 小学館)
 自己責任自己責任と、強者の論理が年々広がっているこの国を、もう一度読み返そうとする寮の最新作。明治時代紀伊半島沖で沈没したトルコの軍艦。その乗組員たちを救い、親身に世話をした人々。それがトルコと日本の友好の基礎となったことは、よく知られるようになりました。が、寮は、その部分だけではなく軍艦がイスタンブールを出航するところから現代まで。とること日本の関係を語っていきます。そうすることで、単なる一時の「ええ話」ではなく、親身や心遣いの力がいかに大切かを示すのです。そう、自己責任主義は心を繋ぎません。

『あたし いえで したこと あるよ』(角野栄子:文 かべやふよう:絵 あすなろ書房)
 タイトルが実にいいですね。これだけで、「あたし」って子の感じがつかめるし、興味もわいてきます。
彼女、母親に怒られるたびに家出を決行。楽しんできます。最後はもう、ともだちみんなで家出遊び(?)! 全部受け止める母親の度量もすてき。
かべやの画は、この子の動きのある姿と気持ちを巧くとらえています。

『ほら、ぼくペンギンだよ』(バレリー・ゴルバチョフ:作・絵 まえざわあきえ:訳 ひさかたチャイルド)
 カメ君、ペンギンの本を読んでもらってから、ペンギンになりたい。で、上着を頭からかぶってペンギンっぽい服装をして学校へ。ほかの動物たちもペンギンになりたいと思って、みんなでペンギンごっこだ!
 あれをしなさい、これをしなさいじゃなく、子供の自由な発想で遊ぶこと。それが一番。

『ロロとレレのほしのはな』(のざかえつこ:作 トム・スコーンオーヘ:絵 小学館)
 「3.11後の世界から私たちの未来を考える」との趣旨で世界の絵本作家が作品を寄せた「手から手へ展」はボローニャから始まり、世界を巡り、今は日本中を巡っていますが、この絵本はこの展覧会の中から生まれました。
暗闇の中をさまよっていたロロとレレが手と手で触れあい、次々と世界に光(星)を灯していきます。つながることから何かが始まる。そのドキドキとキラキラをどうぞ!

『ふしぎなボジャビのき アフリカのむかしばなし』(ダイアン・ホフマイヤー:再話 ピート・フロブラー:絵 さくまゆみこ:訳 光村教育図書)
 まるで落語のように楽しいアフリカ民話です。おいしそうな実がなる木。でも大きな蛇が巻き付いていて、木の名前を当てるまでどかないという。そこで、動物たちはライオンに教えてもらいに行くけれど、木の前に行くと名前を忘れてしまい・・・。
 とってもカラフルな蛇がすてき。

『おいしいよ! はじめてつくる かんこくりょうり』(ペ ヨンヒ:文 チョン ユジョン:絵 かみや にじ:訳 福音館書店)
 のりまき、プルコギ、だいこんキムチなど、韓国の代表的な料理を子供が作れるように描いた絵本です。
 文化の違いを知ることは、理解を深める第一歩ですが、これもその一冊。
 子供の日常の服や仕草の微妙な違いもお楽しみください。

『かわいいとのさま おだんご だんご』(筒井敬介:文 堀内誠一:絵 小峰書店)
 筒井と堀内による幼年童話「かわいいとのさま」の絵本化による復活です。ちょっといばりんぼうでなまいきな小さな殿様の愉快で素朴な物語に掘内のさしえ。
 味わいがいいなあ。

『タガメのいるたんぼ』(内山りゅう:写真・文 ポプラ社)
 田んぼの昆虫で最上位に君臨するタガメ。トノサマガエルも食べてしまいます。そのタガメが絶滅しつつあり、それは地球上の様々な場所、レベル、種類で生じているバランスの崩壊を表しています。
 この写真絵本は、タガメの生態を詳しく、迫力一杯に見せてくれます。
 おそらく、子どもには強烈な印象を遺すでしょうから、環境を考えるきっかけとなる一冊です。

『蛙飛び』(総本山金峯山寺:著 松田大児:画 コミニケ出版)
 金峯山寺に伝わる「蛙飛び」の行事の由来を描いた絵本です。金峯山寺へのお参りに闖入した狼藉者を大鷲が運び去り、崖の上に。降りられず困っているので老僧が蛙にします。降りてこられたのはよかったけれど、蛙の姿のまま。どうすれば?
 松田の勢いのある画が、この物語の滑稽さをよく伝えています。

『ペンキやさん』(あおき あさみ:さく 福音館書店)
 絵本デビュー作。地味ではあるけれど興味深い素材を選んだのは、いいセンス。
 家の外壁を塗り替える工事が始まります。あっちゃんは興味津々。家が綺麗に仕上がっていくまでを見守ります。
 それは、子どもの日常に起こるちょっとしたファンタジーであり、同時にそれは職人技というリアルな世界でもあります。
 大事な両方の要素が一つの絵本に収まりました。

『追跡! なぞの深海生物』(藤原義弘:写真・文 野見山ふみこ:文 あかね書房)
 「しんかい6500」によって撮影された深海生物たち。
 その姿、その色、ヘンだろと思ってしまいますが、もちろん深海にはそちらの方が適合していて、たぶん彼らから見れば地上生物は、かなりヘン。
 違う環境で生きる生物を研究することで、生命の謎を探っていくという藤原義弘の姿勢は、視野を広げてくれますよ。
 深海生物を見せるので絵本が縦開きなのもいいなあ。

『ちきゅうがウンチだらけにならないわけ』(松岡たつひで 福音館書店)
 たくさんの生物と、そのたくさんの排泄物について考える絵本。もう、ぎっしりと、松岡さんが描いてくださっています。
 排泄物もまた自然の循環の中にありますけれど、自然の生態バランスを完全に崩してしまっている人間の排泄物だけは、とても循環の中だけでは処理できず、考えればもったいない話ですね。

『べんべけざばばん』(りとうようい 絵本館)
 タイトルのリズム感そのものの絵本。だるまさんと、だるまさんころんだをしていると、本当にだるまさんが転んでいって、餅をついている臼に頭を突っ込み、引っ張るとお餅といっしょにびよ〜んっと飛んでいき、といった風に、自由に自由に展開していきます。

『いいものみーつけた』(レオニード・ゴア:文・絵 藤原宏之:訳 新日本出版)
 本を巡る絵本。
本を見つけたうさぎさんは、それを屋根にします。今度はクマさんが帽子にして、ネズミさんはダイニングテーブルに。すると、少年がやってきて、もっといい使い方をみんなに教えてくれますよ。

『どこにいるの? かたつむり』(トミー・ウンゲラー おおさわちか:訳 長崎出版)
 ウンゲラー半世紀前の作品。捜し物絵本ですが『ミッケ』のように凝っているわけではありません。作者と読者の距離が近くて、「ほら、わかるでしょう? ここだよ」って告げています。『どこへいったの? ぼくのくつ』も併せて発売になりました。

『きょうも ひつじぱん』(あきやま ただし すずき出版)
 シリーズ三作目。様々なパンを焼きます、ひつじさん。今回はおばけや、宇宙人など変わった人たち向けのパンも。
 言葉はシンプルでリズミカル。絵もキャラとして余計なものを描かず、あきやまはどんどん進化していきます。

【ノンフィクション】
『からだノート 中学生の相談箱』(徳永桂子 大月書店)
 体の様子が急激に変わっていく成長期の子どもたちへのアドバイス本。
隠すことなく極めて真っ直ぐに語られていますから、読んでいて気持ちがいいです。
男の子、女の子どちらにも隔たることなく書かれていますから、異性の体と心も知るために、多くの中学生に読んでほしい一冊です。

『ほんとうの「ドラッグ」 世の中への扉』(近藤恒夫 講談社)
 薬物依存症回復施設「ダルク」を運営する近藤による、違法ドラッグから、わざと過剰摂取することで効果を得る薬品までの細かく具体的な解説書。彼自身がかつて、依存で逮捕歴もあり、その語りはリアルであり、子どもたちをドラッグから引き離そうとする情熱が伝わってきます。

【詩集】
『茨木のり子 日本語を味わう名詞入門』(萩原昌好:編 あすなろ書房)
 若い人向けに、茨木のり子の詩集が出ました。
彼女の凜とした佇まいの言葉は、いつの時代にも私たちの背中を押してくれますが、自己が脆弱になってきている(正確には脆弱である方が生きやすい故)今、それはどう響くのでしょうか? 気遣う言葉が失われつつある時代において、彼女は何を語ってくれるでしょうか?

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