【児童文学評論】 No.153    1998/01/30創刊

       

【研究書】
『戦時児童文学論』(山中恒 大月書店)戦時、子ども読者であった山中による、小川未明、浜田広介、坪田譲治の戦時下における仕事の検証です。ついに書かれました。一つの底本となるでしょう。
あとがきによれば紙数の関係で削除した作家やテーマがかなりあり、それもとてもおもしろそう。ぜひ書籍化を。そのためにもこの本が売れて欲しいです。

【物語】
『ヒトラー・ユーゲントの若者たち』(S.C.バートレティ:作 林田康一:訳 あすなろ書房 2010)
 ナチスによる瞬く間のドイツ制圧と、他国への侵略はどのようにして起こったかの重要な側面を描くドキュメント。1931年から45年まで、たった十数年の間に子どもたちが洗脳され、時に親まで密告までするようになり、ナチスへの忠誠を示す過程が、当事者たちの証言を元に描かれていきます。
 最初は特権的子どもとして誰もの憧れの的となり、やがて、その特権に誰しも惹き付けられるようになると、全員が入隊を許されていく。その頃には初期のユーゲントたちは20代のりっぱな親衛隊として、大人をも支配する技を持つ人間へと成長してしまっている。
 実際にドイツがポーランドに進行した時を考えれば、ユーゲントの始まりから10年ほどで、国の力となる若者たちはほぼすべて、独裁者に従う集団となっています。基礎教養も何も与えず、忠誠心だけを教え込むのに、そんなに時間はかからないわけです。
 他国事と考えず、気をつけましょう。たとえば、11月3日、大阪府の橋下知事は、「権力を握る人間にリーダーの素養を身につけさせるのは社会の義務」と述べましたが、この発言は、同じ事の裏返しです。「権力を握る人間」(独裁者)以外は、愚民でいいといっているに等しいのですから。従って、橋下はヒトラー的「リーダーの素養を身につけ」ているのかもしれません。(ひこ・田中)

『フォスターさんの郵便配達』(エリアセル・カンシーノ:作 宇野和美:訳 偕成社 2010)
 スペインの寒村。母親を失い、漁師の父親と二人暮らしのペリーコの日々を描きます。貧しい暮らしの中、父にはしかられてばかり。信頼して欲しいという彼の心はしだいにすぼんでいき、今は学校にもあまり行かず、時間をやり過ごしています。
 そんな彼が、惹かれている二人の大人は、なぜか村人から疎まれています。一人はどこからかやってきて住み着いた皮職人イスマエル。もう一人は、なんの酔狂か、この村に家を買ったイギリス人フォスター。
 時は六〇年代、フランコ軍事政権下。誰もが疑いの目を向ける時代です。
 物語はそんな時代を背景に織り込みながら、いや正確には、そんな時代を背景に織り込むことで、子どもと大人の関係に緊張感を持ち込み、いやこれも正確には、関係の緊張感を見えやすくし、子どもが社会や世界への接続を探っていく様子を、時にいらだたしいほどに、ゆっくりじっくりと描いていきます。
 だからといって難しいわけではなく、ある事件をわき筋に置いて、スリリングな展開も図っています。
 邦題タイトルがややおとなしいので、地味ですが、中身はそうではありません。(ひこ・田中)

『遠い親せき』(ウーリー・オルレブ:作 母袋夏生:訳 小林豊:絵 岩波書店 2010)
 オルレブは自伝的絵本をいくつか作っていますが、これは自伝的中編。
 戦後、弟と二人キブツで暮らすウーリー。そんな彼の元に見知らぬ人からの便り。それは叔母の夫の兄。兄弟が生きていることを知って、喜びの便りをよこしたのです。
 親戚が見つかったうれしさ。キブツを出られるかもしれない。いや、そんな遠い親戚にそこまで面倒を見てはもらえない。さまざまな気持ちがわき起こります。
 とにかく会いたい。
 そう思った二人は、工夫をしてこっそりとキブツを抜け出し、親戚の住む町を目指します。
 この物語はその旅の不安と、会えた喜びなどを、兄弟の会話を主にリアルに伝えてくれます。小さい弟が話した方が大人たちの警戒は緩むなど、実体験からきているのであろう大人への観察も素敵です。
 そしてこのささやかの冒険の背後にあるもの、たとえば父親の生死はまだわからないことなどを考えさせてくれます。
小林豊の絵は、この人にお願いするしかないなって感じで、ピタリです。(ひこ・田中)

『雲じゃらしの時間』(マロリー・ブラックマン:作 千葉茂樹:訳 あすなろ書房 2010)
 「ぼく」とデービーを巡るいじめの問題を、詩で綴る作品。
 授業で詩を書くことになったとき、サム(「ぼく」)は先生に告げる。デービーとのことを書きたいと。それはサムにとって痛いいじめの記憶だった。
 詩ですので、問題の中枢が次々と率直に語られていきます。見えやすいです。(ひこ・田中)

『この世のおわり』(ラウラ・ガジェゴ・ガルシア:作 松下直弘:訳 偕成社 2010)
 『漂泊の王の伝説』の作者二十歳のデビュー作。
 千年紀、この世は終わると信じた若い修道僧が、その事態を回避するために三つの時間軸の宝石を集めようと旅をする。その頼りなさを見かねた吟遊詩人が同行し、やがてそこに吟遊詩人になりたい少女も加わる。
 終末を求める闇の結社、それを操る女性と、人物配置も、「文学好き」にとっては重厚でもユニークでないにしろ、手堅い。
 戦いがそれほど起こらないのが不満の向きもあろうが、戦ってナンボのファンタジーなど目指してはいないのでしょう。
 軽いストーリーでありながら、口承を支持する吟遊詩人と、文献重視の修道僧の議論や、性差別に満ちたキリスト教(だけではないですが)への批判など、若い読者が考えていい話題がちゃんと含まれている点で、買い。
 一〇世紀末ヨーロッパガイドでもあります。(ひこ・田中)

『わたしの世界一ひどいパパ』(クリス・ドネール:作 アレックス・サンデール:画 堀内紅子:訳 福音館書店 2010)
 九〇年代に書かれたクリス・ドネールの作品の中から3編を訳出。
 どれも未だに新しい物語たちです。
 表題作は、タイトル通りのパパの話。消防士のパパは報奨金をもらうために放火をしていたのがばれてクビに。ばくちに手を出し、借金漬け。
 車の停滞にいらついたパパは別の車の男性にクランクで襲いかかります。
といった、牢屋に入るまでのパパの行状が、パパと面会するまでの過程の中で語られていきます。
「わたし」はそれでもパパをきらいではありません。
面会の途中パパは警官の銃を奪って、「わたし」を連れて逃走。最後には恋人と一緒に、「わたし」をホテルに置き去りにしたまま消えてしまいます。
まあ、とんでもない親なのですが、読んでいて別段怒りを感じないところが、巧いです。
そのことで、親という物の幅をこれまで以上に広げて示してくれています。
こんな親に当たってしまう子どもはめったにいないでしょうが、延長線上にこんな親もいるのは確かだと想像しておくのは悪いことではありません。
むしろ、ちょっとほっとします。
もう一つ、子どもの願望物語という読みも可能です。(ひこ・田中)

『ジジのエジプト旅行』(レッシェル・オスファテール:作 ダニエル遠藤みのり:訳 風川恭子:絵 文研出版 2010)
 ジジはフランスの小学生。夏休み、家族でどこへ旅行するかで盛り上がっているとき、ジジはついエジプトと言ってしまいます。実はこの夏は旅行はなしなのです。
 エジプトと聞いて、みんなは大注目! 先生も興味を持ち、休み明けに発表することになってしまいます。
 困った……。
 その反動か、いつもケンカ相手のモーって男の子は中国へ行くって嘘をつくジジ。ためにモーも発表することに。
 エジプトに行ってないけど、行ったように見せかけるには? モーの提案で彼らは、パリ市内にある、エジプトらしきものの前で写真を撮ることにします。フランスはナポレオン時代にエジプトから略奪してきたオリベスクとかありますし、美術館ではちょうどエジプト展をやっているし。
 ほとんど勉強に興味なく、知識なしのジジが結構すごい。でも、「こうやって大親友になっていくのかな。おしゃべりしながら。いろんなことを語り合いながら……」って、ちゃんと判っていますよ。読者にとってもいい言葉です。
 センスのいいユーモア、ちゃんと回収される物語、と出来のいい一品です。
 とんがってないし、さほど目立つわけでもありませんが、こういう作品がたくさんあって、そこから好きな物語を選べることで、読む喜びは培われると思います。
 風川恭子の絵も作品に巧く溶け込んでいて、気持ちよい仕上がりです。(ひこ・田中)

『ジョシュア・ファイル 見えない都市』(上下巻 マリア・G・ハリス:作 石随じゅん:訳 評論社 2010)
 マヤ遺跡を調査していた父親が事故死する。が、それに疑問を抱いたジョシュア。ブログで知り合ったオリー、親友のタイラーと三人で調査を始め、ついに現地メキシコへ。そこで待ち受けていたのは、地下都市に生存し続けていたマヤ人の謎と、それを追うアメリカ情報局の攻撃。そしてジョシュア自身の隠された秘密だった。
 非常に軽快に進みます。マヤ文明とUFOと世界の滅びが絡まって、ちょっと懐かしいジュブナイルの雰囲気です。もちろん、ブログからケイタイまで、今時のものが活躍しますけれど。(ひこ・田中)

『すいはんきのあきやすみ』(村上しいこ:作 長谷川義史:絵 PHP 2010)
 私たちに脱力した幸せを届けてくれる、飛ぶ鳥を落とせず飛び去ってしまう勢いの、村上しいこ、「わがままおやすみシリーズ」すいはんき編です。
 運動会の日、すいはんきのふたが開かない。なんでもあきやすみなんだそうである。
一緒に運動会にいきたいという。そこでとうちゃんとかあちゃんとぼくは、ジャーちゃんを連れて運動会に突入!
 どんなあほらしくも情のある物語が展開しますやら。
 長谷川とのコンビももちろん最強。(ひこ・田中)

『カティーにおまかせ!』(メイリー・ヘダーウィック:作・絵 はら るい:訳 文研出版 2010)
 スコットランドの小さな島で暮らすカティーを描いた短編3作がおさめられています。
 おばあちゃんへのプレゼントにお菓子を手に入れたのはいいのですが、おいしいかどうか味見して、結局みんな食べてしまったカティー。さてどうする?(ひこ・田中)

『わたしたちの「女の子」レッスン はじめての生理ハンドブック』(WILLこども知育研究所:編著 池下育子:監修 金の星社 2010)
 女子の生理解説本では、高橋由為子の『セイリの味方スーパームーン』が優れているけれど、タイトルがいささか古びてしまったし、新しい伝え方もあるでしょうから、新本は大歓迎。
 生理そのものが変わるのではないので、全体的には無難なまとめ方です。マンガの多用は当然で、サポーターとなる架空キャラがちょっとドジってのもまた、お約束。絵柄が少し古いのが気になりますが、読みやすくするということでしょうか。
 内性器だけではなく外性器まで詳しく図解も入れて説明しているのは、自分の体を知ることで自分を守る自律性を育てる方向として、とてもいいです。
こんなことすら、大人の女に対してもフェミニズムが啓蒙しなければいけない時代が、あった(『からだ・私たち自身』松香堂 1988)ことを思うと、うれしい限りです。
ただ、生理と「私」への目配りは良いとして、高橋由為子にはあった外部社会への視線がないのが残念です。
男の子をどう撃退するか、またはどう仕付けるか、ナプキンやタンポンとエコなど。
これはとても大事です。外性器まで自分で把握して自律した心が、自分の外(または自分と社会)へと関心を向けないはずがないからです。
この辺りで、「WILLこども知育研究所:編著 池下育子:監修」というのが裏目にでています。この「WILLこども知育研究所」は、金の星社の「知育本」を担当していますから、架空集団、または時々の仮の集団なのでしょうが(奥付に紹介がありません)、これでは責任の所在が見えてきません。
本を作るのには便利でしょうけれど、覚悟という意味では、引けています。(ひこ・田中)

【絵本】
『くつやのねこ』(いまいあやの BL出版 2010)
 「長靴をはいた猫」の1エピソードから物語を新しく立て直しています。
絵本の尺で、絵を主体にして語るとき、言葉を刈り取るより、こうしたヴァージョンに組み立て直す方が、より絵本としての特徴を活かせる好見本ともいえる出来です。
 絵の表現力への自信と愛しさ、そして緊張感がどのページにも漂っていて、読者としてついつい、ニヤニヤではなくニマニマって感じでうれしくなってしまいます。
どのページも同じ構図ではなく、かといって一幅の絵として眺めてしまうような完結性は持たせることなく、次のページへと繰らせてしまいます。
 いやいや、ただものではありません。(ひこ・田中)

『よるのいえ』(スーザン・マリー・スワンソン:文 ベス・クロムス:絵 谷川俊太郎:訳 岩波書店 2010)
 夜の深い黒と、月も含めた灯りの二色で表現された版画の静けさが、まずすごいです。
 短い言葉は、次のページの言葉へと連鎖していき、そのリズムが夜に時を刻んでいきます。「これはこのいえのかぎ。」「いえにか あかりが ともっている。」「あかりは べっどを てらしている」。「これはおうこくのかぎ/そのおうこくにとしがあり/そのとしにまちがあり」という形式のイギリス伝承詩に刺激を受け綴られた言葉です。そのシンプルな言葉にベス・クロムスの版画が想像力を乗せていくのです。見事。(ひこ・田中)

『マジャミン アフガニスタンの少女』(長倉洋海 新日本出版社 2010)
「わたしが生まれるずっと前、「ソ連」という国が攻めてきて、村の人たちもみんな戦ったんだって」から始まる、10歳の少女マジャミンの日常を追った写真絵本です。
 長倉は彼女を幼いときから撮り続けていたそうで、この度絵本にまとめました。
 彼女の村は200戸あったのが今は5戸。
彼女が通う山の学校は標高2780メートル。コンテナを利用しているので少し狭いです。
 親の手伝い(家事・放牧)をしながら、勉強に、遊びに、マジャミンたち子どもは元気です。
 そうしたことを長倉はいつものように数字も交え、感情を抑え、できるだけ事実だけを記しながら、写真に語らせていきます。その事実の中には父親は戦争で足を痛めてしまったことも含まれます。
 少ない言葉の情報と、豊かな写真の情報。それを結んだとき、読者それぞれに考えや感情が生まれます。
長倉がやっているNGO、「アフガニスタン山の学校支援の会」は、
http://www.h-nagakura.net/yamanogakko/(ひこ・田中)

『HIV/エイズとともに生きる子どもたち ケニア あなたのたいせつなものはなんですか?』(山本敏晴:写真・文 小学館 2010)
 HIV感染の親から生まれ、発症した子どもたちの写真絵本です。彼らの描いた絵も載っています。
 感染のわかっている親から生まれた場合、人工乳で育てるのですが、ケニアではそれでも母乳をあげるケースがあるそうです。というのは人工乳と溶かすための水が安全ではないために、人工乳によって病気になる確率と、母乳でHIVとなる確率を考えた場合、母乳によるHIV感染での死亡率の方が、安全でない水で作った人工乳での死亡率より低いからです。
 そして、病院までのバス代も出せないので治療が受けられない子どもたち。
それから今も消えない誤解による差別。
写真家であり医師でもある山本は、国境なき医師団・日本理事として、大事な情報を伝え続けています。(ひこ・田中)

『きみはきみだ』(斉藤道雄:文・写真 子どもの未来社 2010)
 「ろう児」の学校明晴学園の子どもたちの日々を切り取った写真絵本。
 「あとがき」と封入の冊子に著者の思いが述べられています。
「聞こえることがあたりまえとされる社会で、少しでも聞こえる子に近づこうとしていたとき、ろう児は自分の主人公になることができませんでした」「手話ということばを使うけれど、それが自分のことばであり、そのことばを使うのが自分の生き方なのだと納得したとき、そしてその生き方をみんなに認められたとき、ろう児は主人公になりました」「写真に写っているのは、ろう児というより、自分らしく生きるようになった子どもたちの顔なのです」(あとがき)。学内のコミュニケーションはすべて手話で行われます。従って「ここでは聞こえないことは障害ではなく、手話のできないことが障害になります」「明晴学園は、ろう児が聞こえる子をめざして努力する学校ではありません」。
こうした主張は、七〇年代から本格的に動き出した、障碍者自ら(親ではなく)の運動が導き出したものと似ています。健常者に近づくのではなくそのままの自分たちを認めよ、です。私はそれに同意します。
が、障碍者のそうした思想は、社会参加(自立生活など)していく中で生まれてきたものである点も重要です。社会の風圧、差別、行政の整備の遅れなどに自身が自立生活を選択したために、初めて直接ぶつかった時、自分たちが「今」の社会に合わせるのはおかしい、もし、自分たちがこのままの状態で生きがたいのであれば、自分たちを変えるのではなく社会が変わらなければならないのではないかという問い立てが行われたのでした。ここには、障碍者をサポートするという意味だけではなく、「健常者」に属していると考えている側も、実は「今」の状況では差別されているのだというところまでが射程に入っています。それはフェミニズム運動が、何も女性解放のためだけにあるのではなく、男性社会は男性をもスポイルしているという射程と重なります。
この障碍者解放運動の本格的活動の時期に大きな出来事がありました。自民党と共産党が中心となって推し進める、障碍児学校義務化です。
それは、同じような障碍を抱えた子どもたちは専門の学校で学ばせた方が彼らにとって良いという考え方です。当時すでに各学校には特殊学級なるものがあり、そんな小さなマスに閉じ込められるより専門の学校で伸び伸びとさせたいという保護者の多くの思いもそれに重なっていました。
が、障碍者たちの多くは義務化に強く反対し、阻止のための運動を展開していきます。
主張はとてもシンプルです。同じ学校の同じ教室で学ばないと、障碍児は社会化されない。彼らが「健常児」と同じ教室で学べないのであればそれは障碍児の問題ではなく社会の問題である。
これは「健常児」にとっても同じ事で、彼らの日常の多くを占める学校生活から障碍児が見えなくなることは、彼らが社会の半分しか見られないこととなるわけです。彼らが障碍者を差別する確率は、障碍児と友に学んだ場合より確実に高くなることでしょう。
もっとも行政にとっては、この、表面で展開された考え方の違いの問題より、教育費の効率化という現実問題(今でもこの国がお金をかける気がないのはご存じの通りです)。そして障碍児がいれば学習が遅れるのではないかといった「健常児」の親の思惑、普通校じゃない方がいじめられないのではという障碍児の親の思惑などが、おそらく大事だったのだと思いますけれど。

 さてこの写真絵本の舞台は「ろう児」の学校です。
斉藤はこう述べています。
「聞こえることがあたりまえとされる社会で、少しでも聞こえる子に近づこうとしていたとき、ろう児は自分の主人公になることができませんでした」。
これは正しいとしても、「ここでは聞こえないことは障害ではなく、手話のできないことが障害になります」という学校内やその支援者、理解者だけの世界は、「聞こえることがあたりまえとされる社会」、つまり外の世界ではありません。
その外部には手話を知らない、知る必要も感じていない社会が確実に広がっているわけですから、そこでどう生きていくのか? 待ち構えている外部社会の理不尽さ、残酷さ、差別に抗して、「自分たちを変えるのではなく社会が変わらなければならない」という運動を親や教師ではなく彼ら自身が展開していくための知恵と力と情報を得ることができているのかが気がかりです。ぜひ得ておいて欲しい。
たとえば最近、市民運動をされている人のツイッターに以下のような言葉がありました。「障害者自立支援という言葉は好きになれない。自立なんて誰もしていないと思う。僕も多くの人たちに依存している。だから感謝するし、お返しをしたいと思っている。その関係を拒絶して自立しようとは思わない。なんで障害者だけ自立しなければいけないの?」(印鑰 智哉)
「障害者自立支援法」改正との絡みで出てきた言葉でしょうが、ここには障碍者の目指す自立とはどういうものを指しているのか? への想像力はありません。「自立なんて誰もしていないと思う」し、自分は「多くの人たちに依存している」と言えるのは、依存されてもそれほど周りは負担にならない「健常者」であるからだけにすぎない可能性に気づいていません。多くの障碍者は、社会の無理解と差別と、社会整備の遅れで、「多くの人たちに依存」しようにも、依存する先も、依存できるシステムもありません。だからそれの確保のことを自立と呼んでいます。つまり、依存しやすくしろ! と。
そしてもう一つは、
大人になることは自立することだとされる社会ですから、誰だって一度自立したいと思うのは当たり前である点です。最初から自立なんてしようと思わずにすむのは、自分がこの社会において、いつでも自立できるからです。
従って、もし問題とするのなら「支援」という言葉を使用していることの方でしょう。
障碍者は「関係を拒絶して自立しようと」などと言ったことは一度もありません。迷惑だというなら、堂々と迷惑をかけて、そのことを誇りにして生きていこうと考えているはずです。
彼の家族には障碍者がいるようですが、それでも(それだから?)、こんなにも簡単に悪気なくこうした言葉が吐かれてしまうのが、外の世界の現状なのです。
 そして、斉藤の言うとおり言葉は、「それが自分のことばであり、そのことばを使うのが自分の生き方」であるのですから、主張を広げても手話を使おうとする人の数はそれ程増えないでしょう。手話が自分のことばではない人にとって、よほど必要でない限り(英語のように)それを学ぼうとしないと考えるのが妥当だからです。
また、学ぼうとした人が、その代わりにろう児にも音声言語や読唇を学んで欲しいと考えた場合、どう答える(応える)のかも視野に入れておく必要があります。「たしかに手話はまだ社会的な認知が進んでいないので、(略)多くの不利や不便があります」とあるので、すでに視野に入れてはいると思いますが……。

 ここまでの私の文は斉藤の「あとがき」と封入された冊子に対しての反応として書かれています。以下に、主たる本文をあげておきましょう。
「できることもあれば できないこともある でも、きみはきみだ」「もっとたくさんのことができても きみはきみだ」「きみはきみだ ほかの人とちがう みんなと似ているけれど おなじじゃない」「世界にたったひとり きみであることのできる人は きみしかいない」「みんなとおなじに できることもあれば ひとりだけできないこともある」「それでいい きみはきみなのだから 世界にたったひとりの きみの主人公なのだから」「一人ひとりが、一人ひとりの主人公」「「みんながおなじじゃないから ごちゃごちゃいろいろ へんなやつがいっぱいいる」「でもだからこそ この世界はおもしろい」「どこまでも きみはきみだ」「きみはきみだ 世界にたったひとり きみであることのできる人は きみしかいない だれも きみのかわりにはなれない」「きみは きみの主人公として この世界に語りかける」
この、呪文のように繰り返される言葉は、繰り返さないことには受け入れられない困難さがあることを露呈しています。
どこかで聞いたような言葉ではありますが、それはそれとして、ここにある「きみはきみだ」という教え、つまりは「手話ということばを使うけれど、それが自分のことばであり、そのことばを使うのが自分の生き方なのだ」と学び、「その生き方をみんなに認められたとき、ろう児は主人公になりました」と言うわけです。そして、「写真に写っているのは、ろう児というより、自分らしく生きるようになった子どもたちの顔なのです」。
が、これから彼らを待ち受けている外の世界で主人公としての意志を持ち続けることの困難さは、ここからはあまり見えてきません。「みんな」にはどこまでが含まれているのでしょうか?

 おそらく、この写真絵本は好意的に迎えられるでしょう。それはこの写真絵本がろう児が心地よく生きることを前提としていない、この社会を撃っていないからです。多くの人を不快にせず、不快であっても一歩前に踏み出そうとする動機を与えてくれないからです。
 良い写真が満載であるのですからこそ、もう一考が欲しかったです。(ひこ・田中)

『まほうつかいのトビィ』(カズノ・コハラ:作 石津ちひろ:訳 光村教育図書 2010)
 この作家の版画はその線の表情にすばらしさがあります。微細なわけでも、奔放な勢いがあるわけでもなく、とにかく優しい。が、それだけではなく、どう伝えたいかに神経が注がれています。
 たとえば、まだ子どもの魔法使いであるトビィのマントは大きくて、手は袖の中にあるのですが、袖の中の手が、空を飛ぶための箒の柄を握るその力加減までが判ります。
 単純に、巧いと言えばいいだけの話かもしれないですが、それだけではなんだかもったいないようなクリアな表現です。
 なかなか空を飛べないトビィはドラゴンと出会い、飛び方を教えてもらうのですが、やっぱり飛べない。
 そんなとき、ドラゴン倒しのナイトがやってきます。
 ドラゴンを助けなくちゃ!
 という筋運びは、大きなドラマがあるというより、素直なものですが、決して力の行使や、暴力に頼らず、収まるところに収まる心地よさに浸らせてくれます。
 本当に良い作家です。(ひこ・田中)

『りょうりをしてはいけないなべ』(シゲタサヤカ 講談社 2010)
 おもしろい設定を考えられる人だなあ。
 あんまり料理をしたくない鍋さん。嫌いな物が入れられると、側面にある顔の口を開けてはき出すし、笑うとやっぱりはき出すし、とても料理に使えません。
 という展開と、ガバッとはき出す絵が実によろしいです。
 最後までこういうやつでいて欲しかったのが、一つ残念な所。
色々描いて欲しい作家です。(ひこ・田中)

『煮干しの解剖教室』(小林眞理子 仮説社 2010)
 煮干しを使って、魚の解剖を行おうという試みです。
 確かに煮干しなら手に入れやすいし、丁寧に扱えば解剖しやすいし、いいアイデア。
 この絵本は、その方法を詳しく説明してくれています。
 画面のレイアウトが巧くて、わかりやすい。
 子どもの興味をかき立ててくれるでしょう。
 授業に使って欲しい。いい絵本です。(ひこ・田中)

『かぞえて・みつけて どうぶつパレード100』(せべ まさゆき:さく・え 偕成社 2010)
 せべの100シリーズ新作。
 とにかく何か1設定で「100」をやればいいので、一見簡単なようですが、「100」をやるということ自体がもう大変な事で、それを描き続けるせべは、やはりすごいと思います。
 今作はパレードですから、道にずらりと100並んでいます。そうそう、だからパレードなので、次から次へと100がくる。くま、ぶた、かぶとむし、うさぎ、ことり。
もちろん一匹一匹違っていて、そこに小さな物語もある。
「100」という、幼児には大きな概念をこうして見せてくれるのはうれしいかぎりです。
せべさん、もっと、もっと。(ひこ・田中)

『おかあさんは、なにしてる?』(ドロシー・マリノ:作・絵 こみやゆう:訳 徳間書店 2010)
 1959年作品。
 子どもたちが学校にいるあいだ、母親はなにをしているかを左右のページで表しています。後半は週末に家族一緒になにをしたか。
 子どもにとっての知らない、大人の時間を描きますから興味がわきます。
 ドロシーは、左のページと右のページという画面構成で淡々とそれを見せていくので、日常感覚が巧く伝わってきます。専業主婦も職業婦人(当時の日本の呼称)もちゃんと描いています。
 あと、大人も子どもも、衣装の良い資料でもあります。(ひこ・田中)

『まだまだつづきがあるのです』(カンタン・グレバン:作 ふしみみさお:訳 ほるぷ出版 2010)
 オレンジが気から落ちて、それに驚いたチョウチョが飛び立って、降りた先はネズミの鼻の上で、ネズミが飛び出して…、という愉快な連鎖物です。行き着くところまで行って、今度は逆に戻っていきます。
 こうした連鎖はシンプルなだけに飽きさせません。
 画はそれほど特徴があるわけではありませんが、コミカルな表情の豊かさや、影の付け方の丁寧さ、勢いのある動きと、確かな腕で見せてくれます。(ひこ・田中)

『どうして ちが でるの?』(そ・ボヒョン:文 田島征三:絵 おおたけきよみ:訳 光村教育図書 2010)
 ストーリー絵本と言うより、タイトル通りの啓蒙絵本です。
 少年が転んで血が出て、血と血管についての解説がなされるわけです。
 ところが、この解説の絵がなかなかすごいです。具体的に血管が体中に描かれて、それが、図でもイラストでもなく絵なので、気持ち悪いです。そこがおもしろい。文化差でしょうか。
 田島の絵は、日本でのそれと違ってきわめてシンプルになり、軽くなっています。それもおもしろい。(ひこ・田中)

『3ぷんもまてないよ!』(土屋富士夫 佼成出版社 2010)
 お湯を注いでふたをして三分待てば、やさしいワニくんのお話が出てくるカップ。でも主人公は三分待てずに開けてしまいます。すると、怖いワニが出現!
 といった、土屋らしいとんでもおもしろ展開絵本です。
 相変わらず空間の描き方が巧くて、ついついのせられてしまいます。
 はてさてどうなりますことやら。(ひこ・田中)

『ふたりの箱』(クロード・K・ヂュボア:作・絵 小川糸:訳 ポプラ社 2010)
 離婚し、家を出て行く父親と、娘のそれぞれの心の変化を綴った、静かで激しい絵本です。
 どちらもが、愛しているが故に心の箱に閉じ込めてしまい、やがて箱ごと捨ててしまう、「大好き」。
 白地に抜いた画面から互いの孤独と切なさが巧く伝わってきます。
 ただ、「単調な日々」など、訳文が少し堅い。(ひこ・田中)

『ねえシルビー なあにトルー?』(デイヴィッド・マクフェイル:さく 福本友美子:訳 冨山房 2010)
 一つ屋根の下仲良く暮らすウサギとヘビの絵本です。
 ウサギはベッドでお眠り。ヘビはバスタブの冷たい水に浸ってお眠り。アパートの庭の木々をジャングルに見立てて遊ぶヘビ。お隣さんを脅かしてみますが、いつものことなので可愛がられてしまいます。
そんなコンビの世界のほのぼのさは強く、読んでいて心地いいです。(ひこ・田中)

『ぼくのママが生まれた島 セブ』(おおともやすお なとりちづ:さく おおともやすお:え 福音館書店 2010)
 ママはセブ島出身のフィリピン人。クリスマスにぼくたちはママのふるさとへ里帰りです。
 常夏のセブ島でのクリスマスは、どんなもの?
 日本の農村へと嫁いできた多くの他国からの花嫁たち。彼女たちの物語を、クリスマスという世界中に広まっているイベントを通して、多文化理解として描く発想が良いですね。(ひこ・田中)

『エラと「シンデレラ」』(ジェイムズ・メイヒュー:作 灰島かり:訳 小学館 2010)
 ソフトカバーのシリーズでバレエ物の供給はいささか過剰気味ですが、これは絵本シリーズの二作目です。
 バレエのレッスンにでかけたエラは、シューズの片方を落としてしまいました。先生が貸してくれたのですが、そこから幻想的なシンデレラの世界へと誘われていきます(前作は『眠れる森の美女』)。
 エラちゃん、シンデレラと王子の恋を成就させる大活躍です。
 メイヒューの画は、はっきりとした線を活き活きと走らせながら、色を置いていくので、画面全体が躍動して、妙にカワイイカワイイしていなくて、良いですよ。(ひこ・田中)

『ねずみの ふわふわけいと』(かさいまり 教育画劇 2010)
 冬が近づき、森にも毛糸屋さんがやってきます。でも、ねずみは恥ずかしがりで買いに行けない。それに気づいていた毛糸やのキツネは、ねずみに青い毛糸と編み棒を渡してくれます。
 ウキウキのねずみですが、さあ、編み棒をどう扱えばいいのか?
 ここからの展開がとても素敵です。
 ちゃんと編めてマフラーができました、なんて方向じゃないの。毛糸玉に乗って遊んだり、雪の中を一緒に転がったり、とうとうほどけてしまって、他の動物と毛糸に絡まれて遊んだり。
 毛糸が青いパステルで活き活きと描かれ、楽しいったら、この上ないですよ。
かさいの代表作になって欲しいなあ。(ひこ・田中)

『かあさんあひるのたび』(エリック・バトゥー:作 広松由希子:訳 講談社 2010)
 表紙。寒々と枯れ葉が舞っています。葉の落ちた木の下で白いアヒルのかあさんが羽を広げて黄色いヒヨコたちを守るようにしています。
 少し荒々しいタッチのドローが、雰囲気を強く伝えています。
 毎日同じ池にいるのに飽きたあひるは子どもを連れて旅に出ることに。
 新しい土地に着くたびに一匹ずつ、その場所を気に入って残ります。それを止めないかあさんあひるがいいですね。
 つぎつぎと残って、最後はかあさん一匹に。
 その後の展開はわかりますよね。
 絵が、抜群に良いです。(ひこ・田中)

『スプーンくん』(a.K.ローゼンタール:ぶん S・マグーン:え いしづちひろ:やく BL出版 2010)
スプーンくん、眠る前のお楽しみは、ママにスプーンとお皿が仲良く逃げ出す古典絵本を読んでもらうこと。でも、ちょっと元気がないのにママが気づきました。理由を聞くと、自分はともだちに比べるとだめだめなんだそうです。
パンを切れるナイフくんは、時にジャムを塗れたりもします。
フォークちゃんも火を怖がらないし、ややこしいスパゲッティーを巻き付けるし、刺すこともできる。
ああ。スプーンのぼくはだめだめだあ。
でもね、
と、ママが教えてくれます。スプーンくんの良いところ。
と、まっとうな幼年絵本です。
S・マグーンの絵は、物語に即して、古典風な色合いに、イラスト的な軽い線の描写を巧くマッチさせています。(ひこ・田中)

『小さなお人形の物語』(デア・ライト:作・写真 磯みゆき:訳 ポプラ社 2010)
 五〇年前の写真絵本。写真絵本と言っても、フィクションです。
 小さな女の子エディスはひとりぼっちでさみしい。そこへ現れたのがくまの親子。
 女の子をお人形が、くまの親子を縫いぐるみが演じます。
 子ぐまと女の子が子どもで、大人のくまがお父さんといった塩梅。その日々が、仕付けと家族愛をテーマに展開します。
 外撮りが多く、ジオラマやドールハウスより、人形ごっこの本格大人版の趣き。
 女の子を演じるエディス人形の面構えが、根性あってなかなかおもしろいです。(ひこ・田中)

『たいようまで のぼった コンドル』(乾千恵:文 秋野亥左牟:絵 「こどものとも」12月号 福音館 2010)
 アンデスの昔話のようですが、乾の創作。
 チャスカはリャマを見失ったとき、若者に助けてもらいます。それから二人は親しくなっていくのですが、実は若者はコンドルで……という異類婚姻譚です。
 親の反対を克服して結ばれていく辺りが今風で、そこもなかなか楽しいです。(ひこ・田中)

『じごくのラーメンや』(苅田澄子:作 西村繁男:絵 教育画劇 2010)
 じごくのひょうばんがどうも良くないので一計を案じたえんまさま。ラーメンやを開きます。それも地獄の釜のように真っ赤っかの辛いスープ。これを食べきったら極楽へのキップをもらえるというので、みんながんばりますが、難しい。それでも、地獄はいやなのでみんなラーメンやに押しかけ、それを繁盛していると勘違いした極楽の人々は……。
 あほくさ系で、笑わせてくれます。(ひこ・田中)

『びっくりまつぼっくり』(多田多恵子:文 堀川理万子:絵 福音館 2010)
 「ぼく」が境内の作の上に置いた、一杯に開いたまつぼっくり。雨が降って、あれれ、小さくなっている。コートに入れて持ち帰るとまた開いていた。
水につけたらまた縮んで……。
ちょっとした不思議を楽しめる絵本。そうした不思議は、日常を豊かにしてくれます。(ひこ・田中)

『おばあちゃんとおじいちゃんの家にいくときは』(アン・ボーウェン:さく トメク・ボガツキ:え ひろはたえりこ:やく 小峰書店 2010)
女の子と弟が、両親に連れられて、車で祖母と祖父の家に行くまでが描かれています。
たくさんの本と、全部のクレヨンと三つのゲームを持ち込んで準備は万全です。これで車の中でもあきないよ。
手品の上手なおじいちゃん。雨の中でも一緒にパシャパシャ歩いてくれるおばあちゃん。女の子は二人のことを考えて、楽しみ一杯です。
物語は、二人のおうちに到着して終わります。今日はどんな楽しみが待っていることでしょう。
両親と違って子どもになって遊んでくれる祖父母ですね。
そうした関係性が生じやすいのは、両者の間に直接の利害が親子ほどないからですが、子どもにとっての親からの逃げ場はやはり必要で、祖父母とそれほどつきあっていない場合は、他の何かを作る努力は親に求められるでしょう。自分の利害に反しても。
この子たちはこんな祖父母がいて良かったね。(ひこ・田中)

『クリスマスのきせき』(高畠那生 岩崎書店 2010)
 乗っている三十代絵本作家の一人、高畠のクリスマス絵本。
 ペンギンたちが大きな大きな大きな箱に雪を入れて、山を下っています。
しちめんちょうへ届けるらしいです。画面は次々と、雪と届けるまでの事故や困難を描いていきます。とても勢いがあります。
箱を飛び出した雪の塊はしだいにまん丸になっていき、最後はしちめんちょうのティピーの上に乗っかります。大きな大きな大きな雪だるまの完成!
だからなんだと言われれば困ってしまうけれど、なんだか愉快です。(ひこ・田中)

『100の たいこのように』(アネット・・グリスマン:文 ジュリー・モンクス:絵 浜崎絵梨:訳 小峰書店 2010)
 だんだん迫ってくる嵐、雷。その前触れからのドキドキを描く絵本。
 木立のささやき、落ち着かなげな馬や牛、犬や猫。
 いきなりの雷。降り始める雨。あわてて逃げる子どもたち。
 自然現象へのときめきと、穏やかさへの喜びが伝わってきます。
 モンクスのパステル画は、リアルな比率を排除し、嵐のダイナミズムに寄り添っています。(ひこ・田中)

『ハクチョウの冬ごし』(太田威:文・写真 「たくさんのふしぎ」一二月号 福音館 2010)
 山形県大山にある大池小池に飛来するハクチョウたちの日々を追ったドキュメント写真絵本。
 飛び立ったとたん強風にあおられて地面にたたきつけられて死ぬハクチョウもいるって知らなかったです。
ストレートに淡々と事実を記していく姿勢が心地よし。(ひこ・田中)

『原寸大 昆虫館』(小池啓一:監修 横塚眞己人:写真 小学館 2010)
 わお、すごい。まさにタイトルとおりの図鑑です。
 それも単に原寸大で並べるのではなく、どこにいるかな? といった興味の引き方が巧いので、ライブ感満点。
 昆虫嫌いは、絶対に見てはいけません。(ひこ・田中)

『おてて たっち』(武内祐人 くもん出版 2010)
 武内はいじらない。ただそのままパターンをなぞっていく。今作では、タイトル通りのことが様々な動物で行われ、最後は人間の家族に至ります。
 そこにブレがないのです。そしてそこが良いところであり、力です。
 これは赤ちゃん絵本や幼児絵本の王道なわけですが、とはいえ、たかいよしかずのように、キャラから入っていくのではなく、設定作りから絵に入っていく武内の方法は、量産が可能なだけにグッズ化も容易ですから、作者自身の自己設計がより必要でしょう。(ひこ・田中)

『みんなでかんがえよう! 生物多様性と地球環境』(全三巻 日本環境フォーラム 京極徹:文 木村太亮:絵 岩崎書店 2010)
 先頃行われたCOP10に併せて企画された科学絵本。
人間は、人間という一つの種の中の多様性を認めよう(その是非や実効性はともかく)、とすることと引き替えに、人間以外の物の非多様化を推し進めてきたわけです。たとえば近代なら、様々な形態の家事一切を家電化し、どれもをリモコンで(おそらく今後はスマートフォンで)操作するという非多様化のおかげで、時間に余裕ができ、自分探しを始めるという風に。
 従って、人間一種だけは、その中の個々の多様性をキープしつつ、生物は種単位で多様性を認めようという虫のいいことをわれわれは考えているわけですから(それが悪いとは思いませんが)、まずそこを巧く説明することから始めた方が良かったかな。
今回は企画物ということで、しかたない面はあると思いますが、全部を説明することは無理だから多様なわけで、よって、これをベースに、小さな一つ一つを色んな角度から、描いて欲しい。多様に。(ひこ・田中)

『こねこねこ』(きむらよしお 「こどものとも年少版」一二月号 福音館書店 2010)
 タイトル通り、擬音と名詞が絡まっていく楽しい絵本。
 子猫たちは台の上で強力粉を混ぜてクッキーを作ります。一匹、また一匹と数が増えてくるのもリズム作りのため。
 ネバネバしたものをこねていく作業は子ども大人限らず楽しいもので、そのわくわく感もよろしいですね。
 ただ、レンジがあまりレンジに見えなかったのです。(ひこ・田中)

『どこまで ゆくの?』(五味太郎 文・絵 「かがくのとも」一一月号 福音館書店 2010)
 五〇〇号。
 子どもが家を出て、どこかのたどり着くまでを俯瞰して描いていきます。矢印が着いていますから、その通りに視線を動かせばいいのですが、ページを繰るごとに画面が移動していく様は、今ではグーグルマップを想起させるでしょう。
 もちろんこれは絵本であり、描かれている画面もイラストマップなのですが。
 かつて黒田征太郎たちの登場で、イラストは市民権を得、観光ガイドや、観光マップの多くはイラストマップへと変わりました。当時はかなり衝撃的で、こんなに見やすい描き方もあるのだと思ったものですが、現在ではかえって見にくい感じがするのは、「情報」とイラストレーター自身の「個性」というものの融合が重く思える時代だからかもしれません。
 それはともかく、帰りは矢印を逆にたどればいいよ、という五味の読者へのサポートの距離感は相変わらずいいですね。(ひこ・田中)

『ものしり五郎丸』(にしむら かえ ぶんけい 2010)
 学者さんチの犬の五郎丸くん。家に本がいっぱいあるから、本好き。色んな事を知っています。知っていると自分では思っています。
 家のドアが開いていたので、五郎丸くん、お外へ大冒険。ところが、
 本で読んだことと現実は結構違います。本の知識が通用しません。おまけに雨まで降ってくるし、へこむ五郎丸くんです。
 知識が活きるのは現実世界とのアクセス故だというまっとうな主張が展開されています。
 本ばかり読んでちゃだめよ! ですね。
 飼い主の学者先生は、そこのところ大丈夫かしらん。(ひこ・田中)

『ちいさなもののいのり』(エリナー・ファージョン:ぶん エリザベス・オートン・ジョーンズ:え しまたよ:やく 新教出版社 2010)
 1945年、ボストンで出版された絵本。
 ファージョンの文がいつ書かれたものかはよく分かりませんが(この絵本に書かれたものかもしれません)、戦争末期、不安な子どもたちのために出版されたのであろう事は想像がつきます。
 ここには、子どもを様々な困難や苦難からお守りくださいとの祈りの言葉があるのですが、大人たちがそう願っていることは、子どもに安心を与えるに違いありません。
 重要なのは、子どもに向けて述べているのではなく、子どものための大人の祈りを、子ども読者の前で正直に見せている点です。つまり、子どもへの抑圧とはなっていません。
 原本がどのようなものかは知らないのですが、エリザベス・オートン・ジョーンズの絵も、装丁も含めて落ち着きのある作りは、これもまた、子どもを安心させるでしょう。(ひこ・田中)

『こぐまくん、ないしょだよ』(ふくだ じゅんこ 大日本印刷 2010)
 きつねくんとねこくん、人形を引っ張り合いして、腕を取ってしまいました。怒られる…。それを観ていたこぐまくんに、ないしょにしておいてくれるようにたのみます。うなずいたこぐまくんですが、ヒミツを持つのは大変です。
 すっかりしょげてしまったこぐまくん。母ぐまさんがしてくれたことは?
 子どものドキドキ感がよく描けています。
 文字のポイントの工夫や、主人公たちのやや大げさな仕草による効果、小道具への目配りなど、作りの丁寧さが素敵です。(ひこ・田中)

『トイレの神様』(植村花菜:文 とりごえまり:絵 講談社 2010)
 おばあちゃん子の女の子。トイレ掃除は嫌いだったけど、おばあちゃんが教えてくれた。トイレには女神様がいて、トイレをきれいにする女の子はべっぴんさんになると。
 思春期になり、だんだんおばあちゃんから離れていく私。やがて路上ライブからプロのシンガーへと夢に向かっていく。
 初めてのCDを届けたとき、おばあちゃんは静かに眠りにつく。
 という、おそらく作者の実体験に基づく物語。
 歌もあり、これは現在ユーチューブなどで500万以上のアクセスがあり、まもなくシングルカットされますので、ヒットするでしょう。今年の泣ける歌ナンバーワンとのこと。あ、紅白歌合戦も出場決まりました。おめでとう!
 泣きたがる症候群はここ十年年々増えていますが、それは本当に泣いたことがないからだと思います。
 この作品も別に泣くほどのものではなく、緩いものですが、泣ける作品としてヒットするでしょう。その意味では時代的な作品とはいえます。(ひこ・田中)

『不思議な黒板』(山の仙藏:文 青山邦彦:絵 パロル舎 2010)
 不治の病の女の子がいる。彼女は毎日窓から見える公園を眺めている。
 公園の近くの小学校。黒板に不思議な文字が現れるようになります。
 何かをすればいいことが起こるというパターンです。そしてそれは実現します。
 最後に黒板は、公園で花火をするようにと文字を浮かび上がらせます。子どもたちは先生と一緒に花火をし、楽しみます。
 それを眺め、楽しくなった不治の少女はやがて回復し…。
 不治の病や、黒板の不思議など、「感動」のために物語が作られすぎています。(ひこ・田中)

『パンやのろくちゃん でんしゃにのって』(長谷川義史 小学館 2010)
 パンやのろくちゃん、今回は電車でおばあちゃんの家まででかけます。お弁当を食べたり、色んな人と社内で出会ったり、釣りに出かける村上(康成?)さんに遭遇したり、しまいにはたぬきやきつねや、色んな方たちと会います。なんででしょうか?
 楽しくほんわか世界です。(ひこ・田中)

『ローズのにわ』(ピーター・レイノルズ:作 かとうりつこ:訳 主婦の友社 2010)
 ローズは不思議なティーポットに乗って世界中を旅し、花の種を集めます。たどり着いた大きな町はコンクリートだらけ。その一角に土がむきだしのままの地面が。
 ローズはそこに花の種を植えようとしますが、ポットの種のほとんどは鳥に食べられてしまいました。
 わずかに残った種をまくローズ。来る日も来る日も舞っているのに芽が出てこない。
 そんなローズを見ていた子どもたちは、紙の花を作ってプレゼント。そしてローズのにわは紙の花で一杯になりますが……。
 ええ話絵本です。でも、『てん』と『っぽい』の作家なら、もっといい作品がありそうな気もしますが。(ひこ・田中)