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2009.11.25

       
【絵本】
『かあさんを まつ ふゆ』(ジャックリーン・ウッドソン:文 E.B.ルイス:絵 さくまゆみこ:訳 光村教育図書)
 『レーナ』のウッドソンが物語ります。
 戦争で男が減ったシカゴでなら黒人の女でも働き口があるという。少女の母親は出稼ぎに。
 この絵本は祖母、子猫と共に母親を待つ少女の日々を、描きます。
母親の匂いまで、細かな描写は、時間の過ぎるのが遅く感じられます。それは、テンポが悪いからではなく、母親の帰りを待つ少女の気持ちとシンクロできるリアルさを文と絵が持っているからです。
絵が良いわあ。
最後のページで本当にうれしくなってしまう。(ひこ)

『ちっちゃくたって つよいんだ!』(マラ・バークマン:文 ニック・マランド:絵 おおさわあきら:訳 ほるぷ出版 2009)
 この絵は、覚えておられますですよね。そう、『ぜったい ぜったいねるもんか!』で、記憶に留めたコンビの新訳です。
 今度はベッドではなく、お風呂でポカポカとしながら色々想像の世界をさまよっている少年。ちょっと『かいじゅうたちのいるところ』っぽいですが、こっちは屈折率は小さく。明るいモードで読ませていきます。
 さいごは、おやすみモード。
 さて、次回はどんな設定で、どんな想像をして、どう眠っていくのでしょうか?(ひこ)

『マジック・ラビット』(アネット・ルブデン・ケイト:作 岡田淳:訳 BL 2009)
 マジシャンのレイとウサギのバニーは名コンビ。いつも路上でお客をわかせています。
 ところが、レイとバニーははぐれてしまいます。
 二人が再び出会うまでの緊張に満ちた時間を、作者は描いていきます。モノトーンの画に金色の星が素敵。
 再開したときの喜びと幸せがこちらにも伝わってきますから、よい作品ですよ。(ひこ)

『マジシャン ミロの ふしぎなぼうし』(ジョン・エイジー:さく 石崎洋司:やく 講談社 2009)
 ほうしからウサギすら出せないマジシャンのミロは興行師からついに引導を渡されてしまいました。
 明日までにウサギを出せるようにならないと仕事がなくなる!
 ミロは必死でウサギを捕まえようとするのですが、やってきたのはクマ。でもなんとこのクマさん、ぼうしの中へ簡単に入ってしまいました。
 さて、ミロのマジックショーは?
 オチは伏線が巧く活かされて、楽しい物です。
 技巧を廃した絵の力強さも注目の一品。(ひこ)

『すすめ! 皇帝ペンギン』(ジャン-リュック・クードレイ:文 フィリップ・クードレイ:絵 ときありえ:訳 理論社 2009)
 映画『皇帝ペンギン』のリュック・ジェケが推薦文を書いていますので、てっきり、あのようなドキュメントタッチかと思えばさにあらず。
 おもしろいの、愉快なの。感動! なんかに持って行かないの。

ほんまかいな、みたいなエピソード満載です。でも、エスプリがちゃんと効いていて、そこはやっぱりフランスですね。(ひこ)

『雪の結晶ノート』(マーク・カッシーノ&ジョン・ネルソン:作 千葉茂樹:訳 あすなろ書房 2009)
 雪の結晶の出来る過程を、写真を使って物語風に見せていきます。
 双子の結晶やこぶつき結晶など、いつもとはちょっと違う結晶がお楽しみ。
 ただし、見せ方としては、文章が多く、それは物語ですから仕方がないのですが、先行する写真絵本のすっきり度から見ると、やや見づらいのも事実。
 物語+科学の両立は難しい。
でも、やっぱり雪の結晶は見ていて飽きないですね。(ひこ)

『たべることは つながること しょくもつれんさのはなし』(パトリシア・ローバー:さく ホーリー・ケラー:え ほそやあおい くらたたかい:やく 福音館書店 2009)
 タイトル通りの科学絵本です。かがく
 良いのは、その文が、連鎖を語りながら、最後は「あなたでおわります」というパターンに貫かれていること。そう、連鎖は生き物の頂点にいる私たちが食べることで終わってしまいます。
 だからこそ、自然に対して私たちは謙虚でありたいというメッセージが伝わってきます。(ひこ)

『むしむしでんしゃ』(内田麟太カ:文 西村繁男:絵 童心社 2009)
 名コンビによる、でんしゃシリーズ三冊目。
 自由奔放、楽しくやりたい放題な世界が拡がります。
 いもむしでんしゃに乗るのは、浦島太郎からゲンゴロウまで、もう誰でもありです。
 そうそう、キャベツくんとブタヤマさんもいますよ。
 様々な駅で、乗客は降りていき、やがて、いもむしでんしゃはさなぎになって・・・・・・。
何とも言えず奇妙で楽しい世界です。(ひこ)

『でっこりぼっこり』(高畠那生 絵本館 2009)
 テーブルマウンテンってありますよね。頂上が平らで広い大地になっているやつ。ヴェルヌの『失われた世界』の舞台にもなりました。
 実はあれは地球の反対側で巨人が歩いて、地面がへこんだのが、ぼこっと飛び出たものなんです。
 てな、おおぼらを全面展開する、高畠の愉快きわまりない展開の絵本です。
 洗練とはほど遠いところで、ガンガン作っていて、心地いい限りです。この勢いで、これからもよろしくお願いします。(ひこ)
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 絵本を読むのはやめないで。

 絵本は卒業し、小説を読んでいるという人は多いと思います。でもちょっと待って。絵本は文と絵のコラボなので、長い文章を読むのはまだ苦手な小さな子どものために少なくて難しくない文を駆使した作品が多く制作されるのです。つまり絵本は、小さな子どもも読めるように作られているだけで、年齢の上限はありません。親に、絵本を読むのはそろそろ止めて小説を読んだらなんて言われたかもしれないけど、そんなのもったいない。絵本と小説は表現方法が全く別のものですから、どっちも読む方がずっと世界は広がります。
 今回ご紹介するのは、『死』(谷川俊太郎:文 かるべめぐみ:絵 大月書店)、『ママが いっちゃった…』(ルネ・ギシュー:文 オリヴィエ・タレック:絵 石津ちひろ:訳 あすなろ書房)、『エヴァはおねえちゃんのいない国で』(ティエリー・ロブレヒト:文 フィリップ・ホーセンズ:絵 野坂悦子:訳 くもん出版)。どれも人の死を扱っています。
 子ども向けで、そんなテーマを描くのはあり得ないから、きっと大人専用絵本なんだと想像されるかもしれません。でも違います。
 この三冊は祖父、母親、姉といった近親者の死と向かい合う子どもの姿を子ども読者に真っ直ぐに届けています。
 おじいちゃんを失ったことで人の死について考え始める孫。ママが亡くなってから、パパと二人何もする気になれず、ただ寄り添ってじっとしている子グマ。一人の子ども部屋は広すぎるとなげく妹。
 どれも明るい話ではありません。でも、主人公が大好きな人の死をどう受け入れていくかを描いていきますから、だた悲しいのではなく生きるのに前向きです。
 死は年齢に関係なく、誰の周辺でも起こります。それを子どもに隠すのではなくちゃんと伝えていこうとする作者たちの覚悟が素敵。(ひこ 読売新聞)

そのままの子ども

 登場願うのは自己主張の固まりのような子どもたちです。
 CGとコラージュで新しい質感を伝えた『ぜったい たべないからね』(ローレン・チャイルド:作 木坂涼:訳 フレーベル館)。ローラは、ありとあらゆる食材を食べないと主張しています。その目つきの憎たらしいこと! その横で兄のチャーリーくん、「栄養があるから食べてみて」なんて言いません。妹のわがままを叱ったりもしません。でも、あれれ、いつのまにか……。『ぼくの、ぼくの、ぼくのー!』(マイク・リース:文 デイビット・キャトロウ:絵 ふしみみさを:訳 ポプラ社)のエドワードは、妹に自分のおもちゃをぜったいに貸さない最低な兄。彼の目つきも相当悪いです。おもちゃであふれる部屋はゴミためみたいです。最後は妹に貸してあげるけど、「きょうのところは、ね!」、だって。反省など全くしていません。『ほんとに ほんと』(ケス・グレイ:文 ニック・シャラット:絵 よしがみきょうた:訳 小峰書店)のデイジーちゃんは、人の良さそうなほほえみの女の子です。でも、親が出かけて子守のアンジェラがやってくると、飲み物はミルクではなくレモネードしか飲んではいけないのだとか、夜中まで起きていていいのだとか好き勝手。それが嘘なのはアンジェラにもわかっていますが、ニコニコ。親が帰ってきたら、いい子にしてましたよって、言ってくれるの。
 やんちゃやわがままな子どもが最後にはいい子になりましたではないのです。それは大人の望むこと。ここにいるのは、親近感あふれる子どもたち。「性格わるー」と笑いながら、一方で「わかるわかる、この気持ち」と共感できますよ。とても心地いい。
 これではがまんが足りない子どもになる! でも、そう怒る大人の方が、がまんが足りないのかもしれませんよ。(ひこ 読売新聞)

アフリカの昔話。

 翻訳絵本は欧米に偏りがちなのですが、最近それ以外の国の作品も次々と訳されています。
 ガーナの『かわいいサルマ』(ニキ・ダリー:作 さくまゆみこ:訳 光村教育図書)は「赤頭巾」に似た話。サルマは市場へ買い物に出かけます。帰り道、犬が荷物を持ってあげるというので渡します。犬はサルマを追い払い彼女になりすましておばあちゃんに家へ。でもここからが違います。サルマは犬をやっつけておばあちゃんを助け出すのです。実は「赤頭巾」も女の子が弱く描かれるのはペロー辺りからで、それまでは自力で逃げたりします。水彩画は犬も含めてなんともユーモラスで、そのおおらかさが楽しいです。
 『いちばんのなかよしータンザニアのおはなし』(ジョン・キカラ・作 さくまゆみこ・訳 アートン)。ネズミは村で唯一火をおこすことが出来て働き者。友人のゾウは働くのが好きではありません。ゾウはネズミの作物を預かるのですが、飢饉の時にそれを返しません。失望したネズミは村を去りますが……。キカラの絵は甘くもかわらしくもなく、これまであまり見たことがないタッチです。
 『歌う悪霊』(ナセル・ケミル:ぶん エムル・オルン:え カンゾウ・シマダ:やく 小峰書店)ははチュニジアの作家による、サハラ砂漠近郊の話です。悪霊が住むという荒れ野を開墾した貧しい一家。現れた悪霊は「手伝ってやる」というのですが、その見返りは? 一見救いのない物語なので驚かれるでしょう。でも、元々の昔話は、過酷な自然や人間関係の複雑さを大人向けに語ったものです。それが近代になって、安全に書き換えて子ども部屋に下げ渡されたのです。絵は、色合いも含めてまあ怖いこと。
 あまりなじみのない国の絵本は、文化を知る貴重な入り口です。(ひこ 読売新聞)


戦争の絵本

 今回は戦争の悲惨さを訴えるのではなく、「戦争とは何か?」を、子ども自身が考えるきっかけを提供しようとしている絵本です。
 『ちいさな へいたい』(パウル・ヴェルレプト:作 野坂悦子:訳 朔北社)は、男が徴兵され、戦場で仲間が死に、元の日常生活に戻るまでを淡々と描きます。彼は子どもの姿をしていますが、それは一度戦争が始まると人はいかに無力かを表しています。マンガに近い画風と緑を主とした色彩ですので、戦争の悲惨さはさほど感じられません。しかしだからこそ、戦争は簡単に起こってしまう怖さが伝わってきます。
 『戦争が終わっても ぼくの出会ったリベリアの子どもたち』(高橋邦典:写真・文 ポプラ社)は、リベリア内戦後の子どもたちをカメラに収めています。子どもが武器を取り、人を殺しました。元兵士であった子どもの虚ろで悲しみにあふれた眼からは、戦争が何を引き起こしてしまうかが、静かに熱く伝わってきます。どうか、この子たちの表情をしっかりと受け止めてあげてください。
 『むこう岸には』(マルタ・カラスコ:作 宇野和美:訳 ほるぷ出版)では、戦争は全く描かれません。少女はむこう岸に暮らす他民族の悪口を大人から聞かされ、絶対に川を渡ってはいけないと言われています。ある日むこう岸から少年が手を振りました。少女もそれに応えます。こうして秘密の交際は始まり、少女は川を渡り、彼らが自分たちとなにも変わらない人々であることを知ります。もちろんそれで両民族が打ち解け合うなどという甘い結末は描かれていません。それでも戦争を回避するための、もっとも遠いようでいて、もっとも近い方法が子ども読者にもわかりやすく示されています。テーマは深いですが、絵は爽やかで日向ぼっこようです。(ひこ 読売新聞)
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読書人二〇〇九年年末回顧
まず絵本。
一人の女の子とその家に住む一匹の女の子ネズミを左右のページに画き分けながら、彼女たちの成長、友情、そして何より時間について語った『ないしょの おともだち』(ビバリー・ドノフリオ:文 バーバラ・マクリントック:絵 福本友美子:訳 ほるぷ出版)。鼻から脚がでただけの「はなおとこ」のアイデンティティ探しの『はなおとこ』(ヴィヴィアン・シュワルツ:作 はむらひろし:訳 ジョエル・スチュアート:絵 偕成社)。子どもが恐竜に出会うのではなく、恐竜が子どもに出会う展開で、子ども読者に「子ども」を見せていく『ドラゴンもりの ふしぎなともだち』((ティモシー・ナップマン:作 グウェン・ミルウォード:絵 原京子:訳 ポプラ社)。徴兵されていく大人を子どもの姿で描きながら、戦争の不安を伝える『ちいさな へいたい』(パウル・ヴェルレプト:作 野坂悦子:訳 朔北社)。これら、子ども読者が自分や社会を普段とは別の角度から見つめ直すきっかけとなる作品が印象的でした。他に、『しかめっつら あかちゃん』(テイト・ペティ:文 ジョージ・バーケット:絵 木坂涼:訳 ほるぷ出版)、『空の飛びかた』(ゼバスティアン・メッシェンモーザー:昨 関口裕昭:訳 光村教育図書)、『むかしむかし とらとねこは・・・』(大島英太郎:文・絵 福音館)、『チョキチョキおじさん きょうりゅう王国』(まつおか たつひで 岩崎書店)、『ねこガム』(きむらよしお:作 教育画劇)がすてきです。
児童文学では、ファンタジー一辺倒が終わり、リアリズムとのバランスが良くなってきました。最近自殺したクラスメイトから送られてきた七本のカセットテープには何故彼女が自殺するに至ったかが語られていて、主人公もまたそのきっかけの一人だという『13の理由』(ジェイ・アッシャー:著 武富博子:訳 講談社)は、相手の側から見れば同じ物事も違って見えること、傷つける場合もあることを、丁寧に示していきます。『天井に星の輝く』(ヨハンナ・ティディル:作 佐伯愛子:訳 白水社)は、がん治療で苦しむ母親の世話をしているイェンナの、だからといってないわけではない青春の日々、心の揺れを細かく正確に描いていきます。どちらも読者の子ども自身にとって他人事ではないハードな物語です。『靴を売るシンデレラ』(ジョーン・バウワー:作 灰島かり:訳 小学館)は、邦題の通り、一見女の子のシンデレラストーリーですが、それを楽しく読ませながら、主人公の抱えているアルコール中毒の父親への愛憎とその克服の過程が、巧みに織り込まれています。『園芸少年』(魚住直子 講談社)は、園芸部とは何のつながりもなさそうな三人が、それぞれの事情を抱えながら部活動を行う姿を描きます。これらは文学がもっとも表現に長けている、心の複雑な動きを追う必要のある主題を扱っています。『アーサー王ここに眠る』(フィリップ・リーヴ:作 井辻朱美:訳 東京創元社)は、詩によってアーサーの伝説を作り上げていくマーリン(この作品ではミルディン)の姿を通して、物語の生成現場へと物語が誘う仕掛けが、物語の楽しさと怖さを伝えてくれました。
 子どもが最初に文学に触れるという意味で幼年文学はとても重要なのですが、幼い子どもへの大人の幻想故かずっと変わらない子ども観の作品が多い中、『ハンスぼうやの国』(バルブロ・リンドグレーン:文 エヴァ・エリクソン:絵 木村由利子:訳 あすなろ書房)と『椿先生、出番です!』(花形みつる:作 さげさかのりこ:絵 理論社)は新しい可能性を見せてくれました。
 今年一番笑わせてくれたのは、『ならくんとかまくらくん』(村上しいこ:作 青山友美:絵 文研出版)。初笑いにいかがでしょうか?(ひこ)

【詩集】
『ami』(平岡あみ・詩+宇野亜喜良・絵 ビリケン出版 2009)
 別に十五歳を売りにしなくてもいいのですが、十五歳の言葉です。
 二十歳も過ぎれば、誰も年齢でその詩を測ることはしないのですが、十代はどうしても、その代表の言葉のように解釈されてしまいます。
 たとえば尾崎豊はそうした視線から最後まで逃げ切ることはできませんでした。晩年のコンサートでの「十七歳の地図」や「卒業」や「15の夜」を歌っている姿や、MCは、自分が「十代の代弁者」であらねばならなかったこと、まだあらねばならぬのかへの苦渋に満ちていて、見ているのも辛いほどです。
 従って、平岡の詩集もこの詩人の単なる十五歳という地点での言葉として眺めたいです。すると、ここに記されてる言葉は、才気あるものでも大人びているのでも、幼いわけでもなく(幼さを装っていることはあっても)、平岡がここまで生きてきた中で摂取し、咀嚼したものが言葉の形をとってそのまま吐き出されているような印象を受けます。
そこに新しい発見があるわけでも、新しい視点があるわけでもなく、ごくごく普通の言葉があります。
年齢も立ち位置も違いますが、たとえば吉本隆明や谷川俊太郎や友部正人や俵万智などは、その最初の言葉において、私たちを知らなかった世界へと、もはやそこからは戻れない世界へと誘ってくれたのですが、平岡の場合そうした驚きはありません。
と書いたからと言って、それがつまらないと述べたいのではなくむしろ逆で、もう少しひねりたいであろうに、才気走って見せたいであろうに、そうはしない寸止め的姿勢は、貴重です。言い方を変えれば、これは子どもの詩集ではなく、子ども読者のための詩集としてとても優れています。
今後、どんどん技法も身について、巧みになる可能性もありますが、それは見せず、このシンプルなまま、20代、30代、40代と言葉を吐いて行ってくれれば、人々がとても助かる詩人となるでしょう。
ジョン・レノンがそうであったように。

ただし、そうした才能を宇野が活かしているとは思えません。宇野は宇野の少女を描いているだけで、平岡のせっかくのプレーンな詩を、宇野カラーに染めてしまっています。
宇野の画風が元々、テキストにさほど寄り添わない、自分の世界を見せるタイプのもの(たとえば、「シンデレラ」も「灰かぶり」も一緒)ですから、要求しても無理なのですが。
従って、宇野と組みあわせたのがミスだと思います。
種村弘が解説を書いているのですが、「少女のなかに老女や幼女が同居しているような」といった評価の仕方も、凡庸と言えばそれまでですが、やれやれですね。(ひこ)

【歴史】
『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』ハワード・ジン著 鳥見真生訳 あすなろ書房 2009年
アメリカ大陸を発見したコロンブス、奴隷解放の父と呼ばれる第16代大統領エイブラハム・リンカーン、ノーベル平和賞を受賞した第26代大統領セオドア・ローズベルト。アメリカ史を飾る偉人たちの名は、アメリカのみならず、日本でもよく知られている。今も昔も、子どもに人気の伝記シリーズには、ほぼ必ず彼らの名前が入っているほどだ。しかし、そんな英雄たちの偉業に、別の角度から光を当て、疑問を突きつけたのが、本書『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』だ。
 本書は、国際政治学者ハワード・ジンが1980年に出版した『民衆のアメリカ史』を、2006年のジョージ・ブッシュ政権の二期目まで「内容をアップデート」し、若い世代を含めた幅広い読者に読めるよう、編集しなおしたものである。『民衆のアメリカ史』は、出版当初から注目を集め、教科書に代わるテキストとして使う高校や大学が続出し、百万部突破を記念した朗読会には、カート・ヴォネガットやアリス・ウォーカーをはじめとした多数の作家やダニー・グローヴァーなど俳優らが参加した。
 本書がこれほどまでに大きな反響を呼んだのは、著者ジンが、アメリカの歴史を有色人種、女性、労働者、貧困層といった弱者の立場から読み直したからだ。コロンブスのアメリカ"発見"は、"インディアン"の虐殺と、白人による領土拡大の始まりであり、それに伴う労働力の不足を補うためにアフリカから黒人を奴隷として連れてきたことが、その後アメリカ社会をゆがめ、蝕み続ける人種差別問題の発端となった。
ジンは、「建国の父」と崇められるアメリカ合衆国独立宣言に署名した指導者たちの三分の二以上がイギリス統治下の植民地政府の役人であり、「すでに定着している秩序をあまりかき回されたくない」特権階級であったことを暴き、リンカーンの関心が、奴隷解放よりも南部諸州の合衆国への再編入にあったことを示唆し、セオドア・ローズベルトを「革新主義者を装った(中略)権力と資産の現状維持ばかりを気にかけている保守派」と呼ぶ。これまで"学校で教えてきた"歴史を、体制維持派とそれに挑む者という構図を中心にすえて読み直し、"学校では教えてくれない"アメリカ史を提示するのだ。
『民衆のアメリカ史』が出た当初、一部には、敗者としての弱者ばかりに焦点が当てられていることに対する批判もあった。しかし、ジンは、"弱者"たちが虐げられるばかりではなく、あるときは武器を手にして戦い、またあるときは平和的な方法で抵抗し、抗議を続けてきたことを、力強い筆で描いている。本書は惜しいことに2006年の中間選挙での民主党の勝利で終わっているが、その後、アメリカは初となるアフリカ系大統領を誕生させた。バラク・オバマ大統領の就任は、まさに、ジンの描くアメリカの底力を感じさせる象徴的な出来事と言える。
よくも悪くもアメリカの多大な影響を受けてきた日本人にとっても、アメリカという国を、今一度、冷静に眺めることはとても重要だろう。若い読者を意識して書かれた本書は、アメリカの約500年の歴史を一望するテキストとしても優れているし、多元的な視点を養うという点でも恰好の本だ。「純粋な事実というものは存在しない」とジンは書いている。「学校の教師や作家が世界にさし出すあらゆる事実の陰には、判断がある」と。大量の情報があふれる現代、特に若い世代には、事実の陰にある「判断」まで見通せる力を培ってほしい。親子で読んでみるのはいかがだろうか。
(三辺律子 JBPress掲載分)
【研究書】
『グリムのメルヒェンと明治期教育学-童話・児童文学の原点』(中山淳子 臨川書店 2009)
 日本でのグリム受容が、明治政府が教員養成学校の授業に採択したドイツの教育学から始まったことを指摘した書物。小学一年生にはグリムから選び、教育用に描き直した十数編の昔話を使って国語はもとより社会から理科まで、世界の有り様を教える(二年生は『ロビンソン・クルーソー』)教授法がドイツのある学派で生まれ(ルソーの影響を受けている)、日本は国家帰属意識を植え付ける(最初はイギリスのものを使う予定だったが、リベラルなので不採用)に最適な方法(帰国した森倫太郎も支持)としてそれが選ばれる。そのため、グリムは子ども向けの昔話として日本では受け止められ、教育界を通じて広がっていく。と同時にそれは日本での子どもの物語の始まりを促します。日本の子どもには日本の昔話を書き直して・・・。巌谷小波が登場します。
 この辺りを学ぶ人のための、これからの基本書です。(ひこ)

『大正期の絵本・絵雑誌の研究』(三宅興子・香曽我部秀幸:編 翰林書房 2009)
 こちらも、個人蔵の貴重な資料をまとめてくれました。特に、絵雑誌なんかは、公共ではなく、それを好きで集め、残しておく欲望を持っている個人でしか残せないものですから、本当にありがたいです。
 三宅興子・香曽我部秀幸の仕事を、次の世代の研究者が活かしてくださいますように!(ひこ)