2009.04.25

       
絵本と本読みのつれづれ No.19    2009.05 鈴木宏枝
Tさん(6歳11ヶ月) Mくん(4歳3ヶ月)

 桜の花咲く4月。Tさんは無事にピカピカの1年生になった。
 ふりかえれば、Tさんは年長のあいだも実によく本を読んでいた。幼年童話を図書館で15冊借りてくれば1日で読んでしまい、家にある本も繰り返し読む。栞をはさむことを覚えたけれど、とにかく何でもかんでもはさむので、夜に見てみると、いろいろな本にわりばしがはさんであったり、はさみがはさんであったり。といって、前に読んだところにこだわるわけではなく、さりげなくはずしておくと、別に気づかないふうに最初から読んでいる。むしろ、「読み終わり」のしるしなのかもしれないと、その日の読書の名残をおもしろく眺めることが多い。
 ご高著をご恵贈くださる末吉暁子さんのご本から、学校モノの楽しさにめざめたのは、昨年の秋くらいだっただろうか。ブックガイドの仕事のために、私が図書館から借りてくる本は、家族や動物のお話が多かったのだが、あるとき「Tちゃんはね、やまんば小学校やポークストリート小学校みたいな、がっこうのお話がいいんだけど」と言われて、そこにいろんなシリーズを混ぜるようにしてみた。
 ポークストリート小学校のシリーズも、刊行時から、お出かけのときにカバンに入れていくほど繰り返し楽しんできた。今年の1月に第2期として6冊目以降が刊行されはじめて、私も小躍り。楽しんで読み続けられるシリーズがオンゴーイングで出るというのは、とっても幸せなことだと思う。同じ「シリーズの楽しみ」としては「ぞくぞく村」も好きで、昨年のハロウィーンに末吉さんが横浜で公演された「ぞくぞく村のゾンビのビショビショ」を見て以来、さらに親しんでいた。数年前に「国際子どもの日」イベントで見た「グースーピー」らとともに、ぞくぞく村のおばけたちにはとても親しみを持ったようで、以降、刊行されている分はあっという間に読破した。
 学校シリーズは、近所の公共図書館で検索をかけて出てきたものをとりあえず片っぱしから借りてみた。ジル・マーフィーの魔女学校。戸田和代さんのおばけがっこう。石井睦美さんのすみれちゃん。少し毛色が違うが、手島佑介さんのかぎばあさんも、一作目はとても気に入っていた。何度も読んでいたのは、人気の「ますだくん」シリーズだっただろうか。漫画風のコマ割りも新鮮だったようで、最初に読んだ『ますだくんとランドセル』にまずはまっていた。赤いランドセルをしょって元気に登校するますだくんの元気っぷりと正義漢なところは、私がすっかりファンなのだが、さすがに、Tさんにはまだその機微は分からないらしい。『となりのせきのますだくん』では、「Tちゃんの小学校には、ますだくんみたいないたずらっこがいないといいなあ」と心配そうだった。
 年長の秋から卒園まで、Tさんは年長児らしい小学校生活への憧れがあって、ファンタジーを読むように楽しんでいた。卒園、入学式と過ぎ、すっかり一年生になった今は、逆に学校モノにはまるというよりは、まんべんなく読書を楽しんでいる。やがて今度は、自分の学校とは違う学校への興味から学校シリーズのさまざまを楽しんでいくのに違いない。そういえば、前にはぴんときていないようだった『とてもすてきなわたしの学校』も、いつの間にか、表紙を見せて並べられるほうの本棚にしっかり移動してきていた。
 Tさんの通う「とてもすてきなわたしの学校」は、学校図書館がとても充実している。1年生は当初、1回に1冊までだ。最初に借りてきたのは絵本の『ちいさいヨット』で、次の日が『ばらになった王子』だった。3日目に、少し長めの『スパゲッティがたべたいよー』になり、『みみちゃんのぬいぐるみ』のあと、ついに『かいけつゾロリのチョコレートじょう』『かいけつゾロリのきょうふのゆうえんち』が登場した。「かいけつゾロリかあ、これは1年生に人気があるんだよ」と言うと、「先生もそう言ってたよ」とのこと。このままはまるのか、はまらないのか、まもなく、1年生も2冊借りられるようになると、『とかいのねずみミリーのけっこん』と『忍たま乱太郎』を借りてきた。ゾロリは2冊で十分なのか。
 いずれにせよ、Tさんが自宅の本棚と地元図書館からさらにはばたいて、学校図書館で思う存分本の世界を楽しみはじめたのはうれしいことである。学校で渡された読書カードは、一年生の場合、字の感想ではなく、10センチ四方ほどの枠の中に、読後好きなように絵を書くものである。「おもしろかった」とか「〜みたいになりたいとおもった」といった定型以前の「絵」の感想は味がある。
 絵本では、最近、『ブルーベリーもりでのプッテのぼうけん』を気に入って、いく晩か続けて持ってきた。Tさんはベスコフの絵本もずっと好きなのだが、なにしろ長いので、寝る前に読むには私が大変…。というわけで、その日の気分もさることながら、読む私のことも気遣って、時に短めの絵本を持ってくる。クロドリのいさましい『ランパンパン』。私自身は主人公にどうも肩入れできない『わんぱくすずめのチック』。Mくんと一緒にケラケラ笑っている『そらはだかんぼ』。昨日は、例の『忍たま乱太郎』をわざとゆっくり読んでみたら、「お母さん、詩みたいに読んでるね」と言われた。

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 Mくんは、絵本エイジのただなかにいるのだが、Tさんのときほど熱意をもって読んであげていないのが申し訳ない限りである。それでも、絵本じたいは大好きで、読めなくてもよく眺めている。Tさんは、何度も読んでもらい、お話をそらで覚えている絵本を見ていたのだが、Mくんは、ストーリーが分からないのに真剣だ。そっと近づいて読んであげると、本当にうれしそうな顔で見上げるので、さらに申し訳ないような気持ちになる。
 この前、ソファで見ていたのは、届いたばかりの「ちいさなかがくのとも」の『たんぼのぎょうれつ』だった。途中のページが開いていたので「みんな まっています……」と読み始めると、「ひとつめからよ」(=1ページ目から)と嬉々として最初に戻って、私が読みやすいように傾ける。「タカタカタカタカ……」。トラクターの音から始まる、春の田おこしの絵本は私もおもしろく、むしろ、買いっぱなしで、Tさんは一人で読むにまかせ、肝心のMくんにはきちんと読んであげていなかったことを反省した。3歳前にはひらがなを読み始めたTさんに対し、Mくんはまったく字を覚えようとする気配がなく、そういう子なら特段、私からも教えこもうとも思わないので、Tさんに比べてずいぶん長く、音声の世界にいるなあと思う。そして、そのことをもっと大切にしないといけないのだけれど。
 「寝る前の一冊」に持ってくるのは、電車好きだけあって、ある時期から今まで、「月間かがくのとも」の『やまをこえるてつどう』が多い。2008年6月号だから、かれこれ10ヶ月もお気に入りである。実在する九州のJR肥薩線。山を越えていく鉄道を始発から終点まで追いかけていく絵本である。トンネルやカーブだけでなく、ループ線やスイッチバックなどまで知ることができて、細かい描写の絵は臨場感がたっぷりだ。終わり近くに見開きの地図があり、「ふもとのえき」から「となりまちのえき」まで線路をたどることができるのだが、いつも、MくんとTさん二人で競い合うように「こうきて、こうきて、こういって…」と指でたどっていく。「ループせん」のところではきちんと指でぐるりん。先日、将来の夢を聞いたら「りっぱなせんろ。○○先生(幼稚園の先生)はふみきり」と言ったMくん。ぜひまっとうしてもらいたい。今日は今日で、駅で無料でもらったという東急の分厚い時刻表の本を、まるで学生のように小脇に抱えていてほほえましかった。
 電車の絵本以外では、3月に多治見の「Book Galleryトムの庭」に行ったときに、本人の希望で『アンジェリーナ バレリーナになる』を買ってあげたのが印象的だ。このときは、絵本についての講演をさせていただき、その中で『アンジェリーナとハロウィーン』を紹介し、その流れで2人が目を留めたようである。帰京してからは、やはり、MくんよりもTさんのほうがちゃんと読んでいたのはご愛嬌だが、トムの庭の素敵な店内で、「これ買って」とピンクの絵本を抱えてきたMくんの様子は忘れられない。
 Mくんならではの出会いもある。Tさんのときには全然食いつきがよくなかったうさこちゃんのシリーズ。春休み、本棚にできた空きスペースに、納戸に入れていた絵本を置きなおした。たまたまTさんがいなかったときだったので、Mくんと二人でうさこちゃんを運んできてずらりと並べてみた。「読んであげようか?」というと「別にいい」という返事。「まあ、そういわずに……。これは、Mくんと同じ、ようちえんのお話よ」と『うさこちゃんとようちえん』を読んであげると、がぜん目がキラキラしてお話に入り込み、「もう1回」。もう1回読んで、さらに『うさこちゃんとうみ』も読むとこれも気に入った。その晩、寝る前に「ぼく、えっさえっさって持ってきたでしょう、ようちえんの絵本」と満足げだったのをよく覚えている。Tさんにはない形で、こんな風にうさこちゃんと出会えるのも、しみじみ幸せなことである。

(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ )
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おすすめ本(7)「年の差」本
 ご無沙汰しております。令丈ヒロ子です。
ちょっと忙しくしておりまして、気がついたら前回の「おすすめ本」から、一年も!たっておりました。
まことに申し訳ございません。ギャラが出ない原稿というものは、こんなにも締め切りを、記憶の底に奥深く沈めてしまうものなのですね。
……そうですか、はい、それは私だけですね……。ほかの先生方は毎月書いておられますものね……。

 言い訳はこれまでにして(言い訳にもなっていないですが)今回の特集はなんでしたっけ?あ、そうそう。年の差特集でした。
「愛があれば年の差なんて」という言葉は、死語化し、たまに使われてもギャグとして……。そんな昨今ではありますが、あえて取り上げてみました。
わたしはなぜか昔から「うんと年の差がある二人が仲良くなる」お話が好きです。で、それを児童書でさがしてみました。

 直球だなー、しかしなんて重い、そしてすがすがしい球だ!!と思ったのは、
「わたしの好きな人」講談社、刊・八束澄子、作。
十二歳の女の子が年上の男の人を好きになるお話といえば、「女子の大人へのあこがれが妄想により、うんと膨らんだ」ような、現実には受け入れられないような想いが描かれることが多いです。そうでなければ、ロリータのかおりがただようものか。それがどっちも重なったものか。
このお話のすごいのは、そのどっちにも頼っていません。
そしてこのお話の真ん中を貫いているのは「背伸びした少女の気持ち」ではなく、「女の気持ち」がばっちり描かれていることなのです。
ここで描かれている、主人公さやかの「女の気持ち」というのは、きっと十二歳の少女にも、二十代、三十代であろうとも、いや還暦をすぎた女性でも、きっと心に一生存在する、普遍的なものだと思います。
しかも、さらにすごい思ったのは、「女の気持ち」というと、嫉妬や妄想、執着心など、マイナスイメージの部分が増幅して描かれることが多いんですが、これは「女の気持ち」の良いところも、みごとに描かれているのです。
主人公さやかは、好きな男「杉田」にいろいろ許せないことやいやなことがあっても、いつも自分を見ていてくれたら、もうそれだけで、うれしくなってしまう。
そしてそのことが、はじめはただ、ほめられるとうれしい!だけで、恋にロマンチックを求めていた少女をみるみる成長させます。
「杉田はわたしの太陽だ。わたしという木の幹を太らせ、根をはらせ、葉っぱの先まで光らせてくれる。」
ううーん。すてきだ。
さやかは、杉田という男の存在自体に感謝するようになるんですね。彼が自分の恋人でもない、片思いの相手なんだけど、純粋な恋だけに、「男女関係の本質の一端」をつかんじゃうんですね。
主人公が大人の男女だと、ストレートにこうは思えないでしょうし、そんなお話は読んでもリアルを感じないでしょう。さやかが十二歳であり、杉田が大人の男だから、これが直球で描けるんだなと思います。また幼いころから杉田が住み込み従業員として家にいて、さやかの父ともに小さな工場をささえる、家族みたいな存在だったから、(そしてさやかの母はいない)という設定のうまさもあります。
「ああ、年が離れているってもどかしい。杉田の心がまったく読めない。ただただ不安で、ただただ無力な自分がはがゆくてしかたがなかった。わたしは早く大きくなりたかった。大きくなって杉田の悲しみや涙の意味を理解できるようになりたい。そしてそれを体ごと受けとめてあげられる女性になりたい。心の底からそう願った。」
この文章の「年」のところを、好きな言葉に置き換えてください。「距離」とか「経済力」とか「育った環境」とか「国」とか?相手がイケメンすぎたら「容貌の差」で?年の差だけでなく人は本気で好きになったら、まじめにこう悩む。
そのほか、女が急場に立たされると陥りやすいパニック状態とか、だれかを責めたくなって、本当に責めたおしてしまうところとか、好きな男がうそをついているのを、女の勘で見抜いているけど、その場はだまっているところとか。「これこれ、女ってこう!」と、いうシーンも随所にちりばめられていて、つい笑ってしまいます。こういうところがお話がうそ臭くなく、深刻になりすぎず、温かいんですね。血が通っている感じがします。
八束さんの描かれた、幼なじみの男の子に恋する少女の話も読んだんですが、主人公の女の子が好きになるのは、どこか杉田に似た、まじめで不器用そうで、かっこよすぎない、リアルによい男の子でした。
さやかと杉田の恋の結末は、本を読んでください。もったいなくてここでは書けません。

 すっごい年の差です。男、バビロン150歳。女、ララ10歳。
「ファンム・アレース」講談社、刊・香月日輪、作。
現在二巻まで出ていますがなかなか三巻目が出ません。「妖怪アパートの幽雅な日常」シリーズが十巻で完結したばかりだし、「大江戸かわら版」シリーズも継続中だから、「ファンム」ファンとしては、なかなか順番が回ってこないのがもどかしいです。
革命で国が崩壊し、「約束の地」を目指し単身で旅する王女ララは、栗色の髪にばら色のほほの、かわいーい美少女。
だが、滅亡した王家の恐ろしい歴史、呪われた血筋を背負う彼女は並みの性格ではありません。腕の立つ用心棒を欲した彼女は、三つ眼の剣豪バビロンに目をつけ、色っぽい猫眼のおねえさんを使って、色香と酒でだまくらかして契約書に「血のサイン」をさせます。
その契約は、魔術によるもの。雇い主、王女ララを「約束の地」まで護衛すること。そむけば命がなくなること。蝙蝠の皮の契約書にはそう書かれていて、バビロンは「血のエンゲージリング」をさせられます。
しかも「最悪、あのおねえさんだったら契約で下僕になってもいい」と思ったそのセクシーな猫眼のおねえさんは、齢300歳の魔女だったということを知り、バビロンは完全にハメられたことを知ります。
「かわいくねえこのガキと、いったいいつまで付き合えばいいんだ」
バビロンはそう思いますが……。
これがまあ、いろいろあるんですね。もちろん恋が生まれます。
しかしこの恋は140歳の年の差と、王女と流れ者という身分の差、それから彼女が彼の命を握っている雇い主という関係でありますから「好きだ嫌いだ」が通りません。男女としてふつうに恋することもできないなら、別れようとしたら彼女に殺されちゃうわけですから、もう「禁則だらけの抜け道なし」の二人なんです。
こういう中で生まれる恋は、ともに旅する同士としても友情や、まっとうに生きたくても生きられない異種同士(バビロンは実は人ではなく水竜の子であった)としての共感、彼女のときおり見せるふつうの女の子っぽいところや、はっと息を呑むほど美しい姿……なんかもありますが……。
ララが背負うのが「過酷な運命を独りで生きる宿命」なら、「その宿命を分かち合うのが俺の宿命」と、バビロンが悟るのです。
「俺たちはきっと、生きるのも死ぬのも……一緒なんだよ」
バビロンの言葉に、ララは思い切り泣き、国を出て以来初めてぐっすりと眠ることができます。
この宿命の絆の前の熱さには、年の差もなにもみな、淡雪みたいに溶けてしまいますし、「それがどうした?」という気持ちになってしまいます。ここ。障壁となっていた年の差がさーっと消えていくこの瞬間が「年の差モノ」のダイゴ味ですね。
そこもいいんですがほかにもですね。子供連れのならず者をいぶかしがる宿屋の主人に「わしはこう見えても十五。その者はそう見えても二十。今、新婚旅行の最中でな」とぬけぬけと言うララに動揺するバビロン。そう言いながらも、ものすごい凶悪な相手との戦いの最中に「新婚旅行の途中なんだ」とギャグを言うバビロン。「後ろ髪を梳いてくれ」と命令されて、ララの髪をブラシでといてやるうち、あまりに美しいその髪に高揚感が過ぎて意識が飛びそうになるバビロンなど。年の差愛好家にはたまりません。
香月さんは、どうも「年の差愛」だけでなく「あらゆる差を越えた愛」を描くのが上手です。
「大江戸妖怪かわら版・封印の娘」理論社・刊では人食い鬼の雪消さんに、雀少年がほのかに恋心をいだくシーンがあるんですがこれまた良いんですね。
雀に自分が白鬼だと言う、雪消さん。小さいころ、よく遊んだ子がいて、その子のことが好きだった雪消さんは、その子を喰いたくなって喰ってしまった。それ以来、座敷牢に入れられているということを、淡々と語る。
その話を聞いて、雀は冷や汗をたれながら(化け物がいる)と、思う。しかしこうも思う。
(だけど……なんて綺麗な化け物なんだろう)
雀少年は透明な宝石のような、雪消の存在そのものに「美」を感じます。ううーん。雀がふだん活発で一見健全っぽく描かれているだけに、ここのところがいっそう官能的だなあ。
「ファンム」シリーズもいいですが、「かわら版」シリーズもおすすめです。ここちらは現在「異界から落ち来るものあり(上)(下)」「封印の娘」「天空の竜宮城」理論社より四冊出ています。こちらもシリーズ現在、継続中。

「ビビを見た!」大海赫(おおうみ・あかし)、作。
理論社から1974年に刊行されるも絶版になっていた作品です。「復刊ドットコム」での読者からの熱い復刊希望により、ブッキングから2004年に復刊。
七時間だけ目が見えるようになったホタル少年が見たのは、こぞって町を破壊する敵から避難しようとうごめき、ののしりあう人々の姿でした。おまけに、なぜだか、ホタル以外のすべての人の目が、見えなくなっていたのです。
敵がだれだかわからないまま、列車に乗って逃げ出すホタルの前に現れたのは四枚の薄い羽を持つ、五歳のビビというかわいい女の子でした。ホタルはこのビビと仲良くなるのですが……。
町を壊して大勢の死者を出している敵とは、ビビを求めてさまよう目の見えない大男だったのです。
ビビはホタルに「あいつね、すっごくわるいやつなの。あたいの羽をむしってね、たべようとしたの。」と大変怖がって涙さえ流して見せるのですが。これが実は、目の見えない大男はビビがいないと死んでしまうほど彼女を愛しているのです。
「おまえがいないとおれは死んでしまう!おれのかわいい子よう!でてきてくれえ!たのむ!」と、いうことだったのです。
ビビの羽をむしろうとしたのは、そうしないとビビがどこかに行ってしまうのではないかという不安からでした。ビビがどこにも行きさえしなければ、乱暴などしないというのです。
年の差とか、体の大きさの差もおおいにあるんですが、これはもう「男女の差」が鮮やかに描かれすぎ……としか言いようがありません。
「あの人とはもうやっていけないわ。だって勝手にメールを見るし、会社の飲み会に行くのもよせっていうのよ。束縛系は苦手よ。」
と女性に言われている男性のお気持ちを察して、泣けますね。
ホタルの目が見えている間に見せてやろうと、ビビは「ワカオ、海につれてって!」と大男に命令。この後、大男のワカオはいっさいビビに逆らいません。海に落ちたビビとホタルも親切に助けてやります。
しかし、ホタルは海を見てもかなしくなるだけで、海など見たくないと思います。船を見たいと思っていたのに、船など、どうでもいい気持ちになってしまう。もう、何を見たいのかもわからない。
そして、あと少しで目が見えなくなるというそのときに、ホタルは、はじめて、世界で一番きれいなものを見ます。
それは砂地に氷のような羽をべったりとよこたえた、若草色の、裸のビビでした。
ホタルは、なんてきれいなんだろう、なんてかわいいんだろう、とビビの姿を目にやきつけます。そしてこう思う。
「大男にも、見せてやりたい。いや、見せたくない。このビビを見たら、あいつは、ビビをぜったいにもう手ばなすものかと、こんどは、羽をぜんぶ、むしっちゃうだろう。」
時間が来て、ホタルの目は見えなくなります。同時に世界中の人々の目が見えるようになります。ホタルは、この上のない幸福感に包まれます。「ぼくだけが、ビビを見たんだ。」と思いながら。
あとがきで、大海さんは書かれています。
「ビビの意味は『美々』。この世で一番美しい、ある物です。しかし、それは、死を視点として物事を見つめない限り、誰の目からも隠されています。(中略)ホタルが『ぼくだけがビビを見た!』と言ったように、皆様もどうか、生きている内に、『美々』を見て、おなくなり下さい。」
「美々」は男性にとって女性のイメージの中に、見ることがあるのでしょう。またきっとそれは男性にとって「形」になりやすい「美々」なんでしょうね。
では女性にとっての「美々」は、どういう姿をしているのでしょうか?それって形にするのがとても難しいな、と思います。自分が男なら、きっと女性の形を想像しただろうと思うのですが……。
わたしが今までで一番大海さんのおっしゃる「美々」に近いものを感じたのは、病気でかなり五感が偏っていたときでした。それは病院の窓から見えた「煙突から絶え間なく流れ出る白い煙」でした。
すぐに風に吹き散らかされる煙は、人間の日々の営みから生まれたもので、しかし雲に似ています。その煙からいろんなことを考え、たくさんのイメージを感じたのですが、健康になったら煙なんか咳の原因で、うっとおしいぜ!ぐらいにしか思わなくなりました。
日々「美々」に出会っていても、その姿をはっきりとらえ目にやきつけられるのは「おなくなりになる」ちょっと前ぐらいかもしれませんね。

「十三歳の夏」。これも古い本です。
乙骨淑子、作・理論社、刊。もともとは1974年、あかね書房で刊行された作品です。年の差のある二人の関係が、描かれているのですがこのお話は同性同士。おばさんと姪っ子の関係が描かれています。
下町育ちの利恵が、鎌倉にひっそりと住む独身のおばさんと暮らすようになる話なのですが、お話の始まりがとってもいいんです。
十三歳の利恵はパチンコ屋や安売り衣料店、焼き鳥屋やラーメン屋が立ち並ぶ町に降り立ち「あずきのにえたつときのにおいがする」と思う。利恵は、こんなにおいがする町が、生き生きとしていて、好きなのです。
そして今すんでいる鎌倉の町や「あの人」(利恵のおばさんのことですが、終始こう呼ばれます)もまつたけの吸い物のにおいがすると思う。
利恵はモツの串焼きを一本買うと、立ち食いしながら、「こうやって食べるときの、たまらないほどおいしい味をあの人は知らないんだなあー。」と思う。
このあと、このおばさんと、利恵との生活や、二人がいっしょに暮らすようになったいきさつなどが、描かれるのですが、この匂いによる人物表現、それも初出の人物紹介にあたるところで「まつたけのすいもののにおい」にはもうびっくり。いろんなくだくだしい描写など、ぶっとぶような、すごい表現だと思いました。
あずきのにえたつようなにおいの町が好きで、一本三十円のモツの立ち食いがおいしくてたまらない女の子が、まつたけのすいものと、しっくりと合うわけがありません。もうここだけで、この二人がまったく気が合わなくて、好みも違って、この二人の女が一緒に暮らすにはさぞ骨が折れるでしょうなあと瞬間でわかります。
 紅茶は茶わんとポットをあたためないとおいしく飲めないと言う「あの人」。利恵に来た、男の子からの手紙の封を勝手にあける「あの人」。土曜は読書の時間にあてている「あの人」。そして夜中に鏡に、鏡の中の顔のしわを身じろぎもみたいにしないで見つめてため息をついている「あの人」。血がこおりついてしまったみたいに顔が動かない「あの人」。
 一方、首にあかがこびりついたみたいにたまっていて、「おふろでよく首筋を洗わないでしょう。」と言われて「ちがうわ。わたし首が黒いんだわ。顔よりも。」とおばをまっすぐに見て言う利恵。人の髪をいじるのが好きで「あの人」の髪もセットしてあげたいのだが、「あの人」の髪はいつもきちんと手入れされておい、はいりこむ余地がないと思う利恵。
「あの人は、なんで私をトイレットペーパーみたいにみるのかしら。ケシゴムやエンピツみたいにみるのかしら。(中略)ほんとうのあの人は別のところにいる。わたしは、あの人のぬけがらとお話しているのね。いっしょに暮らしているのね。ほんとうのあの人は、きっとどこかにいるのだわ。」
 二人の相容れない生活の中で、自分たちの中に同じものがあると利恵が初めて感じたのは、生理用のナプキンでした。出先のホテルで、急にそれが必要になって困ったあの人に、利恵はそれを届けました。
 そのときに、いままでとちがったものが利恵に「あの人」に感じられ、利恵自身も体のどこからともなくわきあがってくるその感じにとまどいます。
 その後、鎌倉にまっすぐ帰りたくない利恵は、また「あずきのにえたつにおいの町」に降り立ちます。そこには利恵を捨てた実の父親が住んでいるのです。利恵は父親と今暮らしている美容師のおばさんと、実に楽しくすごします。鎌倉に帰るのも「やーめた!」となるのですが。
 たまに帰ってくる父親と美容師のおばさんとの三人の暮らしは、利恵にとって「羽根布団になって、空を飛んでるみたい」と思うぐらい、居心地がよくて、でも「とろけちゃって、わたしがいなくなりそう」なのです。「おばさんのおもっていることがなんでもわかる。(中略)でも鎌倉のあの人はだめ。」なのに利恵は鎌倉の家に帰る決心をします。
「でもね、どうしてもだめだとはいいきれないのよ」「あの人は別のとことにいる―ただわたしにそれがみつからないだけ。あの人じゃないあの人しか、みていないのかもしれないって」
 利恵は自分と正反対にも思える、わからない人のもとに帰り、わかりあえるようにがんばる決心をするのです。
年の割には苦労の多い、考えることの多い、たくさん大事なものを失った経験がある利恵。人の苦労を思いやり、苦しいときでも気持ちを明るく切り替えて前に進める強さと柔軟性がある利恵。でもまだ十三歳の子どもです。
一方「あの人」であるおばさんは、白髪やしわの深い年齢の割には、子どものちょっとした言葉に傷ついたり、自分の決めたやり方を変えられなかったり。自分の気持ちも人の気持ちもどう受け入れていいかわからない、不器用な子どものような人。見方によってはこっちのほうが十三歳みたいです。
でも、大人なんですね。利恵の父親のように子どもを捨てたり、生活費を人に頼ったりするような無責任さはない。利恵というなじめそうにない子どもを、文句も言わずに真面目に引き取っています。また、利恵が父親のところに行きたいというのならそれを止めもしません。
きっと利恵は、「あの人」のまだ知らない部分を見て、わかるようになっていくとき、自分の知らない部分とも出会い、それを受け入れていくのでしょう。
その決心が自分でもなんだかよくわかっていないけど、それがきっと自分を大きく成長させてくれるものだと、本能的に感じて、太陽に向かって伸びる植物のように、そっちに向かっていく。
そういうのが十三歳なんだと、「十三歳みたいな大人」とは根本的にちがうところだと思いました。

長くなりました。今回はこれで。
ではまた。
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【絵本】
『ミニカーミュート だいかつやく!』(福田利之 アリス館 2009)
 子どもに見向きをされなくなった古いミニカーのミュートは、家を出て、動物園の引っ越しを手伝おうとしますが、キリンやゾウを運ぶのは無理。
 ミュートは、穴の中にはぐれた子ウサギたちを発見、彼らなら運べるぞ!
 といった、自立自信絵本です。
 描いた絵にコーヒーでぬらしたティッシュを貼り付けて風合いを出す変わった技法を使っていますが、ちょっとレトロな雰囲気を醸し出して、なかなかすてき。
 タイトルは、もう一ひねり。(ひこ)

『おせんべタクシー』(山崎克巳 偕成社 2009)
 タイトル、意味わからないでしょ?
 で、お話ももちろん意味がわからないまま会長に進んでいきます。
 空から大きなおせんべいが落ちてきて、少年がそれをバリバリとかじります。
 と、足が車輪に返信して、おせんべタクシーの変身!
 イヌやネコ、人間様々はお客さんを乗せて目的地へ運んでいきます。
 エネルギーはこのあせんべいですから、食べ終わると元の姿の少年は戻ります。
 ね、説明してもよくわからないし、きっとつまらないでしょ。
 でも、これが絵本を見ていると、スピード感あって、あほらしくて、いいんですよ。
 あらっぽく見せている絵のタッチもこの勢いに合っています。
 表紙はタイトル文字も含めて、もう一工夫ほしいです。というのは、本編とほぼ同じテンションなんですね。だから、開いたときに意外感が少ないのです。(ひこ)

『皇帝にもらった花のたね』(デミ:作・絵 武本佳奈絵:訳 徳間書店 2009)
 皇帝は世継ぎを決めるために、国中の子どもに種を渡します。それを上手に育てた者を次に王様にすると。
 ピンももらった種をそだてようとしますが、芽がでません。色々工夫しますが駄目。
 ついに約束の一年が過ぎました。子どもたちはりっぱな花を育てていますが、ピンは土だけです。
 落ち込んだままピンも王様の前に出て行くのですが・・・。
 中国の雰囲気たっぷりに、物語は読者の望む方向へちゃんと進んでいきます。
 もちろんだから、幸せな結末ですよ。(ひこ)

『っぽい』(ピーター・レイノルズ:ぶん・え なかがわちひろ:やく 主婦の友社 2009)
 『てん』で圧倒的支持を受けたレイノルズ新作です。
 今作も絵のお話。
 ラモンは絵が大好き。でもお兄ちゃんはちっとも似てないっていう。一度ラモンはやる気をなくすのですが、そんなの似ていなくても「っぽい」のでいいじゃない。
 絵は楽しんで描くもの。だいたい似てる絵なんてつまらない。
 という、きわめて正しい物語です。
 ただ、「っぽい」のでいいということを伝える方法が「っぽい」のりでなく、真っ当なのが、少し気がかりです。
 絵はもちろんすてき。(ひこ)

『のぞいてごらん』(accototo ふくだとしお+あきこ イートン・プレス 2009)
 穴あき絵本ですから、タイトルもそのまんま。それがいいですね。
 穴が開いていて、何かがのぞけて見えて、ページを繰るとそれがわかる。
 それでいいと思います。細工はこれくらいの方が。
 ただ気になったのは、潜水艦やロケットなんかのイメージが古すぎないかということです。(ひこ)

『ころころまるちゃん きえちゃった』(さく・え La ZOO 教育画劇)
 こちらも穴あき絵本です。同じ作者の『ころころまるちゃん どこ』『ころころまるちゃん みつけた』の続編。
 『のぞいてごらん』とは逆ヴァージョンで、最初の画面では穴の向こうも画面の一部、たとえばライオンの鼻のようの見えていたのが、ページを繰ると、ただの丸(ころころまるちゃん)になり、次のページでは、また穴の向こうに見え、その次のページでオスライオンのたてがみに消えます。
 非常に凝った作品ですが、物の有り様を巧く伝えていて、とてもいい仕上がりです。
 『でてきた』も良いですが、こっちがいいかな。
 いや、やはりこれは、二冊同時に楽しむのが吉。
 可能なら同時に借りて(買って)ください。
 『どこ』『みつけた』よりレベルアップしているのがうれしいですね。(ひこ)

『ありがとう』(石津ちひろ:作 メグ ホソキ:絵 イースト・プレス 2009)
 「はなのなまえを おしえてくれて ありがとう」「いっぱい びっくりさせてくれて ありがとう」。
 人生の様々な「ありがとう」をメグ ホソキの素朴な味わいの絵に添えて贈る絵本。
 癒し系ですが、子どもへの「ありがとう」を思い起こすきっかけとなれば、大人絵本として成立しますね。(ひこ)

『どんなおと?』(tupera tupera:さく 教育画劇 2009)
 歯磨きするおと、雨の音、様々な音に耳を傾けようよ、という絵本です。
 「たいようがふっとんだら どんな おと」なんてのもあって、想像して音をイメージすることも考えられています。
 音の耳を傾けるのは大賛成ですが、それらが断片的で、一発芸のようで、全体が見えてきません。
 それが意図なのかなあ?
 また、表紙に採用されたゾウと人間がおならしている絵を採用したのは、疑問です。「つかみ」が丸見えで、これでは子どもがなめてしまいます。せっかくのテーマなのに、もったいないです。
 ずいぶん古い絵本ですが、『うみべのおとのほん』(マーガレット・ワイズ ブラウン :著 レナード ワイズガード:イラスト ほるぷ出版)を越える意気込みで、また描いてください。(ひこ)

『ニャンタとポンタとこいののぼり』(たちの けいこ:さく あかね書房 2009)
 わかりやすいネーミング、ニャンタとポンタシリーズ2作目です。
 いたずらカラスもレギュラーのようで、今回も悪さをいたします。
 タイトル通り、こいのぼりを巡るお話なんですが、最後は本物の大きな魚を釣り上げて、フライにして食べてしまうのが良いですね。
 なんてことのないお話なんですが、楽しさのツボは押さえています。
 絵は、動きがあっていい感じ。でも表情がもっといろいろ変えられると思いますが?
 ところで、帯で作者名が隠れてしまうのは、何か工夫がないものでしょうか?
 子どもは作者なんか気にしないのでしょうけれど、物書きとしてはチト悲しい。(ひこ)

『うそなき』(内田麟太郎:文 マスリラ:絵 ポプラ社 2009)
 内田による「狂言シリーズ」五巻目にして最終巻。
 え、もう終わっちゃうのゥ? と内田さんとポプラ社に甘え声の私。
 文は、はい、ごちそうさまでした。何を付け加える必要がありましょうか。
 絵は、これが絵本デビュー作のマスリラ。
 見る人を安心させる画です。そこがいいところなのですが、文が別の人である絵本の場合、ある程度は文とけんかをしてほしいです。挿絵に近くなっているのが残念です。
 内田麟太郎なんぞ、恐れるに足らず! てな勢いで描いても良かったのでは?
 狂言なんですから、次郎冠者をやればいいんです。(ひこ)

『走れメロス』(太宰治:文 竹内通雅:絵 齋藤孝:編 ほるぷ出版 2009)
『外郎売』(長野ヒデ子:絵 齋藤孝:編 ほるぷ出版 2009)
 齋藤孝編の様々な物語や口上をテキストに絵本画家が絵をつけるシリーズで、もう一六冊出ています。
 ネタ物語を自由に絵本に出来るので、画家はチャレンジングに仕事をして、とてもおもしろいです。今回の竹内も長野も、個性が前面に出ています。
 が、いつも思うのですが、齋藤の解説が余分です。
 彼の編だから仕方がないのかもしれませんが、このシリーズが自立した絵本であるなら(私はそう思いますが)、いりません。(ひこ)

【詩集】
『やわらかなこころ』(坂本京子:詩 はらだ たけひで:絵 てらいんく 2009)
 「やわらかなこころ」とありますが、こころをやわらかくする詩集といったほうがいいかもしれません。
 子どもの日常の、ほんのささいなことから重大なことまで、坂本は詩で言葉へと転換していきます。
 詩の姿の一つは、言葉にならないものを言葉にしようとする時の傷跡(が、嫌な場合は足跡)です。作者によるその傷跡をたどりながら読者は、追体験ができます。
 従って、子どもではない坂本が言葉に転換するとき、どのような視座に立つのかが重要なポイントであり、かつ、子ども詩の困難さです。
 ここには、子どもの視座のものから、子どもの視座のようでいながら親の(大人の)視座であるそれ、親の(大人の)視座からの子ども、と色々な詩が置かれています。
 たとえば「1ぼくからのおくりもの」は、タイトルから、子どもの視座だけのようですが、そうでもありません。
 この辺り、「子ども詩」というカテゴリーで考えるときは、分けた方がいいと思います。「つつじの花」や「やくそく」を読めば、坂本が子どもの視座でも書けるのは十分伝わってくるのですから。(ひこ)

【創作】
三辺

 最近、「どうしてみんな、翻訳物を読まないのかなあ」という話になることが多い。とうぜん翻訳者としては気になる話題。先日も、まさに「読んでいいとも! ガイブンの輪」(ガイブン=外国文学)というイベントを開催している書評家の豊ア由美さんが、「『ガイブン仲間』を増やすには?」というエッセイで、翻訳物が読まれない理由のひとつに、「知らないところが舞台になっているから、雰囲気がよくわからないし共感もできない」ことを挙げていた(「出版ダイジェスト」2145号)。
 子どものころの読書は95%が翻訳物だった私は、「よくわからない」ことだらけのまま、本を読んでいた。豊アさんも書いていらしたが、わたしも
「わかんないことがあればわかろうと一生懸命想像を働かせて」読んでいて、それがまた面白かったし、大人になって謎が氷解すると、うれしかったり、逆にがっかりしたりした(なんだ、「油づけの小イワシ」ってただのサーディンだったのか・・・・・・等々)。
ちなみに「一生懸命想像を働かせていた」ものの95%は食べ物だった私だが、残り5%のなかに「デブ・キャンプ」がある。これは、カニグズバーグの『ほんとうはひとつの話』に出てくる。当時、肥満児矯正キャンプというものが実際にあることを知らなかった私は、てっきりナンセンスな話だと思い込んで、この短編を読んでいた。今、読み返すとかなりシビアでカニグズバーグらしい批判に満ちた作品なのだが、そんなことに気づかずに何度も読み返していた記憶がある。だから、大人になってこの作品と再会し、作者はカニグズバーグであり、ナンセンスものでもファンタジーでもなかったと知ったときは、かなり衝撃的だった。
でも、なぜかそのせいで、カニグズバーグは私にとって特別な作家のひとりになった。こんな作家との出会い方も面白い。
というわけで、出たときいて、早速手に取ったカニグズバーグの新作を。

『ムーンレディの記憶』E.L.カニグズバーグ・作 金原瑞人・作 岩波書店 2008年10月
 ミドルスクール六年生のアメディオは、電話会社の重役の母親の仕事で、ニューヨークからフロリダ州のサンマロの町へ引っ越すことになる。最初、アメディオは引越しに乗り気ではなかった。なぜなら、中心にディズニーワールドを有し「不動産の一ミリ角まで調べつくされ」たフロリダは、アメディオの夢をかなえるのに、不向きな場所に思えたからだ。その夢とは、「行方不明になっているものを自分の力で発見」すること。死海文書を発見した羊飼いの少年、ラスコー洞窟の絵を発見したフランスの少年たち・・・・・・。彼らはアメディオの憧れだった。
ところが、思わぬところから、チャンスが転がり込んでくる。きっかけは、転校先で出会ったウィリアムだった。ウィリアムの母親は家財の売却を請け負う仕事をしていたが、ウィリアムは売却を依頼された品物の中に数百年前の中国の貴重な絹の屏風が埋もれているのを「自分の力で発見」したことがあった。そのウィリアムといっしょに、アメディオはゼンダーさんの家の家具売却を手伝うことになる。
 ゼンダーさんことアイーダ・リリー・タルは、元有名なオペラ歌手だった。ゼンダー氏と結婚して引退し、地元サンマロに戻って、ウィーンのオペラハウスの音響技師だったというカール・アイゼンフートが取り付けた音響を備える大邸宅で暮らしていたが、未亡人となって家を維持できなくなり、高齢者向けのマンションに引っ越すことになったのだ。そのゼンダーさんの家で、アメディオが「発見」したのが、モディリアーニ作の絵「ムーンレディ」だった。
なぜそんな貴重な絵がこの家にあるのか? その疑問は、高名な音響技師アイゼンフートと、ゼンダーさんの夫、アメディオの名付け親である美術館館長ピーター、そしてナチスの反近代芸術運動の関わる大きな謎へと発展していく・・・・・・。

 あらすじをきいて、カニグズバーグの代表作『クローディアの秘密』を思い出した人も多いだろう。アメディオにとっての「ムーンレディ」は、クローディアにとってのミケランジェロの天使像であり、死海文書であり、ラスコーの洞窟画であったのだ。しかし、訳者があとがきで書いているように、本作には『クローディアの秘密』にはなかった「かすかな不協和音」が響いている。プロットや登場人物の造詣など、『クローディアの秘密』をぐっと大人びさせた感じがするのは、そのためだろう。80歳を迎えようとしている作者が描いた新たな「代表作」を、ぜひ手にとってみてほしい。(三辺)

『ベルおばさんが消えた朝』ルース・ホワイト:作 光野多恵子:訳 徳間書店 2009)
 「私」のおばさんが失踪した。いとこのウッドローが、隣に住むおじいちゃんの家に引き取られる。
 なぜ、ベルおばさんは消えたのか? それはわかりません。ウッドローの気持ちを思いやる「私」。でも時々傷つけてしまうことも。ウッドローは機智のある男の子で、いつもクラスを明るくしてくれますが、それも母親が消えたことを考えまいとしてかもしれません。そして、「私」自身も、父親が亡くなった後、母親が再婚するのがおもしろくありません。
 父親はどうしてなくなってしまったのか、おばさんはなぜ消えたのか、子どもには大きすぎるような謎を含みながら物語は真実へと進んで行きます。
 ハードな物語ですが、暗さより、目絵に進む明るさが感じ取れるのは、子どもを描く作者の腕でしょう。(ひこ)

『どうしてぼくを いじめるの?』(ルイス・サッカー:作 はら るい:訳 むかいながまさ:絵 文研出版 2009)
 サッカーの中編です。
 学校でのいじめをテーマにしているのですが、そこはサッカー。展開が実にうまくて、深刻な問題なのに、読むのが大変でもないし、解決方法も納得のいくものです。
 マーヴィンくん、いじめっ子に鼻くそをほじっていたといわれてしまいます。無視すればいいものを、彼はまじめですから、自分は決して鼻くそをほじっていなかったとみんなに言って回ります。そのために、いつの間にか鼻くそほじり男として有名になってしまう。だれもが彼をそのことでからかい、いじめるようになる。
 さあ、その解決方法は?
 すぐに読めますから、読まなきゃ。(ひこ)

『国境までは10マイル』(デイヴィッド・ライス:作 ゆうきよしこ:訳 山口マオ:画 福音館 2009)
 レベルの高い、暖かい短編集です。
 メキシコと国境を隔てた小さな町が舞台です。ということは、ほとんどメキシコ。というか、元メキシコ。文化はメキシコ。
 ですから、アメリカ人とメキシコ文化の間で常にアイデンティティの揺れている子どもを描きます。その辺りの微妙さを描くには小説が一番いいでしょうね。外見と心のズレなんかも、映像では難しい。
 「もう一人の息子」がとても好き。短編においしさがよくわかります。
 ファンタジーブームで長いシリーズ物をいっぱい読んだ子どもたち、これからは短編のおもしろさに目覚めるのも良いでしょうね。
 山口マオが絵を担当していますが、うまくはまっていて違和感なし。これは編集の勝利。(ひこ)

『13の理由』(ジェイ・アッシャー:著 武富博子:訳 講談社 2009)
 クレイの元に七本のカセットテープが送られてくる。送り手は不明。しかし、中に入っていた声は、ハンナのもの。つい最近自殺したクラスメイトです。いや、クレイがずっと好きだったハンナです。
 ハンナはその中で、なぜ自分が死に至ったかを説明していきます。それにかかわったとハンナが思った一三人の人に順番にテープが回っていくようにしたのです。もし、回さなかったら、このテープは公表するとの脅迫付きで。
 クライには、自分がなぜハンナの死に関わるのか思い当たる節がありません。それだけに聞かずにはいられない。そして、聞くということは、ハンアの死に関係があるクラスメイトたちを知る、彼らの別の顔を知ることでもあります。
 変な言い方かもしれませんが、ハンナを死へと追い詰めてしまう子どもたちが、一人一人の顔を持っているのが救いです。日本では顔のない集団で自殺に追い詰めますから。
 ところで、この作品の書評を新聞に書こうとしたら、大人の小説の書評欄に先に書かれてしまいました。ま、その方が売り上げ的にはいいのですが、大人の小説読みが、YAに近寄ってきているのがよくわかりますね。(ひこ)

『ヴァンパイレーツ』(ジャスティン・ソンパー:昨 海後礼子:訳 岩崎書店 2009)
 少し前に流行った海賊物、今、日本(アニメ、ラノベ)でもアメリカ(TV、映画)でも絶好調のヴァンパイア物。
 で、このシリーズは、ヴァンパイアの海賊のお話です。
 ずるい。ええとこ取りです。
 しかも、主人公は二卵性双生児で、遭難の末、男の子は人間の海賊船に救われ、女の子はヴァンパイレーツに救われます。
 果たして二人の運命は? 二人は再び巡り会えるのか?
 という、おいしい展開が約束されています。
 これでおもしろくなかったら怒るよ、ホント。
 1作目は、まだまだ序盤で、2作目からようやく動き出すテンポは、日本の子どもには少し遅いかなとは思いますが、1作目を読み終えれば、あとは大丈夫ではないでしょうか。
 装丁はばっちりです。(ひこ)

『ハンスぼうやの国』(バルブロ・リンドグレーン:文 エヴァ・エリクソン:絵 木村由利子:訳 あすなろ書房 2009)
 男の子とぬいぐるみたちの日々ですから、『クマのプーさん』の現代版です。訳者あとがきにも、「作者バルブロ・リンドグレーンは、自分なりのプーさんとして、この物語を書きました」とあります。
 が、
 いえ、だから、この物語は『クマのプーさん』ほどの牧歌性はありません。もちろん『クマのプーさん』だってシニシズムなどが結構入っていますけれど、この作品はまさに今の『クマのプーさん』です。
 日本の風景を通して眺めると、「きらい」や「ウザイ」や「いじめ」なども満載です。だからといって、それがいけないなんてモラル方向ではなく、子どもがぬいぐるみなどと遊ぶ世界を、ただ淡々と描いていきます。この作者の強度はたいした物です。
 よって、この物語は、子ども時代の遊び世界を記憶の中でモラルの方向に修正してしまった大人が、再修正のために読むのが一番ピタリとくることなのかもしれません。「ああ、思い出した。あった、あった」って。
 しかし、子ども読者はどんな反応を示すのでしょうか? うまく伝えれば、うまく読めれば、自分の日々を納得できていいと思いますよ。(ひこ)

『ぼくの名前は へんてこりん』(キム・ヒャンイ:文 キム・ジョンド:絵 吉田昌喜:訳 現文メディア 2009)
 ダプケの母親は彼が4歳の時、交通事故で亡くなっています。その事故で父親も足が不自由です。
 いつも不安だったからでしょうか、小さな頃、父親から離れなかったダプケは磁石っであだ名があります。
 そんなダプケの日常を描いた、韓国の児童文学です。
 子どもを塾に通わせる親への批判があったりして、少し懐かしい日本の児童文学の感じもします。いつのまにか非凡では、子どものそんな風景は日常化してしまいました。でも、韓国は受験戦争がもっとすごいと思うのですが、現実と物語の距離はどんなものなのでしょう?
 この作品で、「韓国人気童話シリーズ」10巻は完結です。
 挿絵の配置や、全体の印象が国語の教科書っぽいのは、元々がそうだからなのか、日本の版元の意図なのかはわかりませんが、ずいぶんそれで、イメージが損をしています。
 また著者による「はじめに」も、いらないのでは?
 それも含めて、韓国の児童書のイメージを紹介するのならわかりますが。
 しかし、韓国の児童文学をまとめて読むことができるのは良いことです。
 また、企画が始まりますように。(ひこ)
 
【図鑑】
『ニュース年鑑2009』『スポーツ年鑑2009』(ポプラ社 2009)
 この年鑑シリーズ(こういうのはシリーズといわなくていいのですかね。年鑑だから)、以前にも書きましたが、いいです。出来がいいとかそういうことではなく(いや、悪いわけではありませんよ。すごくはないだけで)、世界の一年を子どもが把握しやすいという意味で、いいです。
 スペースの関係で難しいかもしれませんが、学校図書館でしたら、以前からのをズラーっと並べて置いてあげてください。そうすると、「歴史」とはどういうことなのかが、ぼんやりとでも認識できます。(ひこ)