No.121
2008.01.25

       


2008年もどうぞよろしくお願いいたします。「絵本」改め「絵本と本読みのつれづれ」をぼちぼちつづっていきたいと思います。(鈴木宏枝)

絵本と本読みのつれづれ(No.17) 本物志向

2008年1月 Tさん(5歳7ヶ月)Mくん(2歳11ヶ月)

Tさんは、どうやら今、幼年童話や黙読の入り口にいるようだ。昨年の12月、自分で『たんたのたんてい』を出してきてソファで読みふけり、急に「ぎゃはははは」と文字通り大爆笑。「どこがおもしろかったの?」と野暮は聞かず、とりあえず「キツネの子がいたずらだったでしょう?」と聞いてみたら、私の顔を見上げてうなずいていた。「こんな長いものも自分で読むのか」と思ったのが、変化の兆しを感じた始まりである。

普段の夕食はたいてい3人で食べるのだが、この間、私のほうが早く食べ終わったときに、長いお話を読んでみた。最初は、たまたま手元にあったラングの『みどりいろの童話集』を何篇か試したのだが、どうも古めかしく、くどい気がする。かねて、こういう機会があったら使いたいなと考えていた『大どろぼうホッツェンプロッツ』を読みはじめると、Tさんはすっかり魅了された。
何日かかけて読むつもりでいたら、次の日に、しおりの位置がずれている。どうやら、Tさんが自分で読んだらしい。カスパールがツワッケルマンに売られたあたりからは、我慢できなくなったらしく、自分で後半はすべて読み上げてしまった。「ぼうしが違うんだよね」と、二人の入れ替わりも理解していたし、カスパールが馬鹿のふりをして色々と間違えて言う場面では、「ちがうちがう、ちがーう!」と叫んでいた。お風呂で不意に「ねえ、コーヒーひきはみつかるのかなあ」と話しかけてきたり、ツワッケルマンが水に沈む場面で本を持って走ってきて「ぶくぶくぶくって泡が出てきたってどういうこと?」と聞いてきたりした。
最後には「コーヒーひき、見つかったよ」と大変満足そうに報告しにきて、「プラムケーキがおいしそうだよね」と答えると、これまたにっこりとうなずいた。こういう、空想広がる骨太の本に魅了されるとは、さすがTさん。先が気になって読まずにはいられない、という「あの」気持ちが分かるとは、なかなかよのう、と思う。

先日は私の机で『あたしの赤いクレヨン』を見つけ、帯の「あたしのえらんだひみつの友だち、だれかわかる?」を見て、「だれ?」と聞いてきた。「自分で読んでみたら?」と水を向けると、本当に読み始め、それはそれは素晴らしい集中力で読み進め、時々、帯の「ジル、リチャード、ドーン、マシュー」の顔を見て、考えたりしながら、本当に最後まで一気に読んで、「ジルだね」とつぶやいた。短いといったって、124ページもあるお話である。5歳児がなんともかっこよく見えた瞬間だった。

一方、Tさんは絵本も大好きだ。図書館で自分で借りてきた『おやゆびひめ』は、読んだ後に「お母さん、親指見せて」と私の手をとり「こんなにちっちゃかったのかあ」とびっくりしていた。季節の「行事こびと」の絵本は、行事のときに図書館から借りてくることが多い。シリーズは全6冊しかないのだが、この間は、寝ながら自分で12ヶ月分を色々考えていた。「1月はお正月こびと、2月は節分こびと、3月はひなまつりこびと、4月はおはなみこびと、5月はこいのぼりこびと、6月はしずくこびと、7月はなつやすみこびと、8月はうみこびと、9月はもうすぐあきがくるよこびと、10月はもうあきだよこびと、11月はもみじこびと、12月はクリスマスこびと。」
私が図書館から借りてきた『ダンプえんちょうやっつけた』は、帰ってきてリュックを背負ったまま読んでいた。ずいぶんツボにはまったらしく、くじら組の仲間たちの絵なども見せに来てくれた。大判の本だから、下に置いて読んでいるが、なんとも幸せを感じる背中だ。「好きなことをしているときはなるべく中断させずに続けさせてあげて」と幼稚園で教えていただいたことを思い出す。ところで、『ダンプえんちょうやっつけた』は、Tさんのあとに読んで、不覚にも涙が出た。いや、気持ちはすっかりダンプ園長のほうなのだが、生活をともにする保育園の園児たちの底力のようなものを感じる。
それから、Tさんが借りた『ちいさなおひめさま』は、西巻茅子さんの絵が素敵で、私のほうがファンになった。この前、公園で3人でかくれんぼをして、久しぶりにあのドキドキ感を味わったばかりなのだが、お休みの日、家の中でこんなかくれんぼをしてみたいなあ、と私のほうがときめく。

他方のMくんは、すっかり絵本エイジに突入した。いったん目覚めるや、逆に、長い絵本を好むようになったのはTさんと違うところで、毎晩の絵本に選ぶのは『カロリーヌインドへいく』と『わたしのおひめさま』が多い。バムとケロも引き続き大好きである。ケロちゃんのやんちゃっぷりと、バムとケロの愉快な家は、かれこれ4年くらいも我が家の子どもたちを楽しませてくれている。ありがとう、バムとケロ。
といいつつ、この前、図書館でふと思いついて読み聞かせたら、大変気に入ってそのまま借りてきたのは『あのやまこえてどこいくの』だった。Mくんが絵本エイジになったとき、Tさん向けの長い絵本に傾いて、赤ちゃん絵本などは飛ばしたけれど、本当は自由にさせていればこういう絵本を読むのかもしれない、と反省したしだいである。

ありさん ありさん 
どこいくの?
あのやま こえて 
こめつぶ かいに
こめつぶ かって
どうするの?
ぐうぐう ねんねの
まくらに するの

Mくんは、電車大好きでレールとともに寝そべって、うっとりと電車になりきっていることも多いし、存外男っぽい面ももっている。だが、おそらく姉さんの影響で、時々「わたし、それほしいわ」などと女言葉になったり、ズボンの上からスカートをはいて走り回ったりしている。『わたしのおひめさま』を家族の中で一番愛しているのはMくんだろう。
最初は、最後のほうのページで出てくる「ゾウ」が気に入って「ぞうさん!」と言っていたのだが、だんだん全体が好きになってきたようで、「ぼくのおひめさまよんで」と持ってくる。長いので寝る前の絵本には大変だなあと思って、ゾウのところだけ読んだら、ひどく抗議されてまいった。ちょっとスキップしたり途中だけ読んだりしたのだが、たいていだまされないで、「ちがう!」と怒り、最初に戻るので、結局二度手間になった。反省して、マジメに1冊読むことにしている。
『カロリーヌインドへいく』も女の子向けの絵本かもしれないが、Mくんのお気に入りだ。サルの場面で「おさるさんよ」とか、飛行機の場面で「みて、ひこうきよ」などと言うので、ストーリーにはあまり興味なく、動物や乗り物のパーツに目がいっているのかもしれないが、そのわりに、乗り物絵本や動物絵本にはあまり興味がないようなので、「ストーリーの中の部分」がいいのかな、と想像する。
長いという意味では、Mくんが初めて図書館で自分で選んで借りたのは「鉄道ジャーナル」という雑誌だった。鉄道ファンの大人向けの雑誌である。それこそ、新幹線の写真を見てうっとりして、「よんで!」というので、もう内容は忘れたが、かなりマニア向けの旅情あふれる紀行を読んだ。それなりに真剣に聞いていたのがおもしろい。本物の写真を見て「やった!ぼくのしんかんせん。でんしゃだよ」と喜ぶから、本物らしいのがいいのだ、きっと。
ちなみに、食卓での本読みは、Mくんが拒否するので中断中である。ごはんのときは、しっかり自分の顔を見てもらいたい。そんな意識を感じる。それもまた、子どもの「本物志向」と思う。

<文中の本>

『たんたのたんてい』 中川李枝子、山脇百合子、学習研究社、1975.03
『みどりいろの童話集』ラング、川端康成・野上彰訳、偕成社文庫、1977.08
『大どろぼうホッツェンプロッツ』プロイスラー、中村浩三訳、偕成社文庫、1962/1975.11
『あたしの赤いクレヨン』パトリシア・ライリー・ギフ、もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房、1984/2007.04
『ダンプえんちょうやっつけた』ふるたたるひ、たばたせいいち、童心社、1978.04
『おやゆびひめ』アンデルセン、角野栄子、ピア・クロイハ・ラッカ、小学館、2004.11
『ひなまつりこびとのおはなし』まついのりこ、童心社、1986.10
『ちいさなおひめさま』かどのえいこ、にしまきかやこ、ポプラ社、2001.11
『カロリーヌインドへいく』ピエール・プロブスト、やましたはるお訳、BL出版、1991/1999
『わたしのおひめさま』エリサ・クレヴェン、たがきょうこ訳、徳間書店、1996.12
『バムとケロのそらのたび』島田ゆか、文溪堂、1995.10
『バムとケロのさむいあさ』島田ゆか、文溪堂、1996.12
『あのやまこえてどこいくの』ひろかわさえこ、アリス館、1993.09
「鉄道ジャーナル」鉄道ジャーナル社

【絵本】
『LOVE』(ジャン・ベルト・ヴァンニ:デザイン&イラスト 三辺律子:訳 青山出版 2007.12 1800円)
 九歳で孤児となった女の子の、孤児院での日々を描いた絵物語。
 と書けばなんだかクラーイ感じですが、そうではありません。
 と書けば、それでも元気に明るく生きる女の子の物語のようですが、そうではありません。
「女の子には おとうさんとおかあさんが もちろんいましたが 女の子が九歳の時にでていってしまいました。」と始まり、続けて、ページを繰ると「女の子は、きれいではありませんでした」ときます。「なんという展開だ」とびっくり。そしてそれは訂正されることもなく、彼女が孤独になっていく様が実に淡々と語られていきます。
 それをどう語りどう描いていくかに、この絵本は力を注いでいて、これはもう実際に見てもらうしかないのですが、ページを繰っていくしかない本というメディアの面白さも残酷さも総動員して、女の子の孤独を見せていくのです。
 妙な言い方になりますが、だからこそ、この絵本は明るい。少なくとも作者は、この女の子を愛していて、一生懸命描いていることが伝わりますから。
 そうして私も彼女が好きになる。(ひこ)

『そのまたまえには』(アラン・アルバーグ:作 ブルース・イングマン:絵 福本友美子:訳 小学館 2007.12 1500円)
 昔話の主人公たちの物語を逆にたどっていきます。
 女の子が家に帰ってきた。そのまえには暗い森を走り抜けていた。そのまえは三匹のクマの家から飛び出した。そのまえは男の子と森でぶつかった。その男の子はジャックという名前で…という具合。
 物語、特に昔話は時系列で進んでいきますから、それを逆にたどっていく、しかも、ページは普段と同じように繰っていくのですから、読者の時系列は普段通りで、という風に、奇妙な揺れを楽しむことが出来ます。(ひこ)

『だんまり』(戸田和代:文 ささまやゆき:絵 アリス館 2007.12 1400円)
 ねこのだんまりが、どこへ出かけていくのかと後を追う「ぼく」。するとだんまりは人間の姿になる。ますます秘密が知りたくなった「ぼく」は、ねこの世界に潜り込むのです。
 なんでもない日常に、なんでもないようにだんまりたちねこの世界が繋がっていきます。猫好きにはよくわかる感じですね。
 もちろん犬好きには地続きの犬の世界があるのですけれど。
 だから、大冒険てはなく、静かな物語。ささめやゆきも戸田のそんな世界に応えて、ゆっくりと描いていきます。(ひこ)

『おとうとのビー玉 身近な人を交通事故で失ったとき』(クリスティヌ・ディールティエンス、ベーテル・アンドリァーセンス:作 サンネ・テ・ロー:絵 野坂悦子:、林由紀:訳 大月書店 2008.01 1600円)
 「心をケアする絵本」シリーズ4巻目。
 今作では、交通事故で弟を失ってしまった少年を描いています。
 エリアスは弟のワルチェと一緒に下校する途中、先に走っていった弟が車にぶつかるのを見てしまいます。
 両親は病院へと向かい、エリアスは取り残される。めんどうを見てくれる人はいるけれど、不安と、弟を守れなかった後悔とで一杯。
 そんなエリアスに寄り添った絵本です。エリアスのような出来事に遭遇する子どもは少ないかも知れませんが、エリアスの気持ちを知ることで、悲しみや不安を受け止めるための想像力を刺激できるでしょう。(ひこ)

『かんがえるのって おもしろいー絵本・かがやけ詩 ひろがることば』(小池昌代:編 古川タク:画 あかね書房 2008.01 1800円)
 小池が選んだ詩たちに様々な画家が絵を付ける「かがやけ詩」シリーズももう5巻目。
 今作は古川タクです。別に小池がいじわるなわけではありませんが、一つのテーマで世界中の詩人の言葉を集めますから、それぞれ世界も色合いも違い、従って画家は詩ごとに画のタッチを変えたりしなければならず、今作では古川がもう大サービスで展開しています。すごい。(ひこ)

『ふらりでブランコ』(イローナ・ロジャーズ:さく・え かどのえいこ:やく そうえん社 2008.01 1000円)
 「ふたりはなかよし」シリーズ3巻目です。
 子守のネズミ、ネズおじさんとハニーちゃんの物語。
 今回は、ネズおじさんのおばさんアニーからマフラーが届きます。そのながーいことと言ったら! いくらなんでも長すぎない?
 公園に散歩に出かけたふたり。ネズおじさん、マフラーを木に結びつけて、なんとブランコにしてしまいました。カラフルなそれはたちまち子ども達に大人気!
 ネズミ嫌いの人は、このシリーズはダメかもしれませんが、それ位リアルに描いたネズミが女の子の子守、ってかもう友達みたいに楽しく過ごしているのが、妙に楽しいのです。
 今回も、マフラーをブランコに変えてしまうネズおじさんの手腕はすごいです。(ひこ)

『ミレドーさんちのこびとたち』(ひだきょうこ 教育画劇 2007.12 1000円)
 楽器屋のミレドーさんっていうのが、まずいいですね。ベタですが、恥ずかしいベタではなくて、何でかニコニコしてしまう。のは私の感覚にすぎませんが。
 さて、ミレドーさんチには小さなたいこが伝わっていて、でもなんのたいこかミレドーさんは忘れていて、靴屋さんに売ってしまいます。
 さて、このたいこの秘密とは?
 無国籍絵本(死語?)なんですが、浮いたところがないのは、ひだの腕です。
 画は、画家に走ってしまわない、イラストレーターとしての見せ方をちゃんと保持していて、一級品。
 タイトルに一工夫かな。(ひこ)

『12か月の うたえほん』(あべななえ:絵 ハッピーオウル社 2008.01 1400円)
 四季に合わせた童謡38曲の歌詞と譜面に、あべが絵を付けています。「わらべうたえほん」シリーズ番外編といったところ。
 年齢に関係なく、歌えるでしょう。
 ただし、ハッピーオウル社としては安全策的企画です。創作絵本もぜひぜひ!(ひこ)

『パンダの手には、かくされたひみつがあった!』(山本省三:文 喜多村武:絵 遠藤秀紀:監修 くもん出版 2007.12 1400円)
 グールドの『パンダの親指』はベストセラーになりましたが、その巻頭エッセイにあった、パンダの6本目の指、撓側種子骨が実は小指側にもあった(パンダの7本目の指ですね)というワクワクのお話です。
 「科学」(に限りませんが)は「興味」によって何かを明らかにすることであるのが、よーく伝わってきます。
 科学絵本としての工夫がもう少し欲しいのですが(文章も含めて)、話題の面白さで十分読ませてしまいます。(ひこ)

『こねずみトトのこわいゆめ』(ルイス・バウム:文 スー・ヘラード:絵 ゆむらしょうこ:訳 徳間書店 2008.01 1400円)
 干支が干支なもので、今年はネズミさんの絵本が多くなりそうです。
 トトは毎晩怖い夢を見ます。なんだかネコらしきものの夢のようですが具体的には語られません。
 母親に父親に兄に相談して、色々アドバイスをもらうけれど、でもやっぱり怖い。
 子どもの持つ「怖さ」を丁寧に描いています。怖さを克服するのか、怖さを受け入れるのか、飼い慣らすのか。子どもの不安を巧みに描いています。
 「わかるわかる」と子どもが思うタイプの作品ですね。何度も読み返してもらって、同じところで何度も怖がって遊ぶって風に。(ひこ)

『なぞなぞの王様・ことば遊びの王様1』(田近洵一:監修 野中三恵子:著 岩崎書店 2007.11 1300円)
 言葉を巡って、様々なアプローチを遊ぼうというシリーズです。今作は「なぞなぞ」。なぞなぞなんぞは解けてみると、なーんだってのが多いのですが、解ける前はかなり真剣になってしまいます。
 このシリーズ、少なくとも二巻目の「クイズ」までの著者は現役の教師でして、だから子どもの興味に則したお題が満載です。

『恋ってどんな味がするの?』(くもん出版 2007.12 1000円)
 「読書がたのしくなるニッポンの文学」シリーズが一期全五巻出ました。「恋」、「笑い」、「生きる」、「友情」、「不思議」というテーマの、日本名作短編アンソロジーです。どの巻を選べばいいかのチャートもあったり、読書力が落ちているとされている子どもたちに向けて、どう小説を手渡すかの試みの一つです。セレクトは奇をてらわず真っ当です。入門だからこれもよし。カラフルな装丁で、軽く薄い一冊に仕上がっているのも好感です。
 ただ、解説がみなさん、えらいまじめなのがチト違和感。もっとポップでいいのに。

『ウェン王子とトラ』(チェン・ジャンホン:作・絵 平岡敦:訳 徳間書店 1900円)
 子どもを人間に殺された母トラが村を襲うようになります。占い師の予言に従って、幼い王子をトラに差し出すことに・・・。
 そのあまりの幼さと無邪気さに、母トラはいつしか王子を育て始めます。
 まるで神話のような物語を紡ぎ出す作者。そしてその描く墨絵もまた奥深く重厚でありつつ、母トラの優しい目が心を打ちます。
 画面構成も色々な工夫がなされていて楽しいです。
 すごい作家の登場ですよ。(h@moving)

『いぬとねこ 韓国のむかしばなし』(ソ・ジョンオ:再話 シン・ミンジェ:絵 おおたけきよみ:訳 光村教育図書 1600円)
 貧しいながらも、いぬとねこと楽しく暮らしているおばあさん。ある日スッポンを助けたことから、竜宮城へ招かれ、王様から玉をもらう。それがなんでも望みが叶う玉で、たちまちおばあさんは裕福に。それをねたんだよくばりばあさん、玉を盗んで行く。
 さあ、いぬとねこの恩返しだあ。
 コテコテ愉快な昔話。シン・ミンジョは、その画面の中で、時々別の紙に描いたいぬやねこをわざわざコラージュすることで、変化を与え、活き活きさを演出する。巧いです。(h@moving)

『フェアリーショッピング』(サリー・ガードナー:作 神戸万知:訳 講談社 1500円)
 見開き一杯に様々なお店が並んでいます。ページをめくっていくと、次から次へと現れるわ現れるわ、不思議なお店たちが。
 そう、この商店街にあるのは、古今東西の昔話や童話に関係しているお店ばかり。
 もちろんガラスの靴だって誰でも買えますし、動物が人間の主人公を買えるお店も。オオカミが、ショーウィンドウの中の赤ずきんちゃんを眺めていますよ。大丈夫か?
 何をどこで発見するかは、それぞれの昔話や童話の知り具合で色々。だから一人一人オリジナルの絵本になりますよ。(h@moving)

『ちいさいちゃん』(ジェシカ・ミザーヴ:さく さくまゆみこ:やく 主婦の友社 1300円)
 ちいさいちゃんは何をしても、おおきいちゃんに負けてしまいます。いつもいつも、おおきいちゃんのことを気にして、その影にイライラして、もう自分が自分であることさえ判らなくなります。
 おおきいちゃんがずっと、影で描かれているのがとても上手いです。ちいさいちゃんは毎日こんな感じでいるんだろうなって、よく分かる。この効果は絵本ならでは。
 最後の幸せなオチもいいんですよ。(h@moving)
 
『黒グルミのからのなかに』(ミュリエル・マンゴー:文 カルメン・セゴヴィア:絵 とり ありえ:訳 西村書店 1500円)
 母親から、もう自分は死ぬのだと告げられたポールは、くすりを買いに行く途中に死に神と出会い、彼を黒いクルミの殻に見事閉じこめてしまいます。これでもう、母親が死ぬことはありません。
 が、何もかもが死ななくなってしまいました。肉も魚も手に入らないのです。
 誰もが避けたい死、でも避けられない死が見事に描かれています。セゴヴィアの絵のなんと静かなこと。(h@moving)

『ぼくがラーメン たべてるとき』(長谷川義史 教育画劇 1300円)
 「ぼくがラーメン たべてるとき」、「となりでミケがあくびをした」に始まって、となりの家から、となりのくにへと、同じ時間に世界で起こっていることが次々と描かれていきます。「その また やまの むこうの くにで おとこのこが たおれていた」に至ったとき、経済格差を生み出すためにグローバル化ではなく、本当の意味でのグローバルな視点が提供されます。いつもの長谷川作品と違うように見えるかも知れませんが、彼の画の力がはっきりと判る作品に仕上がっています。(h@moving)

【創作】
『ガッチャ!』ジョーダン・ソーネンブリック著 池内恵訳 主婦の友社 2008年1月

「人生の教訓は嫌われもののへんくつじいさんと、花瓶と、古い思い出の箱が教えてくれた」
 この帯の文句に惹かれて読みはじめた。なぜなら、わたしは偏屈じいさんが大好きだからだ。口の悪い意地悪ばあさんと共に、一筋縄ではいかないじいさんばあさんたちは児童書の世界ではひときわ存在感を放っている。彼らはなぜこんなにも児童文学と相性がいいのだろう?
 本書に登場するソルは、老人ホームでも「新しいボランティアをむかえるのが好き(要は、ボランティアが居つかない)」ことで有名な筋金入りの偏屈じいさんだ。十六歳のアレックスは、両親の離婚でむしゃくしゃして飲酒運転をしたあげく、事故を起こして、老人ホームでの奉仕活動を命じられ、ソルの担当になる。傍若無人でわがまま、人をだましては「ガッチャ!(イディッシュ語で『やった!』)」と叫ぶソルを相手に、アレックスはさんざん苦労するが、ある日ふとしたきっかけで、病室でギターを弾いてきかせたことから、アレックスとソルの関係は変わりはじめる。ソルがジャズを好きだと知ったアレックスは、老人ホームでコンサートを開くことを計画する。同じ高校の天才ドラマーとピアニストのスティーブンとアネットを仲間に引き込み、ふたりの猛特訓に耐え、両親のつかず離れずの関係にやきもきしたり、友だち以上恋人未満のローリーに振り回されたりしながらも、アレックスは見事コンサートを成功させるのだが、そこで意外な事実が判明する。やがて帯の文句の「花瓶」と「古い思い出の箱」の謎も明らかになり……と、気がつくと読者はすっかり物語の世界に引き込まれている。
 両親の離婚に傷つき、飲酒運転という法律違反をやらかして社会からはみ出したアレックスは、偏屈な老人というやはり社会の周辺に追いやられた存在であるソルと関係を築くことで、「人生の教訓」を得た。そもそも、互いに社会の周辺的存在である子どもと老人は、相性がいいのかもしれない。予定調和的と言えないこともないストーリーが、生き生きとして読者をひきつけるのは、アレックスとソルの関係が魅力的であることが大きい。なお、本書にはもうひとつ欠かせない魅力がある。アレックスたちが演奏する音楽の数々―――最後に歌われる『サンライズ・サンセット』がどれだけ効果的か、ぜひ自分の目(耳?)で確かめてほしい。(三辺)

『ユゴーの不思議な冒険』ブライアン・セルズニック著 金原瑞人訳 アスペクト 2008年1月
 去年この本が出たとき、「最高に面白いけど、日本で出すのは難しいだろうな」と思った。それが、ちゃんと、それもこんなにすぐに出版されて、うれしいと同時にびっくりした。その理由は、この本を手に取ればすぐにわかると思う。全542ページの実に半分以上がイラストなのだ。そのあいだに文章がちりばめられている。そして今回の日本語版では、イラストはもちろん、文章もすべて横書きのままなのだ!

「世界初の職業映画監督」と呼ばれた実在のフランス映画製作者ジョルジュ・メリエスと孤児の少年ユゴーの交流を描いた本書は、あたかも本書自体が映画であるかのように、読者を物語の世界へいざなう。コールデコット賞オナーの作者セルズニックのイラストをめくると、まるで白黒映画を見ているような感覚にとらわれる。スクリーンに日が昇り、パリの街を照らし出す。やがてカメラはとある大きな駅に向かい、一人の少年に焦点を合わせる。少年は人ごみを抜け、通風孔の格子の中へするりと消える。そして時計の文字盤の5の数字が大写しになると、その後ろから目がひとつ、のぞいている……。
 ユゴーは、時計職人の父親と幸せな生活を送っていた。ある日、ユゴーは父親に博物館の屋根裏で見つけたという古いからくり人形を見せてもらう。その人形は、ペンを手にして机に向かっていた。つまり、ぜんまいを巻けば何かを書くにちがいないが、今は壊れていて、まったく動かない。ユゴーは父親に人形を修理してくれとねだる。しかしある夜、博物館が火事になり、屋根裏にいた父親は焼死してしまった。ユゴーは自分が人形を修理してくれと言ったせいだと、自分を責める。
 焼け跡にいくと、黒焦げになったからくり人形が転がっていた。ユゴーはどうしても人形をそのまま放っておくことができずに持ち帰ってしまう。その日から、人形を修理することがユゴーの目標となった。完全に修理できたら、人形はきっと父さんからのメッセージを書いてくれるにちがいない。ユゴーはそう信じ込み、部品を集めはじめるのだ。が、買うお金などあるはずもない。そこで、駅にある小さなおもちゃ屋から盗むようになるのだが……。

 本書にも登場するチャップリンは巨大な歯車に巻き込まれ、人間が機械の一部のようになっている現代社会を批判してみせたが、ユゴーは時計の歯車を回すことに誇りを持っている。

「知ってる? 機械はすべて、目的があって作られるって…(中略)…だから壊れた機械を見ると、いつもちょっと悲しくなるのかもしれない。もう役立たずになっちゃったってことだろう?…(中略)…たぶん人間も同じだ。もし目的を失ったら……こわれた機械みたいなもんだよ」(382-3ページ)

 メリウスは、映画監督になる前はマジシャンだった。さまざまなアイディアを映画界に持込み、現在のSFXの元祖ともいえるトリック映画をたくさん作っている。豊かな想像を技術で形にしてみせたのだ。「マジシャンとは魔法使いを演じる役者である」といったのは、稀代のマジシャン、ロベール・ウーダンだったが、ウーダンがマジシャンになる前、時計職人だったことは興味深い。夢と技術が同義だった時代の、実話に基づいた不思議な物語である。(三辺)

『ボクシング・デイ』(樫崎茜 講談社 2007.12 1400円)
 「き」と「ち」が巧く言えない10歳の少女栞の物語です。彼女が「ことばの教室」にも通いながら過ごす4年生の時間を描いています。
 子どもの目線をしっかり持っている新人作家の登場を喜びます。
 気になるのは、そうであるのに、誰に向かって書いているかが今ひとつわからないところ。20歳の栞が10歳の栞を思い出して語る枠構造になっているのですが、これが「児童文学」ならば、何故その必要があるのかに説得力を欠いています。子ども時代を描いた小説なら気にしませんが。
 10歳の子どもに向かっても書ける力がとてもある作家なのですから、枠をとっぱらった物語をぜひ。(ひこ)

『無愛想なアイドル』(杉本りえ:作 加藤アカツキ:絵 ポプラ社 2007.11 1300円)
 小学六年生の洋介、翔子の物語。
 帯に、「男みたいなかっこうをしていて、スポーツ万能。だれとも友だちになろうとしない。でも、じつは……顔はかわいい。」とあります。ははは。正直だ。
 ちょっと太っていて、フトマキと呼ばれている洋介が、犬を散歩させている、ちょっと怖くて「世界で一番、近づきたくない女の子」翔子と出会ったところから物語は始まります。犬の名は風丸。翔子の犬ではなくて、放し飼いにされていたのを見かねた彼女が飼い主のおばあさんに申し出て、散歩に連れて行くことにしたのです。
 風丸が縁で洋介と翔子は話をするようになります。洋介の家は大家族で、わいわいがやがや賑やか。親が離婚して、今は母親と二人暮らしの翔子。高校生の兄はいるのですが、寮生活。翔子がいつも着ているのは、大好きな兄の服です。だから「男みたいなかっこうをしてい」るわけ。
 おばあさんと風丸に起こった出来事で、協力することになった二人は、お互いを知っていきます。そしてそれぞれの家族についても考えていく。
 テンポの良い物語は、加藤の絵の軽やかさとマッチして、小学校六年生の日常をスケッチしてくれます。
 視点が洋介と翔子、切り替わっていくことでそれぞれの立場が明確になっていくのですが、そうした手法の場合、切り替えは規則正しくやった方が効果的です。奇数章は洋介、偶数は翔子といった風に。あと、二人の一人称ですから六年生の言葉遣いなのですが、そうは思えない箇所もありました。そういう大人びた言い回しをするキャラクターなら、それでいいのでしょうけれど。「風貌にも魅力を感じた」(翔子 034)、「チベットの巡礼者たちが、」「苦難をのりこえたそのさきに」(洋介 078)など。(ひこ)

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『ファイヤーガール』(トニー・アボット作/代田亜香子訳/白水社刊 2007.06)
 トムは学校で目立つ存在ではなく、あまり話しかけられませんし、気にもとめられていません。ジェフという友達が一人いるだけです。憬れの女の子にも興味を持たれていないと思っていますから、心を打ち明けることもできません。ただ頭の中で、危機に陥った彼女を救いだすヒーローになってみるだけです。
 そこに現れたのが、ジェシカ。自動車事故で全身やけどを負った彼女は、治療のために転校してきたのです。彼女の外見はトムたちの想像を超えています。「生きている人間の顔とはとても思えない」。残酷な感想ですが、動揺したトムやクラスの子どもたちの正直な反応でしょう。
 ジェシカは近所に引っ越してきたので、トムの母親は、助けになってあげなさいと言います。それは正しい意見なのですが、ジェシカの顔すら直視できない彼には簡単なことではありません。わかっていても難しい。しかし、気になることは気になりますから、トムはジェシカがよそを向いているすきにこっそり彼女を見たりしているうちに、「人間がそこにいるみたいに思えてき」ます。「人間の顔とはとても思えない」といった反応から、少し変化するのです。だからといって、それで理解が進むかといえばそうでもなく、クラス全員で手をつなぐとき、ジェシカの隣に立ったトムはためらいながら彼女の手を取りますし、反対側のジェフは彼女を無視します。「あんなヤツにさわれるかよ」と。ジェシカが、やけどを負う前の自分の写真を、妹だと偽り死んだことにしたときは、彼女のせいで妹は亡くなったのだという噂まで広がります。
 先生からの届け物を渡すためにトムはジェシカの家を訪れます。本当のところは、早く帰りたくて仕方がありません。でもトムは誰にも打ち明けたことのない自分の考えを、ジェシカには話せている自分に気づきます。それは、外見だけでジェシカを判断することはできないのにトムが気づいたからです。つまり、心を開くことによってしかジェシカのことはわからないし、自分のこともわかってもらえない。もちろんそれは誰に対してでもそうなのですが、クラスでもなかなか心を開いてこなかったトムは、ジェシカとの出会いでそのことを知るのです。
 自分も含めたみんなの態度をわびるトムにジェシカはこう言います。「そんなことどうでもいいの。あたしには、ほかにたくさん気にかけなきゃいけないことがあるから」。その言葉に促されるようにトムは「きみの外見が(略)こわくて、そばにいったりやさしくしたりできない」と言えます。口に出すことで、トムは自分のそうした感情を見つめ直すことができるのです。そのあと二人はそっと抱き合います。もう言葉はいらないかのように。
 別の病院に移ることになり転校していったジェシカ。どこかほっとしたような雰囲気が教室に漂います。それもまた事実でしょう。トムは、今ジェシカがどうしているか想像します。彼女との心のつながりを忘れないために。(徳間書店「子どもの本通信」連載 ひこ)

『インディゴの星』 (Y.A.Books ヒラリー・マッカイ:著 冨永 星:翻訳 小峰書店 2007.07)
 カッソン家は、父親のビルは絵描きでロンドンにいて仕事をしています。母親のイヴは自宅のアトリエで、注文があったらどんな絵でも描く仕事をしています。同じ絵描きですが、実力も、世間の評価も、収入もかなり違うようです。子どもは四人。一番上はキャディー十九歳、二番目はサフィ十四歳、そして三番目が男の子のインディゴで十二歳、末娘はローズ八歳です。
 大きな事件が起こり、子どもたち達の大活躍によって解決するタイプの物語ではありません。彼らの日常が描かれて行くだけです。中心はインディゴとローズの二人。インディゴは学校でいじめにあっています。ローズはロンドンからちっとも帰ってこない父親をなんとか呼び戻そうと、家族に起こった出来事をせっせと手紙に書いて送っています。
 この物語の魅力は、なんといっても、カッソン家の子どもたちそれぞれの個性と、彼らが形成している家族像にあります。
 キャディーの本命はマイケルなのですが、彼以外の男の子とも自由に付き合います。彼女によれば「無害なパトリック」を家に連れてきたりもします。無害とは役にも立たないということなので、妹弟の評価は厳しい物でしたが。その前に連れてきたデレクは、キャディーをあきらめて、今は母親のイヴに夢中。サフィは、インディゴをいじめているワルガキのリーダーを、車いすに乗っている友人サラと一緒に、男子トイレでこてんぱんにやっつける程元気です。インディゴは、自分の気持ちに正直で、いじめにあってしまったのも、いじめられている子を見てそれを止めに入ったのが切っ掛けです。だからといって、自分へのいじめを止めさせようといった積極さがあるわけでもありません。生意気な転校生トム(彼は、インディゴの次のいじめの標的となるのですが)に、屋根に上る誘いを受けたとき、「恐いんだろ?」と言われたら、あっさり「うん」といえる男の子です。ローズは絵を描くのが大好きです。両親の作品への評価も率直です。ビルはいつもイヴの絵を芸術ではないというのですが、ローズは、「イヴが描く肖像画については、自分なりの意見があった」けれど、「それでも、ママの絵は素晴らしくて、パパの腐った絵よりずっといい」と言います。ビルはローズの評価に、正直びびっています。
 彼らは、無理をして生きてはいません。それぞれの個性のままやりたいことをし、互いに認め合い、助け合っています。
 ラスト、ビルには新しい恋人ができて、もう家には戻ってこないと知ったローズはこう思います。それでもビルは、いざというときには駆けつけてきてくれるだろう。「パパはいい人で、悪い人だ」。
 実はこれ、『若草物語』ととてもよく似た構成です。父親は不在、母親と四人の子どもで暮らしている。長女は恋愛にかまけ、次女は活発、三女(インディゴは男の子)は温和しい、末っ子はいささか自己中心的。でも、女性への縛りのようなものは見あたりません。『若草』の登場人物たちを、この物語は解放しているかのようです。
 ちなみに作家は四人姉妹の長女だそうです。(徳間書店「子どもの本通信」連載 ひこ)

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子どもに寄り添う物語たち。

                     ひこ・田中

 子どもの側に寄り添って描き続けている作家四人のコラボレーションが『フラジール』(石崎洋司 長崎夏海 令丈ヒロ子 花形みつる ポプラ社)。「子どもの側」と書いたのは、子どもに仮託して自分の思いを描く(ことが悪い訳ではない)というよりも、常にその時々の子どもが置かれている状況や想いを言葉にしていくことを優先しているとの意味です。表題作でもある「フラジール」(石崎)の語り手中学一年生のユミは、「勉強が好きだ。ビー玉と同じくらいに」。「いい成績をとるのが楽しいわけじゃない」。ただ好きなだけなのに、でも結果成績は上がるわけで、それは「危険なこと」なのを知っています。目立つこと、ひととは違うことによってクラスではたやすくはじかれてしまう現実の中で彼女は生きていて、もちろんそれを納得しているわけではないし、受け入れてもいないですが、なくせないのも知っています。そんな彼女にとってビー玉は、やすやすと割れたりしない存在として大事なわけで、「数学とビー玉。それがあれば、いつでもどこでもなにがあっても、あたしは頭をすうっとさせることができ」るのです。
 ユミは数学に特化された塾で横山と知り合います。彼はあることが引き金となって、感情やコミュニケーションといった揺らぎを生じさせる物を排除しています。それらをつまらない物語と呼び、ぶっこわしたいという。「数学にストーリーは必要ないです。美しければそれでいいんです」。彼自身がコペルニクスとケプラーを例に挙げてユミに説明しているように、そしてニュートンが神の摂理の偉大さを証明するために研究をして、結果神を引きずりおろしてしまったように、科学や数学ほど物語豊かな分野はないわけですが、近代的見方とまで言わなくても、この国の受験的発想において数学は「美しい」。
 生き延びるためのアイテムとして数学だけでなくビー玉も持っているユミは、つまらない物語をぶっこわすといった排除の方法だけでは自分たちの今を支え切れないことを知っていて、「横山くんだってつまらない物語なんだよ。だってそうじゃない。数学に意味なんかない、美しければいいって勝手に信じている人は、ほかにもいっぱいいるんだよ」と伝えます。自らを特化するのではなく立ち位置を自覚すること。そこに石崎は賭けています。「忘れ物」(長崎)は、「フラジール」で使われたビー玉を拾った有沙の物語。彼女たちがたむろするので万引きが増えたと思われていることに有沙は、「疑われることで熱くなったりしなかった。あたしもみんなも、否定しただけであとはへらへらしていた。反抗すれば、疑われるようなことをしているのが悪いとかなんとか始まるだけだというのが、それまでの経験からわかってい」ます。と同時に、友達とつるんでいる日々にも潮時が訪れるのを知っており、自立への道を模索し始めます。その真っ直ぐさが気恥ずかしくなくまぶしく伝わるのは、長崎が子どもに寄り添った言葉を良く知っているからでしょう。「あたしのボケのお姫様。」(令丈)は、相方と別れ新しい相手を捜している少女水口がついに見つけた「ボケのお姫様」るりりと漫才コンビを組む物語。とはいえそこは令丈。笑わせる才能と笑われてしまうことの違いを踏まえつつ、「あんたがお笑いをどう思おうが、そんなことは関係ないねん。あんたは、ほんまにおもしろいんや」と、一人の子どもが持つ特性へのエールを送ります。「アート少女」は美術部長の節子が、部員減少を理由付けに部室退去を命じる学校と戦う、パワー全開の物語。そこまでして大丈夫かい? と思わせる展開に子どもへの信頼感が溢れています。最後に置かれた「流星群」(石崎)も含めそれぞれの子どもたちのそれぞれの事情と生き方が切れ味のいい一冊なのですが、「あとがき、のようなもの」(石崎)の「この本に眠る5つのお話は、どーでもいいお話ばかりです、大人たちからすれば」に始まる、大人排除的物言いは、「怒れる若者」や「ヒッピー」のような立ち位置を取りがたい時代の子どもたちのつながりを描いた作品群を、子ども対大人の構図に戻してしまう危うさがあります。そこがちょっと残念。
 一九七九年、少年四人の暑くて少し痛い夏を描いた『クレイジーカンガルーの夏』(誼阿古 GA文庫)は日本版『スタンドバイミー』。一九七九年とは、『ガンダム』の年。それは、この物語のキーでもあります。作者自身はガンダム世代より若いようですが、それが時代の分岐点であると考えている辺り、なかなか鋭いです。舞台は宝塚市。本家や分家といった区別がまだ生きている地域。分家の子ども広樹と、親の離婚で本家の祖母に預けられることになり東京からやってきた冽史を中心に物語は進みます。母親に会いたい冽史。広樹は彼と共に家出を決行し東京へと向かうのですが・・・。大人になった現代の広樹の回想といった枠物語になっているところが作りすぎかなとは思いますが、『ガンタム』と自分たちを重ね合わせて思考していく広樹たちの姿や、はっぴぃえんどの使い方など、子どもが自分にフィットする様々なものを参照しながら大人になっていく様子をとても巧みに描いていて、楽しみな新人が現れました。ジャンル的にはライトノヴェルズ作家になるのでしょうか。でも児童文学もぜひぜひ書いて欲しいです。(「飛ぶ教室」ひこ・田中)

『ジャック・デロシュの日記ー隠されたホロコースト』(ジャン・モラ:作 横川晶子:訳 岩崎書店 1400円)
 エマは万引きをしてわざと捕まります。何故? 物わかりの良い、だから何にもわかっていないパパとママへのメッセージ。エマは摂食障害です。心はとても不安定。何故?
 エマはある日記を読み続けています。ホロコーストで書かれた日記。それとエマの関係は?
 六〇年以上も過ぎた過去の痛みを、過ちを、今の若い世代に伝える物語。ラストの衝撃は強く記憶に残るでしょう。(h@moving)

『曲芸師ハリドン』(ヤコブ・ヴェゲリウス作 菱木晃子訳 あすなろ書房 1300円)
 スウェーデンの作品です。
 曲芸を生業としている少年ハリドンは、醜い容姿のために、自ら心を閉ざしているようなところがあります。そんな彼が唯一心を許しているのが、元曲芸小屋の支配人だった〈船長〉と呼ばれている人物です。二人は一緒に暮らしているのですが、ある夜ハリドンが帰ってくると〈船長〉がいません。心配したハリドンは夜の街を捜して歩きます。
 派手なストーリー展開よりも、ハリドンの不安やさみしさを丁寧に描いています。たった一夜の幻想的で暖かな物語。味わい深いって言葉がピタリ。(h@moving)

『涙のタトゥー』(ギャレット・フレイマン=ウェア作 ないとうふみこ訳 ポプラ社 1400円)
 舞台はニューヨーク。主人公のソフィーは15歳。男の子の話題にしか興味のない女の子たちから距離を置いていて、医者になろうと勉強をしているし、水泳で体も鍛えています。でも、そんな風にがんばっているのは、弟を亡くしたことや両親が離婚した心の傷をいやすためかもしれません。そんな彼女の前に現れたのが、頬に涙のタトゥを入れたフランシス。その理由を知り、彼を知っていくことで、ソフィーは次第に心を開いていきます。
 これぞYAって物語ですね。(h@moving)

『ボーイ・キルズ・マン』(マット・ワイマン:作 長友恵子:訳 すずき出版 1600円)
 コロンビアが舞台です。貧困層の少年ソニー。父親が亡くなって後、その弟が母親と暮らすようになますが、彼はソニーに毎日のように暴力を振るいます。こうした日常から抜け出す道としてソニーが選択してしまったのは、殺し屋。麻薬マフィアが子どもに薬を注射して、人を殺させるのです。描かれる世界は本当に痛いです。その先に希望も見えません。しかしそれでもそこに子どもが生きている事実から目をそらすことはできません「その やまの むこうの くにで おとこのこが たおれていた」(『ぼくがラーメン たべてるとき』)。(h@moving)