115号


2007.07.25

       
ほそえさちよ

児童文学書評 読み物2007.6
◎フランスらしいファンタジー
『トメック さかさま川の水1』(2000/2007.5)
『ハンナ さかさま川の水2』ジャン=クロード・ムルルヴァ作 堀内紅子訳 平澤朋子画(2002/2007.5 福音館書店)

フランスのファンタジーにはイギリスやアメリカ、ドイツの物とは違う薫りがある。きちんとした確かな世界でいろんな価値観がしのぎを削るというタフな物語よりも、想像のおもむくまま流れるようにストーリーが連なってしまう、といった感じかしら。小学生の頃に読んだドリュオンの『みどりのゆび』があまりにも美しいファンタジー(強すぎて幻想を伴うような願い)で現実をしなやかに撃ったので、強く印象にのこりすぎて、そんなふうに思い込むようになったのかもしれないが。『星の王子様』もしかり。詩的なイメージ豊かな物語に浸るうれしさ。
『トメック』『ハンナ』はさかさま川の水を探しに旅に出た二人のそれぞれの道行きをつづったものだ。トメックは村に一軒しかないよろず屋の主人として満足げに毎日を過ごしていたのだが、ある日、店に棒付きキャンディーをかいにきた女の子を一目見た時から、あっという間に、完璧に恋におちてしまう。女の子は海から遡って流れるさかさま川(クジャー川)の源に、飲めば永遠に死なないといわれる雫を探しに行くのだという。その言い伝えともなんともわからない不確かな情報だけを頼りに、トメックは店を閉めて、女の子を追って旅に出てしまうのだ。入ってしまうと出てくるまでわすれられてしまう深い森(なかでは目の見えないものすごく大きな熊が徘徊して食べ物を探している)を通り抜け、花の薫りを嗅いで眠りこんでしまい、目覚めの言葉が見つかるまで本を読んでくれる小人たちに出会ったり、とらわれの島で夢のような日々過ごしたり……と冒険を続ける。さいごには恋した女の子(ハンナ)と奇跡的に出会い、一緒にクジャー川の雫をもちかえるまでをつづっているのだが、木に生えるリスの実や香水作りの小人の村など、奇妙なイメージにあふれ、五感に訴えかけてくる不思議な語り口に魅了された。
『ハンナ』はトメックに再会するまでの自分の来た道を語っている。ところどころ、二人が交差する場面がこの二冊をつなぐ点となっているのだが、独立した本として読んでも楽しめるなと思った。(もちろん1、2と続けて読んだ方が膨らみがあって良いのだけれど)ハンナの生い立ち、気がふれてしまった父親のこと、お姫さまの化身として法外な値段で譲られた青い小鳥、小鳥のために永遠に死なないための雫を取りに行こうと思ったこと、砂漠の旅、お姫さまに間違えられたことなどどんどん読み進められる。現在進行形で語られる『トメック』に比べると、振り返っている物語なのでいくぶん内省的なところもあり、言葉について、美醜について、作者の思いに触れられたような気がした。世界を旅した作家らしく異国の人びとへのまなざしがあたたかく、旅を続けていくことで、周囲の有形無形の思いをになっていく様をしっかりおさえているのもなるほどと思った。幸せなラストとことばに胸があたたかくなる。

◎その他の読み物、絵本評論
『帰ってきた船乗り人形』ルーマー・ゴッテン作 おびかゆうこ役 たかおゆうこ絵(1964/2007.4 徳間書店)
ゴッテンは人形の物語をいくつもかいている。中でも一番有名なのは『人形の家』(岩波書店)だけれど、本書は孫の男の子のためにかかれたものとか。女の人形ばかりが暮らす人形の家にやってきた小さな船乗り人形の男の子カーリー。彼が窓からいつも港をみつめ、水平線の彼方に憧れ、いつかいなくなったお父さん人形やお兄さん人形を探しに行くんだと思っています。ある日、カーリーが窓辺から外におちてしまい、船乗り学校の生徒ベルトランにひろわれたところから、物語の視点も流れも大きく動きます……。人形の家の中での物語と船乗り学校での少年たちの生活がどんなふうに結ばれ、つながっていくのかしらと読んでいるうちはちょっと心配たのですが、大丈夫。きちんとうれしい結末がまっていて、ゴッテンの人を見る目の確からしさとあたたかさに心奪われました。自分で読むのはまだむずかしい小学校低学年くらいの子にぜひ、読んであげたい。

『あかりの木の魔法』岡田淳 (2007.4 理論社)
こそあど森の物語シリーズ9作目。こそあど森の池に怪しい男がやってきたと住人たちがピクニックを装い集まります。それは怪獣学者と名乗るイツカとその助手の言葉を解するカワウソ。イツカが本当の自分の姿を語る部分と森の住人たちと過ごす部分、この森で過ごすことで忘れかけていた、でも大切なイメージをもう一度目に焼きつけることになったシーン……それぞれが読者の中でむすびつき、イツカという人の全体像をかたちづくる。あかりの木のイメージ自体は現実的なものなので、本文を読んで、ああと思い浮かぶ人も多いだろう。ただ、あかりの木に生命をつないでいくという意志を見て、それをイツカという人のもともとに置き、その暮しを振り返ることで、生きていく意味を伝えようとしているのが、この作家らしい。

『タイドプール』長江優子作(2007.3 講談社)
講談社児童文学新人賞佳作の単行本化。「インターホンがなったので、ドアをあけたら、お母さんがとどいていた。」という始まりで、すとんとこの少女の心象にはまってしまう。新しいお母さんがきて、自分の今までの生活が侵食されていくという危機感と鼓笛隊の指揮者に選ばれてしまったことで親友との関係が微妙にずれていく様を丁寧に描いている。家族や家族の外の大人(新しいお母さんのお母さん)もきちんと出してきて、子どもの世界だけで物語をごまかさないところがいい。

『空からおちてきた男』ジュラルディン・マコックラン作 金原瑞人訳 佐竹美保絵 (1996/2007.4 偕成社)
飛行機の故障で砂漠に墜落し、現代の文明からはずれてしまった村の子どもにたすけられたカメラマン。原書名SMAIL!は、「笑って! カシャッ!」と主人公のカメラマンが、助けてくれた村の子どもや勇者、病気で死にゆく子どもなど撮っていったところからつけられたものだろう。その1枚1枚の写真についての物語が本書。主人公はカメラのフラッシュで居場所を見つけられ、助かったのだが、彼の写した写真は手元にはなく、過ごした村もこんな砂漠にあるわけがないと一笑に付される。カメラマンの気絶した頭の見た幻だったのか、それにしては奇妙に生々しく、心通いあう時間であったこと……。マコックランの話術を存分に楽しめる1冊。

『サリーおばさんとの一週間』ポリ−・ホーヴァス作 北條文緒訳 (1999/2007.4 偕成社)
最初はアメリカ流ほら話の類いかと思っていた。でも、これはサリーおばさんと子どもたちのパパ・ロビーの物語であり、サリーおばさんもパパも子どもの頃におこしたこの事件を忘れられず、それを背負って生きてしまっている。その切なさが独特。カナダのバンクーバー島での暮しぶりの愉快なこと、へんてこな大叔父さんのことなど、もっと聞かせてと頼むアンダソンの三人兄弟と一緒になって笑っていると、苦さにぶちあたる。それは生きていくことに通じる大事な味。

『魔女の宅急便 その5 魔法のとまり木』角野栄子作 佐竹美保画 (2007.5 福音館書店)
13歳で一人立ちしたキキも、はや20歳になるのです。今まで自分の力に自惚れたり、空回りして凹んだりしながらもコリコの町で暮らしてきた七年目が本書です。トンボさんの気持ちがわからなくなったり、古着屋さんをしながら詩をかいているウイさんの恋を密かに手伝ったり、ファッションショーのお手伝いをしたり……。またしてもキキの魔法の力が弱くなってしまって、悩んでしまいます。ラストは次回作の予告までついて、読者の思い描いた幸せの日々がキキに続いていくとわかります。主人公が成長するにつれ、その内面や生活を表現するために、文体も変えていければどんなに楽なことでしょう。けれども、本シリーズは一貫して、物語を読みはじめた子どもが自分で読み解いていける、そういう日本語で書かれています。これから出会うであろう異性への思いや両親への相反する思い、自分への懐疑……それらを子どもの身の丈にあった日本語で表現するには、出来事も思いもその語り口を制限されているのと同じこと。それゆえ、キキとトンボさんの子どもが13歳になった年を描く次作で、一巡りした人生が、読んでいる子どもにも自分のものとして物語の時間の蓄積と共に実感されるのでしょう。

『きむずかしやの伯爵夫人』サリー・ガードナー作絵 村上利佳訳(2003/2007.5 偕成社)
イギリスの絵本作家でもあるサリー・ガードナーの童話。挿し絵も作者が手がけている。公園に箱ごとおきざりにされてしまった五人の人形たち。ネコに襲われたり、公園管理人に見つかってゴミ箱に捨てられそうになったり、大変な目に出会います。ネズミさん夫婦や不思議な人形劇場の操り人形に助けられ、なんとか五人の家族のように暮らせるまでを描いています。伯爵夫人は自分が高価な人形であることを鼻にかけ、なにかとみんなの生活をぐしゃぐしゃにしてしまうのですが、公園管理人に連れていかれそうになって、最後に自分の力で仲間の人形を助けます。そのかわりに自分のいのちを落としてしまうのですが……。ラストはみんなよかったねえと満足の結末。人形やネズミたちの視点から書かれる公園の様子がおもしろく、もの造りの不思議も納得でき、楽しいファンタジーとなりました。
ガードナーの絵本は7月に『フェアリーショッピング』(講談社)がでます。ほかにもお姫さまがたくさん出てくる絵本や、おとぎ話に出てくる家や小物などをあつめたカタログ絵本など細かく描きこまれた小さなかわいらしいものであふれた絵本、力持ちの女の子が活躍する童話など、絵と文章がぴったりあった軽妙な本もたくさん書いています。いろいろ紹介されるとうれしい作家。

『ジュディ・モードの独立宣言』ジュディ・モードとなかまたち6 メ−ガン・マクドナルド作 ピーター・レイノルズ絵 宮坂宏美訳 (2005/2007.3 小峰書店)
モードは、アメリカ誕生の契機となったボストン茶会事件や独立宣言の行われたボストンに家族で出かけました。そこで、イギリス人の女の子とともだちになったり、自由な人間になろうと宿題や弟から逃れる自由やお小遣いをたくさんもらう自由を宣言したモードの独立宣言を書いて両親にお願いしたりします。自由を手に入れるには、努力も必要と、しっかりしているところモードに見せてほしいといいます……。アメリカの独立の歴史的な事実が巧みに物語に組み込まれ、それが自由とは好き勝手することを言うのではなく、責任を伴うものであることをお説教臭くなく伝えようとしているのが、すてき。

『どっから太郎と風の笛』やえがしなおこ作 吉田尚令絵 (2007.4 ポプラ社)
岩手の山を思わせるふかい木々のあいだからきこえる風の声を、ことばに感じるコウイチ。話し掛けるのはどっから太郎。方言のやわらかさと様々な音や声を表現する擬音やうたの巧みさ。六話の連作で描かれる山の生き物や土地の気のようなものにふうわりと包まれて、静かな心持ちになる物語。ひとりおののいていたコウイチがきつねやサトシおじさんやどっから太郎とかかわっていくことで、すこうし大きくなっていく、その様子がうれしい。

『うたちゃんちのマカ』柏葉幸子作 石川由起枝絵 (2007.5 講談社)
マカは摩訶不思議のマカ。なぜってマカーとうたちゃんがよべば、子犬のマカがやってくるのだけれど、お兄ちゃんが呼べばドラゴンだし、お父さんが呼べば子どもの頃かっていた犬だし、お母さんが呼べばペンギン? ペットショップで出会った女の子にもらったマカは、見えないけれどいる動物で、人それぞれに合わせて姿を変えて?いるらしい……。なんともおかしな人を食ったような力技の設定で、それでもほおっと納得させてしまうお話になっているのは、さすが。ペットが飼えないお家の子どもはこの物語を切実に読むのだろうな。ピアスの『まぼろしの小さな犬』は思いが現実に収束していくお話だったが、こちらはそれぞれの思いをそのままに進んでいく。それだけ葛藤はないのだけれど。

『妖精ケーキはミステリー!?〜おばけ美術館2』柏葉幸子作 ひらいたかこ絵 (2007.6 ポプラ社)
絵の中から描かれた者たちが出てきてしまう、おばけ美術館シリ−ズ2作目。今回はまひるの友だちが心を奪われたり、美術館の絵が盗まれたり……と泥棒が出現。それをおばけ美術館の面々が見つけだし、解決するという筋書き。両親の離婚にうちひしがれる友だちやその子を助ける妖精(ブラウニー)の必死さ、それをきちんと受け止める大人の結末がいい。ドタバタと楽しく見える物語の芯には、子ども目線で大人を射る作者がいる。

『ジルケンの冒険』松居スーザン作 松成真理子絵 (2007.3 佼成出版社)
コウモリみたいな悪魔みたいな表紙のジルケン。何者なのか、わかりません。森に住むナネルばあさんと出会ってからは、牛乳をもらったり、一緒に薬草や昆布を取りにいったりしてすごしました。けれど、いたずらがすぎて、おばあさんにどこへでもいっておしまい、といわれてしまいます。ジルケンはあてもなく、自分が何者かもわからず、ただ、心の中に音楽があるのを時々思いながら、旅をしていくのです。そこで魚とりの男の子、お金持ちの女の子、ハープを持った詩人、無口な船乗りなどに出会い、心の中の音楽を形にして出すことができるようになりました。それが、ナネルおばあさんのもとへ帰るきっかけともなるのです。人はだれでも心の中に音楽を持っているのでしょう。それが、音楽であれ、言葉であれ、身体の動きであれ、表すことができれば、自分に巣くう荒れを飼いならすことができるのだと、言葉少ななジルケンが教えてくれます。

『マチルダばあやといたずらきょうだい』クリステアィナ・ブランド作 エドワード・アーディゾーニ絵 こだまともこ訳 (1964,1970/2007.6 あすなろ書房)
1970年に学研から刊行されていた『ふしぎなマチルダばあや』の新訳復刊。最近ではこれを原作に映画がつくられています(ナニー・マクフィの魔法のステッキ)。ナニーの出てくる時代ですから、今の子どもたちから見れば、想像のつかない昔なのだけれど、いたずらのとんでもなさはわかるでしょう。あまりにいたずらがひどくて、ばあやもねえやも家庭教師も1週間と持たないブラウン家の兄弟を、どこからともなくやってきたマチルダばあやがしつけなおす様を描いています。メアリー・ポピンズより悪夢めいた解決策で不条理なところもなんだかこわおもしろい。これは少しづつ読んであげたい本ですね。いっしょに、うえぇとか、あーあとかいいながら読むと楽しさ倍増です。

『絵本でほどいてゆく不思議』松井るり子著 (2007.7 平凡社)
本書でほどかれる不思議は暮らしていくことの不思議。それは生きていくことの不思議といってもいいだろう。お金のこと、食べるということ、家のこと、子どものこと……衣食住にテーマを分け、それぞれを考えるよすがとして絵本をひらいて読みといていく。絵で実際のものを映し、言葉で昇華していく絵本という造りそのものが、手を動かし、思いめぐらす体験と重なるところが多いのだろう、不思議にしっくりと似合った絵本が手にとられている。特にお金についての章、住まうことの章で書かれている絵本の切り口は今まであまり見たことがないものだ。布や縫うという手仕事を祈りとたぶらせているところ、手で考えることで不思議をてなづけていく智恵を指摘するところなど、流れていくよるべない現実や変化する目の前の子どもときちんと向き合って暮らす中から深く思考されたものといえる。

児童文学書評 2007.7
◎惑いつつ軽やかに〜マックス・ベルジュイスの生涯を1冊に
『かえるでよかった〜マックス・ベルジュイスの生涯と仕事』
ヨーケ・リンデルス著 野坂悦子訳(2003/2007.9 セーラー出版)*書店に本が並ぶのは8月末頃

 ベルジュイスの絵本には、初期の頃から親しんできたが、彼が国際アンデルセン賞を受賞したときには少し驚いた。オランダの絵本作家といえば、やはり「うさこちゃん」のブルーナの方が印象強かったからだ。日本でもベルジュイスの「かえるくん」シリーズは翻訳されていたものの、それが本書を読むまで、こんなにもで世界中に親しまれ、深く読まれていたとは知らなかった。初期のグラフィック的な絵本の方が絵としては強く、目に残るのに対し、「かえるくん」シリーズは色味も淡く洋服を着た動物たちのすがたがかわいい、みながイメージする<ザ・子どもの本>。テキストも増えていて、長くつづく(人気のある)お話絵本の1シリーズとしてしか、見ていなかった。けれども、「かえるくん」シリーズの深さが、この評伝の著者のお話を聞き、ベルジュイスの生き方の芯を映してしまっていることを本書で知り、得心したのである。
 『かえるでよかった』は240ページにもなる大部の本。著者の話では、レオポルド出版がベルジュイスの評伝を出そうと本人に相談し、彼が書評家であるヨーケ・リンデルスを推し、企画が始まったのだという。そのため、ベルジュイス本人に三年間に渡りインタビューし、関係者などから広く証言をとり、多面的にベルジュイスとオランダの絵本出版界、ボローニャを中心とした絵本作家たちの姿を描くことができたのだろう。ベルジュイスの生涯を描くだけではなく、1960年代のヨーロッパでの絵本の扱い、新しい絵本出版社であったノルド・ズット社の様子、オランダの政治的な状況など、ベルジュイスという窓から見えてきた一つの時代というものが語られている。
 ベルジュイスは穏やかで楽しいかえるくんのような人だったといっているが、彼の家族関係、自分の子どもとの関わり方など、彼の私生活での一種の生き辛さにも目を向けており、著者の信頼の厚さ、絵本と彼自身の結びつきの強さを感じさせた。かえるくんの中のさびしさ、人恋しさは、ベルジュイスの中にもどうしようもなく流れているものだということを。絵本を描くということが、ただ本を作るだけでは納まらずに、マーチャンダイジングとむすびつき、キャラクター商品として、様々に展開され、それによって絵本の販路も広げていく、現在の絵本ビジネスの流れに「かえるくん」シリーズものっかっていった。そのことが、作家に本を作る以外の仕事をさせ、消耗させてしまっている様子も本書の最後の方には書かれている。
 本書がオランダで刊行された後、国際アンデルセン賞がベルジュイスに授与され、その後すぐに亡くなってしまうことになる。それが日本語版で追記として書かれている。著者のお話を聞いたときに、ベルジュイスの最後の作品『かぜのなかのかえるくん』を見せていただいたが、ペンで描かれたスケッチの最初の一枚にだけ薄く色がつけられていたラフの状態だった。手描きのテキストは、もしかしたら、まだ手を入れるはずだったものかもしれない。いきいきとした線のイラストとグラフィカルで読みやすい手描きの文字が、これから落ち着いた線と色のハーモニーにあふれた絵本の原画になるためには、あと一工程も二工程もかかったことだろう。さいごまで、かえるくんを描きたかったのだろうな、いろいろな出来事に出会いながらも、なんとか毎日を過ごしていくかえるくんが、ベルジュイスと重なったお話だった。メッセージではなく、人生についてのメディテーションとしての絵本。かえるくんの絵本を読むことは、かえるくんの毎日を追体験しながら、そこであらわれる感情や思いをその動きのままに受け取ること。そうすることで、人生というものについての一つの視点を、読者は知らないうちに手に入れることになるのだ。
 本書では、ベルジュイスの生涯を語ること以上に、絵本やその画風、色彩構成などを深く読み解いており、絵本論として、出版史としても力作となっている。ただ、オランダの子どもの本の作家や画家など、不案内のために名前だけでは判りづらく、巻末にでもまとめて紹介されていたら、とか、ベルジュイスの年譜があれば……と思うところはあるけれども、これだけの評伝を刊行したということがすごい。翻ってみて日本ではどうだろうか。ひとりの絵本作家を多面的に読み解くものができるかしら。


◎その他の絵本
『モーツァルトくん、あ・そ・ぼ!』ピーター・シス作・絵 きむらみか訳(2007/2007.6徳間書店)
ガリレオ、ダーウィンに続き、シスの伝記絵本の最新作は モーツァルト。子どもの頃から天才で、お父さんから練習練習といわれていたモーツァルト。練習ばかりで遊んだりしないの?と聞くと、音楽、音そのもので遊んでるんだよ、っていうことを、絵で見せてくれる展開が楽しくて、絵本らしいナと思う。奇妙で愛らしい音たちの姿がどんどん動いて、そのなかにモ−ツァルとが入り込んでしまうところがいい。

『ディック・ウイッティントンとねこ』マーシャ・ブラウンさいわ・え まつおかきょうこやく(1950/2007.6 アリス館)
コルデコット・オナー受賞作。イギリスの昔話を再話し、力強い木版画を添えている。なにももたないディック・ウィッティントンが猫の力で立身出世する話は、すこし「長靴をはいた猫」を思わせるが、本作では、猫は猫本来の仕事をするだけで機転を利かせたり、智恵比べなどするわけではない。時代や風俗をきっぱりと描き出し、お話の舞台を過不足なく見せてくれる画面構成が親切。

『もりのびょういん』渡辺鉄太さく 加藤チャコえ (2007.6 福音館書店)
オーストラリアの森が舞台になった動物たちの出てくる絵本。みなが良く知るコアラやウォンヴァット、火くい鳥などが患者さんとなって、お猿のお医者さまに見てもらいにくる。一番の盛り上がりは、オーストラリアによくある自然発火の火事で、森が燃え、コアラの親子がユーカリの木に取り残されたのを助けるシーン。それまで、さりげなく描かれていたものが、きちんと役に立って、ほほうという感じ。

『まさか おさかな』フェイ・ロビンソン文 ウエイン・アンダースン絵 岡田淳訳 (2005/2007.6 BL出版)
水族館でお魚を見るのが楽しみの女の子。ある日、お家の蛇口をひねると、そこからお魚がでてきちゃった! 両親にこの状況を訴えても、ふんふんと上の空できちんと見てもくれやしない。いたるところから、お魚が出てきて、最後にはおふろの蛇口からくじらがでてきて、お家を水浸しに。とうとう、女の子のお家は水族館の分館になって……。こんなこと、ある訳ないよ、とページをめくりながらも、水族館の人の説明には納得してしまう展開が上手。親が子どもの話を適当に聞いていると、こんなことになっちゃうよ!なんていう教訓話ではないけれど、この絵本を読んで、子どもは気持ちを発散させられるかも。とにかく自分の好きなものでお家がいっぱいになっちゃうなんて、素敵!とにっこりするはず。

『トラさん、トラさん、木のうえに!』アヌシュカ・ラビシャンカールぶん ブラク・ビスワスえ うちやままりこ訳 (2002/2007.6 評論社)
アメリカ、カナダなど多くの国で高い評価を受けたインドの絵本がやっと翻訳された。ベテランの絵本画家の動きのある生き生きとした絵とリズミカルで繰り返しの楽しいテキストがいい。墨とオレンジ色の2色しか使っていないのに、焼けた土の色も、青々とした川の水の色も見えてくるような。アートンで刊行されたインドの絵本シリーズで注目のインドの出版社タラ・パブリッシングのターニングポイントとなった作品。

『海がやってきた』アルビン・トレッセルト文 ロジャー・デュボアザン絵 やましたはるお訳 (1954/2007.7 BL出版)
さりげなくでも幸せいっぱいに自然との交歓をうたうのが上手いトレッセルトとのびのびと明るい画風で人気のデュボアザン。ゴールデンコンビの夏の海の絵本。男の子が朝早く海辺で見つけたものをページをくるごとに次々と見せていく。すがすがしい夏の朝の空気まで見えてくるような絵、シンプルな言葉で男の子の気持ちが大きくふくらんでいく様。大きな大きな波が男の子の見つけたものたちを散らしても、それが海と男の子のお話のよう。

『やまぼうしの村のピッキ』南塚直子(2007.6 理論社)
繊細なタッチで描かれる森の妖精ピッキのすごす春、夏、秋、冬の一巡りを描いた絵本。ささやくような言葉で、小さな存在の営みを示し、自然のなかのささやかなだけれど美しいものへ目をむけさせる美しい1冊。

『おばけでんしゃ』内田麟太郎文 西村繁男絵 (2007.6 童心社)
『がたごと がたごと』の姉妹編と言えるような絵本。おばけたちが乗り込む電車は、いろいろな駅に止まります。細々と描かれるおばけたちがなにをしているのか、一つ一つ子どもと指差しながら見て、お話しながら読んで、たのしかったなあ。おばけでんしゃの終点は人間の町。おばけたちの変身ぶりがまた楽し。

『いっちゃん』二宮由紀子文 村上康成絵(2007.6 解放出版社)
いっちゃんは目が一つしかない男の子。クラスにはのっぺらぼうの女の子もいますが、他の子はみんなふつうにふたつ目の子たちです。まず、こういう設定でお話を作り、絵本にしてしまうというのがびっくり。それが不思議とこんなクラスもあるわよね、と納得させられてしまう絵にもびっくり。みんなと違うということ、誰かと一緒だといいのにと思うこと……。突飛な設定であればあるほど、人の心の芯があらわになります。

『はたらくくるま よいしょ』『まかせとけ』『とどくかな』三浦太郎 (2007.6偕成社)
よいしょ とはたらくのは、ダンプカー、ホイールローダー、フォークリフト、ブルトーザー、パワーショベルがトラックに土砂を積んで……とまた、最初のトラックへともどっていく、エンドレスに読める絵本。まかせとけ!とがんばるのは、大きな荷物をはこぶ車たち。とどくかなと見せてくれるのは高いところへ荷物を運ぶ車たち。車も働く人たちもレゴブロックのようなシンプルで美しい姿と愛らしさで描かれる。カタログ的に車を羅列するのではなく、すこし展開に流れがあって、1冊の本としてくり返しページをめくりたくなるちょっとの意匠がある。それが程よい感じで若いお母さんたちにも親しく手にとってもらえそう。

『ぼくのコブタは いいこでわるいこ』マーガレット・ワイズ・ブラウン文 ダン・ヤッカリーノ絵 はいじまかり訳 (2002/2007.7 BL出版)
ワイズ・ブラウンの未発表作に、ヤッカリーノが絵をつけている。男の子がコブタを飼いたいとママに頼むところからお話が始まる。コブタのお話はアメリカには多いけど、ペットにするのは珍しいのではないかしら。大きすぎなくて小さすぎなくて、いい子すぎなくて悪い子すぎない、男の子にちょうどいいコブタはいませんか?ですって。家にきたコブタの様子をいちいちながめては、泥んこで走り回って悪い子ね、きちんときれいに食べていい子ねといわれます。こんなコブタとの生活は小さな子との暮しに良く似ています。いい子だなと思っていたら、どうしても言うことが聞けなくて、なんて悪い子なんでしょうと思ったり、いたずらばかりで嫌になっちゃう!と怒っていたら、やさしい思いにほろりときて、なんていい子と思ったり……。でも、良い子で悪い子、悪い子で良い子だからこそ、面白くて、ちょうどぴったりの最高のわが子と思えるのかな、この絵本の男の子とコブタみたいに。

『ひよこのコンコンがとまらない 北欧の昔話』ポール・ガルドン作 福本友美子訳 (1967/2007.7 ほるぷ出版)
大きなたねを飲みこもうとして、のどにつまらせてしまったひよこ。めんどり母さんは慌てて水を探しにいきます。いずみに水をもらおうとすると、コップをもっておいでと言われ、コップをちょうだいとカシの木に言いに行くと、枝を揺すってくれたらあげるよと言われ……。どんどん要求がめぐりめぐって鉱山の小人たちにまで行き着きます。小人が親切にしてくれたので、ひとつひとつ解決され、ひよこに水を飲ませてあげられたのです。昔話の一つの型であり、言葉がどんどん積み上げられるのも楽しい。積み上がった要求が、ほいっと次々解決していくラストへのスピード感。安心して楽しめる絵本。

『狂言えほん ぶす』内田麟太郎文 長谷川義史絵 (2007.7 ポプラ社)
先月に紹介した講談社版と比較して読むと面白いかも。はじめての狂言といえば「ぶす」なのかしら。ポプラ版「ぶす」は登場人物たちのセリフ回しが、実際の舞台を思わせる口調になっていて、和風の感じが良く出ていると思う。言葉の調子や音が、今と違って面白い、と言う点を絵本化の眼目としているのでしょう。講談社版では、お話の内容をきちんとわからせたいということにより重点が置かれているのかも。イラストも自在で大胆な構図が楽しい。

『くらびら』もとしたいづみ文 竹内通雅絵 (2007.6 講談社)
講談社版狂言絵本第2弾。不思議なきのこがぼこぼこ出てきてしまい、きのこ払いのおまじないをしていた山伏や家のものたちをきのこたちがおいかけまわす、というお話。派手な色使いとマンガ的な表現(汗やきのこの動きや表情をあらわす記号的な表現等)で今の子にも面白かろうと力一杯描いている。このみっちりと描きこまれ、塗りこめられた絵がみどころでもある。山伏がお祈りをすればするほど、きのこが増え、頼りにならない展開が絵本的。

『くうたん』やぎたみこ (2007.6 講談社)
お庭で拾った小さな白い卵。幼稚園からかえって見ると、くうくうと泣くふしぎなものが生まれていました。毎日毎日大きくなり、とうとう部屋いっぱいの大きさになって、固く浮いてしまいます。さなぎになったのかも、と父さんが言い、どんなに怖いものに変化するかとドキドキしていたら、小さな翼をもって空へ飛んでいってしまい……。家族となじんで大きくなったくうたんがいなくなってしまった喪失感。さなぎの皮でくうたん人形をいくつも作ってくれるお母さん。そこへ、くうたんが家族を連れて戻ってきました! 静かで穏やかなイラストが不思議なこのお話を淡々と描き出し、あるかもしれないなと思わせる暖かさを伝えている。懐かしいような暮しぶりを描く新人のデビュー作。雰囲気をもった絵と語り口が印象深い。
 でも、ちょっと引っかかることが。くうたんが家族を連れて戻ってきたのだけれど、どうして、卵のくうたんはお庭に転がっていたのでしょう?空の雲から転がり落ちたのでしょうか? お話を作るということは、お話が作り上げた空間に起こることすべてを作者は想像し、きちんと読者に伝える術をつくすということ。絵本だからといって、そこのところ、おろそかにしてはせっかくの作品が弱くなります。もったいないなと思います。本文で描けなければ、表1、見返し、とびら、表4……どんなところを使っても、絵でも言葉でもお話をかたりつくすという意志がほしい。この絵本ばかりでなく、最近刊行される創作絵本の多くのものにそれをいいたいです。

『ウェン王子とトラ』チェン・ジャンホン作、絵 平岡敦訳 (2005/2007.6 徳間書店)
中国出身の画家がフランスで刊行した絵本。圧倒的な迫力で描かれるトラと水墨画の手法を使って細かく描かれる人の暮しや森の描写がすごい。伝統的な手法を使って描かれているが、絵本の見開きを3分割して描いたり、縦に横に分割を変え、視点の変化を意識して描く等、アニメーション的な動きを画面構成で示そうとしたり、なかなか工夫して描いている。物語は子どもを猟師に殺された母トラが悲しみのあまり、村を襲い、人や家畜を食い殺しはじめたところから始まる。それを止めさせるために、占い師はウェン王子をトラにさしだせというのだ。母トラは、王子を口にくわえた時、怒りが消え、王子を育て、慈しむことに。森の母としてのトラと城の母としての人間のお母さん。ふたりの母をもったウェン王子のお話は伝承風であるが、作家のオリジナルのものらしい。殷王朝時代の青銅器にトラが人の子をくわえているものがあり、それからインスピレーションをえたと書いてある。森と人を対立項としてではなく、補いあうべきものとして描くのが現代的。

『いぬとねこ』韓国のむかしばなし ソ・ジョンオ再話 シン・ミンジェ絵 おおたけきよみ訳(2005/2007.7  光村教育図書)
とらえられたすっぽんをたすけたおばあさん。それは竜宮の王子でした。すっぽん王子の背に乗り、竜宮へいき、お礼に魔法の玉をもらいます。思っただけで願いがかなう魔法の玉のおかげで暮しぶりが良くなるおばあさん。それがよくばりばあさんに盗まれたのを知った、飼い犬と飼い猫が取りかえす物語。猫が欲張りばあさんの家のネズミをおどして、魔法の玉をみつけ、おばあさんに戻します。ラストは猫が家で、犬が外で飼われるようになったと理由づけして終わるのも昔話の型にのっとった終わり方。起伏のある物語をコラージュと色鉛筆を多用した現代的な画風で楽しく絵本化している。

『セーラーとペッカは似た者どうし』ヨックム・ノードストリューム作 菱木晃子訳 (2003/2007.7 偕成社)
セーラーと犬のペッカのシリーズ5作目。4作目でセーラーが買ったサッカーくじが2000クローネほど当たったところから、話が始まっている。今回のふたりは、この当てたお金で友人のジャクソン夫人の部屋の壁紙をきれいに張り替えることに。壁紙を買いにゴキブリのヨーナスの店に行って……といつものように、ふたりの行動がコマ割りの画面で描かれ、その舞台が大きな画面で示される。どうして、ふたりは似た者どうしなのかは、ふたりのやり取りを聞けば、ほほうと納得するはず。画面の展開もコラージュあり、写真あり、と変化に富んでいる。最初と最後にそれぞれ挙げられたアスペンストリュームの詩がセーラーとペッカの住むこの世界を脇から支えているような感じ。ラストのペッカの写真がかわいすぎます。


◎読み物
『パピロちゃんとにゅうどうぐも』片山令子作 久本直子絵 (2007.6 ポプラ社)
パピロちゃんシリーズ夏編。夏休み、家族で高原のホテルにやってきたパピロちゃん。ひとりでお散歩に出かけ、不思議な男の子に出会います。真っ白くてもこもこした男の子の造型がかわいい。それは、おーいと、パピロちゃんが声をかけた入道雲が、一緒に遊びたい一心で、ぎゅうと小さくなって現れたもの。ひとりぼっちの豊かな時間をファンタジーの手法で楽しく、子どもの空想に寄り添うように物語られる幼年童話。

『ほらふき男爵の冒険』G.A.ビュルガー編 斉藤洋文 はたこうしろう絵(2007.6 偕成社)
ドイツのほら話として有名なこの物語、子どもの向けの本で見るのは久しぶり。むかし、河出書房新社でケストナーが再話し、たぶんレムケが絵をつけていた絵本シリーズの1冊に入っていた。そのシリーズを訳し直し合本し大人向けの装丁で筑摩書房で出されたこともあったが。よく、こんなに作家の柄にあった物語の鉱脈を見つけ、うまく現代の子ども向けにリライトしたと感心してしまった。理屈を畳み掛けるような作家の文章が、このほら話によく合っていて、語られる蘊蓄も面白く、作家が楽しんで物語に遊んでいる姿が見えてとてもいい。お話の中の真実をきちんと伝える小学校、中高学年向けの読み物として、シリーズ化されるのだろう。楽しみ。

『たたみ部屋の写真展』朝比奈蓉子 (2007.7 偕成社)
中学1年生の夏休み、空家だと思って忍び込み、亀の池までほってしまったタモツとユウイチ。何回か通ううちに、そこの家の人に見つかってしまったことから、物語が展開する。認知症であるおばあさんに、亡くなった子どもと間違えられとまどうタモツ。亡くなったおじいさんが認知症だったから対応が慣れているユウイチ。なれない介護で気持ちが乱れてしまう夏実さん。おばあさんとすごすうち、夏実さん家族が離れてしまった理由も知ることになり、タモツとユウイチはいつしか、この家で過ごすことに使命感をもつまでに……。そこに、亡くなった息子さんの秘密とタイムカプセルさがしが絡んできて、こんがらがった糸がほどけるように、それぞれの思いがきちんと納まるべきところに納まっていくのがこの物語の誠実さをよくあらわしていると思う。夏休みと老人の組み合わせは『夏の庭』を思い起こさせるが、そこまでセンシティブではなく、人物それぞれを丹念に描いていて、朴訥な印象。ラスト、タモツはどうしても引っ越しをさせなくてはならなかったのか、疑問にも思ったが、一夏でゆっくりと成長した少年たちを旅立たせるということで、一応の決着をつけたかったのだろう。丁寧に思いを込めて書かれた物語。

『緑の模様画』高楼方子作 (2007.7 福音館書店)
この作家は時を越えて、人と人が結びついてしまう幸せな瞬間を夢見、信じているのだろう。いろいろな物語の中で、今を生きる子どもと昔を生きる老人がつながる様を描いてみせる。本作でも中学に入学する前の不安でおののいていた少女の心が、友人を見つけ、新しい日々に浮き立つ様子と、それを見ることで自分の大切にしていたキラキラとしていた思い出の時を生きなおす老人の姿がクロスする一瞬の輝きを描く。その輝きを目にし、その秘密を探ろうとする少女たちの物語を中心に、年代の異なる女性たちの物語も語られる。幾層もの物語が、するすると一枚の織物に織り込まれ、その全体を見渡せるようになった時、人の生きるということの不思議な力のもとを感じさせてくれる物語となった。
老人と少年のクロスする物語といえば『トムは真夜中の庭で』だろう。そこで描かれた時を越えた思いがラストの幸せな抱擁になったことを思い起こせば、本作の老人と少女たちのクロスは、はっきりとした目に見える形をもたなかったようにみえる。けれども、どこかで見守ってくれているという思いを少女たちが共有することで不思議な安心感や自分を律する術をもつことができるようになったのだし、他の世代の女性とつながる機会を得たこともその現れといえるのではないか。
この物語のキーとなる『小公女』を読み直した少女たちが、セーラの気高さを素直に良いなあと認め、そうありたいと思いながら、日々心が揺れるのを告白するシーンが好きだ。現代はきれいごとをいうものじゃないとか、本音を出さないとなどと、しれっと言われることが多いが、何か高みを目指し、それに向かって思い馳せることをしなくては、どんどん人間は下がっていくばかりなのではないかしら。現状を認めることは大切だけれど、それでよしとしない姿勢。憧れの思いの強さを本当に身体で知っているのは幼い子どもだった頃なのかもしれないが、現実や現状に押しつぶされそうになって、おののいてしまう思春期の子どもたちにこそ、思いを馳せるものをもってほしい、見つけられますようにと願ってしまう。この少女たちのように。
老年期、壮年期、少女期と3つの世代の女性が、それぞれに思いをかこちながら毎日を、何かを支えに生きている姿をいきいきと描き、暮すというこまごまとした楽しみにあふれた日々を慈しんで語っているこの物語は、様々に読み解ける豊かさをもっている。それが読んでいてうれしかった。