2005.01.25

       
【絵本】
児童文学書評2005年一月
○絵を描くということ
「絵描き」いせひでこ作 (理論社 2004.11)
「画家」M.B.ゴフスタイン(ジー・シー・プレス 1980/1986.3)
 いせひでこは追い求め、掘り下げて行こうとする作家だ。あこがれ、この手でつかもうとしてつかまえきれないものの輝きを絵に焼きつけようとする。「よたかの星」などの宮沢賢治の絵本シリーズはその賢治の心象と呼応したような画面が印象的であった。本作では絵を描く行為そのものを、自分の在り方を絵本という形にして見せてくれた。とても誠実に、力強く描かれた本だと思う。描かれたものとそれを彩る吟味された言葉。なるほど、絵描きはこのような心で毎日、いく枚もの絵を描いているのか。いせの思う画家の姿はやわらかな心で感じ、悩み、でも少しのことでスキップしてしまうような少年の姿に見える。絵本のページの中には、ゴッホの絵を思わせるページもあるし、強い風の中を進む宮沢賢治の姿も描かれる。りんごをもって、飛び立とうとする風の又三郎も見える。でも、それはわかる人にだけわかれば良い、というような感じで、絵本の中に置かれているように感じられた。ある程度、絵画について、いせの絵本について知識のある人には、より深く感じられ、そうではない幼い人たちには、何かしらの疑問の種を残す。それもひとつの在り方だとは思うのだが、同じく画家を絵本にしたゴフスタインを思い出した。
 ゴフスタインの小さな絵本では「画家は神のようなもの。でも つつましい」というテキストとともに、白いひげをはやした老人のような形が描かれる。この絵本のテキストの中では、「神」という言葉以外はどれも具体的で、絵画について知識のない人も、ある人も、かわらず自分の言葉でこの絵本を読むことができるだろう。最初に手にとった印象では、ゴフスタインの絵本のほうが読者を選ぶのではないかと思わせるのだが、そうではない。
 描かれる画家の姿が、少年か老人か。巻頭に挙げられる言葉が、ゴッホかピサロか。
 同じようなテーマを持ちながらも、語りかける対象が自身であるか、あなたであるかによって、こんなにも肌触りの違う絵本になるというのが、とてもすてきだ。(ほそえ)

○その他の絵本、読み物
「ねこだまし」斉藤洋作 高畠那生絵 (理論社 2004.10)
斉藤、高畠コンビの不条理絵本第3弾。(出版社はそれぞれちがっているけれど)今回もお話は絵には描かれない男の一人称ですすむ。いろんなものをかりて行く猫。最初はネクタイ。それから……。他の家から出てくるところ見たこともあるし、町で見かけたこともある。そして、ぼくの家の隣に引っ越して来た人は……。こういうテイストの絵本はあまりみないし(こういうお話のかける人は子どもの本の世界にはほとんどいないから)、ひとつの場所を作って見せてくれてはいるし、こういうのが好きという人は好きなのだと思う。(ほそえ)

「ゆきだるまのるんとぷん」たかどのほうこ作・絵 (偕成社 2004.11)
以前サンリードで出されていた幼年童話の改訂版。赤い帽子と青い帽子をかぶることで自分の名前と役割を決めていた雪だるまのふたり。そこにもうひとりの雪だるまが入ることで、その決まりごとがくずれ、それぞれの名前を持つことになったという。深読みしたければ、どんなふうにも深読みできる型のお話なのだが、ユーモラスなイラストとうたの入ったリズミカルな文章で、なんだか変だな、おかしいぞ、でも、わらっちゃう!
というかんじ。この奇妙な感じはこの作家ならではのもの。(ほそえ)

「私が学校に行かなかったあの年」ジゼル・ポター絵と文 おがわえつこ訳 (セーラー出版 2004.9)
ユニークな絵で人気のジゼル・ポターの自伝的な絵本。両親と妹の4人で人形劇団を作り、イタリアを巡業して歩いた一年間のことを絵本にしている。のちに両親が離婚し、ばらばらになってしまう家族の、唯一水入らずですごした濃密な一年のことを、たんたんと子どもの頃の目線のままに描いている。街頭での公演、見なれない陽気な人たちの姿、一人前の芸人として扱われた誇らしい気持ち……。ポターの描く、動物のお面をかぶった姉妹の愛らしいこと。(ほそえ)

「ムーちゃんのくつ」いとうひろし作 (主婦の友社 2005.1)
「ぼうし」「かばん」と続いたボードブックの3作目。今回、ムーちゃんはいろんな靴をはいてみます。おとうさんのながぐつ、お母さんのハイヒール、おねえちゃんのサンダル。でこでこ、ぽこぽこ、ぺたぺた、といろんな音がするのがおもしろい。そして、さいごはみんなの靴をはいてしまうのですが、その姿、小さな子を身近に見たことがある人には、そうそう、こういうこと好きなのよね、と手をたたいて喜びそう。目の前の子どもの姿が、きちんとしたストーリーの中で生き生きと描かれるとき、一緒に読む子どもも大人も、暮しの中のシーンでそれをまた、楽しめることでしょう。(ほそえ)

「ドラゴン だいかんげい?」デヴィット・ラロシェル文 脇山華子絵 長友恵子訳 (徳間書店 2004/2004,12)
犬を飼いたいのにだめ、といわれてしまった男の子。「じゃあ、ドラゴンだったらいいでしょ」と家に連れてきたんだけれど、部屋でウィンナー焼いちゃうし、お風呂にスパゲッティをてんこもり……とうとう、ママに「出て行って!」といわれてしまう。「じゃあ、ドラゴンの嫌いな犬を連れてくるよ」ということに。明るく陽気なイラストはカリフォルニア在住のイラストレーターの作。オチがしっかりしていて、納得の展開なのがよい。(ほそえ)

「ねえツチブタくん」木坂 涼文 いちかわようこ絵 (朔北社 2004.12)
ツチブタが絵本になったということが珍しい。耳の長くて、足がカンガルーみたいで、はながぶたみたい。ツチブタは長い舌でアリを食べるのだという。絵本ではそういうことはまったく関係なく、ツチブタくんのそばにいるねずみがねえねえ、と声をかけているように描かれる。いろんな背景のなかの、いろんな表情のツチブタくんを楽しめば良いのだろうが、展開はもうひとひねりほしいかな。(ほそえ)

「さくら子のたんじょう日」宮川ひろ作 こみねゆら絵 (童心社 2004.11)
絵童話といってもいいかたちの絵本。自分の出生の秘密を「みごも栗」という木に託して伝えられる少女の年月をじっくりを描いた絵がいい。途中で折れた栗の木のうろに、さくらが芽吹き、成長していったという「みごも栗」とさくら子の相似をていねいにお話に組み立てて、さくら子とともに読者も納得させられる。(ほそえ)

「天からのおくりもの イザベルとふしぎな枝」ジャクリーン・ブリッグズ・マーティン文 リンダ・S・ウィンガーター絵 掛川恭子訳 (BL出版 2003/2004.12)
ジャグリングとよばれる、Y字型の枝を軽く持って、その先が強く揺れた場所に探し物が見つかるということができる人がいる。その力をこの絵本では「天からのおくりもの」とよんでいる。大好きなおじいさんがその力を失いかけた時、孫娘のメイベルがしたことは、それまでの自分では無理だと思っていた、100才の木にのぼって、Y字型の枝をとってくること。少し奇妙な遠近で丁寧に描かれた絵は、神秘の力のありさまを信じさせる力を持っている。引っ込み思案だけれど、きちんと愛されて、力をたくわえているあたしの心の動きを、きちんとあたしの言葉で描き出している。(ほそえ)

「こどもパンソリ絵本 水宮歌」イ・ヒョンスン文 イ・ユッナム絵 おおたけきよみ訳 (アートン 2003/2004.12)
パンソリというのは太鼓の音に合わせ、節をつけて物語を語る韓国の伝統芸能だという。その古典である水宮歌を現代に通じる言葉での説明をつけながら絵本化したもの。子どもがうたうパンソリのはいったCDもついているため、実際の語りの芸も堪能できる。お話自体は日本民話の「くらげほねなし」ににたもので、海王様の病を治すためにウサギの肝が必要だと、陸まで亀がとりにいったのだが、ウサギの智恵でまるめこまれ、肝を取ることはかなわなかったというもの。文語体での謡の部分と口語体での説明の部分が色分けされ、わかりやすくなっている。韓国でも伝統芸能が子どもたちにとって難しい、取っつきにくいものになっているようで、もっと親しめるようにと、このような形式の絵本が作られたらしい。(ほそえ)

「ちっちゃな ちっちゃな おんなのこ」バイロン・バートン作 村田さちこ訳 (PHP研究所 1995/2004.12)
ベスコフの処女作「ちいさな ちいさなおばあさん」と同じストーリーで、こちらは女の子。ちいさなちいさな、という繰り返しが楽しくて、幼い人たちに愛されている物語だ。バートンは相変わらず、グイグイとシンプルに描いていてきもちがいい。でも、訳がちょっと甘過ぎ。(ほそえ)

「しあわせの石のスープ」ジョン・J・ミュース作 三木 卓訳 (フレーベル館 2003/2005.1)
マーシャ・ブラウンも描いている「石のスープ」が、中国を舞台に3人の禅僧の話として絵本化されたもの。その成り立ちは訳者あとがきに詳しい。この語り直しで一番違うのはラストの村びととお坊さんたちのやり取りである。村人たちは「分かち合うということがますます心を豊かにするということを教えていただいた」といい、禅僧たちは「しあわせとはかんたんなこと、石のスープを作るようにかんたんなこと」とこたえる。この絵本がアメリカで、今この時代に刊行されたという意味が、きちんとつたわるといいのだけれど。(ほそえ)

「きょうはこどもたべてやる!」シルヴィアン・ドニオ文 ドロテ・ド・モンフレッド絵 ふしみみさを訳
(ほるぷ出版 2004/2004.12)
生きのいいフランスの新進絵本作家たちの絵本。フランスらしいオチのしっかりしたお話。なんともげんきんで憎めないチビわにがかわいい。自分のことを、もう大きくて一人前だ、と思っている子には、それこそ真剣な気持ちだし、ずいぶん大きくて、このチビわにのことを愛いやつと思ってしまう子には、大笑いできるつくり。表情ゆたかな絵を見ているだけでおかしい。(ほそえ)

「あお」ポリー・ダンバー作 もとしたいづみ訳 (フレーベル館 2004/2005.1)
「ケイティー」で女の子の(だけじゃないんだけれど)気持ちの揺れを色と共に見事に描き切ったダンバーが、こんどは青色にこだわる男の子を描いた。青色が好きで、犬も好きだから、青い犬が欲しいんだって。だから、青い犬ごっこをして、自分で青い犬になってみる始末。そこに本物の犬がやってきて……。どういう風に自分の気持ちを納得させてハッピーになるか。それがこの絵本の眼目。淡い鉛筆の線で描かれるバーティーのきもちがページのバック色でしっかりとわかる、絵本の構成力の確かさ。デザイン感覚にあふれた造本。やっぱり生きの良い人の作る絵本は良い。(ほそえ)

「だっこのえほん」ヒド・ファン・ヘネヒテン作 のざかえつこ訳 (フレーベル館 2003/2004,12)
だっこのえほんはたくさんあるけれど、こんなに大きく大らかに描かれているのは見たことない。かめもあひるもかにもはりねずみだって、ちゃんとだっこする。紙に太い線で描いてからザクッとカットして、背景に張り込むという手法が良い加減なラフさを作っているのかしら。ラストはお兄ちゃんになるぼくとママとお腹の中の赤ちゃんのやさしいだっこ。単純な造りだけれど、愛される造りになっている。(ほそえ)

「あっ おちてくる ふってくる」ジーン・ジオンぶん マーガレット・ブロイ・グレアム絵 まさきるりこ訳 (あすなろ書房 1951/2005.1)
あの「どろんこハリー」のコンビの初めての絵本。見開きごとに、花びらや噴水の水やりんごなどがおちてきて、皆がどうするかをやさしく絵と言葉で示します。葉が落ち、ゆきがふり、雨が降る。自然の営みが恵みや楽しみを与えてくれることもきちんと描いています。さいごは夜のとばりがおりて、おやすみなさいで終わるのかなと思ったら、おはようのあさでしめくくって、おとうさんが「たかい、たか〜い」シーンにしているところがいいなあ。この絵本があったからこそ、ゾロトウの「あらしのひ」や「かぜはどこにいくの?」が出てきたのだなあと思います。(ほそえ)

「キス」安藤由希作 (BL出版 2004.11)
ライク ア リトル スター、走って行こう、きんぽうげの連作3編からなる作品。それぞれに少しづつ重なる人物が登場し、同じ時間と空間を生きる中学生なんだなとわかる仕掛け。女の子も男の子も自分の器を持て余していて、子どもじゃないけど大人でもないし、大人にもなれないと思っている。でも、キスという、生身の他者との最初の触れ合いが、自分という輪郭に少し色をつけてくれる。自分だけのことではなくて、誰かを想うということの甘やかな感じ、震えるような感じがよくわかる。ささめやゆきの挿し絵が文章の色によくあっている。(ほそえ)

「ポリッセーナの冒険」ビアンカ・ピッツォルノ作 クェンティン・ブレイク絵 長野 徹訳(徳間書店 1993/2004.11)
464Pもあるイタリアの児童文学だが、どんどん先が読みたくなる構成になっているため、厚さが気にならない。町一番の裕福で商人の娘ポリッセーナが、ひょんなことで自分はこの家の子ではないと知り、本当の両親を探しに旅をするという物語。訳者はあとがきで「家なき子」との類似や、主人公が女の子であり、一緒に旅をする少女ルクレチアが動物曲芸団をひきいていることなど、現代の物語として組み直したスタイルになっているという指摘をしているがその通りだと思う。女の子のお姫さま願望をうまく、お話をすすめる原動力にしながらも、それを軽くいなして、最後はまったくねえ、というオチと安心の場所を用意しているのが心憎い。イタリアの幼児教育、児童教育はユニークなものが多いし、そこからたくさんのお話もでてきて、読まれているはず。これからも紹介、翻訳を期待したい。(ほそえ)

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『うちにあかちゃんがうまれるの』(いとうえみこ:文 伊藤泰寛:写真 ポプラ社 2004.12 1200円)
 母親の大きなお腹に顔を寄せる女の子の写真が印象的な表紙から始まって、家族が新しい命を迎えるまでを撮っています。
 時にユーモラスにその事実を伝える姿勢から、逆に感動が伝わってくる逸品です。(hico)

『ターちゃんのてぶくろ』(おおしまたえこ ポプラ社)
 おかあさんがつくってくれたてぶくろは、みぎてがおとこのこ、ひだりてがおんなのこ。ともたぢもきにいってくれたし、とてもうれしい。
 夜、てぶくろたちは、家の外に冒険に・・・。
 雪の中を遊ぶてぶくろ。子どものイメージがひろがる設定ですね。
 その軽やかさが、おおしまの持ち味です。(hico)

『だれかいるの?』(マイケル・グレイニエツ:さく ほそのあやこ:やく ポプラ社 2004.11 1200円)
 たびねずみが見つけた家は、なんだかおばけが出そう。
 だから、大掃除をして綺麗にしたら、恐くないもん、とがんばるたびねずみ。が・・・。
 とてもシンプルな物語展開が、心地よさを誘います。
 画は、曲線を主体としていて、そこのおばけの怖さと、見る物にとっての柔らかさを生んでいます。(hico)

『ゆう』(谷川俊太郎:文 吉村和敏:写真 アリス館 2004.11 1300円)
 左からみると絵本で、右からよむと詩集という作りです。
 夕暮れの写真たちが美しい作品。
 その静かさと情熱が、目を引きつけます。
 谷川の詩はいらないと思うのですが?(hico)

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【創作】
『ぼくは、ジョシュア』(ジャン・マイケル:作 代田亜香子:訳 小峰書店 2003/2004.12 1600円)
 架空の島のお話。といってファンタジーではなく、リアルな人種差別を巡る物語です。
 漁村の中で主人公ジョシュアの父親は船には乗らず、肉を売って暮らしています。何故? しだいにあきらかになるのは、父親が山岳民であるらしいこと。それでも生活はうまく行ってはいたのですが、風習の違いから、父親は漁民のタブーに触れてしまい、阻害され、やがて死んでいきます。孤児になったジョシュアの運命は?
 そこでのメッセージは、タイトルに尽きます。ぼくは、漁民とか山岳民とかではなく、「ジョシュア」なのだと。
 とてもわかりやすい結論ですが、そこに至るまでの作業は実はそんなに簡単ではありません。だから舞台は架空の島になったわけです(作者の原風景でもあるのでしょうが)。(hico)

『イクバルの闘い』(フランチェスコ・ダダモ:作 荒瀬ゆみこ:訳 すずき出版 2001/2004.12 1400円)
 パキスタン、過酷な労働を強いられる子どもたちの姿を描いています。
 必死で働くことでいつか親の借金がなくなり自分は解放されるのだという、偽りの希望にすがるしかない、絨毯製造工場の子どもたち。
 そこにイクバルが現れます。足を鎖でつながれる、もっとも下層の子ども労働者イクバル。しかし、彼の絨毯を織る腕は天才的。そして、彼は現実を見つめそこから解放されるための方法を模索し、みんなを勇気づけ、行動を起こす子どもです。
 一人の子どもの勇気だけでは何も変わらないけれど、そうした一人が流れを作るのも確か。
 ラストは苦いですが、心地よい苦さです。(hico)

『10代のメンタルヘルス9 喪失感』(アイリーン・キューン:著 上田勢子:訳 大月書店 2001/2005.01 1800円)
 シリーズもあと一冊を残すのみとなりました。今回の「Loss」もまた、気付かれずに見過ごされがちな、「がんばれがんばれ」ですむと思われがちな、10代の心の痛みと彷徨を解きほぐしてくれます。
 このシリーズのいいところは、ケアの前に一人一人にその心と向き合い自分自身で自分を丸ごと受け止めてほしいというスタンスがあるところ。だから説得力があるのです。(hico)

『海の金魚』(ひろはたえりこ:作 あかね書房 2004.09 1300円)
 北方四島問題を巡っての物語。子どもの読者が北方領土問題を考えるためのきっかけ物語です。
 冬休み、主人公広夢は、おじいちゃんの家に遊びに行きます。久さん(おじいちゃん)は色丹島の出身なのがしだいに明らかになり、彼の子ども時代の思い出が描かれていきます。
 それはいいのですが、ファンタジー仕立てにする必要があったのかが疑問です。というか、そのファンタジーが、先行作品を彷彿とさせてしまうために、読みが引っかかってしまいます。
 おじいちゃんの家で眠る。眠れない・・・、古い柱時計の音が一二時を打つ。音がヘンなので起きて柱時計のある部屋に行くとおじいさんがいて、廊下が伸びて、戦前の色丹島へ。そこで少年と出会い親しくなるのだが、少年は実はおじいちゃんだった。
 古い時計によるタイムトリップ。出会う子どもが実は現代に生きる老人だった。
 これは『トムは真夜中の庭で』の要素ですから。(hico)

『ドアーズ』(ジャネット・リー・ケアリー:作 浅尾敦則:訳 理論社 2004/2004.12 1280円)
 友達とのコミュニケーション、嘘、ほんと、行き違い....。そうしたことが物語の中で繰り返し描かれていきます。
 ゾーイのパパは失業します。家も失い、新しい職を見つけるまで、こっそり車の中で暮らさなくてはいけません。
 親が職を求めて転地したためにゾーイは新しい学校に通うのですが、来るまでの生活をしていることは話せません。そのために、せっかくできた友達とも、ギクシャクします。相手の家に招待されたのに、自分は家へ友達をよべないのですから。
 親が大変なんやからしょーがないやろ! と言われても、子ども本人にとっては切実な問題です。物語はこのあたりを実にリアルに追っていってくれます。そこが読みどころ。
 もちろん、幸せな結末です。(hico)

『ふしぎの国のレイチェル』(エミリー・ロッダ:作 さくまゆみこ:訳 杉田比呂美:絵 あすなろ書房 1986/2004.12 1300円)
 退屈した子ども。何か不思議が起こってほしい。そして、ハンな世界へと入っていく。
 アリスやオズなど、おなじみの骨格を持った物語構成ですから、行って戻ってくるパターンで、安心して物語に浸れます。
 迷い込んだ別世界は<ブタ嵐>(『はれブタ』みたい)が起こると、みんながヘンになってしまうところ。はちゃめちゃな出来事に巻き込まれながら、自分の日常に戻るまでがおもしろおかしく描かれていきます。
 さすが、この作者らしい、サービス満点の展開です。収まるところに収まるのも無理なく、気持ちよい処理で、おいしい読後感です。(hico)

『六本そでのセーター』(令丈ヒロ子 小峰書店 2004.11 1300円)
 タイトルからして、つかみはOKな作品です。
 おばあちゃんからのプレゼントである、六本そでのセーター。それぞれのそでに腕を通すたびに、様々な能力をはっき。
 短い物語ですから、トントンと進みます。
 魔力に頼ったそんな能力は結局役に立つわけでもない、という極めて真っ当なメッセージが、おもしろい読み物の中にさりげなく置かれるところは、この作者の腕。(hico)

『リ・セット』(魚住直子 講談社 2003.03)
 テレビゲームだったら、途中で失敗してもリセットすれば何度でも最初からやり直せるが、人の一生は歩みだした瞬間から後戻りすることはできない。しかし、精神的な負荷や恒常的な不満を抱えてしまうと、不可能と知りながらも、現在の自分を消し去り、改めてやり直したい気分に駆られるのだ。 一歳のときに両親が離婚し、母と二人で生活している三帆。買い物の帰りに散歩していた海辺で、テント生活をしていた男に声をかけられ、それが初めて目にした父親だと知る。三帆が中学二年生だと聞かされて、男は二十年前に出会った、深夜の庭に穴を掘り、中に座っていると肉体も精神も真新しく蘇るのだという同い年の少女の話をする。少女はしばらくして亡くなったはずなのに、男は仕事先の受付でその少女に出会ったというのだ。三帆は、呪われていると衣服や文具をマンションのベランダから投げ捨てる少年と、転校することになったクラスで疎外されがちな少女を誘って、深夜に男が砂浜に掘った穴に一緒に座り、少年の提案で船を海に漕ぎ出し転覆する。
穴にうずくまるのは、胎内回帰を幻想させる蘇生のための儀式である。海に出た船の転覆からの帰還は、子どもから若者になるときの、伝統社会で行なわれていた通過儀礼を思わせる。子どもから大人への移行期の、戸惑いがちな少年少女たちのリセット願望を巧みに反映し、それぞれが抱え込んだ様々な呪縛からの解放にほのかな可能性を示唆してみせる。(「産経新聞」掲載)(野上暁)

『ペーターという名のオオカミ』(那須田淳 小峰書店 2003.12)
 六年前からドイツのベルリンに住んでいる一四歳の亮。新聞記者の父の都合で、一家は急遽日本にもどることになるが、あまりに突然なので亮は父に反発して元日本語学校教師のところに家出する。そこで亮は、教師宅の大家の娘フランチェスカや、教師からチェロを習っているアキラと出会い、近くの公園で起ったオオカミ騒動に巻き込まれていく。
 オオカミの群れは森で捕獲され、輸送中のトラックが横転して逃げ出したのだ。そのうちの一頭が散歩中の犬を襲って警察官に射殺され、残りの十頭も逃走中で、一頭あたり千ユーロ(約十二万円)の賞金がかけられている。フランチェスカの大叔父で寡黙なマックスが公園で拾ってきた子犬が、オオカミの子どもと判明するあたりから物語は急転する。
オオカミは群で行動し、子どもも群の中で育てられる。群を捕獲しようとする警察や猟友会の作戦に対抗し、子オオカミを群に返し森に逃そうとするマックスの企みに、亮とアキラは同行し、スリリングな冒険が展開するのだが、そこで亮たちはマックスの意外で悲惨な過去を知らされる。
 西ベルリンから東の親戚に遊びに行っていたマックス少年は、突然東西を遮断する壁が作られたために帰れなくなる。その後、親友の誘いで脱出を企てるが、愛する人の安全を守るために取った行動から、親友を裏切り恋人さえ失い住民からも迫害される。子オオカミを自然に帰そうとするマックスの激情は、封印してきた忌々しい過去の呪縛の清算であり、それが少年たちの抱えた精神的な困惑からの解放にも重なるのだ。分断された国家の悲劇と、それを様々に投影した個々人の複雑な過去を巧みに織り込み、印象的な終盤に収斂させていく。難しいテーマを見事な構成で鮮やかに展開した読み応えのある力作である。
(産経)(野上暁)

『狐笛のかなた』(上橋菜穂子 理論社) 
 呪者の使い魔にされて霊狐となった子狐の野火は、主の命により人の喉笛を噛み切り、自らも深手を負って夕暮れの野を猟犬に追われていた。里はずれの森に、とりあげ女(産婆)の老婆と二人きりで暮している少女小夜は、瀕死の野火を咄嗟に懐へかくまい、里人の出入り厳禁の森陰屋敷に逃げ込む。そこで、幽閉状態の少年小春丸に出会った。
冒頭からスリリングである。三者三様の深い闇を背負った小夜と野火と小春丸という若い命は、領地争奪をめぐり憎しみあっている隣国の領主同士の怨念と呪術的な抗争に巻き込まれていく。
「狐笛」(こてき)とは、強力な呪者が使い魔の霊狐を自在に操る笛で、霊狐は死ぬまでその笛の音の呪縛から逃れられない。幼い日に目撃した母の惨殺記憶の封印を解かれ、自らも土着の神々から継承した呪力を持つことから、小夜は使い魔を操る呪者によって度々命を狙われる。その窮地を、主の命に背いて霊狐の野火が救うのだ。
領主の隠し子であった小春丸の跡継ぎをめぐる策謀に、たがいに敵対する小夜と野火の叶わぬ愛が様々に絡み合い、悲惨な結末さえ予感させながら物語は終盤に向かっていく。
「守り人シリーズ」で、多くの読者を魅了してきた作家の意欲作である。呪力を持つ少女と、狐笛に呪縛された子狐の愛の行方は、はたしてどうなるのか? 歯切れの良い文体が緊迫感を盛り上げ、読み手をぐいぐいと作品世界に引き込んでいく。満開の桜が白雲のように山肌をおおい、花びらが舞い散る春の野に、まるで幻影のようにのどかに繰り広げられる終章は、それまでと見事なコントラストをなし、作者の巧みな構成力に気持ちよく酔わされる。(産経新聞 野上暁)

『竜退治の騎士になる方法』(岡田淳 偕成社 2003.10)

 一人きりの夕食に目玉焼きを作り、胡椒がなかったのに気がついてコンビニに買いに行ったぼくは、同じクラスの優樹とパッタリ出会う。彼女と、幼い頃は家族のように仲がよかったのに、最近は一緒に遊ぶこともなくなっていた。ぼくは咄嗟に、学校へ宿題のプリントを忘れてきたと口走ると、なぜか優樹は、だったら一緒に取りに行こうという。そこで二人は、夕暮れの教室に忍び込む。
 するとそこに、「おれは竜退治の騎士やねん」と関西弁で話す男がいた。二人は、学校の観劇会にきた劇団の人だと思ったが、そうでもなさそうだ。その人はジェラルドと名乗り、突然「うそでなければ語れない真実もある」などと、芝居がかった大声を張り上げる。
ジェラルドと怪しげな会話を続けているうちに、二人は竜の話に巻き込まれていく。ジェラルドは、たいていの学校に竜はいるといい、竜退治の騎士になるには、まず「トイレのスリッパをきちんと揃える」などと何とも気の抜けた方法を伝授する。
 そのうち、ジェラルドと竜の戦いがはじまる。ジェラルドのパントマイムかと思って見ていたが、そうではない。最初は優樹に、そしてぼくにも竜の姿が見えてくるのだ。剣を振りかざして必死で闘うジェラルドを助けようと、二人は滅茶苦茶にまわりの物を竜に投げつける。
 竜とは、いったい何だったのか? そして竜退治の騎士とは? 現実と幻想が奇妙に入り組んで、それが読み手の内面を激しく揺さぶる。作者は、竜という空想上の怪物を、小学六年生の少年と少女の心象と重ね合わせて、エキサイティングで不思議な物語世界を展開してみせる。(産経新聞 野上暁)

『シノダ!樹のことば石の封印』(富安陽子 偕成社 2004.09)

 『チビ竜と魔法の実』につぐ『シノダ!』の第二作。人間の父とキツネの母から生まれた三人の子どもは不思議な力を持っている。長女のユイは匂いや音や気配などを敏感に察知する「風の耳」、弟のタクミは過去や未来を見通す「時の目」、末娘のモエは人間以外の生き物の言葉も聞き取る「魂よせの口」。これら三人の異類ならではの超能力を巧みに織り込んだ異世界でのスリリングで痛快な物語は、エキサイティングに展開する。
 両親が後輩の結婚式の仲人を頼まれて留守の土曜日。同じマンションの階下にすむ同学年の友だち優花が、ユイのところに漢字ドリルを借りに来て古箪笥のふだん開くことのなかった引き出しに吸い込まれて姿を消す。モエが見つけた金色のドングリに誘われるかのように、ユイとモエ、そしてタクミの三人も、つぎつぎと箪笥の中の異世界へ引き込まれ、巨大な石の蛇オロチによって無残にも石像化された村人たちの中に優花の姿を発見する。三人は、そこで出会った少年と館主や石工らと、すべての人間を石像にしようと企むオロチとそれを操るセキエイの執拗な攻撃に立ち向かい、ついに打ち倒して石像化された人々を開放する。
 引き出しの中の奇妙な世界から現実にもどったユイは、「のりこえられない災いなんてない」とママがいっていた意味がちょっとだけわかった気がするとパパに告げる。それはまた、ユイたちの冒険をともに歩んできた読み手の感慨でもあり、物語を読み終えた快感とも重なるのだ。そして、「物語やマンガと違って、現実っていうのは、ハッピーエンドになっても、それはおしまいじゃないの。メデタシ、メデタシのそのあとにも、未来はつづいていくんだよ」とも。物語というフィクションの世界で物語と現実の違いを語らせ、現実の未来に向かった可能性を示唆して見せるのだが、これがまた後続の新しい物語を予感させるところが、エンターテイナーとしての作家の巧みさだ。
(野上暁 産経新聞)

『なんにも しない いちにち』(仁科幸子 フレーベル館 2004.10)
 切り株の家に住むハリネズミと、おとなりさんの小さなヤマネ。ある日、ヤマネが散歩しようとハリネズミを誘いに行くと、「今日は何にもしない一日なんだ。いつも忙しすぎるからね」と、草の上に寝転んだハリネズミが、あおむけになったまま答える。「まったく まったく、きみの言うとおりだよ」と、ヤマネも一緒に寝転がったものの、どちらからともなく話しかけずにはいられない。気持ちのいい風に身を任せ、真っ青な空に浮かぶ雲を見てていると、ついしゃべりだしたくなるのだ。遠くの山がやっとスミレ色に染まる頃、「何にもしない一日は、どうしてこんなに疲れるんだろう」と、二人は飛び起き、思いっきりジャンプしてキイチゴのジュースをがぶ飲みする「なんにもしない一日」。
 朝から雨が降り続いている日。ハリネズミは一人でお茶を飲むのはつまらないなあと独り言。おとなりのヤマネは尻尾が濡れるのを嫌い、雨の日は外に出たがらないのだ。そこでハリネズミは一計を案じ、草花を束ねたきれいな傘を作ってヤマネを誘いに行く。ところが、ヤマネは木の枝の下をすばやく移動するので、傘には雨水がたまってしまって役に立たないどころか邪魔になる。だったら雨の日だけ枝の上を歩けばいいとハリネズミに言われ、ヤマネは色とりどりの草花が編みこまれた傘をクルクルまわしながら小枝の上を跳び回る。そうこうしているうちに、ヤマネはハリネズミの家に行くのをすっかり忘れてしまう「雨の日のかさ」。
 森のなかよしデコボココンビが織りなす愉快なお話し六編を収めた絵童話集「ハリネズミと ちいさな おとなりさん」シリーズの最初の一冊。何でもしたり顔のハリネズミと、「まったくまったく」と感心して相づちを打つ小さなお隣さんのコントラストがユーモラスで笑いを誘う。柔らかな色調の可愛い挿絵も、細部まで描きこまれていて味わい深い。続刊が楽しみである。(野上暁 産経新聞)

『パンダのポンポン』 (作・野中柊 絵・長崎訓子 理論社)

 食いしん坊のパンダのポンポンは、町一番の人気レストランのコックさん。夢の中で食べ損なったサンドイッチを作って、なかよしの猫のチビコちゃんと一緒に食べようと家を出る。空は真っ青、気持ちのいい朝。最高のサンドイッチ日和だと、ご機嫌に歩いていくと、伊達男のキツネのツネ吉と出会う。サンドイッチを入れたバスケットを目ざとく見つけたツネ吉は、さりげなくポンポンの後を追う。つぎに出会ったのは、コアラのララコ。それからクジャクのジャッキー。ヘビの三人娘。ヤギのギイじいさん。カバのカヨおばさんと三人の子どもたち。ゾウ、キリン、ワニ、ビーバー、シカ、ワラビー、アルマジロ、タヌキ、ハリネズミと、出会った動物たちが、つぎつぎとポンポンの後について町中が大パレード。チビコちゃんの家に雪崩れ込んで、盛大な朝食大パーティーとなるが、ポンポンとチビコちゃんは、一口もサンドイッチを食べることができなかった「サンドイッチ・パレード」。
 ポンポンのレストランで、ランチスペシャルがオムライスの日。カバのやんちゃ坊主たちはオムレツの部分だけ先に食べてしまい、御飯の中に混ぜ込まれた野菜をより分けて山を作って遊びだす。そのうちスプーンをパチンコのようにして、より分けたグリーンピースをお客さんの顔を目がけて飛ばしては歓声を上げる。そこにレストランのオーナーであるクジャクのジャッキーがやってきて、客とは一味違った世界一美味しいメニューを要求する。ポンポンが考え抜いて作ったのが「空飛ぶオムライス」。チビコちゃんの誕生日だと思って、とびっきり美味しいケーキを作って町中の仲間を家に呼び、チビコちゃんをびっくりさせようとしたところが、自分の誕生日だったという「紅白ふわふわケーキ」。いずれも食べ物がテーマの三話を収めた、海燕新人文学賞でデビューした作家の始めての童話集。個性的なキャラクターが賑やかに登場し、ユーモラスで祝祭的な雰囲気が楽しい。長崎訓子のイラストも見事だ。(野上暁 産経新聞)

『宇曽保物語』(舟崎克彦 風濤社 2004.07)

 「伊曽保物語」といえば、仮名草子に翻訳された「イソップ物語」の和名だが、この本は「宇曽保」の題名から推測できるように、かの動物寓話集の一種のパロディー版。著者は、これまで『雨の動物園』『ぽっぺん先生の動物事典』『ぽっぺん先生のどうぶつ日記』などの作品を通して、動物たちに対する並々ならぬ造詣の深さを披露してきた。それだけに、この本に収められた寓話のそれぞれは、登場する動物たちの個性を見事に織り込み、様々な角度から読み手を巧妙に刺激する。
 考える暇もなく、ただひたすら草原を駆けずり回っているミチバシリの「急がば走れ」。ワニの口の中を夢中になって掃除していた仕事熱心なワニドリは、口を開けっ放しにしているのに疲れたワニが口を閉じた瞬間、ビックリして暴れたために反射的に食べられてしまう。それとは知らず次に来たワニドリは、ワニの口の中で前のワニドリの後始末をする「そうじ屋のそうじ」。首が長いから遠くまで見渡せるキリンは、敵の襲来を教えてくれるので他の動物たちに信頼されていたが、遠くの竜巻に気を取られて、足元にライオンが襲ってきたのに気づかず逃げ遅れてしまう「善人の悲劇」。小心者のヤマアラシが、隠れ家を求めて岩山のふもとに穴を掘り始めるが、途中から方向転換しようとしたが適わず、慌てた拍子に全身の針が逆立ち、それが周りの壁に突き刺さり戻ることが出来なくなってしまう「前進あるのみ」。こういう人っているよね、なんて思ったら、自分の姿だったりして、ドキッとさせられてしまうところが、ナンセンス童話の凄みでもある。イソップ寓話集でおなじみの「ウサギとカメ」「ウシとカエル」「北風と太陽」「アリとキリギリス」なども、シニカルに、あるいはナンセンシカルに原話の教訓を巧みに反転させ、味わい深い作品に仕立て上げている。(野上 暁)

『うそか?ほんとか? 基本紳士の大冒険』(山下篤 理論社 2004.10)

基本紳士とは奇妙な名まえだが、もちろん本名ではない。ペテン師とかイカサマ師とか詐欺師とも呼ばれる一方で、歩く神様とか天才天子様とあがめたてまつられたともいうから、最初から胡散臭い。
 しかも冒頭から、異常な聴力を具えた体調17,8センチで体重35,2キロという超重量級のコウモリと、338グラムの蜂蜜を食べると透明になるミツバチの協力で、二大国による核戦争の危機を回避してみせるのだから尋常ではない。
 つぎに基本紳士が語るところによると、イベリア半島の洞窟に十六年以上もこもって千里眼の術を会得し、コロンブスに随行して新大陸の発見に寄与したというのだ。
 まさか現代から十五世紀にと思うだろうが、そこが基本紳士。百年睡眠の技を身につけて眠りについたものの、「稀代のペテン師の墓、自らのうその発覚を恐れ、薬をもって命を絶つ。村民の厚意により、ここに眠る」の墓碑銘のもとに埋葬される。そして、やっとのことで地中から這い出すという後日談が続くから、もっともらしいのだ。これを嘘の上塗りというなかれ。虚構の中の、リアリティなのだ。
 シルクロードで、落ちぶれた孫悟空の子孫と出会い、一緒に悪徳高利貸しを懲らしめて子孫の名誉を回復したというのは、なんと清の時代の話。アマゾンの大猫とともに、アメリカのある町で餓死寸前の兄弟を助けるが、彼らは衰弱しているにも関わらずなぜか食事を拒否する。それがウエイトを減らして初飛行を成功させようとした、ライト兄弟だった。などなど、いずれも嘘か本当か眉唾(マユツバ)もののエピソードが五連発。
 時代も空間も難なく飛び越えて、何が基本でどこが紳士なのか疑いたくなる奇天烈な主人公の語りにより、奇想天外で気宇壮大なほら話が快適に展開して楽しめる。大道香具師の口上よろしく、あることないことを微細にかつ饒舌に語らせる口調が怪しさを増長し、それがまたユーモラスだ。(野上暁)産経新聞

『魔女モティ』(柏葉幸子 講談社 04・7)
 紀恵は小学五年生。誕生日だというのに誰も気がついてくれないばかりか、こともあろうに母親からお使いを頼まれる。何で姉や弟でなくて自分なのかと、ムクレて五回目の家出を企てるものの、とりあえず泊まるところが思いつかない。公園のブランコに腰を下ろして思案していると、大きな黒猫が音もなく現れ、ある人が家族になってくれる子どもを探していると、いきなり話しかけてくる。魔女学校の教授会が、万年落第生の魔女モティを、家族と一緒を条件に独立させるというので、校長の使い魔である黒猫が紀恵に目をつけたのだ。
 黒猫に誘われて、なんとも奇妙で未完成の魔女屋敷に行くと、紀恵はそこで失敗ばかりしていてサーカスをリストラされたピエロのニドジと出会う。こうして紀恵は、ピエロの父と魔女の母との、にわかづくりの怪しげな擬似家族の一員となる。この奇想天外な設定が、以後の物語展開をユーモラスで荒唐無稽に導くのだが、作者の企みはそれだけに終わらない。
 無人島だと思っていた島で、翌朝なぜか人が訪ねてくる。隣に住むという少年が、朝食をご馳走してくれるというのだ。少年の家に行くと、母親はある日突然魔女になりたいと一室に閉じこもり、それ以来、家事は父親と子どもたちが切り盛りしている。落第生とはいえ本物の魔女であるモティは黙っていられない。紀恵たち三人は、それぞれ事情の異なる家族が抱えた深刻な問題に巻き込まれていく。そこに涙があり、笑いがあり、三人三様の個性が弾けて痛快でもある。
 そして、家族はあらかじめ家族として存在するのではなく、構成員それぞれの思いの総和によって創造されるのだという、血縁家族を超えた家族観をベースに現代家族の迷妄をしたたかに打つのだ。(野上 暁)産経新聞

『鹿よ おれの兄弟よ』 (神沢利子/作  G・D・パヴリーシン/絵 福音館)
 人間も自然の一部であり、ほかの生き物たちと"いのち"を分かち合って生きている。にもかかわらず、いつのまにか万物の長であるかのように錯覚し、自然を破壊し殺戮を繰り返している。そんなわたしたち人間の傲慢さや現代文明の危うさを、したたかに打ちのめす気迫のこもった大型物語絵本である。

 シベリアの森で うまれた おれは 猟師だ

と、物語は始まる。服も靴も鹿皮で、鹿の足の腱を糸にして縫ったものだ。

 おれは 鹿の肉を くう
 それは おれの血 おれの肉となる
 だから おれは 鹿だ

 最初の場面で、主人公である"おれ"は鹿と一体化し、"おれ"が、"鹿よ"と呼びかけながら、物語はまるで叙事詩のように展開していく。
 おれは鹿に会うために小舟で川をのぼっていく。シベリアの大自然を両岸に見やりながら、おれは幼少時の鹿との奇妙な出会いを思い出す。おれが、こうしていのちを繋いでこれたのも、森の主や川の主が、祖先たちに鹿の恵みを与えてくれたからだ。
 森の巨木や老木も、それにまとわりつくようにおびただしく繁茂する植物や草花のそれぞれにも、まるで精霊が宿っているかのように、画家は執拗なまでに微細に描写し、それがまた自然の生命力を鮮やかにアピールしてみせる。
 おれは銃を二つ折りにし、筒口を口に当て牝鹿の声を真似て音を出す。その声につられて、みごとな枝角をかかげた大鹿が姿を現し、おれはそれを射止める。そして、倒れた鹿におれはひざまづき、丁寧に皮をはいで骨一本折ることもなく解体する。こうして得た鹿のいのちが、若い妻と幼い子どものいのちを繋いでいくのだ。
 大鹿を倒した後に続く見開きの、満月のもとで蛇が鎌首をもたげ、虎が牙をむく異様な光景は、あたかも自然の魔性が湧出したかのようで秀逸だ。雄大な自然の中で繰り広げられる、生きとし生けるものの生と死のドラマが、端正で詩的なテキストと、克明に描き込まれた濃密で呪術的ともいえそうな画家の描写力により、読む者の心に強烈な印象を残す重厚な絵本でもある。(野上暁 子どもプラス)

【ノンフィクション】
『ねじれた家 帰りたくない家』原田純 講談社
進歩的知識人の父親と娘の葛藤の記録

 中学生時代に全共闘運動にかかわったという一九五四年生まれの著者が、両親との軋轢から生じた悪戦苦闘の少女時代を克明に振り返り、トラウマのようになったその桎梏から自身を解き放っていく苦渋に満ちた過程を綴った魂の軌跡である。
 父親は著名な編集者であり、ベトナム戦争の脱走米兵を自宅に匿ったこともある、いわゆる進歩的文化人である。既に婚約者がいた父親が家族の反対を押し切って婚約を解消し、同じ出版社で経理部にいた母親を口説き落とすために、母や同僚の目の前で杭が何本も突き出ている池に飛び込んで愛情を証明するという熱烈な求愛をしたという。
 母親は生真面目な潔癖症で、著者の出産のときも、陣痛が始ってから家中くまなく掃除し洗濯して、それから風呂に入り、家の中に汚れ物を一切残さず産院に行ったと子どもたちは度々聞かされていた。
 共産党員だった父は母親も入党させ、しばしば家で細胞会議が開かれる。家庭は「革命の砦」であり「革命思想の実践の場」だというのが、その頃の父の考え方だった。細胞会議が終わったあと、著者は書類の入った大きな風呂敷包みを他所へ届けに行く父のお供をさせられる。子ども連れだと怪しまれないというのだが、著者にはそれが父と一緒の大冒険のようで胸が躍る。しかし、少しでもはしゃいだ様子を見せると、「これは命がけの闘いなんだ、遊びじゃないんだぞ」と父親に叱られるのだ。
 三、四歳の頃、家の近くに紙芝居屋さんがくるが、清潔好きの母は駄菓子を買うことなど許すはずがない。見かねた友だちが駄菓子をくれようとすると、「ばい菌だらけで汚い」とか「赤痢菌がいっぱいだよ」などというので、仲間はずれにされる。友だちから粉末ジュースをもらって、断りきれずに舐めたのが母親に見つかり、くれた友だちまで叱られてしまう。安全で清潔な食べ物は家で作ったものだけだと信じている母は、出来合いのおかずも信用しなので、コロッケも隣に住む祖母に買ってもらう。
 小学校に入学して始めてもらった通信簿を、父親に見てもらいたくて夜遅くまで帰りを待っていた。「ねえねえ、すごいでしょ。ほとんど五だよ」というと、「人間の価値は成績で決まるものじゃない。ちょっとばかり成績が良かったからといって、そんなことを自慢するな」と、怖い顔をしてにらまれる。
 革命思想に染まっていた父親は、媚びたり甘えたり着飾ったりする女性を軽蔑していて、妻が口紅をつけるのさえ許さず、肌が露出しすぎると半袖を着るのも容認しない。父の言葉を真に受けていた著者は、女の子らしく振舞うよりも、男の子と取っ組み合いの大喧嘩をして得意になっていた。
 いささか特異な家庭のように見えるかもしれないが、敗戦直後の革命的気運の中で学生時代を過ごした世代には、共通した民主主義的建前や硬直化した革命思想の残滓が、程度の差はあるものの、家庭や子どもの教育に少なからぬ陰影を刻しているようだ。著者と著者の父親のちょうど中間の世代にあたる筆者が、子ども時代を過ごした長野の田舎町でも共産党の影響力が強く、父親がシンパだったこともあり周囲に党員がたくさんいたので、少なからぬ思想的な影響を受けたりもした。大学進学で上京した六〇年代の始め頃、筆者自身もシンパとして学習会に呼ばれたり、深夜にビラ貼りをしたりした頃のことを思い出すと、克明に描かれている状況やそこで交わされる会話もよく理解できる。
 著者が中学生のとき、両親を早く亡くしたために定時制に通いながら妹弟の生活を支えていた同級生の兄が、車の運転ミスで小田急のロマンスカーに激突死するという事故がおきた。遺族が賠償金を払わされる羽目になり、それを減額してもらうための署名運動を著者はクラスで提案する。酔って帰った父親はその話を聞くと、「思い上がるな」と冷酷に対応する。
 母親を軽蔑し父のようになりたいと思っていた著者は、次第に父親にもことごとく反抗するようになり、父親はまた著者を殴ったり蹴ったりと暴力で対応する。そして著者は、父も母も殺したいとさえ思うようになる。両親を透過して見る大人社会の欺瞞にいたたまれなくなってきたのだろうか。新宿のフォークゲリラの集まりに参加したのがきっかけになり、仲間と一緒に全国中学生共闘会議を結成し、反戦運動にかかわるようになる。その後なんとか高校に進学するが中退し、家に帰りたくないばかりにアルコールに溺れて様々な男と一夜を共にし、しばらく同居していた男の子どもを宿して堕胎する。両親に家に連れ戻された著者は、しばらくして「労働の喜びを学べ」という父親の指示で、北海道のヤマギシ会の牧場で生活することになるが、それも長続きせず、著者の彷徨はまだまだ果てしなく続いていく。
 戦後の市民運動を担ってきた父親とその娘の精神的な葛藤の記録であり、父親から家族からの困難な自立の道程を、子どもの立場から克明に描いたドキュメントでもある。そして"子どもという制度"のもたらす桎梏を、どこで断ち切るかが哀切に綴られる。革命思想や進歩的な思想といわれるものが、家庭や家族という第一義的な人間関係のなかに投影したものは何だったのか? 幼くして父親の思想的薫陶を受け、その影響からか六〇年代から七〇年代にかけての政治の季節を伴走してきた著者の、三〇年後にして語られる貴重な同時代の記録としても興味深く読める。(『子どもプラス』掲載)(野上暁)

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 アンナは車いすを使っている障害者です。でも、ソックスをはいたり、ズボンに足をとおしたりは出来ます。
 そんなアンナが、初めてのおつかいで体験したことを描いた絵本が『わたしの足は車いす』(フランツ・ユーゼフ・ファイニク作 フェレーネ・バルハウス絵 ささき たづこ訳 あかね書房 千四百円)。
 おつかいなんて退屈だと思うかもしれないけれど、彼女にとっては大冒険です。
 アンナは周りの人々反応に驚きます。車いすに興味を持った女の子がいたのですが、母親はその子をひっぱって、アンナから離れて行ってしまいます。ジロジロと見るのは差別だと思っているのです。車いすに乗っている人と初めて出会った子どもが、興味を持ってジロジロと見るのは自然なことです。母親の過剰な反応は、子どもが車いすに乗っている人を理解するための切っ掛けを奪っています。
 やっとたどりついたスーパーでは、店員たちは気を遣って、アンナが買いたい品物を取ってくれます。そんなことは自分でできるのに!
 だからアンナは、「わたしはほかの子とおんなじよ」と言います。
 そんなアンナのプライドは、よくわかります。けれど、そこで終わってしまっては、本当の理解は生まれてきません。
 アンナは、おんなじではなく、違っているのです。そして、違っているそのままの自分をアピールすることが大事なんだと、この絵本は教えてくれます。(hico)
読売新聞2004.12.27

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