【児童文学評論】 No.78 2004..06.25日号

       
【絵本】
○再び、アートと絵本と
「びじゅつのゆうえんちシリーズ」福音館書店
「ちきゅうぐるぐる」山本浩二著 子どもたち絵 (金沢倶楽部 2004.5)
 アートと絵本は思っているほど相性がいいものではないらしい。だんだんそう思うようになってきた。アートを身近に、子どもたちにもわかりやすく手渡したいといろんな美術系の絵本が出ているのだが、どれもピンとこないのだ。絵を見るということ、アートと対峙するということと、絵本をよむということ、絵本でアートの知識に触れるということは相容れない行為なのかな。
 福音館書店の「びじゅつのゆうえんち」シリーズはまだ始まって間もないものだ。今、刊行されている4冊のうち「まるをさがして」は、シンプルな構成とテキストがわかりやすかった。「かいぶつぞろぞろ〜絵にみるたし算のいきもの」は子どもの物ではあまり類書のない視点(図象学的な)で、絵画を読み解いており、「たくさんのふしぎ」っぽい構成ではあるが、知的刺激を与えてくれるものになっていた。これから浮世絵や建築などを取り込んだ12冊が次々と刊行されていくのを楽しみにしたいのだが、やはりこのシリーズは、自分の生な感覚を取り戻すような刺激としてのアートを伝えることを、目指しているのではないらしいのが、ちょっと残念な気がする。
 「ちきゅうぐるぐる」は本来の意味では絵本とは言えないかもしれない。子どもの絵が主となった画集、もしくは教育実践の本というジャンルになるだろう。でも、手にした四角い本は、そういうジャンルの本の持つ野暮ったさ、しかめっつらしさから遠く離れ、すっきりと、しなやかに、私の感覚に訴えてくる力があった。
 一本の線が動物になり、花瓶と花になり、金魚と金魚鉢になっていく。無意識にかかれた線が書き続けることで意識的になり、そこに何ものかを見てしまった時には、そのものに向かってたどりつこうと指向される。線が外と内を持ち、それから何かが浮かび上がってくるのをそっと待つ。一本の線で描かれた絵を目でたどることで、そういう時間を共有する。音符や文字(タイポグラフィーとしての文字)を使っての表現。目を閉じて、手で触れることで、そのものの気持ちを感じ、それを筆で描こうとした絵。どれも、ブルーノ・ムナーリのメソッドにとても近いものに思う。子どもの描いた線画に色面を施すことで抽象的な美しさを添えている。そのデザイン処理もムナーリが"the tactile workshops"でモノクロ写真に色面を添えたのにとても近い感じがした。
 この本が目指すところは、ただ単に子どもの絵を鑑賞してもらうことではないだろう。これを描く時の息遣い、描いている時にこぼれる子どもの言葉、そして、課題そのものの問いかけが、そのままこの本を見る人の感覚を開いていくことなのだと思う。それが、私にとってはアートの力だと思う。

○その他の絵本、読み物
「それいけ しょうぼうしゃ」ティボル・ゲルゲイ作 小池昌代訳(講談社 1950/2004.5)
ゴールデンブックスで親しまれてきた消防車の絵本。きっちりとかきこまれた安心感のあるイラスト。タイトルそのままのシンプルなストーリー。この手の絵本としてはロイス・レンスキーの「しょうぼうしのスモールさん」(福音館書店)が長く読まれていたが、大判、オールカラーのこの絵本も消防車好きの子どもたちにひっぱりだこになりそうだ。表紙とラストシーンがぴったり表裏で合わさった流れるような画面構成が、扉のイラストでリズムを壊してしまっているのがおしい。原本を確認しないとわからないが、扉はタイトルのみで、最初の「チリン、チリン、チリン!けいほうがなった。」という出動準備の場面から、イラストが始まる方が緊迫感があり、幼児にとってもストーリーに入り込みやすいのではないか。

「マドレンカのいぬ」ピーター・シス作 松田素子訳(BL出版 2002/2004.4)
中世の町並みの残る町でいろんな人たちを紹介してくれた第1作目の「マドレンカ」。2作目の本作ではマドレンカは犬が飼いたくてたまりません。首輪をつけた他の人には見えない子犬を連れて散歩に出かけます。(ピアスの「まぼろしの小さい犬」みたい)町の中の人たちが飼ういろんな犬にあって、最後は友だちといっしょに時代を旅して、いろんな時代の犬に出会います。シスの不思議なイラストと仕掛けの絵本で犬の種類にまで詳しくなってしまう。お得な感じ。

「ジベルニィのシャーロット」ジョアン・マックファイル・ナイト文 メリッサ・スウィート絵 江國香織訳(2000/2004.4)
印象派の絵を描くためにフランスに渡ったアメリカ人の画家たちを描いた本。ジベルニィという土地に住むことになった女の子の日記の体裁をとっている。この絵本のめずらしいところは、たくさんの印象派の絵を描いたアメリカ人の画家たちの絵を、シャーロットの日記に添えて見せている点だ。画集でなく、その時代を生きた女の子の見た風景としての絵画、同時代の目として、絵画を使っているところがおもしろいなと思った。こんなにもたくさんの画家がフランスで印象派の絵を描いていたとは知らなかったし、画家個人ではなく、グループとしての文化を描いたところが、今までにない美術関連の絵本になっていると思う。

「ふたごのひよちゃんぴよちゃん はじめてのすべりだい」バレリー・ゴルバチョフ作・絵 なかがわちひろ訳(徳間書店 2001/2004.5)
「すてきなあまやどり」で人気者になったゴルバチョフの三作目。著作としては前作よりも古いものになるのだが。小さな子どもの心象をとてもやさしく、安定感を持って描いている絵本になった。すべりだいというのは、小さな子にとって中々に勇気のいるものであると知ったのは、娘がどうしてもすべりだいで遊びたがらない時があったから。自分にもきっとそういう時期があったのに、きっとうまくすべれた時点で忘れちゃったんだな。そういうささいな、でも小さな人たちには重大な気持ちをきちんと形にしてくれ、すごい!やったー!とほめられて、にこにこ絵本を閉じることになる本書は、ぜったい子どもに人気の絵本になる。

「それゆけ、フェルディナンド号」ヤーノシュ作、絵 つつみなみこ訳 (徳間書店 1963/2004.5)
ヤーノシュのドイツでの復刊本の翻訳。最近、ドイツでも60年代の絵本の復刊が目立つ。その中の1冊。初期のヤーノシュの筆のタッチのイラストは荒削りながらも、大らかで、なんとものんびりしたストーリーと合っている。いろんな車が出てきて、自動車好きの子にはいいのでは?

「おばあちゃんがちいさかったころ」ジル・ペイトン・ウォルシュぶん スティーブン・ランバートえ まつかわまゆみやく (評論社 1997/2004.5)
ランバートの絵本に多い、おばあちゃんと孫のせりふで進む絵本。孫娘とひととき過ごすおばあちゃんは車を見ても、汽車を見ても、アイスクリーム売りを見ても、海でサーフィンする人を見ても、「おばあちゃんがちいさかったころはね……」と懐かしげに語りはじめる。それを聞いた孫娘が、「じゃあ、むかしのほうがよかったの?」と聞くと、「いいや、今のほうがいいよ。おまえとこんなおはなしできるのだものね」と結ぶ。見事な着地に、作家の力量を見る。あたたかなランバートの絵の安定も。

「ちいさなしろいさかな」ヒド・ファン・ヘネヒテンさく ひしきあきらこやく(フレーベル館 2004/2004.6)
いろんな色の魚やいきものに「ぼくのおかあさん?」と尋ねて行く、定番のストーリー。色を際立たせる黒い背景にかわいらしく、色鮮やかに登場するいきものたち。ラストはお母さんに会えて、安心。グラフィックの愛らしさとセンスの良さがいい。

「オレンジいろのめうし」ナタン・アールさく リュシル・ビュッテルえ ふしみみさをやく(パロル舎 1954/2004.5)
カストール文庫シリーズの中の1冊。五〇年代の絵本らしく、お話ものんびりとしていて、絵も愛らしい。牧場から出てしまったオレンジ色のめうしを見つけたキツネが、看病したり、お世話をしたりする様子がおかしい。機知にとんだ展開で、くすくすわらえます。

「ちいさな赤いとうだい」ヒルデガード・H・スウィフトぶん リンド・ウォードえ 掛川恭子やく (BL出版 1942/2004.6)
「おおきくなりすぎたくま」(ほるぷ出版)でコルデコット賞をとったウォード(ワード)の代表作。これもアメリカで復刊されたものの翻訳本。実際にハドソン川に建つこの灯台は、アメリカの歴史的建造物として保護され、2002年にはまた川面を照らすようになったという。長く愛されてきたこの絵本がその保護に一役買ったことはアメリカでずいぶん話題になった。自分の役割を見出せなくなった灯台の気持ちや、再び仕事ができるようになった喜びは、実際の出来事と知らなくても、十分、心に入ってくる。落ち着いたあたたかな日本語で読めるのをよろこびたい。

「ちいさいひよこのいないいないばあ」「かわいいこいぬのかくれんぼ」アナ・ララニャガ絵 (主婦の友社 2004/2004.7)
人気のしかけ絵本。ページの矢印に沿って動かすと、農場の動物たちが顔を出す。なんてことはない展開だが、シンプルで堅牢なしかけが小さな子にも、自分で動かせたという楽しさを味わわせてくれる。

「赤いカヌーにのって」ベラ・B・ウィリアムズ作 斎藤倫子訳 (あすなろ書房 1981/2004.6)
「おかあさんのいす」で知られるウィリアムズのネイチャー絵本。今まで紹介されなかったもう一つのウィリアムズの絵本の特色をよく表わした絵本だ。おかあさんとおばさん、私と弟の4人でカヌーの旅に出かけた三日間のことを描いている。キャンプの準備、初めて水面を滑った時のうれしさ、テントの張り方、アウトドア料理、嵐の夜……。色鉛筆で描かれた軽やかな絵が清々しい季節のきらめきをよく伝えてくれる。実用的な情報を伝えるページと自然の中ですごす喜びが溢れるページとが、とてもバランス良く組み立てられており、実際にカヌーにのって出かけてみたくなる。

「ヘチとかいぶつ」チョン・ハソプ文 ハン・ビョンホ絵 おおたけきよみ訳(アートン 1998/2004.5)
韓国で太陽の神とあがめられているヘチ。地の国で悪さをしている怪物4兄弟が、ヘチをへこましてやろうと太陽を奪ったところからお話は始まります。4兄弟がそれぞれ得意技を使って、ヘチと対決するのですが、やっつけられてしまうところを、ビョンホ独特なキャラクター造型とユーモラスな表情で存分に描き出している。

「ジェフィのパーティー」ジーン・ジオンぶん マーガレット・ブロイ・グレアムえ わたなべしげおやく (新風舎 1957/2004.6)
「どろんこハリー」のコンビによる未邦訳の絵本。原本の雰囲気をうまく出すために印刷、紙などに気を配ったつくりになっています。ストーリーはお誕生パーティーに仮装してきてくださいと招待された子どもたち。それぞれ、自分のキャラクターに似合ったものに仮装しようか、それとも違ったものになろうかと悩みます。当日、みんなはなにになったでしょう? 仮装をすることで、今までの自分とは違った態度をとってみたら……という展開になるのですが。いまひとつ、そこのところがわかりにくいのが気になりました。愛らしいグレアムの描く子どもたちの姿が、どんなに工夫しても同じように見えてしまうので、気をつけて見ていかないと誰が誰やらわからなくなってしまうのです。お話としては、良くわかるのですが……。

「はなうたウサギさん」エリック・ローマン作 いまえよしとも訳(BL出版 2002/2004.4)
2003年コルデコット賞受賞作。黒くくっきりとした線で囲われたイラストは版画で作られたからだろうか。原書で見た時は、今風の最近のイラストレーションを見慣れた目からは、少し野暮ったいような感じがしたが、訳ではそれを逆手にとって、なんとものんびりと我が道を行く性格のウサギさんの登場となった。ストーリーは木の枝に引っかかってしまった模型飛行機をとるために、ウサギさんがいろんな動物を連れてきて、積み上げて……。言葉は少なく、イラストは自在に、表情はわかりやすく、ページを縁取る黒い枠は場面に合わせてしっかりと。オーソドックスに丁寧に組み立てられた絵本だけれど、気分は今風。「しんぱいすることないですよ。はなうたまじりにいこうじゃないの」というウサギさんせりふは大切かもね。

「おはよう、おやすみ」シャーロット・ゾロトウ文 パメラ・パパローン絵 くどうなおこ訳(のら書店 2003/2004.5)
表からはおはよう、裏からはおやすみ、の2パターンのお話が読める絵本。最近、アメリカで良く見ます。どちらも動物たちの様子が、リズミカルなテキストで紹介され、ラストは「おはよう!」「おやすみ」で終わります。定番のストーリーですが、細やかに絵ががれるイラストと、安心感のあるテキストがそろっているのがいい。

「くもりときどきミートボール」ジュディ・バレット文 ロン・バレット絵 青山 南訳(ほるぷ出版1978/2004.6)
バレット夫妻の絵本はおもしろい。設定が効いている。ストーリーで感動させるというよりも、設定の妙で最後まで突っ走ってしまう感じ。その最たるものが「どうぶつはぜったいふくをきてはいけない」(これ、翻訳が出ないかなあ。見てるだけでおっかしい、絵本らしい絵本なのに)。なかなか紹介されにくい、されたとしても定着しないのは、日本人の感性とはちょっと違うのかなあと思っていたら、出ました! 最近のモダンクラッシックスの路線に入ってくる、少しレトロな感じ。ほら吹き話の見事なてん末。おじいちゃんが話してくれたという導入も気がきいているし、ラストもきれいにまとめています。イラストにちょっとくせがあるけれど、こういう絵本はなかなかないので、手にとってほしいな。

「田んぼのきもち」森 雅浩作 松原裕子絵 (ポプラ社 2004.4)
田んぼそのものが語っているというのが、おもしろい。主人公は田んぼ。むかし、皆が力を合わせて、開墾し、田んぼにしてくれたところから始まり、田んぼの四季を紹介し、最近、耕されなくなって寂しい、このまま朽ちていくのかと思ったら、子どもたちがまた、水をいれて、田んぼに戻してくれたと語っている。この語りで、田んぼの歴史と、減反で使われなくなったこと、最近は田んぼを中心にした環境教育で自然と親しむようになったことなど手際良く知らせてくれる。実際の活動が元になった絵本だが、単に活動の紹介に留まらず、広く訴えかける内容になったのは、まず、田んぼが自分のことを語っているという構成にしたことが一番だと思う。子どものもの、絵本の得意な方法で思いや情報をうまく形にしていると思う。

「おんぶかあちゃん」近藤薫美子作 (アリス館 2004,4)
ウヅキコモリグモのおかあさんの子育てを、大きな見開きで描いている。作者お得意の小さな生き物たちを小さいままにユーモラスにたくさんの姿で描いているため、春のがやがやとした、生き物の力にあふれた野原をこっそりのぞいている楽しさがつまっている。かあさんのおんぶからとびたつところまできちんと描き、それに要した日数や子どもたちの数などきちんと育児日記風にまとめているのも御愛嬌。展開がはっきりしているため、今までの絵本よりもページをめくらせる力は強いように思う。

「ねえ だっこして」竹下文子文 田中清代絵(金の星社 2004.5)
物言いたげなネコのまなざしの真剣さにハッとして手に取る。今まで夫婦に一番に愛されてきたと思っていたネコが赤ちゃんの出現にとまどい、まただっこしてと願う展開。そういえば、大島弓子のマンガにもあったような。この絵本のネコは、シンプルでストレートにお母さんと赤ちゃんを見ている。自分の気持ちをしっかり持って、自分がこの家でお姉さんになったこともわかっているほど、けなげなネコ。これは、赤ちゃんが家にやってきてしまった子どものあの目と同じだ。子どもはこんなにしっかり自分の気持ちを言葉にすることはできないが、こんな静かな目で、ちょっとはなれて見ていたような気がする。おにいちゃん、お姉ちゃんになりたての子どもの心にきっとすうっと入っていく絵本になるだろう。一緒に読むお母さんには少し胸が疼くような気持ちをのこす。おとなも、また、小さかったあの時を思い出さずに入られない。

「ぼくのはさみ」せな けいこ作(金の星社2004.5)
はさみの話だからカニが出てくるなんて、とってもべたでそのまんまというかんじだが、それがせなけいこの絵本の良いところ。お話を転がす発想が直接的であればあるだけ、小さな子の心をぐぐっとつかむ。なくしてしまったと思ったはさみをいっしょうけんめいさがす。その時はでてこないのだが、新しいはさみを買ってもらうと引き出しの奥の奥からさがしていたはさみが出てきてしまう。よくあることだわ。そしたらあたらしいはさみをはさみをなくしたカニさんにあげる!って。

「えんにち奇想天外」斎藤孝文 つちだのぶこ絵 (ほるぷ出版 2004.6)
前作「おっと合点承知之助」の付け足し言葉で展開する絵本より、今回の4文字熟語の展開のほうがすんなりわかりやすくはなっている。それも縁日という舞台を設定したところで、半分以上、おもしろさが決まったな。4文字熟語によって、ストーリーを引っ張っていくナンセンスな感じは、この舞台があってこそ。ただ、この4文字熟語を絵とストーリーでわからせるというのは難しく、言葉の音でおもしろがるのと、内容の意味する事大なこととのギャップをおもしろがる、という二段構えになってしまうのが、難しいところと思った。
おなじ4文字熟語を遊ぶ本でも「あそびのおうさま ムガムチュウぬるほん」(学研)では、音と意味を塗り絵という行為で遊んでしまう分、もっとダイレクトに小さな子にもその事大な感じがつかめ、おもしろい感じが伝わるように思える。

「コロボックルそらをとぶ」佐藤さとる作 村上 勉絵 (講談社 1971/2004.5)
71年に出ていた本の新装版。コロボックルというキャラクターが生まれてから、もう45年になるのかと思うと感慨深い。おはなしは世話をしていた鳥にのって町にでかけてしまうコロボックルのとこちゃんが無事、かえってくるまで。小さな人の冒険のかげにはきちんと心配する大人がいて、何かあったらすぐ助けに行く用意もしていたことなど、むかし読んだ時にはちっとも気がつきませんでした。でも、そこをきちんとさり気なく描いているのが、この作家らしいなと思います。このシリーズは二ヶ月ごとに1冊、あと三冊刊行です。

「くまくん」二宮由紀子作 あべ弘士絵 (ひかりのくに 2004.5)
くまくんがさかだちして「まく」くんに、それを見た動物たちがまねをして……。
最近、毎月のように新刊絵本が出ている作家。どれも独特な視点で「ああ、この作家らしいなあ」と思わせる絵本が多い。特に、今回は、シンプルな絵と相まって、ストーリーの着地も好ましく、子どもと読んでいても楽しい。かばがさかだちして「ばか」になるところなど、お約束だけれど、大受け。「やまあらし」のさかだちも。ラストのオチは、文字を解しない子には落ち着きが悪いけれども、くふふとわらえる。

「おさんぽあかちゃん」高林麻里 (主婦の友社 2004.7)
ボードブック「おひさまあかちゃん」「おやすみあかちゃん」に続く三作目。今回はお母さんとバギーにのっておさんぽするあかちゃんとお母さんの姿を描く。お母さんのせりふは「」にいれて、あかちゃんのせりふ(?)はそのままに。家から出て、いろいろなものや人に触れていく様をあたたかく描いている。

「ムーちゃんのぼうし」いとうひろし (主婦の友社 2004.7)
作家初めてのボードブック。あかちゃんがぼうしをかぶっておでかけです、とはじめはなんてことなく始まるのだが、自分の帽子の上に、おとうさんのぼうし、おかあさんのぼうし、お兄ちゃんの帽子と重ねてかぶってしまうのが、この作家らしい。白地にシンプルな線のはっきりしたイラスト、リズミカルで甘くないテキスト。オーソドックスだけど、今がある。

「パパとぼく」あおきひろえ(絵本館 2004.6)
イラストレーターとして幅広く活躍する人の初めての自作の絵本ではないか。本作の中のイラストは、マチエールの凝った画面の中にちんまりとした人物や町や物が描かれていて、一つ一つの絵として見ていくのは楽しい。同じような強さを持ったイラストを並べたことで、絵本の中に入り込んで読むというよりは、少し離れたところから、等分に絵を見やっているという感じになってしまうのは否めない。この淡々としたストーリーには、この方法でも合っているのかもな、と思う反面、ぐいっとこの男の子の中に入り込むような場面も合っても良いのではないかとも思った。

「土の中からでてきたよ」小川忠博 (平凡社 2004.6)
縄文の遺物をとった写真を元に構成した写真絵本。縄文の息吹を遺物から感じるような取り方をした写真そのものが珍しいし、それを小学低学年から読めるように、写真に映った事物への興味を手がかりにどんどん進んでいる構成になっているのもあまり類書がない。きちんとした縄文の説明は、解説を読んでもらうことにして、こういうおもしろいものを作った人が5000年前にいたこと、その血が今を生きる君たちにも流れているんだということを直裁に語りかけているのがおもしろい。身近なところで発掘発見される、考古学への興味、歴史への興味をこの本で広げようとしている。

「リンゴちゃんのおはな」角野栄子作 長崎訓子絵 (ポプラ社 2004.5)
おばあちゃんに作ってもらったお人形のくせに、とってもわがままなリンゴちゃん。前作「リンゴちゃん」でおへそがな〜いと大泣きしたリンゴちゃんが、またしても意地悪度全開でお話の中を突っ走ります。今回はお花を育てて、誰がいちばん大きいかという比べっこ。小さな人たちが一斉に何かを育てるとすぐそうなります。小さな苗を気にしずぎて引っ張って、枯らしてしまう子がいたり……。リンゴちゃんはギラリ、ギロリとにらんでお花を恐がらせ、大きくさせます。さるかに合戦の蟹みたい。でも、それが嫌になったお花がにげたしてしまったの……。ラストはやっぱりリンゴちゃんの涙で場面が変わるのですが、ここまでいじわるでいやな子だと反対に読者はスッキリするというもの。マイちゃんのように「まったくリンゴちゃんったら」とお姉さん気分で楽しめることでしょう。

「ランランらくご まんじゅうこわい」斉藤洋文 高畠純絵 (あかね書房 2004.5)
「にほんごであそぼ」の影響か、落語の本が大人気。でも、斉藤&高畠コンビですから、落語は落語でも、ひねって、ねじって、あそんでいます。だって、まんじゅうをこわがるのは茶色くて鼻の黒いクマだしね、よっぱらってかえってくるおやじさんはカバだし……。江戸時代のお話だけど、今の生活に置き換えて、おはなしの芯のところはそのままに、テンポ良く語っています。こうなっても、大丈夫なのねえ、落語って、と今さらながらそのストーリーテリングの強さに感心。それは本という器に盛る時に、どこを使って、どこをはしょるか、その見極めの良さによるのですけれど。

「鳥の巣研究ノート1」「鳥の巣研究ノート2」鈴木まもる文と絵 (あすなろ書房 2004.5)
絵本作家というよりも、いまや鳥の巣研究家としての著作が多いような。今まで絵本や「たくさんのふしぎ」や図鑑などでまとめてきた鳥の巣研究の集大成とも言える二巻本。鳥インフルエンザの項を読むと良くわかるが、巣というものの持つ大切な意味、生きていくこと、育てるということの意味を鳥や鳥の巣という存在から知り、考えていこうという姿勢で、まとめられている。そこが、ナチュラリストとして著者の真骨頂といえるだろう。

「レモン・ドロップス」石井睦美 (講談社 2004.5)
なんてことなく、どきどきしたり、考えなくてもよいことを考えたりしている14、15の女の子を描くのはむずかしい。本当に文章にするとなんてことなくて、読んでいてもたるくなるし、かといって、何か事件が起こるとなると、それはもう、なんてことない女の子のお話ではなくなってしまうのだ。なんてことない人は多いのに、何かとセンセーショナルな女の子のほうが表現としてはわかりやすい。
そのむずかしいことを、真正面からやってみせたのがこの本。事件ということもなく流れる毎日。親友や姉は恋して、好きな人を持ちはじめるのに、自分はそれをわきから見ているだけ。でも、なんだか、ほんのりうきうきするしまつ。事件と言えるのは、おじいちゃんをなくしてから、おばあちゃんが少しづつ、ぼんやりし、大丈夫でなくなってしまったことぐらいか。大人へと移行する真際の少女と老いとからめ取られてしまった祖母を対峙させるのは定番の展開ではあるが、それがメインにならないのが、潔い。
なんてことない毎日のなんてことない思いを、はっと鮮やかに見せてくれるのが「檸檬」や「去りにし日々の光」という小説。すでにこの世にあるものによって、今の不確かな自分の心持ちをすくいあげてもらえるというのは、なんと甘やかな気持ちにさせられるのだろう。このようなツールを持てた人は、なんとかやっていけるのだ。なめていくうちに透き通って、周囲を見渡せるレンズのようになったかと思うと、ふっとなくなってしまうレモン・ドロップ。魔法のレンズのようになるその瞬間に見える風景の中に、作者は14、15の自分を置いているのかもしれない。
以上ほそえ

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『キッズ・パワーが世界を変える』(クレイグ・キールバーガー:文 中島早苗:構成・訳 大月書店 2004.05 1400円)
 タイトル通りの情報絵本。
 十二歳の時、フリー・ザ・チルドレンという組織を作り、世界中の子どもたちの飢餓、強制労働などの告発と、学校創設などの活動を続けている、カナダの少年(今は青年)による、メッセージ。
 「知識は力だ」なんてフレーズは、本当に現場発ってのが良く判る。
 子どもは無力ではない! を実践していった流れを読んでいると、大人も励まされます。(hico)

『赤いカヌーにのって』(ベラ・B・ウィリアムズ:作 斎藤倫子:訳 あすなろ書房 1981/2004.06 1300円)
 カヌー下りの三日間が描かれるシンプルなストーリーですが、その三日間にどれだけ大きな発見があることか!
 紐の結わえ方からテントの張り方など、母親とおばさんが丁寧に教えてくれます。それを眺めながらページを繰っていくと、ほんとうにのんびりとカヌー下りに参加している気分にさせてくれます。(hico)

『昆虫図鑑』(長谷川哲雄:絵・文 ハッピィオウル社 2004.05 1580円)
 調べ学習にも使える図鑑です。
 が、それ以上に私が面白いと思ったのは、六百種の昆虫を一冊の絵本にきちんと納めていること。
 もちろん日本にいる昆虫の数はこんなものではないのですが、ページを繰っていると、私たちが身近で見ることが出来る(生活環境によって違いますが)かもしれない昆虫をピックアップして描かれているのがわかります。
 つまり、自分の暮らしている場所で、この図鑑の中の昆虫をどれだけ発見出来るかで、環境状態が判る。
 ま、でも昆虫は結構しぶといですから、都会環境に適応してしまうのもいるんでしょうけど。
 とにかく、とりあえず、書店で、ご覧くださいな。
 好きな人は大喜びでしょうし、嫌いな人も、ちょっと興味を持つでしょう。(hico)

『恐竜王国ステゴザウルス』(真鍋真:監修 ポプラ社 2004.02 1200円)
 全8巻の4巻目。
 一作に一匹の恐竜ミニ図鑑。といっても情報はちゃんと入っています。
 私もそうでしたが、恐竜好きの子どもは多く、恐竜の絵を眺めて飽きません。
 もちろん最新情報ですから、私が子どもの頃に得た知識はずいぶん古くなっているのが、判ります。
 好きな子は何度でも眺めたくなるでしょうね。(hico)

『世界の宗教入門』(マートル・ラングリー:作 保坂俊司:監修 あすなろ書房 2004.05 2000円)
 あすなろ書房の「『知』のビジュアル百科」シリーズももう七冊目。
 様々な宗教を知るための簡易な地図といったところでしょうか。写真が豊富なので、理解と興味が高まります。子どもといっても中学生以上ですが、この本でとりあえず「宗教」の大枠だけでも知っていることで、「世界」を見る目が少し変わるでしょう。それって結構大事。
 あすなろさん、ぜひ百巻出してくださいな!(hico)

『ママと ふたりで』『パパと ふたりで』(アリサ・サテン・カプチーリ:ぶん ティファニー・ピーク:え 片山令子:やく ポプラ社 2003/2004.04 各1200円)
 一応仕掛け絵本ですが、ポップアップではなく、折りたたみ式。ページの右側が2回折りたたまれていて、そこを開くとシーンが少しだけ変わります。このちょこっとだけってのがいい。ママと、そしてパパとのちょこっとの楽しい時間がそこに隠されているから。
 2冊でそれぞれと遊んでいる趣向も、うまいね。(hico)

『だめだめ、デイジー』(ケス・グライ:文 ニック・シャラット:絵 よしがみきょうた:訳 小峰書店 2003/2004.03 1300円)
 『ちゃんと たべなさい』のコンビによる作品。
 これもいいノリです。デイジーとママの掛け合い漫才です。するどいデイジーとおとぼけママね。
 楽しくなること請け合います。(hico)

『まじょのほうき』(さとうめぐみ:ぶんとえ ハッピーオウル社 2004.05 1280円)
 ほうきの杖がおれたので、魔女は新しいのを探しに。と、とらがやってきて残された箒を頭に被るとライオンみたい。だから、縞柄を残していく。と、ろばがやってきて、その縞をつけるとしまうまのようで、大きな耳はいらないと残していくと・・・。
 それぞれのシンボルが別の生き物にズレていく過程は、それだけで愉快ですし、アイデンティティのズレと見ればまた別の世界が広がります。
 巧い。
 画はもうすこし輪郭がほしいな。(hico)

『うみべのステラ』(メアリー=ルイーズ・ゲイ:作 江國香織:訳 光村教育図書 1999/2004.06 1400円)
 最高に仲良しの姉ステラと弟サムのシリーズ三作目。
 今回はタイトルにあるように海へでかけます。
 いつものように全開で海で遊ぶステラ、もじもじしているサムから質問の嵐。ステラの答えがなかなかいいの。
 ホノボノ度、とても高くて幸せ。(hico)

『ばけばけ町へ おひっこし』(たごもり のりこ 岩崎書店 2004.05 1300円)
 「ばけばけ町」とは何かとゆーと、おばけの町。
 てな風に、話はベタです。ベタなままでリズミカルに物語が進んでいきますが、これが結構楽しい。
 引っ越しした先はあばけ町で、家もおばけで、どこかへ逃げてしまう。子どもたちは家を探しに行き、その途次でいろんな不思議に会うという趣向。
 画は好き嫌いの別れるところ。表情が過剰。ここもう少し押さえた方が、画が活きたと思います。(hico)

『ジーくんとバケツたんけんたい』(かげやま まき:作・絵 岩崎書店 2004.05 1200円)
 子豚のジーくんの家は郵便局。兄弟みんなでお手伝い。仕事が終わったら、バケツ被って、地下から短剣に出発!
 デビュー作です。
 画は突出して目立ったものではありませんがとても巧みで、タッチも色遣いも柔らかく優しい。そこが強みになっていって欲しいです。
 物語は、言葉にリズムがあり楽しいですが、もう少し絞った方が、最後が活きてくる。
 でも、いいスタート作品になりました。(hico)

『ジェフィのパーティー』(ジーン・ジオン:ぶん マーガレット・ブロイ・グレアム:え わたなべしげお:やく 新風舎 1957/2004.06 1300円)
 古典絵本。
 仮装パーティをジェフィは開きます。誘われた子どもたちは、どんな衣装で行くか、色々考えます。でも、やっぱり自分の性格に似ている動物などを選んでしまう。
 パーティの日、いくら仮装し仮面を被っていても、みんな誰が誰だかわかります。だって、日頃のキャラのママなんですから。恥ずかしがりのメリーはハツカネズミね。
 ところがパーティが始まったとたん仮面のみんなは日頃しないようなことをやってのけます。仮面のおかげです。
 小さな勇気が仮装・仮面によって生まれること。そこが子どもの心に伝わればOK。(hico)

【創作】
『ホエール・トーク』(クリス・クラッチャー:作 金原瑞人&西田登:訳 青山出版 2001/2004.03 1600円)
 これぞYA!!です。
 YAに限りませんが、物語の出来の善し悪しを判断する基準の一つは、個々の読み手の共感度。で、これは、なにも主人公のタイプだとかキャラだとかに共感ってことだけではなく、それより大きいのは、読み手の言葉にならない思いを言葉にしてくれているかどうか。
 この物語の主人公は日本とアフロの血が混じったアメリカ人で、スポーツ万能。ですから、日本のYA世代とはそれほどクロスしない別世界の住人なのですが、彼の感じ方や、それを表現する言葉がとてもよくわかるのです。
 ぶちゃけた言い方をすると、生きていく、生き延びていく上で役に立つ言葉がたくさんある。
 物語設定はそんなにユニークでもないし、展開もスタンダードです。でも、いやだからこそ、そこで語られる言葉がよく伝わるし、その中身がいい。具体的に書くのは未読の人にとっての鮮度が落ちるし、それはもったいないので、短い言葉を二つだけ。
「この世に偶然の一致なんかない」。「純粋な悪はただひとつ。無だ」。
 活きがいいよ!(hico)

『アグリーガール』(ジョイス・キャロル・オーツ:作 神戸万知:訳 理論社 2002/2004.05 1500円)
 いつも陽気で、ちょっとお調子者のマット。ある日学校に刑事がやってきて、連れて行かれます。学校に爆弾を仕掛けようとした容疑で。確かに友人たちとそのような会話をしたのだが、もちろん冗談。それを本気にして訴えたものがいた。問いつめる刑事に、軽く答えようとして、マットはますます苦境に陥る。これはもう冗談ではないのだ。でも、友人たちが証言してくれれば、誤解はすぐに解ける。が、巻き込まれるのを恐れた友人や、親に発言を封じられた友人、誰もがマットから遠ざかる。そんな時、ただ一人証言をしてくれるコがいた。
 アーシュラは、自らをアグリーガール(みにくい女の子)と呼んでいる。誰と友達になるでなく、孤高に生きること。スポーツ抜群だが、チームプレイをしないアグリーガール。バスケの試合でしくじり、誰もホローをしてくれず、止めることにした。同じ学校の男の子が警察に捕まったとの噂。アグリーガールは知っている。あれは誰がどう見ても冗談だった。理不尽は耐え難い。彼女は証言をする決意を固める。
 マットの視点で語られる時は三人称、アグリーガールは一人称。人称を使い分けることで、物語はリズムを作り、ふくらみを得ている。
 展開のシャープさは、さすが。
 一気です。(hico)

『秘密の心臓』(デイヴィット・アーモンド:作 山田順子:訳 東京創元社 2001/2004.06 1500円)
 アーモンド最新訳。今作はインパクトには欠けるものの、彼のマジックは健在です。
 少年ジョー・マローニには、時々誰にも見えない生き物たちが見える。特に虎は、彼のお気に入り。時々共振してしまうほど。それは彼にとって真実なのですが、もちろん誰も理解できません。彼はちょっとヘンな、トロい不登校児です。小さな町の子どもたちは彼をからかい、母親だけが理解者。
 そんな時、町にサーカスがやってくる。空中ブランコ乗りの少女コリンナは彼の感性を初めてそのまま受け入れてくれる。そしてサーカスの人々も彼を理解する。すでに虎が死んでしまったサーカス。しかし虎の魂はそこにいる。サーカスの人々は、魂を解放する力をジョーの中に発見する。
 世の中からはじかれた子どもの生きる場所。アーモンドが描くおなじみの世界が広がっています。(hico)

『レモン・ドロップス』(石井睦美:作 講談社 2004.05 1300円)
 「あのころのあれやこれやを思いかえすと、恥ずかしくて舌を噛んで死んじゃいたいような気持ちになります」と、著者はあとがきで書いています。
 そんな、今思い返すと恥ずかしいような思いや行動も、その年齢では精一杯の生き方。物語は、中学生大沢美希の毎日を「あたし」の語りで活き活きと描いて行きます。何でも一人シミュミレートしてしまう「あたし」。友人の「恋」に冷めながら揺れてしまう心。「感傷的になっていることはわかっていた」と、自分を見つめている自分が、「感傷的になったってしかたがないのさ」と、そのままの自分を肯定して受け止めるところまで、10代を生きている人も、10代を経験した大人も、美希の日々は自分の日々と重ね合わせられるでしょう。(hico)

『ママは行ってしまった』(クリストフ・ハイシー:作 松沢あさか:訳 さ・え・ら書房 2003/2004.03 1300円)
 ウラのパパは彫刻家、ママは映画のディレクター。屁理屈やの長兄カレル、ウィットに富んだ次兄パレルと幸せな家族です。それが、突然ママの死。
 それぞれがその事実をなかなか受け入れられません。
 ほんのささやかな出来事でママの記憶が蘇り、哀しみ、とまどう彼ら。
 ウラを中心に、彼らがそこからどう日常を再構築していくかが優しい目で語られています。
 地味といえば地味な物語ですが、心に残ります。(hico)

『竜退治の騎士になる方法』(岡田淳:作 偕成社 2003.10 1000円)
 忘れ物と取りに教室に戻ったぼくと優樹は、そこで見知らぬ男と出会う。作り物の剣と盾。明日、学校で上演される舞台の役者だとぼくは思うのですが、男は自分を竜退治の騎士だと名乗るのです。
 ならどうしてなれたのかと問いつめる二人。でも男はなんだかマジで、ここにやって来る竜を待っているみたい。
 中編です。1エピソードなので、そこに起こる不思議とその意味が結構ストレートに届いてきます。(hico)

『セブンスタワー3魔法の国』(ガース・ニクス:作 西本かおる:訳 小学館 2000/2004.02 1500円)
 シリーズ3巻目。
 今作で、この世界の成り立ちが少し明らかに。選民と氷民の関係。選民の影であるスピリット・シャドーにされてしまうモンスターたちの本当の姿。それらの背景にある大きな歴史が。
 このシリーズの魅力はやはり、主人公のタル(選民)とミラ(氷民)。タルは選民と呼ばれるごとく、自分たちを上位の民と信じ切っていて(その選民の中にまた、7つの階層があり、彼はそれを上に登りたいと思っている)態度にそれが出てしまう。一方ミラは選民を軽蔑しており、氷民の価値基準で何でも見てしまう。だから、どちらもが気に入らない。とんでもなく非協力的なタッグ。この二人がどう冒険を進めながら、理解を深めていくかが読み所。3巻目で憎しみは頂点に達し、そのおかげで、ようやく「理解」も生まれてきました。
 さて、次作でどうなる?(hico)

『この素晴らしき世界に生まれて』(福田隆浩:作 小峰書店 2003.12 1400円)
 主人公は聴覚障害の女の子。中和を学んだ姉や母。彼女をサポートしてくれる家族は嬉しいけれど、それでもやっぱり疎外感はある。彼女が好きなのは図書館の隅、古い外国児童書のコーナー。そこで、ある物語に出会う。それは同じく聴覚障害の作者が書いた物語。
 ストーリーは過不足なく、とても安定しています。作者自身の職業から学んだであろう障害児の心の動きも、聴覚障害児の記述も良く伝わってきます。
 タイトルが良くない。臆面もない剥き出し。これはとても損です。
 もっとも、『世界の中心で〜』なんてタイトルのが歴史的ヒットをするのですから、これでいいのかな。(hico)

『池のほとりのなかまたち』(ラッセル・ホーバン:作 松波佐和子:訳 たかおかゆうこ:絵 1988/2004.04 1300円)
 ヒキガエルのジムからフクロネズミのキャリーまで、ちいさなエピソードが、繋がって行きます。なにほどのこともないようなのですが、これがなかなか存在感ありの面々です。
 みんなといっしょに鳴くのがいやでフテているジム。「どうせ、おいらのことが、じゃまなんだろ。みんな、おいらがきらいなんだ」なんて、スネてます。それぞれのキャラが濃いので、「幼年童話」としては、かなり強烈な印象を残す作品。ユモーアもたっぷりで、いい出来です。(hico)

『やどかりどんのやどさがし』(大島まや:作 高部晴市:絵 講談社 2004.02 1100円)
 住まいにしていた貝殻が傷んだので、新しいのを探し求めるヤドカリのお話。なまえが「やどかりどん」だったり、今言ったストーリで、タイトルが『やどかりどんのやどさがし』とまあ、超ベタで、力が抜けそうですが、いやいやちゃんと自分探しをしています。
 見付けた住まいがイマイチだと、「さらばでござる」と言って去っていくのもかなり力が抜けますが、それがいい味になっているから不思議。
 ラストが少しまとまりすぎ。そこまでのノリのままで良かったのでは?(hico)

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『チョコレート・アンダーグラウンド』(アレックス・シアラー:著 金原瑞人:訳 求龍堂 1200円)
 「健全健康党」が政権をとった。彼らのマニフェストは、健康のためにチョコレート禁止すること。もしチョコレートを食べれば、矯正施設に送られてしまう。
 すぐに思いつくのは、ディストピア小説『華氏四五一』(レイ・ブラッドベリー:著 一九五三)でしょう。読書行為が禁止され、全ての情報は管理されたラジオから流れてくる世界の恐怖を描いていました。が、こっちはたかがチョコレートです。下らない? チョコレートときたら、虫歯になることはあっても、健康にはさして貢献していなし・・・。な、なんだか、「健全健康党」の主張が正しいのかもしれない。
 この物語が面白いのは、思想統制(読書の禁止)を描くのではなく、嗜好統制(チョコレート禁止)を描いている点です。
 『華氏四五一』は読書の禁止に対して、一人一人が一つの物語を暗記しているという、はかなくも美しい抵抗を描きます。それが感動的なのは、人間にとって「物語」ほど重要な物はないとの作者の主張(時代的には「赤狩り」への批判)の故です。
 一方こちらは、一瞬「それって悪くないじゃない」と思ってしまうチョコレートの禁止。実はこっちの方が怖い。チョコレートを好きな人は何故好きかを説明する必要はありません。好きな物は好きでいいのです。だから禁止される謂われはありません。謂われもないのに禁止。それがどれほど、人間から自由を奪ってしまうことか!
 その理不尽さに怒っている(本当は単純にチョコレートを自由に食べたいだけなのですが)高校生のハントリーとスマッジャーは、なじみの駄菓子屋の奥にある倉庫にチョコレートの原料が忘れ去られ残っているのを発見します。店主のバビおばさんと相談して、密売を始めることに。でも作り方が判らない。その資料も今は手に入りません。古本屋のブレイズに相談すると、密かに隠し持っていたお菓子作りの本を見せてくれます。ハントリーとスマッジャーが作り、バビおばさんが売る。もちろん信頼出来る人たちだけに。自由への希求が強くなり、店の裏庭に残されていた防空壕を改良して地下チョコバーまで開く。見張り役はチョコレートマンとしてTVで人気があったために、いまや俳優業もままならずホームレスとなったモファット。「健全健康党」少年団のリーダーフランキーは、ハントリーたちの動きが怪しいと気付き、ついに密売が知られてしまいます。果たして、チョコレートを食べる自由はやってくるのか? だとしたらどのようにして?
 何せブツが書物ではなくチョコレートなので、マジで戦う彼らの行動はどこかユーモラス。だからこそ、権力と戦う彼らの姿は本物です。(hico)
(読書人 2004.06.04)
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 離婚の当事者は両親ですから、子どもは受け入れるしかありません。『ロラおばちゃんがやってきた』(フーリア・アルバレス:作 神戸万知:訳 講談社 一四〇〇円)は、そこから始まります。
 クリスマス休暇の時、ミゲルとママと妹のファニータはニューヨークからママの新しい勤め先があるヴァーモントへ引っ越しました。なじんだ町と学校を去らなければなりませんでした。そしてもう一つの変化が。仕事が忙しくなったママはドミニカのロラおばさんに、子どもたちの世話を頼んだのです。家族からパパが居なくなっただけでも大変なのに、血縁とはいえ、話す言葉も違う未知の国からおばさんがやってくる! 空港で見付けられず、インフォメーションセンターへ。ミゲルはマイクに向かって叫びます。おばさんの名前と、たった一つ知っているスペイン語、「大好きです」を。
 お料理上手で、明るいロラおばさんも、ホームシックには勝てません。彼女のためにミゲルたちが考えた素敵なプレゼントは秘密。元気になったおばさんは言葉もわからないのに隣近所、次々と友達を増やします。
 両親の離婚を止められなかったミゲルは、ロラおばさんを受け入れることで新しい家族の形を見つけるのです。哀しみと寂しさからスタートした物語が、幸せな結末へと進んでいきます。それが気持ちいいです。(hico)読売新聞2004.06.07
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 観察研究用に捕獲されたオオカミたちが、トラック事故によって逃げ出します。彼らは走る、故郷の森へと。幼い故に逃げ切れなかった子オオカミは、老人に子犬として拾われます。
 本当はオオカミであるのがわかり、捕獲者側にも気付かれたとき、老人とその若い友人であるリオとアキラは、子オオカミを群れに戻そうと決意する。『ペーターという名のオオカミ』(那須田淳:作 小峰書店 一八〇〇円)は、そんな三人の姿をスリリングに描いていきます。
 リオは本名、山本亮十四歳。七歳の時からベルリンに住んでいる。アキラはアキラ・フォン・シュトルム。日系ドイツ人。
 日本の男の子(一人は日系)がドイツで冒険をするというちょっと変わった設定です。それは作者がドイツ在住だからでしょうが、そのおかげで、日本の読者にもドイツの文化が判りやすいように描き込まれていて、それもおもしろさの一つ。
 十四歳のリオはベルリンの壁の崩壊を、現場であれTVであれ見てはいません。同じ世代の読者はリオと一緒に、壁が作られた時からその崩壊、そして現代までの歴史を物語を読みながら知ることになるのです。
 人間が作った国境を越えてチェコへと向かう親オオカミたちの群れに子オオカミを合流させたい想いは、そうした歴史と重なって見えます。(hico)読売新聞2004.05.24
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『木かげの家の小人たち』(いぬいとみこ 福音館 1967(中央公論社1959)
 小人一家を守り、青いカップに毎日一杯のミルクを与えること。それが森山家で二代続いている秘密です。小人一家は四人。バルボーとファーン夫妻と、日本生まれのアイリスとロビンです。日本で英語を教えていた人が帰国するとき、生徒の森山達夫にバルボーたちを託したのです。達夫から妹のゆかり、そしていとこの透子と小人の世話は引き継がれ、今は達夫の娘ゆりがミルクの運び役です。が、戦争が起こり、ゆりは疎開することとなりました。小人一家を隠しながら、疎開先で暮らす日々。毎日ミルクを与えるのは掟で、途絶えると七十七日間続けてミルクを用意しないと、戻ってきません。たった一人で疎開するだけでも大変なのに、小人の世話があり、父親は思想犯として獄中にあり、長兄は兵隊に取られ、次兄は愛国少年になってしまう。ゆりは疎開先で父親の事が知られ、友達のつとむとも遊ぶのを禁じられます。彼の家で草刈りをして、ヤギの乳を確保していたのですが。
 疎開前、小人一家の子ども達は、ハトと友達になり、空を飛んだりして、両親を心配させています。が、ゆりと小人達の交流はほとんど出てきません。疎開してからも、ゆりがミルクの確保に悩んでいるだけ。小人たちもゆりを心配してはいるのですが、ミルクが途切れた時、ハトに乗せてもらってさっさと外の世界に引っ越してしまいます。ゆりが掟通り、七十七日間毎日ミルクを運んでくれるのを心待ちにしますが、サポートはしません。小人一家の新しい住まいは、かつて別の小人が使っていたもので、食料品もそろい、ミルクは毎日ゆりが置いてくれるのを取ってくるだけでいい。
 この小人達は、何者だ?
 この物語は不思議な構成になっています。ゆりの幼なじみで出版社に勤めている男に原稿が届き、それがこの物語だというのです。そして男が、人は心の中に、自分以外の「だれにもゆけない」、「その人自身のいちばんたいせつな、愛するものの住んでいる」土地があると考えていることも紹介されます。この部分がなくても物語は成立します。にもかかわらず書かれた意味は一つしかありません。これは作者ではなくゆりが書いた物語だと強調するためです。
 辛い疎開生活の中で、ゆりはそんな土地を持てたでしょうか? 奪われてしまったのではないかと思います。だからゆりは、小人を創造し、毎日青いコップにミルクを入れて彼らの世話をするという設定を作り、それは父親から家族に受け継がれてきた掟だと考えることで、離ればなれになっている家族との絆を思い起こし、自分を支えてきた。そして大人になったゆりは、自分の体験を、子ども時代に支えとしてきた小人が出てくるファンタジーとして書いた。そして、「ゆけない」ではなく「だれでもゆける土地」にすることで、心の中にいる哀しい子どもを解放したのではないでしょうか。
(ひこ・田中)徳間書店「子どもの本だより」2004.06.07