2003.11.25

       
【絵本】

○幼年童話の愉しみ
『佐藤さとる幼年童話自選集1 遠い星から』『佐藤さとる幼年童話自選集1 ポケットだらけの服』佐藤さとる作 (ゴブリン書房 2003.9)
『くんくまくんときゅんまちゃん』今村葦子作 菊池恭子絵 (あすなろ書房 20003.11)
 7歳までは夢の中といったシュタイナーではないけれど、7、8歳までの子どもを主人公とした幼年童話と呼ばれる作品たちには独特の輝きがある。子どもの視点に寄り添うことで、生活の中の<詩>を見せてくれる。それがそのままの形で子どものたちに理解されはしないのかもしれないが、そのかけらは心の中に引っ掛かり、何かをきっかけとしてふっとその本を読んでもらっていた自分を思い出すことがあるのではないかしら。絵本にもその輝きはあるのだけれど。
 今江祥智氏は『子供の本 持札公開』(みすず書房 2003.7)の第1章でアーノルド・ローベルに寄せて、それを「はじめての物語」として<大人が子供の世界、子供の裡におりていって、その目の高さから世界をみたり、子供の言葉や思考法法で遊んでみたりする楽しみからも創りだされるもの>と見事に定義している。これはとてもむずかしいこと。一時、幼年童話のシリーズがたくさん刊行された時があったが、中で残っている作品や作家がほんのひとにぎりであることからもよくわかる。力量のある作家でないと幼年童話はかけないとつくづく思う。
 さて、そんな中、懐かしい佐藤さとるの幼年童話が手に入りやすい形でまとまって刊行された。巻末に作家の自作解説とも言える「話の話」がついているのがうれしい。単行本ででているお話もあるが、雑誌掲載のままとなっているお話もあり、改めて読めるのもこのシリーズの特徴だ。自選集なんてかたちになると固くて、子どもに手にとりにくくなるかもと心配していたが、お話ごとにイラストレーターをかえた挿し絵が入り、楽しめる。いつもの生活がほんのちょっとの心の魔法で不思議な場所に変わってしまう鮮やかさ、ファンタジーに対する律儀な態度が今読んでもわくわくする。この年代の男の子が感情移入しやすいお話がなかなか出てこない最近の現状では、佐藤さとるのお話は貴重だと思う。11月、1月とあと2冊刊行される。楽しみ、楽しみ。
 ローベルのたくさん描いたI can read booksシリーズの体裁を踏襲し、子供の目の高さでの世界をおだやかにつづったのが『くんくまくんときゅんまちゃん』だ。1冊に小さなお話を3つのせ、どれも親やきょうだいとのかかわりを丁寧に描く。関係性の中で子どもが思い、行動するさまを、寄り添い、ときには親の側の視点も入れ込みながら。遅いお昼寝からさめて、お母さんがいないと泣く子に、「おかあさんをさがしにいこう」とさそう父さんとの時間をつづった「かくれんぼ」。生活しているとなぜ、こんなに……と子どもの行動にふりまわされることがある。でも、その行動をさせる心の動きが確かにあるのだということ、それに同調することはできなくても、寄り添い、一緒にすごす術があるのだということをくんくまくんの両親は教えてくれる。子どもには安心を、親には発見を与えてくれる1冊だと思う。(細江)
 
絵本
『アーサー王の剣』エロール・ル・カイン文、絵 灰島かり訳(ほるぷ出版 1968/2003.9)
 亡くなってもなお人気の高いル・カインの処女作。少年のアーサー王が大きな石から剣を抜き取ったというディズニー映画でおなじみのエピソードの方ではなく、魔剣エクスカリバーの話。ル・カインの特徴である線の細い細かな流れるようなイラストではなく、色面を多用した幻想的な画風がケルトの雰囲気を良く出している。重い、にごったような印刷だが、原本はもう少しクリアな色使いだということだ。(細江)

『ザスーラ』クリス・バン・オールスバーグ作 金原瑞人訳(ほるぷ出版 2002/2003.9)
コルデコット賞受賞作で映画化もされた『ジュマンジ』の続編。これもまた映画化されるという。『ジュマンジ』ではジャングルの動物たちが家を破壊しながらでてきたのだったが、今度は宇宙が舞台。無重力空間に放り出されたり、異星人が攻めてきたり……。映画化されたらさぞパワーアップされた画面になるのだろうな。イラストはスミ一色で描きつくされているのは前作と同じなのですが、描き方が違う。細かなスミの濃淡で立体的に描くのですが、今回はきちんと輪郭をとってそれぞれのものがくっきりかかれている。前作ののっぺりしたどこからでも何でも出てきそうな無気味な感じは弱くなっている感じ。それが宇宙という未来的な(?)イメージからきた描き方なのかどうか。(細江)

『きょうりゅうたちのおやすみなさい』ジェイン・ヨーレン文 マーク・ティーグ絵 中川千尋訳 (小峰書店 2002/2003.6)
 ジェイン・ヨーレンは絵本編集者として自分の出版部門を持つ作家。アメリカではワイズ・ブラウンやゾロトウなど、このような形で絵本作りに関わるテキストライターが多い。おやすみなさいをいう前に読む本なのだろう。眠くないやとだだをこね、もっと本を読んで!とさわぐのが子どもではなくきょうりゅうだというのがミソ。それもきょうりゅうの家族を描くのではなく、子どもだけが恐竜に描かれるのがニヤリとさせる。いろんなきょうりゅうの名前もきちんと絵の中で押さえてあるのも、子どもはうれしい。(細江)

『ダンボールくん』ジェローム・リュイエ作 嶋田勘完蔵訳(小峰書店 2002/2003.7)
フランスの絵本は絵はいいんだけど、お話がどうとったら良いのかよくわからなくて困るなと思うことが多い。この絵本もそんな感じ。段ボールが主人公になっていろんな形になる導入はおもしろくて、絵もよく考えられていて、良いなと思ったのだけれど。発想とイラストが楽しいので。(細江)

『シンデレラのおしり』ニコラス・アラン作・絵 戸谷陽子訳(徳間書店 2002/2003.8)
 おおきなおしりだって、だいじょうぶ。太ったのかしら、と悩むお姉ちゃんに、お口だってお鼻だっていろんなのがあるんだから、おしりだってそうよ、と妹がいいます。ヴィクトリア女王様やぬけだし名人フーディーニなんてなじみのない人もでてくるけれど、シンデレラやしらゆきひめやサンタさんだって……という展開は小さい子もふんふんとついてきました。あっさりとかわいいイラストでオチもすとんときまっています。(細江)

『たなかさんちのだいぼうけん』大島妙子作 (あかね書房 2003.9)
 大島妙子デビュー作のキャラクターが大活躍する続編。おばあさんと古いお家が主人公という和風なこの絵本、今の方が細かに描かれた暮しぶりの楽しさが注目されるかもしれません。大嵐に見舞われたたなかさんちとすずきさんち。木造平家建てのお家がどうなるのかしらと慌ててページをめくると、なんと、お家に足がはえていました。そして荒ぶる海へおよぎだすとは……。最初はびっくり、でもあははとわらって次々やってくる海の生き物に目を奪われ、ラストはあ〜よかったとにっこり、安心。大航海に疲れた娘はパタンと本を閉じてぐっすりねてしまいました。(細江)

『ゆっくりがいっぱい』エリック・カール作 工藤直子訳 ジェーン・グドール前書き(偕成社 2002/2003.9)
 エリック・カールの最新作。スローライフを目指そうという作家のメッセージが表4についていて、一見そのような主張が込められた絵本なのかと思ってしまう。そうであるとすれば、今、注目されやすいし、わかりやすい絵本ではある。でも、カールの絵本はいつも自分は自分であるということをうたいあげているのではなかったか。それは子どもが子どもであること、それ自体を楽しんでいる、それ自体を丸ごと生きている、というのとイコールとして絵本の主人公が描かれているのではなかったかなと思うのだ。価値の問題ではないと思うのだけれど。(細江)

『おやすみのキッス』カレン・カッツ作 石津ちひろ訳(講談社 2001/2003.10)
 アマゾンで赤ちゃん絵本売り上げランキングを見るとロングセラーの中にあって、何冊もランキングさせている人気絵本作家。日本での紹介は本作がはじめて。カウンティングブックの形式をとりながら、おやすみ前に家族ひとりひとりからキッスされて見守られているという赤ちゃんの有り様があたたかい。アメリカではおやすみ前のお約束としてこういうことをされているのかなとちょっと想像した。イラストはちょっと民芸調が入っていて、今まであまり翻訳されてなかった絵本の感じではある。(細江)

『どこ? つきよのばんのさがしもの』山形明美作 (講談社 2003.10)
 探し物絵本の人気シリーズ『ミッケ!』(小学館)の形式にのっとった写真、造型、さがし絵絵本。男の子と黒猫の一夜の夢の冒険を精巧なジオラマと不思議なカメラワークで造りだしている。力作だ。『ミッケ!』とちがうのはテキストが写真とくっつきすぎているところ。写真とテキストのあいまの空気が次のページをめくらせるのだと思うのだけど。(細江)

あかちゃんのそばで『おむかえします』『おまちしています』『おまもりします』五味太郎作(主婦の友社 2003.11)
 つみきややかんもはなびも……みんなみんな赤ちゃんがやってくるのをおむかえします。三輪車もお砂場セットもみんなみんな赤ちゃんと遊べるようになるのをお待ちしています。いすもかとりせんこうもかべもやねも……みんなみんな赤ちゃんが大きくなるのをお守りします。という五味流ものもの尽くし絵本。コンセプトは一貫していて、この絵本をひらく人たちは、この3つの気持ちをもって赤ちゃんに接することができるようになるかな。(細江) 

『どんぐりねこ』ほりうちしのぶ(主婦の友社 2003.11)
あみぐるみの猫を主人公にした写真絵本。自然素材のものばかりで舞台をつくり、行って帰ってくる初めての冒険を描いている。赤ちゃん絵本の形態をしているが、写真自体、乳児の目にはよくわからないかもしれない。ただ、この絵本をきっかけにみじかな自然に親しむ機会を親が持つようになるかも。あみぐるみの編み方つき。(細江)

『みつけたよ!』広瀬克也(主婦の友社 2003.11)
赤ちゃんが空から自分のお家を見つけてやってくるという過程を1冊にした絵本。作家は自分の子どもが発した一言からこのストーリーをあたためていたという。単純ではあるが、安心感のある絵本。(細江)
------------------------------------------------------------

『ゆきのひのステラ』(メアリー=ルイーズ:作 江國香織:訳 光村教育図書 2000/2003 1400円)
 ステラ第2作目。
 仲良し弟のサムが初めて雪を見た日のお話。
「ゆきって つめたいの?」から始まって、「ゆきって たべられるの?」以下、サムの質問が延々と続いて行きます。いちいち丁寧にトンチンカンに、答えていくステラが良いです。
「ゆきって たべられるの?」「シロクマたちは たべるわ。コーフレークみたいに あさごはんい たべるのよ。」てな調子です。
 ステラの表情の豊かさもこのシリーズのすてきなところですが、隅々まで、描き込まれた様々な動物たちも、この世界を楽しいフィクションに仕立て上げています。(hico)

『シンデレラのおしり』(ニコラス・アラン:作絵 とたにようこ:訳 2002/2003.08 1400円)
 タイトルで、まずつかみはばっちり(原題も)。
 お話は、おしりが大きくなったと嘆くお姉ちゃんにわたしが、大きいおしりのいいとこを色々述べます。
 これがまた強引で笑わせます。
 さいごのオチもちゃんとしてます。(hico)

『ある あめのひの ケン・バーン』(丸山もも子・鍬本良太郎 小学館 2003.08 1200円)
 読者を幸せな気分にさせようとする絵本の中で、これは珍しく成功しています。一つは、シンプルなこと。音を集めるのが趣味の男の名前は「ケン・バーン(鍵盤)」で、歯は鍵盤になっとります。相棒の鳥の名前はショパン。コテコテでしょ。
 そしてもう一つは、リアリティからズレていること。音を集めるのですから。
 いちいちは書きませんが、楽しい音から哀しいそれまで、町の中でケン・バーンは、誰も気付かないそれらを見つけます。
 物語の中心は、とてつもない大きい「哀しい」音をみつけたケン・バーンがそれをどうするか? なぜそれは落ちていたのか?
 ここで作者は幸せな結末を用意しています。
 いいのですが、画がちょっと軽すぎるのが、残念。どうせなら、もっとポップに描いて欲しかった。(hico)

『おしゃぶりが おまもり』(ウーリー・オルレブ:文 ジャッキー・グライヒ:絵 もたいなつう:訳 講談社 1980/2003 1600円)
 ヨナタンはもう4歳ですが、おしゃぶりをはずせません。彼にとってそれは「ライナスの毛布」なのですから。両親は、困ったな〜、なのは当然なんですが、無理矢理取り上げることも出来ません。
 と、物語を設定しておいてから、オルレブは語り始めます。
 な、なんと、オルレブはそこに、おしゃぶりをおまもりとして首からぶら下げている、おじさんを登場させるのです。
 「ライナスの毛布」から「おまもり」に移動させること。
 厳しいしつけではなく、ゆっくりとした移行。
 それをどうやり遂げるかは、読んでくださいな。(hico)

『アップルパイは どこにいった?』(バレリー・ゴルバチョフ:作・絵 なかがわちひろ:訳 徳間書店 1999/2003)
 ヤギくんはブタくんに「アップルパイを買いに行っていた」というけれど、持っていない。
 どうして?
 そこからヤギくんの本当とも嘘ともわからない、何故パイを持っていないかの説明(言い訳)が続いていきます。
 出来事の連鎖で、それぞれはありそうなんですが、本当かな〜、でもあるのがユーモラス。
 見開きごとに「どろぼう」の姿がでてきますが、これはあくまでヤギくんの想像ですし・・・。
 ヤギくんとブタくんの仲の良さがほのぼの出ています。(hico)

『ばけずきん』(川村たかし・文 梶山俊夫・画 編集:松田幸子 教育画劇 2003 1200円)
『おならのしゃもじ』(小沢正・文 田島征三:画 編集:清田久美子 教育画劇 2003 1200円)
 教育画劇の「日本の民話絵本」もこれで八冊になりました。今回はどちらもユーモアたっぷりで、親しまれやすい素材です。
 文と画の取り合わせもこのシリーズの見所ですが、今回もまた豪華なタッグです。話が長者物で、繰り返しパターンの『おならのしゃもじ』の方が難しいと思いますが、それぞれのおならの吹き出しに表情をつけることで、そこをクリアしています。『ばけずきん』は、川村たかしが、文をひねらず、オチまでを流れるように書いているので、梶山俊夫の画の自由度が増していて、活き活きしています。この辺りのバランスの妙は編集の腕の見せ所でもあり、文と画の呼吸もあるでしょう。(hico)

『ねこ どこどこ にゃあ』(伊藤アキラ:文 広瀬弦:絵 編集:喜入今日子 小学館 2003 1300円)
 絵文字をふんだんに使った試みの絵本第二弾です。
 物語の中にでてくる文字、例えばねこの顔に下に「ねこ」と書いて、文字(言葉)とそれの指す物を一致させ、言葉を印象つけようということです。
 ですから、大人は読みにくいです。絵と言葉を一致させる必要は無いのですから。従って、文字を覚え始めたコたち向けです。
 動物たちの名詞などはそれでOKですし、同じねこでも、主人公の女の子が探しているねこと、他のねこを絵で区別しているのも、言葉よりイメージがはっきり伝わりやすいでしょう。「いりぐち」と「でぐち」が同じような絵に見えることは、確かに「いりぐち」と「でぐち」は同じ物なのでいいのですが、ちょっと混乱するのでは。みぎとひだりはそれぞれ矢印の絵が描かれています。みぎはいいのですが、ひだりの場合、文を左から右へ読んでいるのですから、そこでひだりの絵が来ると、そこで止まってしまいます。
 隠し絵絵本ならぬ、見せる絵絵本としてのおもしろさはありますので、巻を追うごとにスキルアップしていけば、いいと思います。(hico)

『アイスクリームごっこ』(二宮由紀子:作 にしむら かえ:絵 編集:松永緑 ポプラ社 2003 900円)
 二宮の作品は、ナンセンスというより、日常の枠を取っ払って出現する、なんともいいようのない世界。
 今作は、めんどりのメアリーさんの家にいろんな物がごっこ遊びにやってくる。何故かの説明もなし。冷蔵庫をあけると、みどりのハンガーがいて、何をしているかとメアリーさんが尋ねると、アイスクリームごっこだという。何故ハンガーがアイスクリームごっこを始めたかに、物語はさして興味を示さない。むしろ大事なのは、アイスクリームごっこなのに何故冷蔵庫にいるのか、なのだ。
 こうして、次々現れるごっご遊びをする物たちに私たちは翻弄され、しかたなく意味や秩序のある日常生活感覚を放棄して、そこに身を任せるしかない。寒さに震えているハンガーをタンスに戻してやると、そこには、ハンガーごっこをしたいのに、ぶら下がれないで悔しがっているデコレーションケーキがいるのですから・・・。(hico)

『きらい』(二宮由紀子:文 永島正人:絵 編集:網美恵 エルくらぶ 2003 1300円)
 障害者永島正人の絵が先にあって、それを構成し二宮が文をつけた作品。
 したがって、いつもの二宮世界ではないけれど、それがかえって、二宮世界の裏側を見せてくれていて、おもしろい。
 徹底的な理屈と、断定。
 そこから始まって壊していくと二宮世界になるわけだ。ただし、壊し方が、すごいのだけど。
 この作品は、永島の絵たちを強引に「きらい」を描いたものとし、その説明を二宮が考える。すきでなくきらいなのが、さすが。(hico)

『そのままのきみがすき』(マックス・ルケード:作 セルジオ・マルティネス:絵 ホーバード・豊子:訳 いのちのことば社 2000/2000 1600円)
 これもタイトルそのまんまの物語。
 親のない5人兄弟。王様は自分の子どもにしようとします。人々は、王様に好かれるなにかができた方がいいいとアドバイス。
 で、上の4人の兄姉はそれぞれの才能を使ってもの作りで、大忙し。王様と会う暇もない!
 なんの才能もない末娘はとほうにくれて、仕方なく村の入り口で動物の世話をする。
 そこへ、見知らぬおじさんが現れて・・・。
 この先も説明はいりませんね。
 幸せな結末です。
 画が、村のにぎわいや、人の表情を巧く出していて、それもお楽しみ。
 が、ジェンダーチェックは必要です。(hico)

『百年たってわらった木』(中野美咲:ぶん おぼまこと:え 編集:長谷聡明・山田陽子 くもん出版 2003 1200円)
 2002年「おはなしエンジェル子ども創作コンクール最優秀作品。中学生が書いたお話です。
 森の動物や虫たちと仲良くなりたいと百年も幹をツルツルにし、枝を天へとつっぱていた木。でも、誰も友達になってくれないので、しょんぼりと枝を垂れます。すると、大きな木陰ができて、動物たちが涼みにやってくる。
 虫たちはといえば、幹がツルツルで上りにくい。そっか、がんばらないで、百歳の木でいればいいんだと木は気づきます。幹もツルツルではなくなり、虫たちもやってくる。
 バランスよくまとまった、悟り物語。直球です。そこが少し印象を薄くしているかな。(hico)

『たぬきのおつきみ』(内田麟太郎:作 山本考:絵 編集:島岡理恵子 岩崎書店 2003 1200円)
 別にたいした悪さではありません。
 お月見のためにたぬきさまたちは人間様の作った稲穂や野菜をほんの少しわけていただく。
 ついでにお地蔵さんにまつられたおだんごも失敬。
 そうして、たぬきのお月見だ〜!
 それだけでも楽しいのに、内田はラスト前に、一ひねりを持ってきて笑わせる。
 で、最後の決めセリフを人間の子どもに発しさせ、人間〜たぬき〜月〜人間と一巡させます。
 山本の画の素朴に見せつつ、たぬきたちのキャラをちゃんとたてているのはさすが。(hico)

『みんないっしょに』(ロブ・ルイス:作 まつかわまゆみ:訳 評論社 2000/2002 1300円)
 うさぎの子どもたちがボート遊び。でも水に落ちてしまい、近くの島へ。どうすれば助かるだろうかと、みんな色々意見がでますがまとまらず、それぞれが勝手に自分の思いついたことをしますが、失敗。
 オチはもうわかりますよね。
 それぞれの個性がちゃんと見えていて、だからみんないっしょが効果を見せます。
 気持ちのいい作品ですよ。(hico)

『ダンボールくん』(ジェローム・リュイエ:ぶん・え しまだかんぞう:やく 小峰書店 2002/2003 1300円)
 大通りに捨てられたダンボールくんが、風に飛び、車にひかれしながら、やがてホームレスのレオンに拾われる。色々な使われ方をされるダンボールくん。
 ホームレスの側からではなく、ダンボールの側から描いているのが大正解。本の装丁もダンボールを意識したもので、よいです。(hico)

『白猫』(エロール・ル・カイン:再話・絵 中川千尋:訳 ほるぷ出版 1973/2003 1300円)
 再話そのものは別段、さしたる物ではありません。下手ではないです。むしろ巧い。でも、それ以上はない。
 にもかかわらず、やはりカインの画はいい。ユーモラスでありながら、からかいから批評の眼までが、画によって示されている。そして想像力も。(hico)

『きみの町に星をみている ねこは いないかい?』(えびなみつる:作・絵 架空社 2003 1500円)
 画は印象的ではありません。かなりベタです。そして、見開きごとの文の置き方やロゴも、ベタで工夫がありません。
 が、話はそこそこおもしろいです。
 天文台で星を見ていたら、隕石落下。急いでそこに博士たちがやってくると、UFO。
 いよいよ宇宙人が登場。で、彼らがヘルメットをはずして、その顔を見ると、猫そっくり。もう自分の星に帰れなくなった彼らを博士たちはどうするのか?
 お話が終わったとき、タイトルが浮上してきます。
 もう少し作り込みが欲しい。残念。(hico)

『みんな おともだち Four Seasons』(いざわようじ 編集:中村成子 ポプラ社 2003 780円)
 作者の願いは、タイトル通りです。幼児にそれを伝えたい。
 ですから、猫と犬がおともだち、なんてレベルで描きません。
「あれっ なんだろう?/もぐらくん と つくしちゃんだ!」
 もぐらとつくしです。
 なんだかとってもシュール。私はクラッとしました。夏はカモメくんと雲くん。秋はみかづきさんときのこちゃん。冬はゆきくんとゆきだるま。あれ、普通だよ。普通じゃない組み合わせを三連発して、それに慣れたあと、最後に外す。そのことで、最初の三っつがより印象的に残る段取り。
 ただ、例えば、みかづきさんときのこちゃんで今の子どもは秋を想像できるか? があります。できるなら、四季への感性はすでに持っているわけで。「あき」だけ大きな文字にして、みかづきさんときのこちゃんと秋を結びつけ、指摘してはいるのですが。この辺りは、読み聞かせ(読んで、聞いていただく)の時フォローが必要かもしれませんね。(hico)

『ちょぺい じいちゃん』(すとうあさえ:作 アンヴィル奈宝子:絵 文研出版 2003 1200円)
 森の中で静かに暮らすちょっぺいじいさんウサギ。ある日道に迷ったカメラマンがやってきて、じいさん、食事と宿の面倒を見ます。お礼にカメラマンがちょぺいじいさんの写真を撮り、雑誌に載ります。この写真を見たウサギが次から次へとやってくる。部屋が汚いと掃除に来るのや、骨董品時計を、新品と取り替えるウサギと、もう大変。そこにユーモアが生まれ、最後はゆったりとした時間で終わります。
 画は表紙からそうですが、色遣いも、デザインも、もっと印象深いものにできるはず。話のままに絵をつけている感じがします。もう一工夫を。(hico)

『ぼく、かぜ ひいちゃった!』(ディディエ・デュフレーン:文 アルメル・モデレ:絵 那須田淳:訳 ひくまの出版 2002/2003 1400円)
 アライグマのディエゴが風をひいているところから、お話は始まります。
 病気で不安な子ども、それに寄り添う両親、よくある風景が、なんともゆっくりと、柔らかに描かれていきます。楽しいオチもありますし。(hico)

『ねんど ぼうや』(ミラ・キンズバーク:文 ジョス・A・スミス:絵 覚和歌子:訳 徳間書店 1997/2003 1400円)
 いろんな国で残されている昔話。
 どろで作った子供。大切に育てようとしますが、ぼうやは、作ってくれた人も飼い犬も、村人もみんな食べていきます。
 それで育つのかと言えばそうでなく、ずっとぼうやのままですから、いつまでもたくさん食べたがります。
 最後はヤギの機転で、めでたしですが、このおそろしいぼうやのイメージをいちいち分析する必要もないでしょう。
 パワー溢れる作品。(hico)

【創作】
ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日(キンバリー・ウィリス・ホルト作・河野万里子訳(1999/2003) 白水社)

 変わったことは何も起きない退屈な町テキサス州アントラー、1971年夏。淡々と描写の始まる冒頭から、読者は映画「スタンド・バイ・ミー」にも似た世界へ、ぐぐっと引き込まれていく。
 「変わったこと」が初めて起きたその日、雲ひとつない夏の暑さの下、トレーラーでやってきたのは「世界一ふとった少年」とうたわれる体重292kgのザッカリー・ビーヴァーだった。一回の見学につき2ドル。決してまゆをひそめるような「見世物」ではなく、清潔にしたトレーラーの中でお菓子を食べ、不機嫌に見物客をねめつけるザッカリーの小憎らしさと傷ついた内面は、やがて明らかになっていく。
 ザッカリーは、主人公のトビーやキャルと似た少年である。寂しさを抱えつつ虚勢を張っている3人は、同じところを持つからこそ不協和音が生じ、ぶつかりあったところから物語が生まれる。後から振り返ったとき、それ以前とそれ以後で決定的に変わってしまったあの「時」の輪郭を、トビーとキャルは、きっとザッカリーの巨体と共に、綿畑の真ん中に立つ写真と共に思い出すのだろう。
 作中、トビーとキャルのいかにも男の子らしく乱暴で気ままで、そして互いに思いあっている友達関係は、決してお行儀のいいものではない。だからこそ、二人の終盤の関係はリアルでひたむきで、心を動かされる。物語の佳境、「くせえぞ、ここ」と荒々しくザッカリーのトレーラーを出て行くキャルが感じている痛みと、それを背後から見つめるトビーの胸の痛みと後悔。どん底の気持ちを抱えて、だけど、絶対というものはなく、壊れたら、そこから何かを始めるしかない、始めればいいと思えるまで。 
 トビーのものの見方は、この夏変わった。アントラーに住む周囲の大人たち、お母さんやお父さんの別な面の発見は、ダールの『ぼくらは世界一の名コンビ!』にも通じるけれども、それよりもう少し苦くて、きれいで、そのくせざらついているような。キャルは、そんなトビーの半歩だけ先を行っていたのかもしれない。
 私は同時代人ではないが、カーペンターズの名曲がリアルに流れる時代感覚もいい。ベトナム戦争に従軍しているキャルの兄ウェインは、作中、手紙とその不在によって、強い印象を与える。少年が少しだけ男に近づく夏。見守る大人、まっすぐにかかわる大人、偏見のないケイト(キャルの姉)など、脇を固める登場人物たちもそれぞれにいい味を出している。滑稽なところも不器用なところもかっこいいところもやさしいところも含めて、男の子っていいよね、と思ってしまうのは、私のロマンかもしれないけれど、でも、本当にしみじみおもしろかった。(鈴木宏枝)

『ユリとものがたりの木』片山令子作 片山 健絵(ポプラ社 2003.10)
 片山令子はかたちなきものに形を与えるのがとても上手だ。ひかりはジュースに、においがゼリーに、そして本書ではこもれびがレンズになって、重要な小道具になっている。形を与えることでそのものの力をより印象深く物語の中に埋め込んでいく。それがストーリーを進ませる力になっている。
 大きな自動車道が通ることによって、力なく死にかけたような森にすむユリ。町の学校ともうまくなじめないし、家には病気のお母さん。けれども自動車道のわきにある大きな「ものがたりの木」をユリが抱きしめた時から、ゆっくりと何かが違ってきた。そしてユリは胸に緑の葉っぱのしるしを持つのだ……。
 しるしを持つ者が動物たちと一緒に森を再生している物語。一言でいうとそうなるのだけど、一つ一つの章が、小さな物語として完成しており、それを列ねて読むことで大きな物語がゆっくりと立ち上がってくる。その様がとてもいい。でてくる人や動物がみんな大事に生かされている。
 ラスト、緑のしるしをなくしたユリが、動物たちと言葉を交わせなくなってしまっても、それでも一緒にいられる姿にこのファンタジーの誠実さを感じた。ちょうど夢の中からでていく、8、9歳の子どもの感じ。それでも以前につちかわれた経験がその有り様を決定しているのをこのシーンが美しく描いていると思う。(細江)

『アルテミス・ファウル 北極の事件簿』(オーエン。コルファー:作 大久保寛:訳 角川書店 2002/2003.09 2000円)
 「妖精の身代金」に続く第2弾。あの悪事の天才アルテミス・ファウルが帰ってきた!
 のですが、今回は、ガラリと変わって、悪事何ぞを痛快に行ってくれません。前作で敵同士だったエルフのホリー(身代金のためにアルテミス・ファウルによって誘拐されたのが彼女)とタッグを組んでます。
 アルテミス・ファウルは死んだとされる父親の存命を信じていて、今回彼は父親を誘拐したと言う悪の組織に身代金を要求される立場。ま、もちろんんな金出さずに父親を奪い返すつもり。でもそのためには仲間が必要。一方妖精世界でもなにやら不穏な動きがあり、ゴブリンたちが人間に操られて、地下の妖精世界を乗っ取ろうとしている。それを阻止するには、地上の人間の協力が必要。で、もっとも適任と思われるのは悪事の天才であるアルテミス・ファウル・・・。
 こうして、利害が一致し、共同戦線となります。
 別々の二つの事件が地上と地下で進行していますから、そりゃもう、舞台の切り替えの速いのといったら!
 前作の、子どもの悪者アルテミス・ファウルの痛快さは今作にはありません。アドベンチャーの醍醐味で読ませます。
 でも、前作の方がいいな〜。映画化も決定で楽しみ。
 すでに3作目がでているようなので、期待。(hico)

『フェアリー・ウォーズ・ベレスの書』(ハービー・ブレナン:作 種田紫:訳 ソニーマガジンズ 2003/2003.08 2000円)
 ま、また新しいファーンタジーがアイルランドから登場です。
 ふぅ。
 でも、これ結構読ませます。
 こちらの世界と、別世界が繋がるという、おなじみの設定。で、こちら世界の主人公が別世界で起こっている悪事解決に携わるのも典型。
 なんですが、そうした冒険物語の形を借りて、ここでは家族が描かれています。
 別世界では王子パーガスが、いつもお忍びで、国の悪者を退治しようとしていますが、公式な政治と法律で国を動かしている王(父親)にとって、彼は頭の痛い存在です。で、王子は法的にはいけないが道徳的には間違っていないことをし、捕まるのですが、告訴されれば、息子は罰せられるので、父親は、息子を他の世界、つまり私たちの世界へテレポートさせます。この世界にいない限り、そのものを裁くことは出来ないのですから。が、予定していた送り先に王子はテレポートしていません。それはこの国を奪おうとするダークエルフと悪魔の仕業だったのです。
 で、その間違ってテレポートされた先にいるのがヘンリー少年。なんだか両親がヘン。父親が、美人女秘書と浮気をしている可能性大。とうとうヘンリーは父親を問いつめます。が、父親の答えは、浮気をしているのは自分ではなく、母親であること。そしてそのお相手とは父親の美人女秘書!
 ここでも子どもの前で涙を見せる、90年代からおなじみの父親像がでてきます。
 ヘンリーは家族がどうなっていくかが心配だし、でも友達になった別世界のパーガスのことも心配(ちなみに最初パーガスはこちらの世界では妖精に姿を変えて現れます)。
 現実からの逃避か、本当に心配か、ヘンリーは別世界に飛び込みます。
 ま、別世界での戦いは驚くほどのことではないのですが、そこでヘンリーは何かを得て成長するのではなく、とにかく自分の世界での家族の問題を、一時棚上げにできたことで、現実世界に戻ってからの両親との距離や関係が変わってきます。
 それはネタバレなので書きませんが、ファンタジーを使って現実問題に対処(解決ではなく)する描き方が、「今」です。
 なんかこれも続編がありそう・・・。(hico)

『ジャンポールという名の魚』(ブリジット・スマッジャ:作 末松氷海子:訳 小泉るみ子:絵 文研出版 2001/2003 1200円)
 ぼく(ジュリアン)が飼っていた金魚ジャンポール・サルトルが死んだ。母親と一緒に暮らしているジャンポールに話すと、彼は死んだ金魚をトイレに流す。
 ま、そーゆーやつ。
 憤りを覚えるぼく。でもジャンポールを母親は頼りにし、愛している。
 別れた父親に遇いもするが、心は重い。
 そんなぼくの日々が押さえた言葉で語られていきます。
「これからぼくがしたいことは、なんでもできるんだ。できないのはひとつだけ。お父さんといっしょにくらすこと。お父さんの仕事を考えたら、できなくてもしかたがないけれど。それにぼくがいなくなったら、お母さんが悲しむし。お父さんとくらしたいってことは、お母さんたちにも話してはいない」。
 今の子どもの置かれている位置がよく描かれています。(hico)

『ジュリー 不思議な力をもつ少女』(コーラ・テイラー:作 さくまゆみこ:訳 小学館 1985/2003 1300円)
 過去を、未来を見ることのできる少女ジュリー。小さな頃は、家族みんながジュリーの作り話として聞いてくれたが、やがてそれに興味を失っていく。その話は作り事ではなく本当の出来事を話しているとういジュリー。距離がますます遠くなる。
 笑顔を失い、孤独を生きる彼女。
「なにが起こるかわかっていてても、助けられなかったら、役に立たないじゃないの」。
 彼女は理解され、受け入れられるのか?
 他人が持たない(受け継がれてはいるが)能力が存在証明ではなく、孤独をおびき寄せてしまうこと。
 続編があるそうなので、速く読みたい!(hico)

『パンツマン たんじょうのひみつ』『パンツマンVS巨大トイレロボ』(デイブ・ピルキー:作・絵 木坂涼:訳 徳間書店 1997.1999/2003 952円)
 『ハリー・ポッター』の次に売れている、アメリカで総計2600万部出ているという、シリーズです。
 主人公たちには最悪な校長が、誰かが指パッチンをすると、彼らがマンガで作ったヒーロー「パンツマン」に変身して戦うという、とんでも設定の物語です。「パンツマン」ですからもちろんパンツ一枚に赤マント。
 物語の途中で、彼らが描いた「パンツマン」のマンガを見せる。「パンツマン」が戦うシーンはパラパラまんがで見せるというお約束があり、こーゆーお約束は、敷居を低くしますから、いいでしょう。
 ネタそのものは、しょうもない出来事の連鎖ですが、実はこれってなかなか難しい芸当。
 ただし、この手の作品は「ゾロリ」からマンガまで入れると、日本ではすでにあるので、インパクトは少ないかもしれません。
 でも、こーゆーのは一杯あった方がいいのです。(hico)

『すてねこタイガーと家出犬スポット』(リビ・フローデ:作 木村由利子:訳 文研出版 1998/2003 1300円)
 捨てられた子猫と、虐待する飼い主から逃げてきたスポットが出会い、タイガーはスポットのお乳で命長らえ、2匹の安住の地を求める旅のおはなし。
 2匹の偶然の出会いさえ気にしなければ、動物好きには、おいしい物語です。
 私はだから、読んでいる間、ずっと幸せでした。(hico)

『あらいぐまパンドラの大冒険』(H.M.メニーノ:作 黒岩浩:訳 かみやしん:絵 文研出版 1985/2003)
 親からはぐれたあらいぐまと、それをひろったマギーの物語。
 あらいぐまはかなり凶暴であること、大人になれば飼うのは難しいこと。などがちゃんと示されながら物語が進んでいるので、「ラスカル」のようなセンチメンタルはありません。
「マギーとベネットは、パンドラを必要としなくなっていた。パンドラには、ふたりはまったく必要ではない。必要なのは、かれらの作ったあまいトウモロコシの実が付くことだった」
 で終わりますから。
 この距離感、好きです。(hico)

『ふうたの かぜまつり』(あまんきみこ:作 あかね書房 2003 900円)
 キツネのふうたは紙飛行機で遊んでいたのですが、無くなってしまう。そこに人間の女の子がやってきたので、あわてて隠れる。ランドセルをぶちまけてしまった彼女は、カギをおとしてしまう。それを拾ったふうた。カギを探しにきた女の子。さて、ここから?
 三十年かけて、子ギツネふうたの四季が完結。
 この作者らしい暖かさと、ほんの少しの不思議によって、楽しい物語になっています。(hico)

『ハッカー』(マロリー・ブラックマン:作 乾侑美子:訳 偕成社 1992/2003.09 1000円)
 ビィッキーはギブと血の繋がらない姉弟。子どもができないからビィッキーを養子にしたらギブを妊娠したわけ。3ヶ月ちがいの姉弟です。
 銀行勤めのパパが逮捕されます。百万ポンドを自分自身の口座に不正に振り込んだと。
 パソコンが得意で、簡単なプログラムも書けるビィッキーは、ギブとともにパパを助けるために銀行のシステムに進入します。
 という事件とその解決が読ませます。プログラムをよく知らないので、う〜、てなこともありますが、謎解きのおもしろさはしっかりしています。
 で、それが本筋のようなのですが、この事件によって高まる緊張感の中で、養子であるビィッキーの心の揺れ、ギブとの距離、義理の両親への思いなどがビィッキー自身の言葉で明らかにされていきます。そこがもう一つの読みどころ。(hico)

『アルベルトとぼくの畑』(宇佐見興子:作 文研出版 2003 1200円)
 ブラジルから働きにやってきた日系人アルベルトは、ぼくの住むアパートの隣にやってくる。体が大きくオランウータンみたいな顔のアルベルトをぼくは「デカウータン」とあだ名を付ける。
 ぼくの友達アミちゃんも加わって、遠い国からやって来た、アルベルトとの交流が始まる。
 日系の労働者、ブラジルへの移民の歴史など、今の子どもたちにもちゃんと伝えたいことを描いています。でも、オランウータンみたいって、設定は必要なかったのでは? そっちに関心が行くし、そのためのエピソードが必要となりますから。(hico)

『ダークエルフ物語3 新天地、フォーゴトン・レルム』(R.A.サルバトーレ:著 安田均:監修 笠井道子:訳 エンター・ブレイン 1991/2003 2400円)
 悪こそ善である地下世界から逃れてきたドリッズドは、ついに、地上世界にたどり着きます。しかし、ダークエルフである彼は、受け入れてもらえません。どころか、町はずれの一家が惨殺されたとき、その罪をきせられてしまう。ドリッズドは、惨殺したモンスターを倒したにもかかわらず。
 彼を理解し受け入れてくれる世界は果たしてあるのか?
 今作も、モンスター満載ですが、やはりドリッズドの苦悩と孤独がメインです。ダークエルフだから、それだけで阻害されること。犯人扱いされること。
 今作では暗黒世界から陽の降り注ぐ地上世界にたどり着きましたから、彼の剣にかけられた魔法も薄れ、自身もなかなか昼に対処できませんし、四季を知らないから、冬に危うく命を落としそうにもなります。そうしたボロボロ状態で、精神を何とか保ちながらさすらうドリッズドの姿。
 次のシリーズもあるようなので、楽しみ。(hico)

『二人の「見つめる女の子」』(鈴木喜代春:作 岩崎書店 2003 1300円)
 母親が亡くなって、長距離トラックの運転手のお父さんは、今まで以上に働くようになり、不在の日が多い。子どもたちは父親の留守の間のお金を置いていくけれど、いつしかミナはそのお金を使い込んでしまうようになる。それは寂しさのはけ口なのですが、そうなると食事もできなくなる。ミナはクラスメイトにおねだりばかりする子になってしまう。最初は快く受け入れてくれた友達だけど、ミナのおねだりは激しくなり、ついにみんなキレてしまう。
 ミナはそこからどう回復していくのか?
 この話は、実際に神戸にある二つの「見つめる女の子」像に刺激を受け、制作者を訪ねた作者が聞いたエピソードに作者の想像力を使って、フィクションに仕立てたもの。
 はじかれたミナが、出会った彫刻家のアトリエにある一人の「見つめる女の子」像に惹かれ、話しかけ、自分でも粘土をいじり始める過程はリアルです。そしてそんなミナを見て、彼女こそもう一人の「見つめる女の子」だと思い、彫刻家が像を作り上げるのも、納得がいきます。が、彫刻家とミナの出会いのエピソードが弱い。(hico)

『ビートのディシプリン』(上遠野浩平 電撃文庫 2003 610円)
 ビートは統和機構に属する人造人間。彼は機構で最強のフォルテッシモから、「カーメン」を探る仕事を引き継がさせられる。機構がその仕事を与えたのはフォルテッシモだから、彼がその任務をビートに肩代わりさせるのは違反であり、フォルテッシモは裁かれるはずだ。しかしそれでも代われというフォルテッシモ。断るわけにはいかないビート。なぜなら断ればフォルテッシモにその場で殺されるのだから。
 こうして「カーメン」とは何かも全くわからないまま、ビートの探索は始まる。
 彼の特技は名前のように、ビートをとること。相手の鼓動とシンクロし、動きを止めてしまえるのだ。実はもう一つあるが、それが機構にばれたら、危険とみなされ抹殺されるので、めったなことでは使わない。
 死んでいるはずなのに、特殊能力を備えたマシーンを化した男とのバトル、ある組織から殺すことを依頼されビートを追うラウンドバンドとのバトル。ビートは生き延びていく。一応属している高校の、クラスメイト浅倉朝子に興味を持つビート。何故か彼女だけは、鼓動が読みとれないのだ。「カーメン」を後回しにして、浅倉の謎を追うビート。しかし彼女もまた「カーメン」に巻き込まれていく。
 スピーディーな筋運び、場面の切り替えの多さ、明らかになるようでならない謎、入り組んだ人間関係。シリーズ一巻目なので、先は全く見えませんが、それぞれの特殊技の説明など、白土三平の忍者物を思い出してしまった。
 上遠野の物語作りの巧さはここでも生きていて、一気。しかし、一巻目でもう少し、タネあかしが欲しいな〜。(hico)

--------------------------------------------------------------------
 第二次世界大戦下のポーランド。たった八歳でゲットーから脱走した少年がいた。『走れ、走って逃げろ』(ウーリー・オルレブ:作、母袋夏生:訳、岩波書店、1800円)は、本人からオルレブが聞き出した話を、冷静に八歳の子どもの視点で描き直しています。
 ゲットー脱出に失敗し、父親が連れ去られたスルリック。食料を求めて、母親とゴミあさり出かけるのですが、はぐれてしまう。帰り道も判らなくなった彼は、孤児のグループに入り生き延びます。そして、親切な農民のおかげで、無事脱走し、彼の放浪生活が始まる。まずは名前をユレクに変えます。そしてキリスト教徒としての振る舞いを覚えます。それが生き延びるための最低の条件です。
 あちこちの農家で仕事を貰い、藁小屋で眠り、また次の場所へ。いつしか、母親の顔も、兄弟の名前も忘れ、キリスト教徒の孤児ユレクになります。
 戦争が終わり、ユダヤ人救済センターに連れて行かれますが、ユレクは逃げ出します。彼にとって自分はユレクであってスルリックなんかではないからです。
 戦争が子どもからアイデンティティを奪ってしまう物語です。イスラエルの子どもたちが、ユレクを自分だけではなく、パレスチナの子どもと重ねて読んでいてくれたら嬉しい。
(hico)読売新聞2003.09.29

 セミ、ダンゴムシ、ミノムシ。それぞれが成虫になるまでを描いたのが『ぱくぱく』、『まるまる』、『プラプラ』(もも:さく・え 岩崎書店 八百円)。幼児絵本ですから、関係ないと思う方も多いでしょうが、何気なくページを繰って行くと、そのシンプルさの中に、生命への暖かい眼差しがあるのに気づくでしょう。
 見開き構成は統一されていて、右ページには、刻々と成長していく虫がデフォルメして描かれ、左にはタイトルと同じくオノマトペで、例えば『ぱくぱく』なら最初は「かぶかぶ」、下に小さな文字で「ぼく うまれたばかりに あかちゃん。だあれだ。」と少しだけ読者への問いかけや説明が書かれています。次のページは「ぱくぱく」と「これ なーに? おいしいよ」。残りのオノマトペを書きますので、右に描かれている絵を想像してくださいな。「ぷるぷる」、「くうくう」、「むしゃむしゃ」、「ぷりぷり」、「ぐうぐう」、「がぶがぶ」、「ぶりぶり」、「があがあ」、「いらいら」。ね、セミの幼虫の大きくなっていく様が目に浮かぶでしょ。最後の「いらいら」はサナギ状態。そこでオノマトペは終わり(成虫になるのだから)、「じぃー」、「ん」、「きょろ」、「てれっ」。最後の言葉は「じゃーん ぼく かぶとむし!」。図鑑とは別の、絵本だからこその表現。幼児だけに見せるのはもったいないです。(hico)読売新聞2003.10.13