○出会うということ
「風さん」ジビュレ・フォン・オルファース作 秦 理絵子訳(平凡社 1910/2003.9)
「はっぴいさん」荒井良二作 (偕成社 2003.9)
 何かと何かが出会って、別れるまでを描くのは物語の基本パターンです。このパターンにのっかってたくさんの物語が描かれてきたし、これからも描かれることでしょう。今月も出会うべくして出会ったふたりの物語がありました。ひとつは100年近く前の絵本、もうひとつは今月、できたてほやほやの絵本。
 「風さん」はオルファース4冊目となる翻訳です。古い作品でもオルファースやベスコフが現在に通用しているのは、しっかりと描かれた絵と子ども心に寄り添ったファンタジーがあるからだと思います。「森のおひめさま」が現在3刷ときき、ずいぶんオルファースの絵本も知られてきているのだなあと感心しました。
 「風さん」ではじっと水面に浮かんだヨットを眺めている男の子と風の妖精が出会った1日を描いています。ふたりは野を駆け、木に登り、落ち葉を舞いあげあそびます。赤く実ったリンゴをもらい、最後は雲に飛び乗って家へ戻って、さようなら。掛け合う言葉もなにも書かれていませんが、男の子の表情がしっかりとし、背もしゃんとのびたラストシーンを見れば、どんなに開放された1日だったかがわかります。秋の日にからだをいっぱいに使ってすごす楽しさがどのページにもあふれていて、絵本を閉じたら、次は自分が外に出かけたくなります。ふたりの出合いについての考察は訳者あとがきをごらんください。みごとに子どもの心性をとらえています。
 「はっぴいさん」はとっても荒井良二的世界。いつものように男の子と女の子が別々にでてきて、並列にその道行きが描かれ、やがて、それが交わり、一つの場所に行き着きます。ふたりはべつべつに違うものを探しているのですが、大きくて不確かなところに行き着くのです。それが<はっぴいさん>。このボーイ・ミーツ・ガールの物語は男の子と女の子が出会うだけの物語ではなく、出会って自分を違う視点で見直した後、もっと大きなものに出会いたいと願うのです。いつもよりにじんだような絵が気になりました。もう一度、表紙から見直して、見返しの大きなお日さまがでている町にたくさんの戦車が走っているのを見つけました。女の子のすむ町にも戦車はありました。ぼくらのねがいをきいてください、はっぴいさん はっぴいさん……ぼくらのねがいは、きっと私達の願いとつながっていくのでしょう。(細江)
 
○その他の気になる絵本、読み物
「スプーンさん」「コップちゃん」「くつしたさん」中川ひろたか文 100%ORANGE絵(ブロンズ新社2003.8)
なんともかわいらしい赤ちゃん絵本。たて組のテキストがレトロです。色や線の感じも今年、復刊された中谷千代子の絵の「ちいさいももちゃん絵本」(松谷みよ子作 講談社)がちょっと思い出されました。手仕事の跡を残した暖かみをねらっているように思います。コップちゃんはジュースをはこび、スプーンさんはヨーグルトをお口にぱくっ。いろいろやんちゃをしても毎日の暮しのお仕事は忘れません。くつしたくんはうさぎさんの足にはかれることになるのが、あれれの展開。小さな人たちにとっては、どんなものも動き出せば、生き物なんだから、この絵本をよんで、おうちのくつしたくんやスプーンさんで赤ちゃんと遊んでほしいな。(細江)

「いたずらハーブ えほんのなかにおっこちる」ローレン・チャイルド作 なかがわちひろ訳(フレーベル館 2002/2003.8)
「こわがりハーブ えほんのオオカミにきをつけて」の続編といえる絵本。またしてもハーブくんは絵本の中に入ってしまい、童話の登場人物・動物に追い掛けられるという筋立て。いろんな活字を組み合わせ、いろんな絵柄をコラージュし、ひっくりかえったり、穴をあけたりと大騒動。レイン・スミスが描くパロディ絵本(「くさいくさいチーズ坊や〜」「いかはいかにして〜」ほるぷ出版)とはちがって、ハーブくんがお話の中に入ってめちゃくちゃにしてしまうのがおもしろいのだろう。どんなに大変なことになっても本の中に閉じ込められることはないから。(細江)

「アップルパイはどこいった?」バレリー・ゴルバチョフ作、絵 なかがわちひろ訳 (徳間書店 1999/2003.7)
「すてきなあまやどり」で息の合った掛け合いを見せてくれたやぎくんとぶたくんの絵本、第2弾。アメリカではこちらの方が先にでていたのね。今回はやぎさんがどんどんどんどん話を大きくしてしまい、ぶたくんが「どうなのよお」という目でみているのが違うところ。「あまやどり」にくらべると、ちょこっと展開が苦しい感じ。訳者あとがきでこの絵本の楽しみ方を示唆してあるので、なるほど、そうかと思う人もいるのでは?(細江)

「ねんどぼうや」ミラ・ギンズバーグ文 ジョス・A・スミス絵 覚和歌子訳 (徳間書店 2003.8)
ねんどでつくられたぼうやが家中の食べ物を食べ、作ってくれたおじいさんおばあさんも食べ、村中の人を食べ……とどんどんどんどん大きくなっていくのが、オーソドックスな絵で描かれている。はらぺこくんの物語は昔話にはたくさんあって、この絵本の元のお話もロシアの民話だとことわりがある。さすが、ギンズバーグのテキストはリズミカルでテンポがよい。こわいマシュマロマンみたいなねんどぼうやがちょっとねと思う人もいるかもしれないけれど、丁寧に描かれた絵はラストシーンの民族衣装の乱舞といい、得意そうな小さなやぎの表情といい、安心して昔話の世界に浸っていられる。(細江)

「おしっこぼうや せんそうにおしっこをひっかけたぼうやのはなし」ウラジミール・ラドゥンスキー作 木坂涼訳(セーラ出版 2002/2003.7)
なんだかサラ・ファネリが大まかになったような絵だなあと思って手にとってびっくり。「ウィリーのそりのものがたり」(セーラ出版)の作家だった。全然違う絵柄だ。このお話はブリュッセルにある小便小僧に伝わるお話だとか。コラージュされた町や大胆に塗りわけられた人。テキストに合わせ、大きさの違う字。デザイナーとしても活躍する人の作る絵本らしい造り。子どもと戦争。絵本となると必ず子どもが戦争をとめるストーリーがでてくる。子どもというイメージの無垢性にすがりたくなるのだろうか。(細江)

「パンパさんとコンパさんはとってもなかよし」角野栄子文 長崎訓子絵 講談社 2003.8)
なんとも人をくったようなおはなし。リズムと調子のよさがストーリーを引っ張っている。イラストもいつともどこともわからない感じがして。コマ割りがテキストの調子に合っていて、ページをめくるのをリズミカルになる。(細江)

「リンゴちゃん」(角野栄子作 長崎訓子絵 ポプラ社 2003.9)
おばあちゃんがリンゴと一緒に送ってくれたお人形、赤いリンゴにお顔のついたリンゴちゃん。初対面の印象が悪くて、お互いに知らんぷり。リンゴちゃんはマイのお気に入りのぬいぐるみを追放しようとしたり、約束を守らなかったからといってのろいをかけたりする。あらら物騒なお話ねえと思いますが、絵が乾いているのでそんなにおどろおどろしていません。自分の思いがとげられない時に、幼児が手当りしだいに気持ちをぶつけてしまう様子がリンゴちゃんにかさなります。こんなリンゴちゃんとどうやって仲良くなるのかしら、と心配していると、へえ、そうなんだという解決。ちょっとした唱え歌がリンゴちゃんの硬い心にひびくのです。こういうところが角野童話の真骨頂だなと思います。(細江)

「むしゃくしゃかぞく」(ラッセル・ホーバン文 リリアン・ホーバン絵 福本友美子訳 あすなろ書房 1966/2003.8)
長い間アメリカで読みつがれてきた童話の翻訳。アマゾン.コムに小さい頃読んでもらって今も忘れられない、なんて読者評が載っていた本です。フランシスシリーズで有名な御夫婦ですが、他にもいろいろ描いていたのですね。リリアンの絵はこういう小さな版型の本がとてもよく似合います。「ベントリー・ビーバーのおはなし」(のら書房)もとても良いですよ。さて、この童話の主人公はなんなのかな?動物みたいな、トロルみたいな。けんかばかりでむしゃくしゃしている家族はごはんをたべても「まず〜い」。だって、小石と小枝のシチューや砂と砂利のお粥ですもの。暗い森の中で暗く、むしゃくしゃ暮らしていたのですが、すえっこぼうやが野原でふわふわぽわんとしたものをひろってきてから、家族は変わっていきました。機嫌良くしていれば、機嫌の良い風が吹くといっていたのはだれだったかしら。小さなお話ですが、微笑ましく愛らしく心に残ります。子どもに読んでみたら、前半のむしゃくしゃ家族のせりふにゲラゲラ。おおっぴらに「まずい」「げええ」と変なことを言えるのがおもしろかったようです。それも後半の安心があってこそ。(細江)

「おさるのもり」(いとうひろし作、絵 講談社 2003.7)
癒し系幼年童話といわれてきた「おさる」シリーズも7冊目。成長を描かないなどといわれたり、子どもより大人に受けているのでは、などといわれたりしましたが、冊数を重ねるにつれ、大きな時間がシリーズに流れ、おのずとおさるくんのあり方も違ってきたように思います。とくに、妹が生まれ、そのしぐさや行動がおにいちゃんおさるの思いをとまらせたり、ひろげたりしてお話が展開していくようになって。今回も木にのぼれない妹のために、おさるは小さい時自分はどうだったか思い出して、きっかけづくりをしてあげようとしたり、ぼくが初めてのぼった木をさがしてやろうとしたりします。その展開の仕方がやはり絵本的としかいいようがないのです。それがこのシリーズの強みでもあり、読み取れない人には読み取れないところなのかなあ(絵本が読める大人はそんなには多くないから)。たくさんの中のたった一つ、ということ。たしかにあるのにどこにあるのかわからないということ。その豊かな気持ち。どれも日常の中で出会う場面のひとつであり、その時の微妙な感じをきちんととらえなおそうとした時に、このような形のこのようなお話になるのかと思うと、それがふしぎ。(細江)

『みなみのしまのプトゥ』(むらまつ たみこ アリス館 2003.06 1300円)
 バリ島で4年暮らしたという作者による、バリ島の日常絵本。
 赤ん坊のプトゥが両親が出かけている間、村人たちによって、どんな風に面倒をみてもらうのかが、描かれています。
 本当に次から次へと、オトナからコドモまで、面倒を見てくれる人が替わっていく様は、この共同社会の姿を、伝えてくれています。(hico)

『スニちゃん、どこゆくの』(ユン・クビョン:文 イ・テス:絵 小倉紀蔵 黛まどか:訳 平凡社 1999/2003.06.20 1500円)
 韓国の四季を描いた春編。スニちゃんがおかあさん、おばあさんといっしょに、畑仕事のおとうさん、おじいさんの所へお昼ご飯を届けに行くという、物語。
 その途次、スニちゃんは色んな生き物から「スニちゃん、どこゆくの」と声を掛けられる趣向。
 小さな農村風景が、のどかに描かれ、色鉛筆画は繊細で暖かく、心の中にすーっと入ってきます。ただし、ありもしないノスタルジーに浸ってもしょーがないと思いますけど。(hico)

『つまんなくってさ』(ユン・クビョン:文 イ・テス:絵 小倉紀蔵 黛まどか:訳 平凡社 1999/2003.06.20 1500円)
 これは夏編です。
 農家の子どもトルは、両親がでかけてお留守番。
 退屈だから、柵の中の牛も山羊も鶏も豚も、全部放して、一緒に遊ぼうとする。
 でも、みんなは一斉に、自分の好きな作物の元へ。ジャガイモは食べられるわ、キャベルもいかれるわ、で、そりゃもう大騒ぎ。
 トルは大変な事態に、しょんぼり泣くばかり。
 両親が帰ってきて・・・。
 という、非常にいいリズムで進んで行きます。トルがあわてているのも、作物が荒らされるのも笑い事ではないのですが、イ・テスの画がそこをユーモラスに描ききります。(hico)

『カモノハシのプラティ たからさがしにいく』(クリス・リデル:作 おかだよしえ:訳 講談社)
 プラティは新しいたからものが欲しくて、海岸へ。貝殻を見つけて家に帰るのですが、その貝殻はすぐになくなって、見つけても、またなくなって・・・。
 短い話の中に不思議があり、それが明かされ、幸せになる。読んでもらった子供もホットして楽しくなる。
 単純な設定ですが、安定感のある話です。(hico)

『せかいいち うつくしい村へ かえる』(小林豊 ポプラ社 2003 1200円)
 アフガン三部作の完結編。
 ミラドー少年は前作でサーカス団と旅にでました。笛吹の少年として人気者です。
 でも、戦争が終わったことを知り、故郷に戻ることに。
 その道程で出会った人々。
 こうして小林は、アフガンの民を次々と描いていきます。
 やっと戻った故郷。これからどんな生活が待っているのか。でも、愛する故郷ですからね。(hico)

『かっぱのすもう』(小沢正:文 太田大八:画 教育画劇 2003)
 民話を素材としたシリーズ絵本の一冊。
 おじいさんの畑のきゅうりがみんな食べられてしまった。おじいさんは森に向かい、カッパたちを発見。彼らがきゅうりを食べてしまったと知ったおじいさん。かっぱに見つかってしまい彼らと相撲をするはめに。
 果たしてその勝敗の行方は?
 小沢の文はこのこっけい話の雰囲気をよく伝えていて、楽しい。おそらく子どもにとっても。太田の画は、躍動感を優先し、文に巧く寄り添っている。(hico)

『むしゃくしゃ かぞく』(ラッセル・ホーバン:文 リリアン・ホーバン:絵 福本友美子:訳 あすなろ書房 1966/2003.08.30 950円)
 ホーバンたちの未訳絵本。
 まだ、こんなのがあったんだ〜。
 なんでもかんでも「むしゃくしゃ」する家族が、あるペットを飼うことで、「にこにこ家族」になってしまうというお話。
 画がまずいい。物語は、暗さからだんだん明るくなって行くので、幸せな気分。(hico)

【創作】
『ブリット-マリはただいま幸せ』アストリッド・リンドグレーン 石井登志子訳 徳間書店 2003年7月31日

 リンドグレーンが、『長くつ下のピッピ』を出版社に送って返事待ちをしている間に、別のコンクールのために書いて応募、2等賞を取って翌年出版されたという「幻のデビュー作」である。主人公のブリット-マリは考え深い15才。仲のいい5人家族で、ほどよい田舎に暮らしている。
 家族の暖かさ、北欧の風物、少女の真摯な歩み、ボーイフレンドとの関係など、リンドグレーンらしさと初々しさの詰まった、本当に楽しい一作。後半になるにつれて、むしろリンドグレーンの声がより強く響き始める。
 形式としては、ブリット-マリが、お下がりのタイプライターを駆使して、ストックホルムのペンフレンドのカイサに宛てて書く手紙文学である。『あしながおじさん』『アンの愛情』などの作品を思わせる軽やさとユーモア、前向きなティーンエイジの女の子の生活と未来への空想の、いい意味での地に足のついた感覚がある。どこか、他国の少女小説にも通じていく懐かしさは、古きよきかもしれないが、古びていない。
 原題は<ブリット・マリは自分の心を軽くする>。これを「ただいま幸せ」にしたセンスも、きれいな装丁に合っている。(鈴木宏枝)


『ヘヴンアイズ』(デイヴィッド・アーモンド:作 金原瑞人:訳) 河出書房新社 2000/2003
 身寄りのない子どもたちの施設「ホワイトゲート」で暮らすエリンとジャニュアリー、「この子をよろしく」と腕に入れ墨されたマウスは、ある晩、戸板でいかだを作り、脱走をはかって川を下っていった(脱走じたいは、施設でもよくあることである)。
 施設からわずかしか離れていないブラック・ミドゥンという泥地帯にはまり込み、にっちもさっちもいかなくなって、いかだから何とかはいあがってみると、そこは廃墟となった印刷工場だった。
 彼らは、そこで手に水かきのある不思議な少女「ヘヴンアイズ」と泥から様々なものを掘り出してためこみ記録をつける、威圧感のある「グランパ」というおじさんに出会う。  別世界なようでいて、目に見える対岸にはサイクリングをしている人もいるし、その「スキマ」の混沌具合が、とてもアーモンドらしい一作。物語の符号性や、何よりも、アーモンドにしか見えない世界観のあらわれ、汚臭のする泥や腐ったものの中にきらめくsomethingへのまなざしはさすがである。
 ドイツ、アイルランド、デンマークなどでは、2000年前の炭化した人間の死体が発見されている。そのミイラは泥炭地に埋まっていたため、腐らずにリアルに残っているという。アーモンドが、博物館でその「彼」の死体を実際に見たかどうかは不明だが、何かのインスピレーションにはなったのではないだろうか。
 掘り起こされるもの、地中にあるもの、その背後にある崇高性などは、当然、『肩胛骨は翼のなごり』や『闇の底のシルキー』にも通じていく。古典的なゴシックホラーにより子どもの文学に、逆に新鮮な光が当てられている。(鈴木宏枝)


『走れ、走って逃げろ』(ウーリー・オルレブ:作 母袋夏生:訳) 岩波書店 2001/2003

 イスラエルのヨラム・フリードマン氏が語った子ども時代の経験をもとにして、オルレブが書いた物語。実話であることの意味はそれ以上でも以下でもない。
 主人公のスルリックは9歳で、ブオニェの町でパン屋を営んでいた一家の末っ子だが、時局の悪化で、ワルシャワ・ゲットーに閉じ込められて1年半になる。ある日、家族と別れて迷子になり、ゲットーを脱出して森に逃げ込む。孤児集団、農家や屋敷、森の中など、ユダヤ人狩の嵐の中で、ロシア軍に解放されるまでの狂気の数年間を、彼はどう生きのびたのだろうか。
 「スルリック、お前は生き残らなくちゃいけない。キリスト教徒としてどうふるまえばいいか教えてくれる人を見つけて、十字の切り方やお祈りをおぼえるんだ。十字の切り方を知っているか? いつも貧しい人たちのところに行くんだよ。・・・・・・犬は水の中じゃ鼻がきかない。自分の名を忘れるんだ。さあ、なんて名前だ? ユレク・スタニャク。だけど、父さんや母さんを忘れても、ユダヤ人だということは忘れるな」(p.105) 極限下で出会った父親の最後の教えから、スルリックはユレクになり、家族の顔も、ユダヤ人であることも忘れて、生きのびていく。
 被害者であるユダヤ人とナチス・ドイツ占領下のポーランド、という単純な図式ではない。パルチザンになった家族を持つ女性。密告者。ユレク(スルリック)の聡明さに感心してかばってくれるドイツ人兵士。役に立つかどうかだけで人を判断する農夫。複雑な力学の働く宗教と政治は、戦時下の異様さの中で時につながり、時に字義通りに機能する。  ユレク(スルリック)が出会った、それぞれの人物も印象深く、スルリック自身の道のり以上に、人(や動物)との有機的なつながりが浮かび上がってくる。(表紙絵がスルリックの後姿であることに注目した人がいることを、先日、林さかなさんから伺った。後姿を見送るということは、その人がスルリックに何らかの働きかけをしたあかしであり、読者は、その視点に巻き込まれる。スルリックの後姿は、これからのことではなく、今「走って逃げろ」と強く呼びかける共感の象徴でもある。)
 『彼の名はヤン』『海辺の王国』などいくつかの作品も、当然思い出される。深刻な話のように思われるかもしれないが、その逃避行には、ユーモアや、性の目覚め、ちょっぴりの楽しみもあり、異常事態での身の処し方を本能的/経験的に知っていく数年間は意外に軽やかでもある。
 ただ、「瞬間瞬間を、一時間一時間を生きていた。朝から夜までを生き」(p.71)るユレク(スルリック)の実際の子ども時代と、最後に、家族の消息を知って返還される、もうひとつの空白のスルリックの子ども時代が結ばれるとき、それまでの道のりは、再びにわかに重く感じなおされる。(鈴木宏枝)

『私たちは いま、イラクにいます』(シャーロット・アルデブロン:文 森住卓:写真 講談社 千二百円)
 二〇〇三年二月三日、メーン州で行われた平和集会で、十三歳のシャーロット・アルデブロンは、非戦を訴えるメッセージを読み上げたました。そのメッセージはネットを通じて、世界中にネットで流れたのね。『私たちは いま、イラクにいます』(シャーロット・アルデブロン:文 森住卓:写真 講談社 千二百円)は、その翻訳文に、五年前からイラクで取材を続けている森住が撮った、子どもたちの姿・表情をコラボレーションした写真絵本。
 シャーロットのメッセージが重要なのは、子どもが、冷静に現実を見つめ、情報を集め、「悪VS正義」といった、大人同士の対立軸ではなく、子どもからすべての大人への異議申し立てになっている点。つまり、フセインもブッシュもそして私もそこには含まれています。言い方をかえれば、シャーロットは自分をイラクの子どもたちと重ねています。「(イラク国民の約半数が)とにかく、私みたいな子どもたちです。だから、私のことを見てください。よく見てくださいね。イラク爆撃ときいたときに 思い浮かべなければいけないことが、わかるはずです」。
 森住の写真の子どもたちは、明るい目の子、無表情の子、泣いている子と様々だけど、どこにでも居る子どもたちに見えます。背景の街が崩壊しているだけで・・・。彼らが生き残った子どもであるだけで・・・。
 スピーチ全文は、http://www.wiretapmag.org/story.html?StoryID=15291
 翻訳文は、http://www2.odn.ne.jp/~yukiko_chateau/030413a.htmなど。(hico)
読売新聞2003.09.08

『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン:作、小尾芙佐:訳、早川書房、1700円)
 お隣の犬が殺された。クリストファーは、犯人探しに乗り出す。ミステリー調で始まるのが、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン:作、小尾芙佐:訳、早川書房、1700円)。この物語は、アスペルガー症候群で、養護学校に通う彼が書いた日記という設定です。だから、クリストファーの目から見た風景や考え方や世界観で構成されています。読者はそれを追体験するのです。
 数学や物理の知識は驚異的で、一五歳で数学上級試験を受ける才能がある彼ですが、黄色と茶色は大嫌いで、食べ物の中にその色が入っていると食べられません。赤なら大丈夫。「嘘も方便」的なコミュニケーションは出来ず、本当のことしか言えません。触れられると親であっても怖がります。それでも抱こうとすると暴力をふるいます。記憶力は抜群で、DVDのように、知りたい記憶へ一挙に飛べます。目に映った風景を、カメラのように情報としてすべてインプット出来ます。便利そうですが、取捨選択なく入ってきますから情報過多で混乱し、パニックになる。
 世界の見え方が多くの人と違うクリストファーを、この物語はとてもリアルに描いています。と同時に、私たちの見え方もまた一面的なのを教えてくれます。そして彼の見え方を受け入れていけば、こちらが豊かになることも。(hico)
読売新聞2003.08018

『キットの法』(ドナ・モリッシー:作 金原瑞人+大谷真弓:訳 青山出版社 1999/2003 2200円)
 キットは知的障害者のジョージーから生まれた。おばあちゃんが二人を育ててくれた。
 村人たちは一家を煙たがる。というのは、訳もわからないジュージーは村の男たちの性欲のはけ口になっていたから。自分たちの行為、夫の行為をさげすみつつ、自らを、夫をせめることからも逃げている村人たちは、その罪のすべてをジュージーに向け、村人の男の誰かが父親であるキットをどこかへやってしまいたい。
 おばあちゃんが死んでしまう。14歳のキットは母親のおもりをしながら、生きて行かなくてはいけない。二人を罪人と憎んでいる教区の牧師は、キットを孤児院に閉じこめようと、狙っている。ジョージーは、死んだおばあちゃんのそばにキットがいたところを見たので、彼女が殺したと思い憎んでいて、時に暴力もふるう。学校ではいじめの対象に。「売女の娘」として。
 そんな極限状況の中から物語は始まり、キットはこれでもかこれでもかと、追いつめられていきます。そうして、タイトルの意味がしだいにわかってくる。
 難しい物語ではなく、いい意味B級。止まらない。
 YAより大人向けみたいですが、キットの法、その一点に絞れば、その一点を読みとれれば、なかなかいいYAとなります。(hico)

『シカゴより好きな町』(リチャード・ペック:作 斎藤倫子:訳 東京創元社 千八百円)
 大恐慌によって父親が職を失った、十五歳のメアリ・アリスが、いわば口減らしに、シカゴから田舎のおばあちゃんの家にやってくるところから始まるのがこの物語。クラーイ貧乏物語かと思って手を出すと、とんでもない目にあいます。おばあちゃんは、知恵と勇気と、抜け目なさや毒舌や皮肉、全開です。生活が苦しい知り合いを援助するためのイベントでは一杯十セントのシチューを、お金持ちが五十セント玉を出したら、小銭がないといって、丸々をせしめる。むちゃくちゃと言えばそうなのだけど、それがおばあちゃんの正義感。援助金は多い方がいいに決まっている。なら、このやり方は正しい、というわけ。現金収入はキツネを取ってその革を売ることで得ているおばあちゃんは、そのわずかな現金で、メアリのためにシカゴ往復のチケットを買ってくれたりもする。おばあちゃんは困っている人を助けるのは厭わないし、気取った連中に恥をかかせるのも忘れない。一緒に暮らすうちにメアリは、おばあちゃんは自分だけのモラルをしっかり持っているから誰も恐れないし、妥協もしないのを知っていくの。最初はビビッていたメアリも、自分もおばあちゃんのような人間になりたいと思うようになる。ユーモア満載で、生きていくことの喜びを伝えてくれる物語ですよ。(ひこ・田中)

『算盤王』(長谷川光太:作 ポプラ社 2003 980円)
 算盤が一番価値のある町に転校してきたマサヒロ。彼だって3級なんだが、ここでは有段者が当たり前。
 ふとしたことから彼は、この町でもっとも尊敬されているじいさんから、直伝の算盤をもらう。
 なんで俺が? なんでおまえが?
 いよいよ町の各流派による大会が始まり、マサヒロも選手に選ばれてしまう。
 重要アイテムに算盤を持ってきたのが、いいね。
 物語は、娯楽に徹していますから、よけいなこと考えずに、身を任せて流れるのが正解。
 おそらくシリーズ物ですが、今回はキャラを立てるのに忙しく、肝心のトーナメントがイマイチ盛り上がらず。次作期待。(hico)

『ホワイト・ピーク・ファーム』(バーリー・ドハティ:作 斎藤倫子:訳 あすなろ書房 1984/2002 1300円)
 同じ土地で地道に農業をしている、一家。何も変わらず続いていく日々。両親、兄のマーティン、姉のキャスリーン、妹のマリオン、そして祖母。たいくつだけど、時間がゆっくりと流れる世界・・・。
 のはずが、祖母の旅行宣言から、物語は大きく動いていきます。
 祖母は、オックスフォード大学に入学した、村始まって以来の英才でした。が、家の都合で1年で学生生活を終え、村に帰って平凡な男と結婚し、今の家族を持つことになった人。ある日、ジプシーがやってきて、あんたは作家になっているはずだが、と言わてしまう祖母。おそらく無事大学を出ていたら、そんな未来が祖母にはあったのかもしれません。いまさら言ってもしょうがないことですが。
 で、その祖母が、自分の家を売って長い旅にでるという。あわてる家族。理由も言わず、どこに行くともいわず、とにかくもう帰ってこないだろう、と。
 実はそれは祖母が死に支度をしていたのが後でわかりますが、そんな祖母の生き方を観て、子供たちが動き出すのです。
 この一家、コテコテの家父長制で、親父は酔っぱらうと手がつけられないやつですし、母親はそんな彼に従っています。
 そこから、子供たちは、飛びだしていくわけ。絵描きを目指す兄が家を出ていく。一家とは犬猿の仲の農家の息子と結婚するために姉は出ていく。
 おだやかで落ち着いているかに見えた家族の虚像がはがれていく。
 もちろん、幸せな結末を用意していますが、ドハーティーらしい、フェミニズム小説になっています。(hico)

『ダークエルフ物語2 異郷、アンダーダーク』(R.A.サルバトーレ:作 笠井道子・柘植めぐみ:訳 アスキー 1994/2003 2400円)
 待ちに待った続編です。
 この物語のツボは、私たちの基準では(一応)悪とされていることが善である世界を舞台としていること。そして女系社会なこと。
 主人公のドリッズトは、ある一家の次男なのですが、そこの慈母の元夫であり、剣士としてその名をとどろかせているザクネイフィンの息子。ザクネイフィンはこの世界のルールを疑問に思っていつつ、それがバレたら殺されるので、黙々と殺人兵器となる剣士を訓練していたのですが、自分の息子が、剣士としての才能を自分以上に秘めていることを知り、彼に希望を預けます。
 この地下世界から、息子を逃がすために、ザクネイフィンは自分の命を捧げます。
 で、今作は、ひとりぼっちのまま、みしらぬアンダーダーク世界で生き抜いていくドリッズトを描いています。この世界のなんと過酷なこと。ために彼の剣士としての腕も上がるのですが。
 なんとしても自分自身の息子でありながら裏切った彼を殺すために慈母はある殺人マシーンをアンダーダークへと送ります。霊魂から呼び戻したザクネイフィンを。

 この物語は、善と悪を分けすぎていて、それが読みやすいと同時に、疑問でもあるのですが(『黄金の羅針盤』なんかと比べて)、ダンジョンの描写の丁寧さ、危機に次ぐ危機が、納得できる形で解決されていくことなど、エンターティメントとしての力があります。読書時間の楽しみ的には、よくできていますよ。(hico)

『蛾ってゆかいな昆虫だ!』(谷本雄治:分 つだかつみ:絵 くもん出版 2003 1300円)
 なぜ人は蝶をきれいだというのに、蛾は怖がるのか?
 考えてみればそれはそうで、私も蛾は苦手。
 しかし、蛾は美しいと感じる谷本が、私たちのイメージ払拭のために書いた本。
 私も蛾への差別意識を反省して読み終わりました。
 当たり前ですが、何かを好きな人の、伝えたい情熱は、こっちに響いてきます。
 私個人としては、子どもの頃から謎だった、時々思い出して引っかかっていたある問題が解決しました。
 おおきに!(hico)

『もりの なかよし』(つちだよしはる:作・絵 あかね書房 2003 900円)
 これは、ほのぼのさせるという点ではOKなんですが、一つの本としての作りがアンバランスです。
 動物の子どもたちは人間的な名前を持たず、「きつねのこ」といった表記されていることは、この作者は、幼年動物物の危うさをしっかりと理解していて、書いているのがわかります。
 だから好感度は高いのですが、動物の子どもたちの四季ではなく、夏・秋・冬で物語が終わっていること、動物の子どもたちそれぞれの視点で描くか、そうではないかを、絞り切れていないのが、おしいです。
 そうしたシンプルさは、やはり必要なのだと思います。(hico)

『いっしょに遊ぼ、バーモス ブリンガル!』(山本悦子・作 宮本忠夫・絵 あかね書房 2003 1100円)
 ブラジルから転校してきたジュリアナは、まだ日本語が話せません。萎縮もしているのでしょうか、声をかけても反応がない。そんな彼女と仲良くなったのは、学校で緘黙の晴也。彼も似たような状態です。学校の外なら話せるので、彼女に声をかけ、コミュニケーションを図ります。
 物語は、そんな二人の心が開いていく様を描いていきます。
 ページ数の関係か、物語展開が少し早いのが気になります。あらかじめ物語の行き着く先が見えてしまうのです。
 が、こうした子どもたちの状況を他の子どもたちに伝えたい気持ちは伝わります。(hico)

【評論】
『ファンタジービジネスのしかけかた:あのハリー・ポッターがなぜ売れた』 野上暁+グループM3 講談社+α新書 2003年7月20日

 ハリー・ポッターシリーズは、なぜこんなにヒットしたか? 作者ローリングの「物語」と、翻訳の版権を取った松岡祐子氏の「物語」とが、作品の質とは無縁のところでマスコミから流布されたこと、周到に練られた手作り風の宣伝が成功したこと、天声人語で二度も紹介されたことなど、ビジネスとしての成功例として取り上げるところから始まる。 私も、ハリ・ポタについては、いくつかのことを考えつつ、文学ではなくサブ・カルチャーの土壌に乗せられることの指摘や、それを深めて「恥じらいもないほどの多様なミクスチュア」(p.131)という視点での明快な読み解きは新鮮だった。
 イギリスでも、批判の一方で「だって子どもが読んでいるじゃない」と印籠を見せられれば口をつぐんでしまうことなどの共通点もある。英米での反応を紹介した第二章が、個人的には特におもしろかった。
 最近、子どもの文学は、「子どもが読む本」(子どもの文化の中の活字メディア)と、「子どもの文学ならではの特質を備えている本」(特有の書かれ方があって、読者を問わない。大人が読む本との境界も曖昧)とにゆるやかに分離しているように見受けられる。 ハリ・ポタは、ひとつの面から見れば、子どもの文化の枠組みの中で成功した活字作品であり、それを仕掛けたビジネスの手腕が大きい。その力を認めつつ、その「成果」に目がくらむのではなく、「子どもの文学」を考える上での自分の評価軸を再認識したいということも、改めて思った。(鈴木宏枝)