2002.11.25

       
【絵本】
『手をつなげば・・・・』(木村裕一:作 MAYA MAXX:絵 金の星社 2002)
 けんかって、相手のあそこが悪い、そこが気にくわないと具体的なところをいちいち挙げていったら、終わらない。誰にだって欠点も気にくわないこともあるから。
「だいっきらい!」との怒鳴りあいから始まるこの絵本の二人もそう。
 でも、いいたいことをさらけ出してしまえばすっきりすることもまた確か。(hico)

『あしたえんそく らんらんらん』(武田美穂 理論社 2002)
 まさしく、遠足前日のワクワクドキドキが描かれています。
 持っていく物揃えて、明日は早起きだ! と思ったらもう眠れない。
 眠ろうとすればするほど、だめ。
 てな、なつかしい風景を武田はいかにも楽しそうに、細かく描いていきます。
 遠足行きたくなるよ。

『ペンギンたんていだん』(斉藤洋 講談社 2002)
 『ペンギン』シリーズ。最新作。今回は「たんていだん」です。
 なぜ「たんていだん」か、なぜ「さばく」に現れるのか?
 考えない、考えない。
 小さなオチがちゃんと用意されています。

『はなねこさん』(長新太 ポプラ社 2002)
 いつも言ってるますが、もう、長新太ワールド全開!
 身を任せてくださいな。(hico)

『トリフのすてきなけっこんしき』(アンナ・カリー:作 松波史子:訳 くもん出版 2002/2002)
 子ネズミ・トリフのシリーズ2巻目。
 タイトルから誤解されそうですが、もちろんトリフの結婚式ではありません。
 親戚のビーねいさんの結婚話。
 ウエディングドレスがなくて困ってるビーのためにトリフたちはショーウインドーで見かけた人間のウエディングドレスのバラの飾りを買うことにするけれど、人間の町に出かけるのもとても大変で・・・・。
 すてきなウエディングドレスにこだわるビーの姿には「???」ですが、トリフたちの人間のウエディングドレスの飾りを買おうなんて発想は、冒険物語としては、読ませます。(hico)

『クリスマスのちいさな木』(ee.カミングズ:詩 クリス・ラシュカ:絵 さくまゆみこ:翻訳 光村教育図書 2002)
「小さな 木には、ちいさな ゆめが ありました」「ちいさな いえの なかで、ちいさな かぞくに かこまれて、たのしい クリスマスを すごしたかったのです」
 で始まる、ちいさな物語。
 心地よい言葉のリズムに導かれて、最後まで楽しめます。画が、タッチも色使いも、いかにものクリスマス物とは全く違っていて、ちいさな木の三角のフォルムを基調にして、始めは淡々と、やがてはカーニバルのようになり、最後にちいさな かぞくに落ち着く流れも、いいです。(hico)

『リュックのおしごと』(いちかわ・なつこ ポプラ社 2002)
 デビュー作。
 これが楽しいのは、犬のリュックが活躍することにありますが、なんといっても、パン屋さんのおしごとがこと細かく描かれている点。それを固い話にしないために、リュックが活躍するわけ。
 画はまだまだ巧くなられるでしょう。
 言葉のリズムもいいです。(hico)

『みててね おじいちゃん』(藤田千津:作 長谷川智子:絵 文研出版 2002)
 ぼくはおじいちゃんが大好きで、おじいちゃんからパワーもらうと、どんなことでもがんばれる。
 のに、おじいちゃんが半身不随に。
 おじいちゃんはぼくの励ましもあって、リハビリに精を出し・・・・。
 作も画も、良くも悪くも、この国のスタンダードな物語。
 この安定感は何だろう?
 悪い物語ではないけれど、さして刺激もないのです。
 もっともそれは私が、であって、子どもの反応は違うかもしれません。スタンダードではなく、初めての物語である場合は。
 表紙は、もう一工夫、必要です。これでは、そのマンマですから。(hico)

『コアホウドリは かぜと ともだち』(戸塚学 ポプラ社 2002)
 この出版社の写真絵本はほんとうにいいです。
 今作は視線がしっかりコアホウドリに定められていて、文も簡潔。(hico)

『いろいろあってね』(内田麒太郎:文 本信公久 くもん出版 2002)
 帯にあるように「色の絵本」です。
 ページごとに様々な色の物が描かれ、それにふさわしい文がつけられています。
 画はシンプルなコラージュですので、楽しんでください。
 そして、そこに添えられた文の、それこそ「文のコラージュ」にニヤリ。
 子ども読者が一人でこれに飛びつくかは疑問。うまく見せる腕が試されます。(hico)

『かいじゅうズングリのピザやさん』(末吉暁子 ポプラ社 2002)
 かいじゅうのピザ屋さんが魔女から注文を受けて、夕方までに持ってこないとカエルにすると言われてしまいます。
 そこからいろんな障害を乗り越えて、
 ナルホドネ、のオチです。(hico)

『テディ おちばひらひら』(マイケル・グレイツ:作 ほそのあやこ:訳 ポプラ社 2002)
 くまのテディ第2作。
 今日は大事な約束の日。でも何の約束だったか覚えていないテディはとにかく出かけることに。約束がわからないから服装にも悩んでしまう。帽子から靴下まで、ページを開くごとに、一緒に悩みましょう。約束の内容は、ラストページに折り返しで隠されているお遊びがいい。(hico)

『おつきさまがみてた』(いわはしあさこ アスラン書房 2002)
 心やさしいロマンという男の物語。レストランでは貧しくて食事もろくに食べられない人にただでサービスしてクビに、ペット屋では、売り物のペットになつかれてしまって売り物にならずクビに。という具合。
 生きるのに極端に不器用なロマン。は、いいんですが、それならそれを押し通すストーリーがほしかったです。それこそ描き手の「ロマン」を。そこが、行儀よく収まってしまったのがおしい。タイトルの座り心地の悪さも故にでしょう。(hico)

『ゴイサギはみていたのかな』(かみやしん 文研出版 2002)
 野原の池。早朝小枝に留まるゴイサギ。うたたねです。
 そんな池で起こる様々な出来事。カエル、トンボ、カマキリ。生き物たちの活動が描かれます。
 静かなゴイサギと、活き活きした池での出来事がバランスよく置かれています。
 この画を今の子どもがどう受け取るか、ちょっとわかりませんが。(hico)

『タコのオクトくん』(富安陽子:ぶん 高畠純:絵 ポプラ社 2002)
 両親がナスを大好きだと知ったタコのオクトくんが、夜中にナスビ採りにでかけます。
 なんだかよくわからない設定ですが、オクトくんの冒険は、タコが野菜畑に出かけるもんですから、かなりアブナイ。やっと採った、ま、人間からいえば盗んだ、なんですが、ナスをどうしてもって帰るかが、作者の腕の見せ所。(hico)

『てまりのき』(あまんきみこ:文 大島妙子:絵 講談社 2002)
 一緒に遊ぶはずだった仲良しのヨウちゃんはお留守。
 がっかりしたナナちゃんが拾ったてまりは、こぎつねのもの。一緒に遊ぶにはもう一つてまりが欲しい。するとこぎつね、「てまりのき」があるよ。
 あまんきみこらしい、暖かみのある幻想世界。
 「てまりのき」なんて発想を読んでしまうともう、忘れられません。(hico)

【創作】
『みすてりあるキャラねっと』(清涼院流水:作 ささきむつみ:イラスト 角川書店2002)
 角川スニーカー文庫。
 オンラインゲームで、プレイヤー・キャラの池丸大王が殺される。このオンラインゲーム、「キャラクター・ネットワーク」(通称「キャラねっと」)の舞台は「@スクール」で、「学コウ」と呼ばれている。「学コウ」が「学Co.」、すなわち「学+コウオペレーション(共同体)」を意味している通り、プレイヤーは仮想空間の「学コウ」でキャラ同士のコミュニケーションを楽しむ。加えて、成人度100%に到達することが大目標として掲げられている。大目標に関係しているのか定かではないが、エントリー資格として、13歳以上19歳以下の年齢制限が設けられている(たとえば、池丸大王は15歳なので「マイナス5年生」として位置付けられる)。このゲームでは同じキャラは2度つくることができないので、殺害された池丸大王は、犯人を見つけるために、「池丸大王2」として再びエントリーする(ただし、パラメーターは初期化されている)。
 この物語はオンラインにおけるストーリを基軸に展開しているので、主人公を除いて、仮想世界のキャラの情報しか読者に与えられない仕組みになっている。つまり、仮想世界におけるキャラを操作している現実世界のプレイヤーについては、キャラネットを通じて想像するしかない。このような仕掛けが小説というメディアにおいて有効であることを本書は見事に証明してくれています。オンラインゲームではないけれど、オンラインゲームという設定を取り込んだ異色のRPG「ドット・ハック」シリーズ(PS2)がヒットしたように、オンライン感覚がリアルになってきたのかも知れないですね。先が楽しみなシリーズです。(meguro)

『アルテミス・ファウル 妖精の身代金』(オーエン・コルファー:作 大久保寛:訳 角川書店 2001/2002)
 犯罪一家に生まれたアルテミス・ファウル少年12歳は、父親を亡くし、そのショックから立ち直れないままの母親の世話をしている。彼はだから今この一家のドンなのね。自由を得た彼は手に入れた「妖精の書」をパソコンで見事解読。そしてお家再興のために、なんと「妖精の黄金」をねらう。妖精(ピープル)は現在地下世界で生きており、地上で暮らす人間をマッド・ピープルと呼び軽蔑している。警官ホリーは、地上に出てしまったトロールを倒すべく地上へ。アルテミス・ファウルが人質にするための妖精を探して待ちかまえているとも知らずに。
 なんといってもアルテミス・ファウルが魅力的。その聡明さ、冷静さ。たった12歳のダークヒーローが登場した。(hico)

『小石通りの・いとこたち』(全五巻 シンシア・ライラント:作 ウェディ・アンダスン・ハルパリン:絵 市河紀子:訳 偕成社 1998〜/2002)
 『ルーシおばさんの台所』、『すもも通りの花屋さん』の二作が訳出。
 この作家、『ヴァン・ゴッホ・カフェ』などでおなじみですが、フツーの日常のようでいて、チト違う、つまり、日常から外れはしない範囲で、ちょいとズラすタッチが得意です。
 このシリーズは、その中でも、ま、シリーズだからということもありますが、比較的、日常のマンマ。
 でも、シンシアですからね。
 主人公は三人の女の子。作家になりたいリリー、歌手志望のテス、裁縫得意のロージー(名前とキャラが違ってたらゴメン)。彼女たちの親はバレエ団所属で、留守がち。なもんで、ルーシーおばさんチに住んでいる。
 というところから、もう、ズラしがあるでしょ。
 つまり、「家族」の物語は、ひとまず棚上げされる。
 で、この三人、ルーシーおばさんと、マイケルって男を結ばせようと、毎回画策するわけ。
 疑似孤児で、自分たちの親でもない大人に家族を作らせようとする物語が、実にホノボノと語られてしまう世界をお楽しみください。(hico)

『もう悪口なんか いわせない』(クラース・ファン・アッセン:作 ユリエッテ・デ・ヴィット:絵 西村由美:訳 徳間書店 1992/2002)
 オランダ発の、いじめをテーマにした物語。いや、父子関係かな。
 父親は元軍人で、戦争を憎んでおり、今は船暮らし(運河の船ね)をしながら廃品回収したものを再利用するのを仕事にしています。で、主人公のダニーは、自分の容姿が醜いと信じており(ま、決してイケメンではないのですが)、父親のこともあって、いじめられています。
 ダニーは父親を好きだけど、ぶっきらぼうな彼に寂しい思いもし、怒ってもいます。父親が戦争を憎んでいるから、ダニーは傷痍者の格好をして、戦争反対の寄付金を募ります。そうゆー、まっすぐさが、クラスで浮いてしまう原因なんだけど、彼は間違っているわけではありません。けれど、そんな行為を父親は理解できず怒ってしまうわけ。
 ダニーって子は相当変わって見えるかもしれません。でも彼の側から見れば辻褄は合っている。そんな彼がいじめをどう克服していくか、父親との関係をどう修復していくかが読ませどころ。
 オランダ発に作品は、ホント直球じゃないですよ。というか、こっちから見るとシュート回転しているけど、オランダでは直球、が正しいかな。でも、そのおかげで、私たちは、私たちの国のいじめを見直すこともできるわけです。(hico)

『0点虫が飛び出した』(赤羽じゅんこ:作 あかね書房 2002)
 これは軽い読み物なので、軽く読めばいいわけですが、0点を虫にした発想によって、点数を気にばっかりするようになってしまっている子どもたちの姿が、ユーモアに包まれることでかえってリアルに描くことができています。
 0点とった主人公がその丸に脚や目玉を描いたところ、0点虫になり、点数を気にしている子どもに取り憑きます。とその子どもは0点をとるようになってしまう。虫はどんどん分裂して、とうとうクラス全員が・・・。
 言葉のリズムが良くて、気持ちよく読み終えることができるでしょう。
 このレベルの物語の層が厚くなるといいのです。(hico)

『家の中では、とばないで!』(ベティ・ブロック:作 原みち子:訳 たかおゆうこ:絵 徳間書店 1970/2002)
 1981年に学研から出ていた作品の新訳。
 この物語は謎があり、それが明らかになっていくのがツボなのですが、それよりも、なんといってもキャラが立っていることがまず買い。10センチもない白い犬のグローリアは367の芸ができることを売りに、小さな女の子アナベルと一緒にバンコート夫人に養われます。
 はたして彼女と犬の正体は?
 故あってアナベルを迎えにこれない両親。ですから疑似孤児物語。グローリアの活躍が、アナベルの心の支え。でもいつか別れなければなりません。「家の中の子ども」になるためには。
 オチは読んでのお楽しみ。
 たかおゆうこの画が、いい味だしています。(hico)

『崖の国物語4・ゴウママネキの呪い』(ポール・スチュアート:作 クリス・リデル:絵 唐沢則幸:訳 ポプラ社 2001/2002)
 3巻で完結した『崖の国物語』の前史が語られます。トウィックの父親「雲のオオカミ」の若き日の物語。
 このシリーズ、かなり好き嫌いがはっきりしてしまうのですが、それは、文と画それぞれを担当する二人の中で、世界観が作り上げられているからでしょう。作り手が一人なら、読み手はそこに参加しやすいですが、役割分担した二人のタッグとなると、ヘタをすると、読み手は置き去りにされてしまいます。
 そうした入り口の狭さはあるのですが、身を任せて入り込めば、このタッグの物語作りの巧みさにうなってしまいます。
 特に4は、3までの前史ですから、1〜3で謎だった部分がかなり明らかにされてきます。
 もちろん、1〜3を知らなくても、大丈夫。設定の奔放さを嫌わなければ、かなり真っ当なアドベンチャー+恋物語です。(hico)

『ブルーイッシュ』(ヴァージニア・ハミルトン:作 片岡しのぶ:訳 あすなろ書房- 1999/2002)
 ドリーニー、ブルーイッシュ、テュリー3人の女の子の友情物語。それぞれ肌の色も違い家の環境も様々なのですが、彼女たちがどのような日常を送っているか。それが、丁寧に丁寧に描かれています。
 ブルーイッシュは病気で青白いから本名のナタリーではなく、そう呼ばれているのですが、だからナタリーのお母さんがそう呼ばないでというのですが、それでもブルーイッシュはブルーイッシュなのがいいです。蔑称ではなくニックネームとして使うことと差別のギリギリのところを作者は丁寧に描いているのです。
 友達とのつき合いかたの一種の作法かな。(hico)

『モーリー・ムーンの世界でいちばん不思議な物語』(ジョージア・ビング:作 三好一美:訳 早川書房 2002/2002)
 現代孤児物。劣悪な環境の孤児院でいじめられてもいるモーリー・ムーンは、図書館で催眠術の本を盗む。それは特別な書物で、彼女は、いじわるな院長や、怒りっぽい料理係などを催眠術で変貌させる。院を抜け出した彼女はアメリカに飛び(それもみんな催眠術であやつって、お金もないのにファーストクラス)、スィートに泊まり、ブロードウェイの主役になる。あらゆる人の目に自分がすばらしい才能を持った女の子だと思わせて。
 要するにだましながらの日々なんですが、彼女の欲望が非常にスノッブなのが面白味。
 もちろん物語はそんなところで終わるのではないのですが、大人たちを手玉にとっていく姿は結構痛快に感じるかもしれませんね。でも、めでたしめでたしがお行儀よくて、そっちは面白くはありません。(hico)

『はれ ときどき たこ』(矢玉四郎 岩崎書店 2002)
 お、ぶたがたこになった。
 なんやそれ?
 そいつは読んでのお楽しみなんですが、相変わらずのベタなナンセンスは健在で、愛読者は、ひとまずホッ。
 今作で矢玉は、言葉(といっても日本語ですが)をまな板に乗せて、あっちからこっちからといじくり、言葉の価値を再検討させてくれます。
 あとがきの親切さは、半分好感、半分余分だと思います。
 そこが矢玉さんなんやけどね。(hico)

『まほうつかいリリ』(クスタニー:作 乾侑美子:訳 岩崎書店 1992/2002)
 魔法の本ってあったら欲しいな〜。
 宿題スラスラやってくれる魔法とか。
 という願いが叶ってしまったリリ。ベッドの下に落ちていた。
 でも使い方もよく知らない内に弟に魔法がかかってしまい、解けない。弟の耳がね、いろんな動物の耳になってしまう魔法。この辺りは、挿絵が巧く効いています。
 弟は喜んでどんどん違う耳にしてるけど、このままではママに叱られる。
 さてさてどうなりますことやら。
 ママに叱られるかもしれないけど、いろんな耳になるのはやっぱり楽しいだろうな。(hico)

『アンブラと4人の王子』(アン・ローレンス:作 金原瑞人:訳 偕成社 1973/2002)
 エバーニアの王は4人いる息子の中から自分の跡継ぎを選びかねていた。だもんで、4つに分けてそれぞれに与えることにする。一方隣の小国ベルガモットの女公は、エバーニアの後ろ盾が必要と考えていた。彼女にはアンブラという娘が一人。
 やがて王が亡くなり、女公も亡くなり、息子と娘の時代がやってきた。
 4人の王たちは次々と新しい女公アンブラの元に訪れ、芸術を、政治を、彼女に伝授するのだが・・・。
 基本的には、アンブラが次から次へと彼らの影響を受け、受動態なんですが、果たして本当にそうなのかがわからないところが、おもしろい。物語が一本の川のように流れていかず、あっちふらふらこっちふらふらしている呼吸は、ついてけない人にはだめでしょう。一緒に身を流して読めれば、奇妙な味わい。(hico)

『ひみつのやくそく』(古田足日:さく 遠藤てるよ:絵 ポプラ社 2002)
 遠足にでかけたひでやはそこでオニの子どもたちとであう。ひでやは当然オニはコワイと思っているけど、オニの子どもたちは人間をコワイと思っている。だって、犬やキジや猿をお供に、桃太郎が退治にきたりするから。そうか。どっちのいるかで、見方が変わってしまんだと気づくひでやはオニの子どもたちと楽しく遊ぶ。
 とてもシンプルな幼年童話。でも語られていることは、重い。幼児がわからなくてもいい。なんとなく気になれば。(hico)

『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』(J・K・ローリング:作 松岡祐子:訳 静山社 2000/2002)
 上下2巻、1200ページの大作です。ま、シリーズ物はどんどん長くなる傾向があるわけですが。
 今回、学校に行くまでが270ページほどかかっています。ワールドカップのチケットが入ったので、それを見に行った話が描かれるわけです。新しい登場人物たちがここでチラリと出てきて、伏線にはなっていますが、半分くらいに削れるのやないかな〜。どんどん書き込みたくなる気持ちはわかるけど、そこは編集者がアドバイスして。でも、ファンの子どもたちはそれも楽しいのかもしれませんね。
 今作では、学校に行ってからも、3大魔法学校選抜選手権がストーリーのメインになり、そこに「あの人」が色濃くからんでくる。
 楽しい小道具の使い方は相変わらず好調で、物語の内容以前にそこで楽しむ感覚は映画007ファンだった人には理解できるでしょう。
 シリーズ半ばの4巻目ですから、そろそろ初恋あり、友情にひびが入りかけたりと14歳の悩みが描かれています。と同時にハリーの貴種性も本人のせいではないにしろ強くなってき、ロンの方に身を寄せてしまったのは私だけでしょうか?(hico)

『盗まれた記憶の博物館』(ラルフ・イーザウ:作 酒寄進一:訳 あすなろ書房 1997/2002)
 下巻がでました。こちらも上下巻で1000ページほど。
 今作は、もう、作者の考古学から神話学までの知識の豊富さに圧倒されます。一つの名前を巡って、様々な地域の神話・伝説・歴史から類似を拾ってきたりは、研究書ならトンデモ本になりますが、フィクションですからそのウソに乗っかってしまうのが吉。
 記憶がなくなることが、『モモ』のように抽象度が高い説教になってはおらず、記憶ですから当たり前ですが、具体性を帯びます。ナチズムの記憶と歴史が失われていく辺りは、具体的な警鐘です。それを現実世界と、盗まれた記憶が住む世界を交互に描くことで生々しく描いてみせるところなど、『ネシャン』からずっと腕が上がりました。
 でも、このファンタジーもある意味パラレルやな〜。(hico)

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毎日新聞子供の本新刊紹介
2002年10月分
甲木
「どうするティリー?」
 目の前にある壁でも、慣れ過ぎてしまえばその存在を忘れてしまう。けれど、想像し行動するならば、それを越えることも、そこに自分と変わらない人々が住むことも発見できるはずなのだ。この美しい絵本が語りかけるテーマは、国際紛争が続く限り、私たちの夢であり続ける。
(レオ・レオーニ・作、谷川俊太郎・訳/あすなろ書房、本体1200円)

「キツネ和尚と大フクロウ」
 武二の得意技は、化け術名人を見破ること。それで、成神山の和尚とも仲良しになった。和尚はキツネが化けている。さてある日、怪しい黒雲が村を覆い、フクロウの先生が現れた。武二と和尚は、黒雲をはらうためフクロウ先生と対決する。言葉も絵もユーモアに満ちた傑作だ。
(富安陽子・作、長野ヒデ子・絵/あかね書房、本体1100円)

「ナナさんのいい糸いろいろ」
 なんでも編める編み物屋さん、ナナさんのところには、いろんなお客さんがやってくる。おばあさんの残してくれた歌を歌いながら、毎日せっせと編み物をする。場面場面で変化する彼女の歌は、音の連鎖が絶妙で、声に出して読みたい。四季の変化が美しいラブストーリーである。
(角野栄子・作、高林麻里・絵/理論社、本体1200円)

「おばあちゃんすごい!」
 おばあちゃんは、すごいんだ! おてだま、おりがみ、けん玉、あやとり、どれもとっても上手いんだ。いろんなことも知ってるぞ。でも、本当にすごいのは、えんちょう先生のおかあさんだってこと! えんちょう先生も子供だったってことが、きょう初めてわかったよ。
(中川ひろたか・文、村上康成・絵/童心社、本体1300円)

「ピッケとポッケ」
 お姉さんねこのピッケは、甘え下手のおすまし屋さん。だから、飛んだり跳ねたり、じゃれついたり、そんなことのできる弟のポッケが、実はちょっと羨ましい。しっぽの揺れによって表されるピッケの心が切なく可愛い、ねこという設定が効いている絵本である。
(とりごえまり・作/佼成出版社、本体1300円)

【評論】
『児童文学批評・事始め』(児童文学評論研究会編 てらいんく 2002)
 4半世紀の歴史を有する児童文学評論会による評論集。
 「事始め」とあるように、「児童文学批評」は市民権を獲得していないというクリティカルな認識のもと、着手された企画である。児童文学批評とは何かという問いから、その歴史ならびにジャンル論、さらには評論家になるための道程に加えて、90年代以降の児童文学の現在を論じた各論が収められている。
 作品がよければ読まれるはずだという考え方があるが、情報化社会の現代において、そのような本質主義は無責任であるように思う。文学が読まれるためには、文学を語る魅力的な言葉が数多く紡がれることが条件ですらあると考えるからだ。むしろ、現代においては水先案内をするパイロットの役割が求められているのではないだろうか。その意味で、「児童文学批評」の需要は一定量あるように思われる。このようなチャレンジは是非とも続けて欲しい。ちなみに、「大阪新児童文学会」について「活動していないようだ」という記述がありますが、読書会は続けております。書評子も同人なもので、アピールまで。(meguro)