No.54  2002.06.25日号

       

【絵本】

『かぼちゃスープ』(ヘレン・フーパー:作 せなあいこ:訳 アスラン書房 1999/2002)
 これは絵本であるしかない絵本。
 絵本というメディアだから伝えられる面白さ、
 猫とリスとアヒルが仲良く同居している設定からして、いいですよね。
 で、問題は「かぼちゃスープ」なのだ。
 猫はカボチャを切る役目。リスはスープをかきまわす。そしてアヒルが味付けを。
 そうして3匹は毎日幸せに暮らしていたのですが、ある日、アヒルがいいだした。今日はぼくがスープをかきまわす、と。
 そりゃ君にはむりだと猫もリスも止めるのですが、言うことを聴かないアヒル。とうとう怒って、家出してしまいます。
 まず画がとてもいい。表情、特に目の描きわけが巧いな〜。画面構成もページごとに見事に工夫されていて、絵本を読んで(見て)いることを忘れ、物語に入り込めます。繰り返せば、でもこれは絵本でしか描けない作品。
 シンプルなストーリーも笑わせ心配させ、最後のホッとさせてくれます。いいな。(hico)

『川のいのち』(立松和平:文 横松桃子:絵 くもん 2002)
 父娘による「いのち」シリーズ三作目。
 夏休み、川遊びの少年たちを描きます。
 元気な悟と雄二、都会育ちなのかちょっと気弱な真人。そんな三人の毎日が、川の不思議や楽しさや恐ろしさと川を巡って展開。どこかノスタルジックな風景です。立松の記憶の中の少年と、そうした体験のない時代を少女として生きた娘・横松のズレが、見開いたページから立ち上ってきます。横松は文に画を付けるのですから父の「少年」を描こうとはするのですが、やはりそれは難しいようです。横松は横松の少年を描いてます。(hico)

『あかどん あおどん きいどん』(みやじまともみ アスラン書房)
 力持ちのあかどん、泣き虫のあおどん、食いしん坊のきいどんが仲良くつらしていたところに、大きな山犬がやってきた。はたして3鬼は・・・。
 それぞれの持ち味を活かして、山犬を追い返すという、お約束パターンのお話。画の鮮明さは、この作家の力を示しているのだから、もう少しチャレンジした物語を期待します。(hico)

『まめと すみと わら』(さいわ・え:つるたようこ アスラン書房 2002)
 再話ということだが、作者が子どもの頃祖母からよく聞かされていたということ。どこの昔話か、昔話なのかもよくはわからない。お伊勢参りにでかけたが途中の川が渡れず、わらが橋になってあげる。そこを炭が渡ろうとするが、残り火があって、わらもすみも流れていってしまう。それを大笑いするそら豆は、笑いすぎて破けてしまい、痛がって泣いているところを、お針子が縫ってくれる。か黒糸だったので空豆の頭には黒い線がある。という話。
 話そのものはさして面白い「昔話」ではない。あっけらかーんとしているところに好感は持てるが。
 画の表情は笑いは笑い、泣きは泣き。つまりキャラが立っていない。けれど、版画のタッチにこの作者の癖(キャラ)があるので、空豆ではないが一皮むければ、今後おいしい絵本ができるだろう。(hico)

『オリビア サーカスをすくう』(イアン・ファルコナー:作 谷川俊太郎:訳 あすなろ書房 2001/2002)
 シリーズ第二作。
 色合いもタッチも一作目をそのまま踏襲しているので、ファンにはたまらない贈り物です。
 二人の弟の世話までして大変なオリビアは、今日教室で、休みに何をしていたかの発表の番。そこで彼女は、サーカスを助けた大活躍の話をする。
 ホントカナ?
 このシリーズは絶対的なオリビア的世界を描いているので、それを内向ととるか、「私が好きなオリビア」(これは訳者谷川のスタンスね)ととるかで評価は全く分かれます。
 今作、私は面白く読みましたが、自分世界に納得してしまっている(それがオリビアという子どもなんですが)彼女に少々心配。この子って、他人に興味ないようだから。それって、とってもアメリカ。(hico)

『海をさがしに』(デブラ・フィレイジャー:作 井上荒野:訳 福音館書店 1998/2002)
 「ママは いうの。『海はね ねがいを きいてくれるのよ』」から始まるこの絵本は、2種類の紙を使った切り絵と写真を自由にコラージュしながら、海からの贈り物(昇る朝日から、流れ着いたものまで)を描いていきます。
 海辺で拾ったものなどから作者のイメージがどう展開し、見開きのページに収められていったかも楽しむことができます。とても丁寧な造りで、絵本の表現力を見せつけてくれます。子どもでなくても何度も開いてみたくなる一冊。(hico)

『ちいさなひこうきフラップ』(松本州平:作・絵 徳間書店 2002)
 郵便や小さな荷物を運ぶ複葉機のフラップ。今日も荷物を積んで帰る途中、片方の翼に雷が落ちて・・・。
 さてフラップは無事に帰ることができるのか。
 デザイナー松本州平の絵本デビュー作。お初であるにもかかわらず、新しい衝撃はありません。それが不満といえば不満ですが、画もストーリーも非常に安定しているのが、買い。フラップのキャラもちゃんと立っているし。絵本への先入観が抜ければ、この作家今後おもしろい仕事をしてくれそうな予感。(hico)

『テントはあかちゃんじゃないよ』(リカルド・アルカンターラ:作 クスティ:絵 しまむらかよ:訳 ポプラ社 1999/2002)
 「こいぬのテント」シリーズ3作目。今回テントはでかいむくいぬに、あかちゃん扱いされてしまいます。ま、あかちゃんではないにしろ、充分幼児なんですが。ブルブルと震えてビビッてしまった自分に腹を立てたテントは、もう子どもじゃないと、ミルクも飲まず友達の遊びの誘いも断ってしまう。
 いよいよ、むくいぬと対決だ!
 でもそこで気づく。強いことより友達がいることの方がいいと。
 幼児絵本なのですが、なかなか鋭いことをちゃんと伝えてます。(hico)

『なくなった あかいようふく』(村上籌子:作 村山知義:絵 村山亜土:再話 福音館書店 1929/2002)
 1929年に村山知義が描いた『なくなった あかいようふく』は出版されず、村山かず子の文は残っていなかった。そこで息子の亜土が絵に沿って文を書き直したものが、今回の絵本。かず子の書いた物語に合わせて描かれた絵だけが残り、今度はその絵から亜土が物語を想像・創造したこととなる。
 にわとりさんがおかあさんに買ってもらってあかいようふくがなくなってしまって、それをいぬさんが探し歩いてくれる物語は、心地よいユーモアがあり、知義の画のモダンさとよく合っている。ごく小さな物語絵本として古くはないだろう。(hico)

『パシュラル先生の春』(はらだたけひで エム・ビー・シー 2002)
 パスラル先生の四季シリーズ第一巻。画そのものがそうなのだが、文もイメージ先行の詩に近い。力を抜いて身を任せて読む・観るのが吉。
 でも、そろそろもう少し自分だけの世界から抜け出してもいいんではないかい?(hico)

『鳥と歌えば』(村上康成 PHP 2002)
 『ピンク』(徳間書店)シリーズでもおなじみの自然派作家の新作。
 雪解けの春、一二羽の鳥が次々と登場し、春を歌ってくれます。そのリズムに乗ってしまえば、心地よく自然の中の春をたのしめます。ピンクもおまけで登場してくれます。
 これも安定度抜群(hico)。

『ドキドキかいじゅうモコちゃん』(わだことみ:作 あきやまただし:絵 岩崎書店 2002)
 なんでもかんでもドキドキしてしまうモコちゃんのお話。
 涙と冷や汗の絵が連続。ママに頼りっぱなし。
 しょーがねー、モコちゃん。
 でも大切なぬいぐるみのトモちゃんが見つからなくなったとき、しかもママがいないとき、モコちゃんは始めてがんばるのだ。
 画も構成もストーリーもさして刺激的ではありません。が、しょーがないモコちゃんへの愛おしさはちゃんと残ります。(hico)

『まほうの夏』(藤原一枝・はたこうしろう:作 はたこうしろう:絵 岩崎書店 2002)
 タイトルがよくない。その夏を「まほう」としてしまう発想は。
 画はチャールズ・シュルツ(だけじゃないでしょうが)的なものですから、落ち着きがあって心地よい。
 東京の兄弟二人は両親が忙しいので「夏休み」をたのしく過ごせない。そんなとき、「田舎」のおじいちゃんから遊びに来ないか? っておさそいがあり、喜んで出かける二人。そこには、東京暮らしの二人のしらに田舎の子どもの日々があり、かれらはそれにはまって行く。
 っておはなし。
 だから、それは「まほう」にしてしまっては、いけないのよ。
 だって、「まほう」なら「田舎」は「まほう」世界として「差別」されてしまうし、彼らの体験も一時のものとなるから。
 せっかくいい素材を絵本にしたんだから、タイトルはもう少し工夫してくださいな。(hico)

『雲へ』(黒井健 偕成社 2002)
 見返しにには「ぼくがまだ小さかったころ 空を飛んだことがあります」との黒井の言葉があります。
 信じましょう。
 信じてこの絵本を開きましょう。
 すると、そこに描かれているのは、空を飛んだときの「ぼく」の視点ではなく、空を飛んでいる(浮かんでいる)「ぼく自身」であることにすぐ気づくでしょう。
 つまり黒井は、「ぼくがまだ小さかったころ 空を飛んだことがあります」を証明するために、見た、俯瞰した風景よりむしろ浮遊している「ぼく」を提示したわけです。
 私たちは、空を飛んだ気分を黒井と共有するのではなく、空を飛んだ気分になっている少年(黒井)を見ています。
 それはなにより、この体験を黒井が私たちに簡単には対体験させない、意志です。そうすることで、黒井は「ぼくがまだ小さかったころ 空を飛んだことがあります」を守ります。
 私はこうした頑なさが正直に描かれることを否定しません。好きかも。
 ここには、そこから先はないんですけどね。(hico)

『はたけのカーニバル』(田島征三:作 童心社 2002/04)
 田島征三ワールドが相変わらず全開!
 画に文句はない。というか、田島の画は好きか嫌いかでほぼ判定は決まるし、それでいいと思う。私は好き。
 キャベツもトマトもゴーヤも作っているおじいさん。プチトマト葉っぱを食べているニジュウヤホシテントウを退治しなきゃと思うのですが、それより大事な村祭り。おじいさんは「退治」をやめて「大事」を選びます。
 残されたニジュウヤホシテントウ、ならばわしらもカーニバル! プチトマトの葉っぱでポスター作り。怒ったプチトマトにゴーヤも加わって、それはもう大騒ぎ。
 ここら辺りの画の跳ね方がすごい。楽しい。
 酔っぱらって帰ってきたおじいさんも一緒になって、カーニバル。
 大地と自然の力と人間のおかしさを全開。
 田島ワールド、久々にクリーンヒット!!(hico)

『リサのおうち』(アン・グットマン:ぶん ゲオルク・ハレンスレーベン:え 石津ちひろ:訳 ブロンズ社 1999/2002)
 リサ・シリーズの最新訳。
 今リサたちが住んでいるのはなんと、ポンピドーセンターの通気口の中。なんかそれだけでもう、クラクラ、ワクワクするぞ。
 でも困ったことが一つ。
 ここは毎日世界中から人がやってくるので、外に出ることがなかなかできない。でも火曜日は休館火だから大丈夫。で、リサはポンピドー内部へと・・・。
 リサのパパ大好きが結構染みます。(hico)

『100ぴきのいぬ 100のなまえ』(チンルン・リー:さく・え きたやまようこ:やく フレーベル館 2001/2002)
 犬を描いた絵本を北山葉子(『りっぱな犬になる方法』)が訳すのは、コテコテに正しい。
 もうほんとに犬だらけなんです。犬ったって、それぞれ違う犬格をもってますから、もう大変。作者はそれを説明ではなく(当たり前だ、説明してたら絵本に収まらない!)、ていねいに画で示していきます。
 犬好きにはたまらん絵本。犬嫌いにもたまらん絵本。です。(hico)

『リンカーン ゲティスバーグ演説』(長田弘:訳 マイケル・マカーディ:絵 みすず書房 1995/2002)
 長田による、「詩人が贈る絵本」シリーズの一冊。
 リンカーンの名演説の一つ。
 南北戦争で最も激しい闘いの場、多くの死者を双方とも出した場。戦死者たちの墓地を作るに当たって、リンカーンが演説した3分間272語を絵本にした作品。
 こういう絵本を作る、作れるのがアメリカなんですね。
 マイケル・マカーディの版画は、個性的とはいえませんが、職人の仕事をしています。
 1995年作なんですが、2001.09.11の後にこれを読むと、当時のリンカーンの想いはともかく、「正義」の怪しさと危なさの方を感じてしまうのが正直な所です。(hico)
 
【創作】
『暁の天使たち』(茅田砂胡:作 高梨かりた:イラスト 中央公論新社 2002)
 『デルフィニア戦記』(中央公論新社)の作者の「新作」。
 名家ヴァレンタイン家に長男のリィが帰ってくる。とある事情から実家には寄りつかないリィが珍しいことに客を連れてきたのだ。シェラという名の男の子はリィと同じ13歳で、金髪のリィとは対照的に銀髪の持ち主である。リィが帰ってきたのは、故郷(「失われた惑星」)に帰る手段を失ったシェラの後見人を頼むためであった。やがて2人は、連邦大学中等部に途中入学するのだが、そこで思いもがけない事件に遭遇する。
 今回は、「天使」が一同に集うというプロローグ。リィとシェラにどのような過去があったのかについては『デルフィニア戦記』を読めば判るが、プロフィールを知らない方が楽しめるかも(ちなみに書評子は『デルフィニア戦記』を読破してません)。ただ、世界観が堅牢に構築されたシリーズなので、一部の設定(ある種族の魂は死後も生き続け、遺伝子のような身体に関する情報が保存されていれば再生できる。今作でもそのような人物が登場する)に戸惑いをおぼえる読者もいるかも知れない。個人的には、今作の事件のオチのつけ方に脱力。ネタばれになるので言えないが、惑星を消滅させるほどの力の持ち主が覚醒する理由がすごい。この脱力感を味わうだけでも一読の価値はあるかな?(meguro)

『樹上のゆりかご』(荻原規子:作 理論社 2002)
『これは王国のかぎ』(理論社)の主人公・上田ひろみが高校生になって登場。
 ひろみは、辰川高校の2年生の女の子。辰川高校は都立の進学校で、生徒の自治活動を重んじる「自由」な校風を特色とするイベント好きな学校だ。ちなみに、女子が占める割合は3分の1程度。事件は、3大イベントの1つである合唱祭で起こる。昼休みに販売されたパンのなかに刃物が混入していたのだ。そして、生徒会執行部に脅迫状が届く。なりゆきから生徒会執行部にかかわっていたひろみは、やがて事件に巻き込まれることになるのだが…。
 アラビアンナイトを下敷きにしたファンタジーであった前作とは違って、今回は学園ミステリーと手法は異なるけれど、「女の子」であることに向けられるまなざしは同じ。今回は、キーパーソンがいみじくも指摘しているように(「辰川高校には名前のない顔のないものが巣くっている」)、学校化社会に蓄積された「女の子」であることのデメリットが問われているので、前作以上にジェンダーについて考えさせられる。個人的には、個性的なキャラ以上に、辰川高校が印象的であった。数十年前に制服が廃止されているにもかかわらず、制服着用の男子が少なからずいるところに、「自由」な校風だけど「女の子」にとって抑圧的(家父長的)な辰川高校の性格がよく現れていますね。(meguro)

『樹上のゆりかご』(荻原規子:作 理論社 2002)
 9年振りに『これは王国のかぎ』の続編がライトノヴェルズ学園ミステリー風で登場。この間に『西の〜』があるわけですね。
 meguroが上記しているように「前作以上にジェンダーについて考えさせられる」設定です。「学校化社会に蓄積された「女の子」であることのデメリットが問われている」(meguro)のですが、語り手が主人公の「女の子」である(ジェンダー構造が内面化されてしまっている)からか、それは浮上しつつも物語を閉じるために、回避されてしまっています。
 思わぬ形で続編がでたわけですから、この問い立ては続編に期待しましょう。
 ストーリー展開の巧さはやはり脱帽。(hico)

『まぶらいの島』(竹内紘子:作 日向野桂子:画 くもん出版 2002)
 不登校のひろみのハンドルネームはナナ、名無しのナナ。メル友だけが世界との窓口。
 母親は赤ん坊のひろみを置いて出て行ったので、祖父母から悪口しか聞いていない。そんな祖父母もひろみは嫌いだ。
 一番仲のいいメル友ケンムンからメール。奄美の島の「民宿マダン」でバイト生活をしているという。さっそく民宿のHPを開く。とオーナーの名前が目に焼き付く。それはひろみを捨てた母、村岡喜美子だった。
 ひろみは何かに背中を押されるように、島へと向かう。
 かなり強引な母親情報との出会ですが、この物語がそうした危険を冒すのはその先にある展開に伝えるべき価値を見いだしているからでしょう。
 南の島の癒しの力などといえば灰谷作品を思い浮かべるのですが、特定の地域や文化に思い入れ賛美する危険がここにもやはりあります。端的に言えば思い入れできるのは他者であるからです。が、この物語はそうした危険に染まりながらも、ひろみもケンムンも島者ではなく他者であることを自覚しているのがいい。
 「あとがき」で作者は述べる。「最初は不遜にも、自分の考えを伝えようとして。でも、すぐ不可能に気づきました。だって「自分の考え」なんて蜃気楼にすぎないものだからです」「毛結局は「若い人たち」への答えではなく、自分の独り言になってしまいました。」と。
 それでいいですやん。(hico)

『レイチェルと魔法の匂い』(クリフ・マクニッシュ:作 金原瑞人:訳 理論社 2001/2002)
 レイチェル・シリーズ全3部作の第2巻。
 このシリーズの特異さは、子どもの中には魔法力があり、大人にはそれがないとされていること。前作では魔女ドラグウェナによって闇の星ウスレアへと奪われていくレイチェルと弟のエリックを助ける術を両親は持っていません。
 娘のドラグウェナが殺されたことを知った母親が仲間の魔女たちを連れて、今度は地球を襲います。彼らはまず子どもたちを集めその魔力を高め、戦うことの喜びを植え付けようとします。もちろん大人への軽蔑も。
 そこから物語は一気に進んで行くのですが、やはり大人は徹底して無力で、彼らの教育が、長年この地球の子どもたちが持っている魔法力を押さえつけていたのがあきらかになってきます。
 レイチェルはもちろん勝利するのですが、子どもたちの魔法力の封印が解かれ、大人とのこれからの関係がどうなってしまうのか? が未解決のまま終わります。子どもたちにとって師に値するのは魔導師だけ・・・・。
 ここでは、大人と子どもの乖離が設定されています。それはファンタジーの終わりの一つでしょうか?(hico)

『さよなら、ストレスくん トレボー・ロメイン こころの救急箱』『いじめなんか へっちゃらさ トレボー・ロメイン こころの救急箱』(トレボー・ロメイン、エリザベス。バーデック共著 上田勢子・藤本平:訳 大月書店)
 あと二巻出版される、子どものための、サバイバル本です。アメリカと日本では少し事情が違うこともあるので、『いじめ』の方などは修正が必要でしょう。この国の子どもは教師を信用してませんからね(親も?)。けれど、悩みを抱えてどうすればいいか分からない子どもにとって、指針の一つにはなります。「ストレス」なんかは、ようやくこの国でも注目され始めましたが、『さよなら、ストレスくん』では、ストレスの原因と意味と対処がちゃんと子どもにストレートに(「子ども扱い」せず)語られてます。
 親がこれを子どもに手渡すのも状況しだいで難しいかもしれないし、子ども自身がこの本を買うのもシンドイと思うから、やっぱり、こういう本は図書館(学校図書館もね)がしっかりキープして、これを必要な子どもたちに手渡して欲しい!(hico)

『アースヘイブン物語』(キャサリン・ロバーツ:作 金原瑞人:訳 角川書店 2000/2002)
 ストーリー展開は少し雑。が、変に小さくまとまっているより、その勢いの方を買います。この物語には見るべき(読むべき?)点が結構あるので。
 一応ファンタジー。主人公ナタリーは母親を亡くし、父親マーリンズは再婚するのだが、前の連れ合いの死からまだ立ち直れずに飲んだくれる毎日。そんな義父に怒っているティムは、本心ではないのについつい義妹ナタリーとケンカをする。だからナタリーは義兄に嫌われているし、父親はだめになっているので、落ち込み中。
 ある日、彼女は屑のような紙切れを拾う。と、見知らぬオヤジが現れ、それを返せという。よくは分からないまま、でも突然そんな理不尽なこと言われたら頭に来るので、ナタリーは、そいつから逃げる。
 ここからファンタジーが始まる。実はこの、ナタリーには紙くずに見えるものは「スペル」というもので、それがあれば魔法を使える。従って、それは、魔法使いの資質がある人にしか見えない。で、ナタリーは見えたわけだから、その資質がある。ホークが大事なスペルを危険を承知で道ばたに捨て置いてもたのは、そんな資質があるメンバーを探すためだった。彼の野望は、彼をアースヘイブンから追い出した連中をやりこめること。そのためには13人の魔法使いの資質がある人物を集め彼の配下に置かなければならない。
 実はもう12人は集めていて、最後の一人は息子のマーリン(コテコテのネーミングですね)が勤めるはずが、このコ、全然ダメで、仕方なく、ホークは探していたのだ。
 というところから、ジェットコースター物語が展開します。最初に書いたようにそれは雑なんですが、今述べたように、この物語、父親と子どもの関係性(マーリンズとナタリ。 ホークとマーリン)を実は書きたいようなのです。それもかなりシビアに。
 ラストの処理は、本当に「今」的。
 巧くなれば、この作家、バケますよ。(hico)