じどうぶんがくひょうろん

2000.12.25

       
【絵本】
『フィーンチェの あかい キックボード』(ベッツィ・バックス:作 のざかえつこ:訳 BL出版 1999/2000)
 オランダの絵本。キックボードが早々素材に出てきていますね。
 ストーリーはごくシンプル。キックボードで走っていた女の子が橋の上でおじさんとぶつかって、彼の荷物をぶちまけてしまい、拾ったのはいいけれど、一つ、拾い忘れていたものがあり、それをおじさんに返そうとするのですが・・・。
 運河沿いを走るキックボード、が、もうアムステルダムです。
 そしてそれよりなにより、拾い忘れたのがクッキーなこと。
 そう、おじさんはクッキーを買うのです。子どものためじゃありません。自分のためです。オランダの読者にとってそれは、別に気にしないことですが、私たち日本人は、大人が、それもおじさんがお菓子を買う社会があることを知るのは結構大事だと思いますよ。
 実際そうなんです。オランダに限らず、ヨーロッパでは、大人がお菓子を買って食べる。デザート文化です。だから、ケーキ屋はもちろん、飴屋だってある。
 それって、楽しい。私も、何度もそうした風景を目にしました。おじさんが嬉しそうにソフトクリームなめているって、いいじゃない。
 絵本って、そうした文化も伝えてくれるのです。(ひこ)

『エジプトのミイラ』(アリキ:文と絵 神鳥統夫:訳 あすなろ書房 1979/2000)
 これは、以前佑学社から出ていた物の復刊。
 こーゆーのちゃんと復刊してくれる、この出版社にまず、感謝! 最近のあすなろ書房はいいわ。『アウトサイダース』の新訳でしょ、『アリスの見習い物語』や『金鉱町のルーシー』ナドナド。乗っている出版社。
 そうそう、本を探すとき、一番の指標は編集者ですが、その次が出版社です。例えば今ならこのあすなろ書房は買いの一つでしょう。
 この絵本に関してはもう、説明の必要はないのでは。
 アリキの科学絵本。これももちろんタイトル通りの素材を扱っています。
 これを読めば、ミイラのことが、ちゃんと判ります。
 絵本だから、当然幼年からせいぜい小学校に置かれるのかもしれませんが、私は、こーゆー本物の科学絵本は、中学や高校にも置いて欲しいのです。
 というのは、いまその世代をいきているコって、自分が何者かよくわからなくてイライラしてる。そんなとき、足腰のしっかりした書物に触れるのはいいと思うから。(ひこ)

『ぼく おかあさんのこと・・・』(酒井駒子 ぶんけい 2000)
 すぐ怒るし、まんがもだめって言うし、早くしなさいとうるさいし、ぼくは、おかあさんがキライ。それに、ぼくとはケッコンできないっていうし、キライ。
 男の子の母親への複雑な想いを描いた作品。
 っていうとベタな紹介になってしまうけれど、白ウサギの主人公の悩む姿が、場面構成の巧さで想った以上の迫力で迫ってくる。最後は結局落ち着くところに落ち着くんだけどね。でも、落ち着くところに落ち着くまでに、どこまで描いてしまうかが腕の見せ所であるわけで、その点でこの作品はいいファイトをしている。(ひこ)

『空にぐーんと手をのばせ』(新沢としひこ 理論社 2000)
 「子どもの歌」歌いの新沢初の縦書き詩集。子どもというお客の前で歌い続けてきた新沢は、子どもたちとシンクロして楽しむ術を身につけています。観念的でもなければ、ヨイショでもない言葉たち。ちょうどいい具合。(ひこ)

【創作】
『DIVE!! 1−前宙返り3回半抱え型』(森絵都 講談社 2000)
「スポ根」小説の第1巻。水泳競技のなかでもマイナーな「飛込み」を題材に、「スポ根」を成立させた作者の力量に拍手。
 主人公たちが通うダイビングクラブは、存続の危機に瀕している。クラブが存続するためには、クラブのメンバーが1年半後に開かれるシドニー・オリンピックの日本代表に選ばれなければならない。クラブを救うためにやってきた女性コーチに、類稀なる資質を見出された主人公の男の子は、中学生には不可能に近い技−前宙返り3回半抱え型−を要求されるのだが…。
 ライバル役で登場する幻の高校生ダイバー沖津飛沫が最高。津軽の荒波で鍛えられたというダイバーとしては破天荒な設定のキャラは、サッカー・マンガの名作『キャプテン翼』(高橋陽一)の日向小次郎がそうであったように、ハマる読者が多いと思う。児童書で萌える=遊べるキャラって、あまりいないので貴重かも。
 入稿直前に第2巻が刊行されました。次回に取り上げる予定。(目黒)

『ネシャン・サーガ・1』(ラルフ・イーザウ:作 酒寄進一:訳 あすなろ書房 1995/2000)
 1920年代スコットランド。車椅子生活を送るジョナサンは夢で、別世界ネシャンを見る。そこではヨナタンという少年が裁き司の証であるハシェベドの杖を発見し、それを第7代の司の手に渡すために旅立つ。おりしも封じたはずの「闇」が蘇り、ヨナタンこ行動を阻止すべく動きだしていた・・・。
 不自由な子どもが夢見る、波瀾万丈の冒険世界、という設定はさしたる新味はありません。また、巻尾の用語解説、裏表紙の地図なども、ファンタジーのお約束。それでも500ページ近くを一気に読ませてしまいます。それはおそらく、ネシャン世界が作者の中でキチンと構築されており、私たちはその全貌をまだ知らないのですが、道筋を迷うことがないからでしょう。
 本格好きにはちょい物足りなく思え、RPG好きにはチト重いと感じられる仕上がりかな。つまり、RPG的でもあり、本格ファンタジー的奥深さもほの見え、です。
 これは中途半端ってことではなく、ファンタジーが新たな方向を探る上でも、ひとつのヒントになります。『ハリー・ポッター』で長い物語に味をしめた子ども読者の反応は?(ひこ)

『象のダンス』(魚住直子 講談社 2000)
 ヤングアダルトです。
 深澄は中学3年生の女の子。特別に仲がよいクラスメイトはいない。遊び友達に彼氏は全て街で知り合った人ばかりなのだが、その関係もまた長続きしない。完璧主義の頭脳派の母親と肉体派の父親のコンビは、コンピュターソフトの会社を経営している。必要なお金だけを与え、深澄に干渉することはほとんどない。このように稀薄な日常を過ごしてきた深澄の生活は、タイの女の子・チュアンチャイに出会うことで変わり始める…。
 ネタばれになるので詳しくは説明しないけど、物語は「カメラ(写真)」によってシンボライズされています(2人の出会いは、深澄がチュアンチャイを被写体としてまなざすところから始まる)。「カメラ」を媒介に世界と関係を結ぶコミュニケーションは、間接的で一方向的なためか、あまり肯定的に描かれてないような…。少しだけ違和感をおぼえました。
 デヴュー作『非・バランス』(講談社)が2001年春休みに劇場公開されるとのこと。朗報ですね。(目黒)

『少年名探偵 虹北恭助の冒険』(はやみねかおる:作 やまさきもへじ:イラスト 講談社 2000)
 虹北商店街を舞台に繰り広げられる、ほのぼのミステリ。探偵役の虹北恭助は小学6年生で、学校に通わずに祖父の古本屋で店番をしている。幼なじみの野村響子をワトソン役に、安楽椅子探偵さながらに事件を解決していく…。
 驚きました。内容にではありません。講談社ノベルスから刊行されたことにです。作中でパロディとして登場する森博嗣『すべてはFになる』、清涼院流水『コズミック』などはメフィスト賞受賞作で、新本格ミステリのエッジを形成するもの。言うなれば、同社の青い鳥文庫の児童向けミステリが講談社ノベルスの新本格ミステリのコーナーに間違って置かれているようなものなのです(同じ作者の「名探偵夢水清志郎事件ノート」シリーズは青い鳥文庫から刊行)。さて、内容は……。新本格派好きは読まないように(笑)。
 もへじさんのアニメ絵のようなカバー・イラストは、ティーンズ・ノベル好きの読者層の購買欲を刺激する意味では正解。でも、物語がイラストのイメージに追いついていないような気がして残念。
いずれにしても、変な気分になれる作品です。(目黒)
 
『いつも心に好奇心!−名探偵夢水清志郎Vsパソコン通信探偵団−』(はやみねかおる/松原秀行 講談社 2000)
 青い鳥文庫20周年記念特別企画。青い鳥文庫の人気ミステリ作家の両氏に与えられた課題は、「クイーン」「ジョーカー」「飛行船」「人工知能」の鍵語を使ったミステリを書くこと。「夢水清志郎」(はやみね)と「パソコン通信探偵団」(松原)は、両氏のシリーズ探偵です。
 『怪盗クイーンからの予告状』(はやみね)は、名探偵夢水清志郎と怪盗クイーンの対決を描いたもの。クイーンは、有能なパートナのジョーカーとともに、飛行船トルバドゥールで世界を股にかけて活躍している怪盗。クイーンが日本で開発された新型人工知能に狙いを定めたことから、夢水と出会うことに…。
 『パスワード電子猫事件』(松原)では、パソコン通信探偵団のまどか嬢が預かっていた電子猫が行方不明に。電子猫は、人工知能を搭載した猫型ロボット(「ドラえもん」ではなくAIBOの猫バージョンのようなもの)。インターネットの掲示板「ジョーカーの部屋」に「クイーンだ」というハンドルネームで書き込まれた文章をヒントに、電子猫の追跡が始まる…(「飛行船」が何かは自分でご確認を)。
 共通した事件を追う訳ではないので、夢水清志郎とパソコン通信探偵団の推理合戦は実現せず。騙されました。(目黒)

『西の善き魔女外伝2 銀の鳥 プラチナの鳥』(荻原規子:作 朝比奈涼子:イラスト 中央公論新社 2000)
 「西の善き魔女」シリーズの外伝にして、最後の書。
 今回の主人公は、アデイル・ロウランド(16歳)。グラール王国の次期女王候補の一人で、本編の主人公フィリエルの親友。「得意なことは空想すること、小説を書くこと、笑ってごまかすこと。苦手なことは運動全般とその競技、熱血すること」とある。このように「冒険」とはほど遠いキャラであるはずの彼女が異国の地で、フィリエルに負けない「女王」の「資質(魔法)」を遺憾なく発揮していく…。意外な新キャラが登場するなど、サービス精神も旺盛で、満足度も高いのでは。
 外伝なので仕方のないことなのだけれど、シリーズを通読したファン以外の読者にはちょっと厳しいかも。新作を期待しましょう。(目黒)

『キノの旅U the Beautiful World』(時雨沢恵一:作 黒星紅白:イラスト メディアワークス 2000)
 電撃文庫から1冊。『キノの旅T』が今夏に発売されたばかりなのに、早くも続編が登場。
 主人公のキノは、パースエイダーという銃器を扱う有段者。言葉を話すことができるエルメスという名の二輪車(バイクのようなもの)と各地を旅している。旅の目的は定かではないが、出来るだけ多くの国を訪ねるために、滞在期間は3日以内と決めている。旅先で出会う人々は少しだけ壊れており、彼らが所属する社会は静かに歪んでいる。キノもまた傍観者ではありえず、時には当事者(加害者/被害者)として行動することになる…。
短編連作形式で語られるエピソードの数々は基本的に独立しているので、2巻から読んでも大丈夫(でも、1巻の第5話だけは予習しておいた方がいいかな)。読後のほろ苦い甘さが魅力です。黒星さんの絵本のような口絵がキュートでまた良し。(目黒)

『ぼくらは虚空に夜を視る』(上遠野浩平:作 中澤一登:イラスト 徳間書店 2000)
「ブギーポップ」シリーズ(電撃文庫)の作者が今夏に創刊された「徳間デュアル文庫」のために書き下ろしたSF作品。相変わらず、冴えてます。
 平凡な高校生であった工藤兵吾は、超光速戦闘機のパイロットとして、人類の存亡を賭けて正体不明の敵と戦うことを余儀なくされる。時代は超未来、場所は宇宙の果て。兵吾の高校生活は、苛酷な戦闘の精神安定装置として電脳空間にシミュレートされた仮想世界上での出来事であった…。
 精神を安定させるための仮想世界であるはずなのに、主人公がイケてない高校生活を過ごしているところが妙にリアルでした(仮想世界の兵吾はクラスメイトに無視されるなど、結構大変なのです)。考えてみれば、自分に都合が良すぎる夢なぞはかえって不気味ですものね。(目黒)

『MOUSE』(牧野修 早川書房 1996)
 ハヤカワ文庫のSF作品です。刊行されたのは1996年なのですが、入手が困難な状況にありました。ようやく、この秋に増刷されて、入手が容易に。「読んでみたいハヤカワ文庫の名作」アンケートで本書を選んでくれたファンの皆様に感謝。
 ネバーランドは、18歳未満の子どもたちが暮らす廃墟。そこでは常時、何十種類ものドラッグが摂取されているので、そのコミュニケーションは特異な進化を遂げている。ドラッグを媒介に、トリップした相手に意識をシンクロさせることによって、ドラッグが紡ぎ出す幻想世界を共有することができるのだ。彼らは、ネバーランドという実験場でドラッグを投与されたマウスとして、その特異な能力を進化させていくことになるのだが…。
 読者を選ぶタイプの作品かも知れないけど、ドラッグならではの主観と客観が混在したバトルは必読でしょう。本書がお気に召した方は、主観と客観の境界線上に立ち現れた異形の世界を描いたホラー小説『リアルヘブンへようこそ』(牧野修 廣済堂文庫 1999)もどうぞ。(目黒)

『タイコたたきの夢』(ライナー・チムニク:文・画 矢川澄子:訳 パロル舎 2000)
「ゆこう どこかにあるはずだ
 もっとよいくに よいくらし!」
 ある日、城壁のある町にタイコたたきがやってきて、こう叫んだ。それに共感した何人かの人々。集団ができることにおそれを抱いた治世者はかれらを弾圧に。それでもますます共感はひろがり、タイコをたたきながら彼らは、もっとよいくにを探しに町をでていきます。
 やがてその波は様々な町を通るたび大きくなり、うねりとなり・・・。
 と、書けば、民衆の革命物語みたいだけど、そうでもない。大群は、よその町を飲み込んでしまったりする。彼らは、夢に向かって進むかと見えつつ、愚かとも見える。
「ゆこう どこかにあるはずだ
 もっとよいくに よいくらし!」
が、善にも悪にもなりうる現実の姿が浮かび上がる仕掛け。
 もう古典といってもいい寓話ですが、このたびパロル舎から再び出ました。(ひこ)

『くりみわりとネズミの王さま』(ホフマン 上田真而子:訳 岩波書店 1816/2000)
 これはもうおなじみの古典。怪奇・現像小説の巨匠ホフマンの作品。マリーがクルスマスにプレゼントされたくるみ割り人形。決してスマートとは言えないその人形。夜、彼は動きだし、他の人形の指揮を取り、ネズミたちと対決。マリーはその不思議な世界に入っていきます。
 動く人形、不思議の世界。コテコテの幼年ファンタジー、とはならず、そこはホフマン。子どもたちも人形たちもとっとエキセントリック。ラストは、現実と不思議世界が混じりあってきます。
 子どものときこそ、こんな世界に夢中になれるのでしょう。(ひこ)

『でんせつ』(工藤直子:詩 あば弘士:絵 理論社 2000)
 様々な命が生まれては遊び、また生まれ、あるとき命たちが集まって、それぞれの伝え聞いた伝説を語ろうではないか、ということとなった。
 との趣向で始まる、「でんせつ」たち。
 まず、とら。むかしくらやみに生きていた命たち。とうとうとらが出かけていって、光の束をあつめてきた。これで明るくなったけど、それも過ぎたるは考え物。眠る時間がない。そこでとらはくらやみを半分連れ戻りよるを作る。そこで一日ができた。それいらいそらはやみと光のしましまになったのである。
 から始まって、動物たちのでんせつが次々に明らかにされる。そのユーモア溢れる想像力! そこのあべのちょっととぼけたタッチの絵がはまる。
 こういう本作りもあるんだ。(ひこ)

『トビアと天使』(スザンナ・タマーロ 高畠恵美子:訳 1998/2000)
 両親の不仲に悩むマルティーナの姿を描いた物語。といえば、よくありそうな設定。でもここに出てくるおじいちゃんがなかなかいいんですね。彼は、すべてのものの声を教えます。やかんにもりんごにも、葉っぱにたって、耳をすませば声がある。彼女はそれを聞きながら、両親の不和から自分を守ります。でも、そうすると、授業にはついていけない。成績は落ちるばかり。両親はおじいちゃんがいけないというし、マルティーナを叱る。自分たちが原因だとは気づきもしない。
 ある日、おじいちゃんがやってこなくなって、彼女は家出を決意。ホムレスのおばさんと暮らし始めます。そこは、「捨てられた物の世界」。彼女はやっと落ち着く場を見つけるのですが、警察がやってきて、また逃げ出します。やがて、マルティーナの守護天使が現れ・・・。
 マジックリアリズムを加味して、子どもの傷つき具合が、ちょうど子どもの目線でうまく描かれていて、なぐさめるのでもはげますのでもなく、その心が私たちの前に置かれます。(ひこ)

『ローワンと魔法の地図』(エミリー・ロッダ:作 さくまゆみこ:訳 佐竹美保:絵 あすなろ書房 1993/2000)
 リンの谷を流れていた水が止まり、村の川が干上がってしまった。源流を遡り、山の頂を調べないと。しかし、未だ誰も行き着いたものはいない。村人は魔術師のシバに相談する。と、彼女が渡してくれた地図はたった一人にしか読めないものだった。その一人とは、村で一番ひ弱なローワン。皆の不安の中、彼は、村の英雄である6人の大人たちと山へと向かう。
 RPGで言えば、1エピソードにしかすぎない物語。山へいって帰ってこれるか、だけですから。でもそのため、ローワンが少しだけ成長していく様はリアルに描かれています。それと役者のあとがきにもあるように、この物語はジェンダーフリーになっていて、そこが心地いいのね。シリーズだそうですから、全体で大きな物語になっていくことでしょう。(ひこ)

【評論】
『戦闘美少女の精神分析』(斎藤環 太田出版 2000)
 『社会的ひきこもり』(PHP新書)の著者による「おたく」論。
 「戦闘美少女」のイメージは、「セーラームーン」や「ナウシカ」など、マンガやアニメの世界ではありふれている。しかし、著者によれば、欧米には「戦う女」の系譜はあるけれど、「戦闘美少女」が例外的にしか存在しないらしい。「戦闘美少女」が大量に消費(欲望)される日本に固有な現象(症状)を、「おたく」のセクシュアリティの観点から精神分析した好著。
 精神科医の著者の文章は、精神分析の術語が多用されているので、すこし読み難いかも。『不過視なものの世界』(東浩紀 朝日新聞社)に収録された東・斎藤両氏の対談がガイドになるでしょう。オタク学初心者の方は、本書で言及されている『オタク学入門』(岡田斗司夫 新潮OH!文庫)が文庫化されたので、こちらで予習をするのも良いかと。個人的には、「戦闘美少女」という抜群なアイデアを「おたく」のセクシュアリティに収斂させてしまうのはもったいない気が…。(目黒)

『フェミニズム・サブカルチャー批評宣言』(村瀬ひろみ 春秋社 2000)
 こちらは「戦う女の子」論。上に紹介した斎藤氏の「戦闘美少女」論と同期しているのは偶然ではありません。両氏の著作に収録されている中心となる論考は、『ポップ・カルチャー・クリティーク2.少女たちの戦歴』(青土社)に発表されていたからです(詳しくは両著の初出一覧を見て下さい)。
 さて、本書は「サブカルチャー評論編」と「フェミニズム評論編」の二部から構成されています。前者で、マンガ・アニメに表現された「戦う女の子」のイメージを分析。後者では、フェミニズムに係わる戦う女性たちを取り上げています。女性(のイメージ)を「戦う女(の子)」としてポジティブに語る姿勢は、文体も含めて爽やかです。同じような対象を扱っていながら、村瀬・斎藤両氏のスタンスの違いから「戦う女の子/戦闘美少女」は違った顔を見せてくれます。
 ところで、「戦う男の子」(「戦わない/戦えない男の子」も含めて)の現在って、どうなっているのでしょうね。あまりに冷遇されていると思いませんか?(目黒)