二 『当世少年気質』と『暑中休暇』における同一性と差異

 1 『当世少年気質』における「学童」

 本書は、@「鶏群の一鶴」(弱きを助け強きを挫く。清原英麿義侠の事。)A「十歳で神童」(自慢は知恵の行止。海峯小史悔悟の事。)B「懐中育ち」(可愛い児には旅をさせろ。松原仙弥入塾の事。)C「負けるが勝利」(爾曹の仇敵を愛しめ。小杉鎮雄忍耐の事。)D「鴬の兄は時鳥」(里親は恋しいもの。大藤一病気の事。)E「人は外形より内心」(破れたる温袍を着て。青地三郎名誉の事。)F「お山の大将乃公一人」(泣く子と地頭には勝たれず。三木熊若疳癪の事。)G「慈悲は他の為ならず」(学校へは遣りたいもの。谷川芳松義捐の事。)の八編から構成される。
 まずAでは、骨董屋の倅で先生と仰がれている「書」が巧みな神童が登場する。少年が貴族院議員にたしなめられ、不服そうな父親を傍目に「天下の為に尽くしてハ如何か」と渡された『西洋立志編』を受け取るまでが描かれる。「書」で「身」を立てようとした意味で既に立身出世がコード化されている様に見える。つまり、「父親」に対する<孝>ではなく、「国家」に直結するような<忠>が強調されているのだ。
 「小波の姿勢がもっとも典型的に現れている」(前田、注1)Eは、A以上に「立身出世」が顕著に見える。成績は一番で「乞食」と渾名される三郎は、元旦の式典に母親の忠告を聞かずに普段着で登校する。村長の息子に「天子様のお写真を拝むのに、袴がなくつちや失敬だと思ふなア」と指摘され落ち込むが、名誉挽回の「答辞」を任されるまでが描かれる。Aと同様に『西洋立志編』ならぬ「答辞」を渡されるまでしか描かれない。また、母親に叱られるのが恐くて帰るに帰れない挿話を「親にも甘えられず孤立した」(久米依子)(16)と読めば、ここにも<孝>ではなく<忠>に直結される少年像が指摘できる。なお、三郎に式典への出席/欠席を選択する余地が残されていた点も併せ留意されたい。 
 「立身出世」が覚束ないほど<孝>に捉われている少年が入塾して最初の友人を見出だすまでを描くBに対して、Gでは義援金を捻出するために止むを得ず嘘をついた為に父親に打擲される少年が描かれる。これらは「<孝>からの解放」という主題を逆説的に示している(Dも同系列の作品)。また、@では、英麿という学習院の「生徒」と「小僧」の出会いは一瞬で終わっており、むしろ階級差を顕在させている(Fは英麿のネガであろう)。Cの兄妹がクリスチャンであるという設定は、小波が入信していたという事実以上に、「主」に服従するsubjectことで「主体」たりえた意味で、本編中もっとも「主体的」である点、『暑中休暇』の系列に属すると言えるかも知れない。
 特にAとEで「立身出世」というコードが批判される。しかし、そこに提示されたのは「立身出世」を知るまでで、必ずしも内面化された訳ではない。また、歴史的にも、物語内容においても、「国家」に直結するような「立身出世」は与件ではない。問われるべきは、「立身出世」を「知る」ことが「学童」にとって如何なる事態を含意していたのかである。従来は「立身出世」を与件とするが故に「<公>への従属」ばかり強調されたが、「<孝>から<公>への志向とは(中略)自分たちの<ことば>をより受容してくれそうな、学校―国家という新しい抽象的な<親>に惹かれること」(久米、注16)ならば、「<孝>からの解放」というポジティブな側面が指摘できよう。「立身出世」を「知る」ことは、「学童」にとって「<公>への従属と<孝>からの解放」を意味したのだ。よって、これらが臣民/国民という主題とどのように関連しているのかが、次の課題である。

 2 『暑中休暇』における「児童」
 本書は、(1)「游泳」(2)「復習」(3)「端艇」(4)「遠足」(5)「旅行」(6)「帰省」の六編を冒頭の「校長の演説」が統括している。この演説は「勉強」の褒美に「暑中休暇」を与え、しかも「勉強」は「自分」のためにするのだと述べ(後に「国家の為めに働き」とあるが)、「神」を持ち出し「品行」にまで言及する。更に、「勉強」をいつ頃するか、「遊び」の種類から方法、「午睡」「無駄喰い」の禁止、「寝冷」および「炎天」における諸注意に至るまで、「児童」の生活時間および空間を分節し身体技法の規律を提示する。また「厳格な禁止・命令として語られているわけではない。言葉遣いは終始、丁寧な<です・ます>調で統一されている」(久米)(17)。「教育勅語」も「御真影」も顕在化させない、緩やかな「校長の演説」という規範を自らの行動の根拠に「児童」は様々な体験をする。そもそも、この「暑中休暇」自体が「学校」によって「与えられた」ものであった。
 この身体技法にまで及ぶ権力の網の目は、以下に展開される「アソビ」に顕著だ。校長が提示したのは「身体の鍛練や知識の拡大という目的がじつにはっきりしている」「学校教育のなかで公認されているこうした山の手型の新しいアソビ」(前田)であった(18)。このようにアソブ「児童」たちが「校長」に代行される体制の論理を生きてしまっていると批判することは容易いが、この「新しい規範」であるアソビに「児童」自らが「主体的」にかかわっていった側面を見逃してはならない。何故なら、近代における「主体化」は臣民/国民として二重化されて遂行されるからだ。学校のアソビが民衆の従来の遊びを駆逐していっただけでなく、両者が混同されることで後者が前者の受皿として機能してしまう様な錯綜したプロセスが、学童/児童という主題に指摘される必要がある。
 (1)は校長が奨励する「游泳」という「アソビ」を通して<親の禁止を乗り越えた少年の話>(久米、注17)、(3)は校長が奨励した「端艇」で交友を広げる話である。(5)は「投稿雑誌」に掲載された少年の「鎌倉江ノ島記行」と題された作文で、彼が友人の笈川学と「汽車」に乗って「旅行」する(19)。(6)は及川が「汽車」で静岡の両親の下に「帰省」して「団欒」する話だ。(5)(6)に「親の言動に振り回され束縛されるのではなく、<家>との親和的関係を保つようになった」「少年たちが<学校>という新しい<親>―<家>の外にある制度・論理と強く結び付くことによって起きた変化」(久米、注17)を指摘できよう。
 (2)は『当世少年気質』@と同型だが、決定的な差異がある。@での交流は一瞬でかえって階級差を顕在させたが、同じく階級差のある(2)の不二夫と操一は「無二の親友」にまでなる。操一が一年前まで鞆絵学校に通学していた「読書」好きの「児童」であった点、小僧と対照的だ。そもそも二人の交流は不二夫の「音読」を聴きたい一心が契機とされ、直前に伏線として操一の「唱歌」を偶然に不二夫が聞いている。これは、少年の交流は「学校」というコードが共有化される限りのものであって、「小僧」の様な学校に通学していない存在は、そこから排除される可能性があることを示している。
 (4)は、漢籍を好む林文治と博物学を好む岡静逸との「遠足」の話だ。そこでの会話の語彙は、靖国神社・大村兵部大輔の銅像建設場・西洋・日本・楠正成の銅像・男の洋服・女の洋服・立ン坊・『少年文学』などである(20)。確かに「器用な風俗のスケッチ」(続橋)に過ぎないかも知れない。しかし、漢籍/博物学が中国/西洋を表象し、林/岡という二少年に割り当てられているとすれば、林を岡よりも階級的に下とする設定は、銅像の有無を西洋/日本に対応させている点と相俟って、日本の近代化を如実に示していよう。即ち、「中国―東洋」を否認することで自らを「西洋」として表象しようとする欲望があからさまに露呈されているのだ。更に、「東洋」の否認と「西洋」への欲望によって自らの同一性を保証した「児童」は、今度は『少年文学』に代行されるコードを共有しない「女」「立ン坊」を差別することで、自らの同一性を補強していく点を強調しておこう。これがナショナリズムの論理であることは言を俟たない。
 『暑中休暇』では『当世少年気質』と違い、作品内レベルでは「立身出世」が前提され、「主体的」に行動する「児童」が登場しているようだ。しかし、強調されるべきは、単に両著が「違う」ことではない。その差異の考察を明治二五年一月と九月の言説空間からはじめることで、臣民/国民もしくは学童/児童というネーション・ステイト形成が孕む問題の構成自体を開示することが、本稿の目的である。
   

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