コドモの切り札

(76)
少年が武器を持つとき
甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
     
 僕の大好きな児童文学のひとつに、関銃要塞の少年たち』(R・ウェストール作 / 評論社)というのがある。
 物語の舞台となるのは第二次世界大戦下のイギリス北海地方。そこで戦争コレクションに明け暮れるグラマースクール(進学校)の少年チャス・マッギルが、ひょんなことから撃墜されたドイツ軍爆撃機の背部銃座の機関銃を見つけ、仲間と共にそれをかっぱらい、大人達を出し抜きながら要塞を造りあげていくというストーリーである。
 さて、この本の話をいきなり始めたのは、他でもない、先週のおしまいに書いた、ナイフを持つことによって守るべき自分を作り出そうとする、という少年時代の心境について、ちょっと詳しく述べてみたいからだ。
 僕自身、ナイフを手に入れたとき、それを「道具」としてでなく、明らかに「武器」と認識していたように記憶する。もちろん、誰か傷つけるべき特定の相手がいたわけではないが、しかし、不安定でシビアな精神状態を抱えていた中学時代、「武器」を持つことは確かに必要だったのだ。
 『機関銃要塞』を読んで身に覚える感情は、あの頃の心境に通じる。チャス達が手に入れた武器は、ナイフとは比べ物にならないくらい強力な、四百メートル先のレンガの壁を打ち抜く機関銃と実弾二千発である。しかし、最初は好奇心から手に入れた武器を中心に置き、仲間と共に要塞を造り上げるうち、逆に、その場所を拠点として守るべき自分を確立していく過程は、ナイフを手に入れたときの僕の気持ちとそっくりだ。
 また、物語のエンディングでチャス達が戦った相手が、警察も外国兵も親も教師もみんな引っくるめた「大人」だったことも同じである。子供の前では口先だけのキレイ事を語り、その実、自分の都合ばかりを考えている大人達に失望した末、それを拒否するために武器を手にする少年達の姿は、現代の日本にも通じるリアリティがあると思うのだが、どうだろう?。
西日本新聞1998,03,22