コドモの切り札

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大人の問題

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 ふと気付けば、今年もあと残りわずかである。この1年を振り返ってみると、何だか気の滅入るニュースばかりが思い出されて、シビアな時代に生きているという実感がこみ上げてくる。
 予測不能の事態というか、これまでの常識が通じないというか、政治、経済、環境、犯罪、科学など、どれをとっても「まさかー」という事件が多かった。反面、変化を受けつけないのは公共事業で、これも困ったもんだ(最近、見直しを口にしてはいるけど…)。
 このような事態を、我田引水に論じさせていただけば、僕には全て、「大人」が破綻している有様に見えてしまう。
 こうしたらこうなるという予定・計画の上で物事を進めるのは大人の大人たる所以だが、しかしながら、その前提となる枠組みを越えた問題に出会うと方向修正に手間がかかる。最悪の場合、状況の悪化を知りながら、パンクするまで突き進む。こうしたことは、今年、大人が起こした問題のどれにも当てはまるのではなかろうか?
 また、現代では、教育の名の下に子供を「大人しく」させようとし過ぎている。個性だとか、才能を伸ばすとかいいながら、やらせることは将来を先取りした計画の遂行に他ならない。大学入試、高校入試、中学入試、小学校入試、幼稚園入試、早期英才教育、胎教、挙げ句の果ては、優良な遺伝子を持つ精子の売買である。やっているのは、みんな大人。おまけに、いい学校に入ったとしても将来の安定が約束されないことは、ニュースを通して子供たちに筒抜けである。
 それでもなお、彼らに「いい子」を求め、「子どもらしさ」を求め、従わないものには強権を行使するのだから、疎むなという方が無理である。
 通勤ラッシュの時間帯に歩きながら煙草を吸うネクタイ付けたオジさんと、午後空いている時間帯に喫煙所で煙草を吸う制服を着た高校生と、モラルを問われてしまうのはどちらなのか?
 大人がモラルを取り戻さないとヤバイ時代だ。
西日本新聞1997.12.28
テキストファイル化 妹尾良子