コドモの切り札

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九州男児という約束


甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
     
 「ご出身はどちらですか?」と聞かれて、「福岡です」と答えると、「じゃあ、九州男児なんだ!」といわれることが今でも時々ある。で、そんなとき、正直に告白すれば、僕は少しばかりムッとしていた。なぜなら、地元にいたころ見聞きした、九州男児をきどる連中の大抵が見栄っ張りのわりに小心者で、なんか悪い印象ばかりがあったからだ。
 が、しかし、最近になって、その考えは改めるべきかも?と思うようになっていた。というのも、エセ九州男児は置いといて、本物の九州男児というのは、実はスゴイんじゃないかという気がしてきたのである。
 「オレは男だから」というジェンダー・アイデンティティによって、女のすることには決して手を出さない。代わりに、女にはさせられないことはキッチリ引き受け、自分の領分としてやってしまう。たぶん、こういう人が本物の九州男児だよね。
 で、ここで注目したいのが、ジェンダー・アイデンティティとして、これがやれるということである。ジェンダー(社会的性的役割)が、アイデンティティ(関係性による「私」意識)に直結するということは、、つまり、それが相手(女性)によって認められているということで、要はその前提がなければ「九州男児」はやれないということになる。
 とすれば、「九州男児」というのは男だけで成立するあり方ではなく、男と女の関係の中で生まれた約束事といえるのである。もちろん、この約束事があらゆる男女に受け入れられるものだとは思わない。けれど、少なくともそれに不自由を感じない男女の組み合わせがあるのなら、そこでは両性共に安定したアイデンティティを持ち得るのではないだろうか。
 「九州男児」やってる男と、「九州男児」やらせてやってる女は、どちらも主体的能動的で、一方がマイナスを帯びることはない。このような複眼的発想のあり方に、理性という単眼的思考を乗り越えるヒントがあると思うのだが&hellip、どうだろう?
西日本新聞/97/12/14
テキストファイル化 妹尾良子