コドモの切り札

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私というDNA

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 この頃週刊誌を読んでいると、「DNA鑑定いたします」という広告を目にする。で、それは「本当の親子」かどうかを確かめるのが目的らしいが、申し込む人が多いかどうかはともかくとして、この広告を見るたびに気になるのは、人間の存在根拠(アイデンティティ)に対してDNAを持ち出すということが、もはや日常レべルにまで至ってしまったのか、っていうことなのだ。
 確か、五、六年前までは、親子や生殖の問題をDNAレべルで考えることは、小説や科学雑誌の話だった。が、今や、それが雑誌の広告にとうじょうするのである。う〜む。これを果たして、科学的進歩の成果といってよいものか?
 聞き及ぶところでは、哲学の世界でも、アイデンティティについて考える際、「免疫反応」が無視できぬ問題となっているらしい。つまりは、「私が私である」ことの認知が細
胞レべルで存在する、ということである。
 これは考えてみれば、不思議な話だ。例えば、インフルエンザに罹って熱が出る、という当たり前の現象も、私の中に私でないDNAが入ってきて増えようとするのを、私が阻止しようとする過程と捉え直すことが可能なのである。
 こうした考え方に基づけば、もはや「私」が精神のレべルの問題では済まないことに気づくだろう。そして、さらに、人間を語るときに使用される、「精神/肉体」という一般的な対立頂そのものが、揺らぎ始めることになる。
 こうした時代だからこそ、吉田秋生は『YASHA』(小学館)で、DNAを持ち出さねばならなかったのだ。
 主人公の少年・有末静は、『BANANA FISH』のアッシュと同様に異常に能力の高い人間として描かれるが、しかし決定的に違うのは、彼が「遺伝子操作で品種改良された〃生物〃」という出自を負わされたことである。これがどのように物語に作用するか?
 詳しくは、また次週。
西日本新聞1997/11/09