コドモの切り札

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美少女という<少女>

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 『吉祥天女』 (吉田秋生/小学館)でヒロイン小夜子は「強姦なんて女にとっては殺人と同じこと」と語る。そして彼女は、そうした降りかかる火の粉を払い、さらに反撃を企てるのだが、しかし、それゆえ、〈女〉から〈魔物・天女〉の領域へと歩を進めざるを得なかった。
 さて、では、このように被虐的立場に置かれた者が、思いのままに反撃をしつつ、しかもなお、人間として描き出す方法はあるのだろうか? これに対する解答は、『BANANA FISH』 (小学館)を読めばよい。少女としてのセクシュアリティを少年に換え、そこに〈女〉というジェンダーを乗せてやれば良いのである。
 〈女〉は、美しければ美しいほど性的対象にされやすい。そして、〈男〉は、その対象に自分と同じ人間的な感情が存在するとは考えない。まレてや、それが自分より賢いとなれば、激昂する。さらに、反撃などされようものなら、力によって強引にねじ伏せようとする(もちろん、現実の〈男/女〉関係が全てこのようなものだとは思わない。が、例えば、社会の様々なシーンに存在するセクシュアル・ハラスメン卜など、まぎれもなくこうした認識によるはずだ)。
 この〈女〉の位置に、美少年を当てはめたとき『BANANA FISH』という物語が生まれる。だから、主人公のアッシュは異常なまでに美しく、しかも極めて頭が良く、さらに恐ろしく強いのである。こうしたズバ抜けた存在は、それだけでヴァルネラビリティ(攻撃誘発性)を負わされる。それで、アッシュは幼い頃から肉体的・精神的強姦を受け続けることとなり、当然、自らが自らであるためには闘い続けねばならなかった。だから、彼は、丸ごとの自分を受け容れてくれる英二と、命と賭してまで守る必安があったのだ。
 不自然なほどに少女の登揚しないこの物語は、しかし、見事に〈少女〉の物語だったのである。
西日本新聞1997/10/12