コドモの切り札

(46)
嫌いでいいのだ
甲木 善久

           
         
         
         
         
         
         
     
 そろそろ夏休みも後半に突入し、宿題というイヤなやつの存在を思い出している方々も多いと思う。子どもにとって、それがウンザリなのはもちろんのこと、口やかましく小言を重ねなくてはいけない親の立場からしても、気の重いもんであることには違いない。
 さて、そうしたイヤな夏休みの宿題の中で、ほとんど、悪しき伝統と呼んでもよさそうなのが、例の、読書感想文というやつである。僕には、あんなことを子どもたちに強要することの意味が、さっぱりわからない。
 本を読むことと、感想文を書くこととは、全く別の行為である。ところが、それをワンセットにして平然と宿題にしてしまう。すると、読書家の子どもには「本を読むのは楽しいんだけど、感想文を書くのが苦痛だ」という思いを抱かせることになり、そして、まだ読書という麻薬の快感に気づいていない子どもには「本→読書感想文→つまらない、苦しい→嫌い」という先入観を強く与えることになる。
 さらに、僕の乏しい経験によれば、小中学校、高校を通じ、まともに文章の書き方を習ったことは一回もない。したがって、仮にヤル気になって原稿用紙を前にしても、何をどうしていいのやらサーッパリわからなかったという記憶がある。
 まあ、こういってはナンだが、文章を書くという表現技術は、なまなかに身につくものではないのである。しかも、それを子どもに教えるなど、考えるだに頭が痛い。
 だとすれば、おぞましき定番宿題・読書感想文が、決まり切ったフォーマットをなぞるだけの作業になるのは、当然である。つまらない本にも感動したふりをし、身近な話題を引き合いに出し、紋切り型の良い子ちゃんフレーズを書かねばならない、という宿題のどこに教育的意義があるのか考えていただきたい。文句のひとつも書けないような感想文など、そんなものは「表現」ではない!
西日本新聞1997.08.17