コドモの切り札

(26)

生命のリアリティ

甲木善久
           
         
         
         
         
         
         
    
 気にいらない成長を遂げたからといってリセットする。あるいは、どれほど早く死に至らしめるかを競う。このところ、そうした遊び方すら取り沙汰されている「たまごっち」であるが、さて、しかし、たかがその程度のことで、人間が死というものを安直に捉えるようになるものだろうか?
 という疑問から、前回、お粗末な「たまごっち」批判に反論を書いたのだが、今回はそれについてもう少し詳しく、つまりは、生命に対するリアリテイーの問題について触れてみたいと思う。
 今日、スーパーマーケッ卜に行けば、皿の匂いをほとんど感じさせない状態で肉がパックされ、整然と並んでいる。いうまでもなく、それらは牛や豚や鶏の死体の切り身なのだが、もはや生々しさは打ち消され、ステーキ用とか、生姜焼き用とか、あるいは唐揚げ用チューリップなどという記号として売られている。
 だからだろう。何かの話題で高校生や大学生に「牛の死体を食べたことがあるか?」と聞くと、とっさに「ない」と答えるものが圧倒的に多いのだ。そして、一瞬後、半数程度の者たちは、そこで何が問われたのかに気づきハッとする。が、それでもなお、気づかない者も確かにいるのだ。
 こうした現状に接する限り、生命に対するリアリテイーを損なうものとして「たまごっち」を糾弾することなど、僕にはできない。世話をしてやることで、記号のたまごが「とりっち」や「みみっち」ゃ「すもうっち」などなどの記号へ変化していくのを面白がれる精神は、今の世の中があらかじめ用意してしまったことなのである。
 松阪牛ヒレステーキが生き物の体として捉えられないことに較べれば、「たまごっち」を育て、死んでいくのを見る遊びなど、生命観を脅かす危険性は無いに等しい。むしろ、たまごっち現象は、〃結果〃として理解すべきなのだ。
西日本新聞1997,03,30