コドモの切り札

(22)

欠けている心遣い

甲木善久
           
         
         
         
         
         
         
         
    
 子どもの本の評論を生業としていて、まあ、最も多い仕事というのは新刊の書評というやつだ。そうして、その作業の中でいつも迷ってしまうのは、その書評を誰が読んでくれるのか?という問題である。
 三歳児が新聞の書評を読み、この本を読みたいと思うことなど、どう考えたってあり得ない。では、書評くらいは読める年齢になれば活用してくれるのかといえば、今度は逆に、そこで取り扱われる内容には食指が動かなくなっている。
 そう、これはきわめて逆説的な構造だ。そして、その結果、子どもの本の書評が向かうのは「子供に本を読ませようとする大人」たちということになってくる。あらすじと教育的な目線で掬い取ったテーマのみが書かれ、表紙写真と読者対象の年齢(学年)が付された例のス夕イルは、ここから生まれるといってよい。
 だが、あのス夕イル、どう見ても面白いとは思えない。載せてる方も、書いてる万も、読んでる方も、読まされる方も、なーんか、「ために」やらなきゃいけない感じがプンプン匂うのだ。
 だいたい、ものを読む面白味なんてものは、文章と読者がダイレクトにぶつかるところから生まれるわけで、間に「ために」が入った途端、いきなりツマんなくなることは誰でも経験的に知っているんじゃなかろうか。その上で、妹尾河童『少年H』(識談社)のこの本は総ルビに近いほど、漢字という漢字にルビをふりました。…昔の本には、こんな風にすべての漢字にルビがついていたお陰で、ぼくは大人の本を読むことができたし、漢字を覚えることもできました。ぜひ少年少女にも読んでほしいという思いをこめて、昔のような本にしました」という「おことわり」を読むと、内容もさることながら、読者に向かう姿勢そのものに感動を覚えてしまうのだ。今の子どもの本のシーン全般に欠けているのは、これですよ!
西日本新聞1997,03,02