コドモの切り札

(11)

よい子の行く末

甲木善久
           
         
         
         
         
         
         
         
    
 「何かが始まるのを待っている状態-それが若さの正体だ。年をくうと、何かが終わるのを待つようになるんだ」というのは、原田宗典が『楽天のススメ』(小学館)のおしまいで「カッチョよく締め括るとするかな」とかいいながら書いている箴言だが、なるほど確かに名言である。
 んでもって、先週書いたことにコレを結び付けると、「何かが始まる」はずの未来を「予定された未来」に繰り込み、「何か」を「何か」でいられなくして、若さを奪い取ってしまうのが現代社会というやつなんである。
 さて、この「子どもがコドモでいられなくなる」ってこと、実は多くの問題を含み込んでいる。そして、中でも重要なのは、「コドモでいられないと、大人にもなれない」ということである。例えば、近ごろ話題のアダル卜チルドレンも、「子どもじみた大人」って意味じゃなくて、「子ども期を上手くクリアできなかった大人」という意昧なのだ。要は、よい子だったおかげで自分の抱えた問題が親のせいだと思えず(思わせてもらえず)、自分自身のバランスがうまく取れない大っきな人がいる、ということである。あるいは、元よい子といえば、官僚の皆さんの馬鹿野郎ぶりも凌まじい。あれがもし、マジメに我慢した子ども期の反動だとしたら、それはもはや哀しいとしかいえない。
 また、昨今いろいろと報道される学校関係の事件を見ても、近代教育がどん詰まりまで来てしまったという感じである。
 近代という思想は「理性」によって自然を制御しようとしてきた。だから生まれることも、老いることも、死ぬことも、日常生活から極力遠ざけようとするのだし、子どもという自然も学校に囲い込みたくなるのである。よい子から良い大人が生まれてるのかなァ?
西日本新聞1996,12,15