がき本の現在
子どもと本の交差点

(3)

甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
    
 僕は最近、「子どもという要素を含み混むことで、より一層その作品の真価が発揮されるもの」ならすべて、児童文学と呼んでよいのではないかと考えるようになってきた。戦後第一世代のような理念先行ではなく、「はじめに作品ありき」で児童文学に触れてきた、第二世代としての感覚を拠りどころとする、自分なりの定義であるのだが。
 これが、正しいのかどうかはわからない。けれど、「児童を読者対象として書かれた」とか、 「児童向けに作られ出版されている」とかいった、作品の実質に関わりの薄いこれまでの外在的な定義より、少なくともまだ議論論ができそうな気がする。
 そんなわけで、純正児童文学ではない児童文学である。前回も述べた通り、ここ十年ほど、子どもをモチーフとしてその特性をフルに生かし、物語を展開を引っぱっていくタイプの作品が、やたらと目につくようになってきた。たとえば、演劇の世界では、八○年代後半からひとつのムーブメントを作った、夢の遊眠社、第三舞台、遊◎機会/全自動シアターなどの若い劇団の作品の中に、子どもをモチーフとするものが、数多く見られる。また、マンガの世界でも、子どもを読者対象にしない青年コミック誌において、『クレヨンしんちゃん』を代表とする子ども物とでもいえそうな作品群が花盛りである。映画では、大林宣彦の「転校生」「さびしんぼう」や相米慎二の「お引越し」「夏の庭」など、まさに児童文学に材を取った作品も少なくない。

 こう書くと、「いや、それ以前にだって子どもを描き込んだ作品は数多くあったはずだ」と、思われる方もあるかもしれない。確かにそうである。だが、最近の子ども物と、それ以前のものとでは、明らかに質的な差があるのだ。つまり、作品の主眼が、子どもを描くことにあるか、あるいは、子どもを通して世界を描こうとすることにあるか、という違いである。
 大人の理性を中心に据える〈近代〉という価値観が相当くたびれてきた現在、さまざまな現象や事件などを明快に理解することは難しい。近代科学の進歩の果てに人類が手に入れた核エネルギーは、ご承知のように、かなり扱いにくいものである。核ミサイルが地球上に散らばることで、とりあえず保たれている平穏を平和と呼んでよいのかどうか。あるいは、環境の問題にしても、それを訴えるためにはマスメディアを使うより他なく、つまり、その訴えかけのために膨大なエネルギーやパルプが消費されていくという矛盾を抱え込んでいる。昨今の教育の問題にしても、簡単にいえば、そこから大人がいなくなっていることに端を発するのだと思う。こうして世界を捉える仕組みとして大人の論理が力を失いつつある今日、それに代わる何かが求められるのは当然といえる。しかも、その何かは単なる代用品では困る。このわけのわからなさを乗り切り、生き延びていけるようなものでなければ、混迷はむしろその傷ロを広げてしまうのだ。
 そこで、「子ども」なのである。最近の物語に提出される子どもとは、つまり、大人の既成概念に捉えられる以前の人間像である。
 山田詠美が、『蝶々の纏足』 『風葬の教室』『放課後の音符』『晩年の子ども』『僕は勉強ができない』など、多くの作品の中で子どもを描いたのは、だから、偶然ではない。社会の中から取りこぼされていった存在の目線から、世界を、人間を描こうとする彼女の一貫した姿勢の中で、子どもへと意識が向いて行くのは必然であるはずだ。
 また、吉本ばななが、現代社会の中で疲れきつた精神を癒すというモチーフを持つ『アムリ夕』の中で、その重要な登場人物に子どもを配してきたのも、とても分かりやすい。
 そんな中にあって、今、僕がもっとも児童文学を感じる作家は宮部みゆきである。彼女が作品で描き出す子どもが、それも特に少年が、実によいのである。彼らは、現実にいる少年というにはいくぶん出来過ぎの感がぬぐえないものの、しかし、現代社会に生きる人間としての感覚は実に真っ当なものを持っている。太人や社会全体に対する微かな不信、ものごとを処するに当たってのある種の割り切り、心の傷、充たされなさ、そうしたものを当たり前のように持たされて、彼らは物語に現れ、動き回る。幼くもなく、分かり過ぎるでもない彼らが、けれど確かに児童文学的であるのは、どんな状況であれまっすぐに生き延びていこうとする、その生命力の表出にある。
 たとえば、『今夜は眠れない』の続編として昨年発表された『夢にも思わない』など、僕は九○年代の児童文学の傑作のひとつに数えたい。この物語では、エンディンに殺人事件の真相が解明されることで、逆に、主人公の少年の内に苦い失恋がもたらされる。そして、作家は、その失恋を少年の心に放置したまま、どんなに時間がかかっても受け入れねばならぬような形で筆をおくのだ。
 苦しくても生き延びていかなければならない。これは、大人であろうと子どもであろうと、逃げようのない真実である。そこに、宮部みゆきはエールを送り、生き延びていける物語を提供してくれる。しばしば、彼女の作品はハート・ウオーミングと称されるが、それは物語の根底に、こうした生きることへの信頼が横たえられているからに他ならない。
 かつて、純正児童文学の中にふんだんに見られたこうした信頼が、本家本元では相当薄っぺらなものに変質している現在、しかし、文学全般を見まわしたとき、それが確かに力を持ったモチーフとして愛け継がれているのは、心強い話だ。
 純正児童文学がコケることがあっても、児童文学はなくならない。
西日本新聞1996,03,24