『世界児童文学案内』( 神宮輝夫 理論社 1963)

海賊船とアフリカの宝―「宝島」「ソロモン王の宝くつ」―

 「宝島」がロバート・スチーブンソン(一八五〇〜一八九四)の息子ロイド・オズボーンのかいた架空の島の地図から生まれたことは有名である。それは一八八一年の八月のことで、スチーブンソンは息子のかいた地図に名前をかきいれてやっているうちに興をそそられ、その日からすこしずつかいた物語を息子に読んでやっていた。そのうちに彼の父親もきき手の仲間に入ってしまったという。子どものために書かれた冒険物語が大人をも夢中にさせてしまう―そこに「宝島」成功の秘密があった。大人をも子どもをも魅したもの、それは数々の冒険の末にめざす宝を手に入れる話の筋そのものである。「宝島」のテーマは宝に対する欲望である。そして結末にいたるまでの冒険の間に、じつにたくさんの血が流され、多くの人間が死に、よっぱらいがあらわれ、きたない言葉がつかわれる。最後に宝を手に入れてイギリスに帰るジム・ホーキンズ少年の側にも別に正義の旗印はない。しいて大義名分を求めれば、海賊より先に宝島の地図を手に入れたということだけである。そして、ジムの側の勝利すら偶然による勝利でしかない。つまり、「宝島」は十九世紀にたくさんあった三文冒険小説とすこしもかわりない内容のものなのである。しかし、物語の処理のしかたは、三文小説群とは全然ちがっている。片ほおに刀きずのある老水夫が、ジムの宿屋へあらわれるところからはじまる事件の連続は意外性に富んでいるし、リブジー医師、トリロニー氏、スモレット船長、ジム・ホーキンズ、ジョン・シルバー、めくらのピューなど、登場人物はあざやかに書きわけられていて、忘れがたい印象をのこす。特に、美徳と悪徳とが奇妙に入りまじったジョン・シルバーの性格創造は文学史上まれにみるものといわれている。莫大な宝へのあこがれ、目的に向かう行動性、危機打開の爽快感などが、お説教や知識のおしつけといった不必要な衣をいっさいとりはらった本体だけで、読者に伝えられたのが「宝島」であった。ながい間「少年向き」の物語を苦しめつづけてきた教訓があとかたもなくのぞかれ、冒険そのものが大手をふってまかり通るようになったのである。
 「宝島」には特別モラルはないが、真にすぐれた文学が読者に与えてくれるものをふんだんにもっている。アメリカの児童図書館専門家アン・T・イートンのつぎの言葉はすぐれた作品の強みをよくつたえてくれる。

 登場人物ぜんぶが気高く自己ぎせい的な人間であってはならない。一方、勝利する主人公以外の人物ぜんぶが極悪人であってもならない。のっぽのジョン・シルバーは悪漢であった。しかし、「宝島」の少年主人公ジム・ホーキンズとおなじように、読者も彼に対して、いささか同情の気持ちをもつ瞬間がある。ダルタニヤンほどさっそうたる主人公はいないだろう。しかし、彼はほら吹きだし、ときにはうそつきでもあった。ジャン・バルジャンには気高い精神がほとばしる時もあり、獣性のあらわれる時もあった。「虚栄の市」のベッキー・シャープは読者を一人のこらず魅了する物語の中心人物ではあるが、けっして尊敬すべきむすめとはいえない。だが、ふさわしい年令の少年少女なら、こうした人物や、ほかのほんものの文学にあらわれた人物に接しても、まちがった人物評価をおぼえることはないだろう。害を与えるのは、ちゃちなへたくそな物語である。生活に根ざさない、人間の本性をありのままに伝える活力のない物語である。*
 スチーブンソンにはこの他に、「誘拐されて」(一八八六)「黒い矢」(一八八八)「バラントレーの若殿」(一八八九)などがあり、童謡集「子どもの歌の花園」(一八八五)も名高い。
 麻布に血で書かれた一枚の地図をたよりに三人のイギリス人が砂漠を越え、高山を越えて、アフリカの未知の王国に入り、その王国での王位争いにまきこまれてたたかい、ついに目的のダイヤモンドを手に入れる物語「ソロモン王の宝くつ」(一八八五)は、宝さがしの冒険行、異常な登場人物の創造など、「宝島」にそっくりの共通点をもち、アンドルー・ラングが「われわれはみな白い皮をかぶった野蛮人である。しかし、世界が未成熟であることの喜びと恐怖をわれわれに思いおこさせるのはあなただけだ。あなたの本を読んでいる間、われわれはもう一度、かりうどになり、わな猟師になり、勇敢な冒険家になる**」と評したように、人間の本能的欲求である冒険心を十分に表現してみせた。
 しかし、「宝島」が一世紀前に材をとったのにくらべ、ライダー・ハッガードは、当時の人びとにとっては、「現在」と考えられるものを材とした点に、別な新しさがあった。一八八五年頃、ソロモン王の宝くつがあるとされたアフリカの地域は、まだほんとうに未発見の地であった。そして、ハッガードの物語には、いかにもほんとうらしいと思わせる力があったから、世界中にひろがっていたイギリスの若者たちには、この物語は可能性としてうけとめられたにちがいない。事実、この宝をさがしに行こうと申し出る人がいたということである。
 スチーブンソンとハッガードは、十九世紀前半に生まれた冒険物語を概念の上でも技術の上でも完成させた不滅の功績をになっているが、その背後には、ハッガードの場合にあきらかにみられるように、イギリスの帝国主義的拡大があったことはまちがいない。そしてもう一つ忘れられないのは、子ども向き雑誌である。
* Anne T. Eaton "Reading with Children"(Viking 1957)p157.
* Roger Lancelyn Green "Tellers of Tales"(Edmund Ward 1946)p15.



十九世紀

イギリスの児童雑誌
 子どものための雑誌は世紀の前半すでに姿をあらわしたが、「子どもの友=日曜学校のごほうび」(一八二四創刊)とか「知識と娯楽の子ども雑誌」(一八二二)などの名でもわかるように、世の中の教訓主義的風潮を反映して、知識の伝達と精神の陶冶を目的とした、かたいものであった。一八五二年に「ザ・チャーム」がおとぎの国の住人たちに対していつもページがさかれているという趣旨のもとに、想像力を重んじた編集で出発したが、まだ時期が熟さなかったためか短命におわった。しかし、一八五五年に出た「ボーイズ・オウン・マガジン」が、冒険小説、歴史物語、学校物語などをのせて成功したのを見ると、徐々にだが、子どもの真に求めるものがみとめられはじめたことがわかる。一八六〇年代になると、雑誌は子どもの娯楽・教養にとってぜったいにかかせない存在になり、いわゆる良心的雑誌や三文小説を売りものにする雑誌が続出した。中でももっとも大きなしごとをしたのが、ギャッティ夫人とそのむすめユーイング夫人が編集した「ジュディおばさんの雑誌」(一八六八創刊)である。ユーイング夫人自身もちろん作品をのせたが、シャーロット・ヤングの作品、アンデルセン童話のほか、ルイス・キャロルも「ブルーノーの復讐」を寄稿するといったみごとさであった。はじめ、ノーマン・マクリード博士が編集し、後に作家のジョージ・マクドナルドが編集した「グッド・ワーズ・フォー・ザ・ヤング」(一八六九)も、さし絵、詩、物語に一流人をあつめ、子どもの興味を無視しないで高いものをねらった、すぐれた雑誌であり、ここにのった物語はいずれも文学の名にあたいするものだったといわれている。
 これと対照的なのが「イギリスの少年」(一八六六)である。これは、荒唐無稽でふしぎな、しかも健全な小説に、読者をおさそいすることを目的に創刊された。この雑誌はジャック・ホーカウエイという不死身の英雄をつくりあげたことでわかるように、血なまぐさい悪漢とのたたかい、残酷なシーンなどをけばけばしい表現でえがいてみせるものだった。それでも一応は、健全さをうたい文句にしたのは、この雑誌よりも、もっとひどい三文雑誌が氾濫していたことをものがたっている。「宝島」はそうした雑誌の一つ「ヤング・フォークス」(一八七一創刊)に「海の料理番」の名で一八八一年から二年にかけて連載されたのである。この事実に加えて、一八七九年に創刊された良心的雑誌「ボーイズ・オウン・ペイパー」の寄稿家たち―キングストン、タルボット・ベーンズ・リード、バランタイン、ジュール・ベルヌ―のしごとを考えると、雑誌が冒険小説の成長にいかに大きな役割を果たしたかがわかる。雑誌がひろげた読者と、つみかさねた作品群の上に、はじめて「宝島」と「ソロモン王の宝くつ」が完成したのである。


二つの動物物語
「黒馬物語」「フランダースのいぬ」

 ほかにあげるべき作品はアンナ・シューエル(一八二〇〜一八七八)の「黒馬物語」(一八七七)とウィーダ(ルイズ・デ・ラ・ラメー)(一八四〇〜一九〇八)の「フランダースのいぬ」(一八七二)であろう。
 馬が自分の一生を語る形で書かれた「黒馬物語」は、たしかに感傷的であり、今の子どもたちにはいささか古めかしい感じを与えるが、波瀾に富む筋のはこびや単純でわかりやすい文章などで、あいかわらず古典の地位をゆるぎなく保っている。
 「フランダースのいぬ」もやはり感傷的であるとの非難はまぬがれないが、ベルギーという風土がよくつかまれているし、文章も自然できびきびしていてい、子どもといぬのかなしい最後に迫真力をあたえている。ウィーダには、このほかに、一人の子どもがストーブの中にかくれて旅をする「ニュールンベルグのストーブ」というたのしい物語がある。
テキストファイル化小田ともみ