『世界児童文学案内』( 神宮輝夫 理論社 1963)

 冒険小説
       大人のための作家たち

 1939年に生まれたモルスワース夫人は、その子どもの時代の読書について、「たくさんの本を持っていた子どもが一人もいなかったばかりでなく、どの家へ行っても、子どもたちは同じ本しか持っていませんでした。幼い友人たちが本の貸し借りをしようとしてもほとんどむだでした。いつも同じ本だったからです。〈家庭の夕べ〉〈サンドフォードとマートン〉〈みつかったかざり〉などばかりだったのです」*とかいている。19世紀前半の子どもの本の状態を適切に語った言葉である。
 しかし、18世紀以来、徐々に子どもの本の需要がひろがってくるにつれて、出版社の側に子どもの本についての根本的な認識の変化がおこった。それは、男の子と女の子の好む本がちがうということ、また、子どもの読書には年令的段階があるということであった。そして、特に男の子には男の子特有の物語があることに気がつきはじめた。   
 男の子向きの物語、つまり冒険とロマンスの物語が子どものために書かれるようになるまでに子どもの渇をいやし、子ども向き冒険小説のお手本となった大人の小説がいくつかあった。「ロビンソン・クルーソー」とその亜流についてはすでにのべたが、19世紀になるとスコットランドのウォルター・スコット(1771〜1832)アメリカのジェイムズ・フェニモア・クーパー(1789〜1851)というロマン主義の巨人や、ハリソン・エインワース(1805〜1882)、リチャード・ドッドリッジ・ブラックモア(1825〜1900)など加わった。
 ウォルター・スコットは「アイバンホー」(1820)では獅子心王リチャードのパレスチナからの帰国当時のイングランドを、「クェンティン・ダーワード」(1823)ではルイ11世のフランスを、「おまもり」(訳名「十字軍の騎士」1827)では、十字軍遠征時代のパレスチナを、というように歴史に材をとって、陰謀、騎士の試合や決闘、攻城戦、逃亡と追跡など波欄に富む物語をたくさんかいた。筋が簡明で描写力にとんでいるので、人物や事件に迫力があり、当時の大人と子どもに熱狂的にむかえられ、今もなおたくさんの読者をつかんでいる。前の章でのべたキャザリン・シンクレアは「たのしい家」のまえがきで「次代の人びとの中からは詩人も機知に富んだ人も雄弁家もあらわれないでしょう。現在は想像力のはたらきがすべて注意深くはばまれているから」というスコットの言葉を伝え、「現在はほとんどたえてしまっている、あのそうぞうしくはねまわる子どもたち」**をえがこうとして「たのしい家」をかいたとのべているそうである。これだけでもスコットの作品が当時の人びとの想像力をどんなに刺激したかをうかがい知ることができる。
 アメリカの作家クーパーの五部作「しかごろし」(1841)「モヒカン族の最後」(1826)
「パスファインダー」(1840)「パイオニアズ」(1823)「大草原」(1827)も、いちはやくイギリスに紹介された。主人公ナッティ・バンポが文明に追われるようにアメリカ大陸の奥へ奥へと進み、大草原で一生をおわるこの5つの物語は、ふんだんにながながと叙述があり、テンポがおそいので、現在の子どもたちにはやや不向きであり、批評家が一致していうように、筋立ても型にはまっているが、未開地の旅、戦闘、逃走と追跡、捕虜などの波瀾万丈の物語の展開の中で、力と理性と知識による文明人の危機の克服をえがき、今もなお子どもの文学の古典の地位をたもっている。危機の克服が、つまりは冒険小説の真髄なのだが、彼の小説が消えてしまわないのは、インディアンも白人も、まず人間としてとらえ、部族間のあらそい、イギリスとフランスの植民地戦争などのためにほろびていったインディアンへのかぎりない同情をそそいでいる人道主義が底に流れているからであろう。彼の子どもの文学への影響は「宝島」のスチーブンソンが熱狂的な読者であったことや、イギリスとアメリカでその後続々と西部小説が出たことでも知られる。
 ハリソン・エインワースは「ルークウッド」(1834)や「ウインザー城」(1843)などで殺人、決闘、魔物など、悪夢のような物語をたくさん発表し、今はほとんど忘れられてしまっているが、当時は大変に有名であった。ブラックモアの復讐と愛の物語「ローナ・ドーン」(1869)
もロマンティックな愛と冒険にあこがれる若者たちの心をとらえた。
*  Percy muir "Engulish Children's Books" (Batsford ,1954) p 109.
* * Roger Lancelyn Green "Tellers of Tales"(Edmund Ward ,1946) p14〜15.

子どものための冒険小説

 やがて、子どものための冒険・歴史小説があらわれてきた。その一番手が、マリヤット(1792〜1846)である。
 キャプテン・フレデリック・マリヤットは14才で海軍に入り、かずかずの海戦を経験した後、38才で退役して作家となり、「イージー候補生」(1836)などで有名になったが、簡明な文体や比較的単純な筋立てなどが子ども向きの物語にふさわしいことを自覚して、子どものための海洋物、歴史物を書きはじめた。「老水夫マスターマン・レディ」(1841)は大人と子どもの無人島生活と蛮人とのたたかいを、「ニュー・フォレストの子どもたち」(1847)はクロムエルに敗れた王党派の子どもたちが森の中にかくれて、子どもだけで生活していく冒険を、というように、文明と切りはなされたところでの生活設計とそれにまつわる冒険、野蛮人、海難など、冒険小説の古典的素材がすっかりそなわっていた上に、文章が単純明快で人物描写に秀でていたので、たちまち子どもの愛読書となった。
 マリヤットにつづいてあらわれたのが、ロバート・マイケル・バランタイン(1828〜1894)である。16才の時、毛皮あつめで有名なハドソン湾会社の書記としてカナダに行き、未開地での豊かな経験をもとに「毛皮集めの若者たち」(1856)を出版した。カナダの大森林に分け入り、インディアンと取引きする若者たちの数々の冒険をえがいたこの作品は、はじめ聖書からとった「雪と日光」という題で発表されたが、めずらしい体験にもとづいて書かれていたため好評だった。そこでバランタインは、やはりカナダを舞台にした「ウンガバ・ボブ=エスキモーの物語」(1857)や無人島漂流物語「さんご島の三少年」(1857)、同じ三少年によるアフリカの冒険「ゴリラ・ハンター」(1861)などを発表し、さらにクーパーの影響をうけた西部小説「名犬クルーソー」(1861)「西部の野人」(1863)などを書いた。バランタインは経験や旅行を通して、物語に真実味をあたえることを常にこころがけ、また文章もきびきびしたものだったので、使い古された素材の冒険物語もじつにスリルとサスペンスに富んでいた。特に西部物は出色で、「名犬クルーソー」は小説にあらわれた犬の中でも、もっとも愛すべき犬だといわれている。
 マリヤットやバランタインにはややおよばないが、やはり当時の有名な作家だった人たちにウィリアム・ヘンリー・ギルズ・キングストン(1814〜1880)、メイン・リード(1818〜1883)、ジョージ・アルフレッド・ヘンティ(1832〜1902)などがいる。
 キングストンは若い頃商船にのって世界を一周し、海の経験を生かして一生のうちに150冊におよぶ作品をかきのこしたが、子どものためのものでは「捕鯨少年ピーター」(1857)が、その波瀾にとんだ筋や異常な経験などで現在に至るまで生きつづけている。
 メイン・リードは、「ライフル・レーンジャー」(1850)「頭皮のかりうど」(1851)
「少年かりうど」(1852)など数多くのアメリカ大陸もので知られ、元気はつらつとした文体やたくみなプロット、豊富なめずらしい知識などで人気を博した。
 ヘンティはイギリスが行った輝かしい戦争を題材に数多くの愛国的戦争小説を書いた。
 これらの人びとの作品は、いくつかはっきりした共通点がある。第一は、だれもがみな自分の経験をもとにして物語をかいてることである。だから、今から見れば多少のまちがいがあっても、おおむねその記述は正確であり、なにより作者が自信をもってかいているので、物語につよい説得力があった。第二は、第一から当然出てくることであるが、人種的その他の偏見が少ないことである。インディアンや太平洋諸島の原住民に接した彼らは、後に多くの冒険小説を毒した偏見がきわめて少なかった。イギリスの帝国主義的発展をたたえたヘンティですら、ボーア戦争をイギリスの恥辱と考える健全さを失うことはなかった。第三は、教訓のかせからぬけきれなかったことである。教訓をするために事件をえがくのではなく、危機にのぞんで人事をつくし、後は神の意志にまかすというように、信仰は人生の基本的態度にまでひきさがり、連続する事件が前面に出てはいたが、そのかせを完全にときはなして、冒険そのもののために書くまでにはいたらなかった。作者の限界というより、時代の限界だったわけである。第四は、デフォーやスコットやクーパーのつくった型をやぶる新しさをつくりだせなかったことである。冒険小説が、教訓のかせをとりはずして、冒険そのもののたのしみのために、新しい型で生まれてきたのは、1880年代になってからであり、それを生んだのはロバート・ルイス・スチーブンソンとライダー・ハッガードだった。
テキストファイル化上原真澄